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第3話
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「紗雪、早くして」
「はい」
お嬢様に急かされて私は慌てて玄関に行く。
お嬢様と一緒に学校まで行き、校門のところで別れるまでが私の朝の仕事だ。
七年前倒れた祖父は退院できたものの、もうパンを作ることはできなかった。祖父は不自由な体で私にパン作りを教えてくれたけれど、祖父の味を再現することができず、それまで常連だったお客様も減っていった。
入退院を繰り返すようになった祖父の介護で移動販売をすることができなくなったから車を売って多少のお金に換えた。
しばらくの間は少しずつでもパンを作っていたけれど、それもままならなくなって、会社員時代の貯金を切り崩して細々と生活を続けた。
そして倒れてから二年も経たずに祖父が他界した。
祖父の遺品を整理していたら、パン作りのコツやレシピが記されたノートが出てきた。ノートの終わりの方は、ほとんど読み取れないような震えた字で、そんな状態でも私にパン作りのノウハウを伝えとうとしてくれていたことに胸が詰まる。
このレシピノートでまたパンの修行を再開しようと思ったのだけどそれは叶わなかった。
私はそのまま祖父の家に住み続けてパン屋を続けようと思っていた。しかし祖父が亡くなると、どう聞きつけたのかはしらないが、会ったこともない親類が集まり遺産のことで揉めはじめたのだ。
その揉めごとの中心は祖父の家と店の土地だった。遺言書を残していなかったから、孫である私には相続の権利がない。ずっと祖父と疎遠だった祖父の子どもやその家族が醜く争う姿を呆然と眺めるしかなかった。
その醜い親類の中に、顔すら知らなかった私の母もいた。母は最期まで祖父の面倒をみたのが私だから、その母である自分が多く貰うべきだと主張していた。呆れ過ぎて腹も立たなかった。
そんな伝統的な正しい日本の家族制度の在り方に嫌気がさして私は祖父が残してくれたレシピノートだけを持って祖父の家をでた。
一応、レシピノートを遺産として引き継ぎたいと親類に伝えたのだが、誰一人、このノートを欲しいという人はいなかった。きっと祖父のパンを食べてきたであろう人たちが、誰もノートの価値をわかっていない。問題なく手に入ったことはうれしかったけれど、悔しさも込み上げてきた。
それから私は、安いホテルや漫画喫茶を転々としながら、仕事と住まいを探すことにした。だけど私の中の『やる気』というものがどこかに家出したように静まり返っていた。焦る気持ちはあるのに、行動を起こすことができない。
「あなた、私の使用人になりなさい」
お嬢様が私の前に突然現れて、こんな言葉を言い放ったのはそんなときだった。
高飛車な態度の当時十二歳のお嬢様を見て「頭おかしいんじゃない?」と思ったものだ。だから当然そんな話は無視した。
今は『やる気』が行方不明になっているが、戻ってきたらパン屋で働き口を探してパンの修行をする。そしてお金を貯めて祖父のパン屋を再開する。だから訳の分からないお嬢様の遊びの相手なんてしている暇はない。
だが、お嬢様の言葉を補うように柔和な初老の男性が丁寧に説明をしてくれた。
中学入学を機にお嬢様が一人暮らしをはじめるため、お嬢様の世話係を探しているという。それがどうして私なのかは教えてもらえなかったけれど、何かの理由で私がお嬢様のお眼鏡にかなったらしい。
お嬢様が短大を卒業するまでという期限も決められている。給料が良い上に、お嬢様が住むマンションの一室に住むことができて家賃はタダ。さらにパン職人を目指すのならば、そのための教室に通う費用まで負担してくれるという。
ありえない程の好条件だった。騙されているのではないかとも思ったけれど、結局私は使用人になることを承諾した。
例え騙されていたのだとしても私に失うものなんて何もない。行方不明の『やる気』がいつ戻ってくるかもわからない状況で、貯金が底をつくのを待つよりましだと思った。
たとえ期限を前に契約が解除されたとしても私にとっては何の不都合もない。当初の予定通り、パン屋で働き口を探せばいいのだ。
契約満了まで働くことができたなら、結構な金額を貯められる。契約満了時、私は四十歳だ。貯めたお金でパン屋を開業するのにちょうどいいタイミングのような気がした。
だから、お嬢様がどんな気まぐれで路頭に迷っている私に声を掛けたのかは知らないけれど、その気まぐれを利用してやろうと思った。
使用人になって最初の一年はかなり苦労した。お嬢様のわがままに振り回され、厳しい言葉に真剣に凹んで枕を涙で濡らしたのも一度や二度ではない。
行方不明の『やる気』が戻ってくる気配もなく、結局その一年はパンの修行を再開することができなかった。
その代わりに少しだけ護身術を習いに行った。お嬢様はハイヤーを使わず、徒歩と電車で通学をしている。
できるだけ実家の手を借りたくないというのがその理由らしいが、毎日通学のお供をする身にもなってほしいものだ。お嬢様の通学のお供は道案内をするためではない。いわゆる護衛を兼ねているのだ。
名門女子高の制服に身を包むお嬢様が電車で移動すれば、よからぬ考えを持った人物が近寄ってくることも多い。いざというときお嬢様を守れなくては私が側に付き添う意味がない。
お嬢様自身も自衛のための武術を嗜んでいるし、気丈なお嬢様がそうした輩に屈するとも思えないけれど、お嬢様はまだ子どもなのだ。そしてそんな子どものお嬢様を守れるのは私しかいない。使用人の仕事に目覚めたというわけではないけれど、高い給料をもらっているのだから、それくらいの責任感を持つことは当然だと思った。
使用人になって二年が過ぎた頃、何気ない雑談の中で護身術の教室で身に着けた痴漢撃退法を披露していると、お嬢様がため息交じりに言った。
「別に紗雪にそんなことを望んでないんだけど?」
「いえ、でも一応最低限の知識はないと……」
「護身術よりほかに勉強しなきゃいけないことがあるんじゃないの?」
私が首を捻ると、お嬢様は冷たい視線を私に送り、これ見よがしに大きなため息を付きながら首を横に振った。その仕草は中学生というよりは五十代がらみのやり手経営者のような風格がある。
「明日からは毎日朝食にパンを出して」
唐突に朝食のオーダーをされて私は慌てて「はい」と返事をした。
「焼きたてのパンよ」
「わかりました。確か最近近所にできた店が早朝から開いているはずなので、そこで買ってくるようにします」
朝の準備は分刻みのスケジュールなので、どのタイミングでパンを買いに行けば効率が良いかを頭の中で組み立てる。
すると、お嬢様は虫けらを見るような冷たい視線を私に送った。
「あなた、馬鹿なの?」
「え?」
私がお嬢様の意思にそぐわない返事をすると、たいがいこうして「馬鹿」と言われる。十四歳にもなって十四歳の女の子に馬鹿呼ばわりされるされてしまうのは楽しいことではないけど、意外と慣れるものだ。
「私は焼き立てが食べたいの。あなたがパンを焼けばいいんでしょう」
「私が?」
「できないの?」
お嬢様は少し目を細めて挑発的な顔をする。頭の隅でお嬢様の手の平で転がされているなと感じてはいるのだけど、ついついその挑発にのって「できますよ」と返事をしてしまった。
「はい」
お嬢様に急かされて私は慌てて玄関に行く。
お嬢様と一緒に学校まで行き、校門のところで別れるまでが私の朝の仕事だ。
七年前倒れた祖父は退院できたものの、もうパンを作ることはできなかった。祖父は不自由な体で私にパン作りを教えてくれたけれど、祖父の味を再現することができず、それまで常連だったお客様も減っていった。
入退院を繰り返すようになった祖父の介護で移動販売をすることができなくなったから車を売って多少のお金に換えた。
しばらくの間は少しずつでもパンを作っていたけれど、それもままならなくなって、会社員時代の貯金を切り崩して細々と生活を続けた。
そして倒れてから二年も経たずに祖父が他界した。
祖父の遺品を整理していたら、パン作りのコツやレシピが記されたノートが出てきた。ノートの終わりの方は、ほとんど読み取れないような震えた字で、そんな状態でも私にパン作りのノウハウを伝えとうとしてくれていたことに胸が詰まる。
このレシピノートでまたパンの修行を再開しようと思ったのだけどそれは叶わなかった。
私はそのまま祖父の家に住み続けてパン屋を続けようと思っていた。しかし祖父が亡くなると、どう聞きつけたのかはしらないが、会ったこともない親類が集まり遺産のことで揉めはじめたのだ。
その揉めごとの中心は祖父の家と店の土地だった。遺言書を残していなかったから、孫である私には相続の権利がない。ずっと祖父と疎遠だった祖父の子どもやその家族が醜く争う姿を呆然と眺めるしかなかった。
その醜い親類の中に、顔すら知らなかった私の母もいた。母は最期まで祖父の面倒をみたのが私だから、その母である自分が多く貰うべきだと主張していた。呆れ過ぎて腹も立たなかった。
そんな伝統的な正しい日本の家族制度の在り方に嫌気がさして私は祖父が残してくれたレシピノートだけを持って祖父の家をでた。
一応、レシピノートを遺産として引き継ぎたいと親類に伝えたのだが、誰一人、このノートを欲しいという人はいなかった。きっと祖父のパンを食べてきたであろう人たちが、誰もノートの価値をわかっていない。問題なく手に入ったことはうれしかったけれど、悔しさも込み上げてきた。
それから私は、安いホテルや漫画喫茶を転々としながら、仕事と住まいを探すことにした。だけど私の中の『やる気』というものがどこかに家出したように静まり返っていた。焦る気持ちはあるのに、行動を起こすことができない。
「あなた、私の使用人になりなさい」
お嬢様が私の前に突然現れて、こんな言葉を言い放ったのはそんなときだった。
高飛車な態度の当時十二歳のお嬢様を見て「頭おかしいんじゃない?」と思ったものだ。だから当然そんな話は無視した。
今は『やる気』が行方不明になっているが、戻ってきたらパン屋で働き口を探してパンの修行をする。そしてお金を貯めて祖父のパン屋を再開する。だから訳の分からないお嬢様の遊びの相手なんてしている暇はない。
だが、お嬢様の言葉を補うように柔和な初老の男性が丁寧に説明をしてくれた。
中学入学を機にお嬢様が一人暮らしをはじめるため、お嬢様の世話係を探しているという。それがどうして私なのかは教えてもらえなかったけれど、何かの理由で私がお嬢様のお眼鏡にかなったらしい。
お嬢様が短大を卒業するまでという期限も決められている。給料が良い上に、お嬢様が住むマンションの一室に住むことができて家賃はタダ。さらにパン職人を目指すのならば、そのための教室に通う費用まで負担してくれるという。
ありえない程の好条件だった。騙されているのではないかとも思ったけれど、結局私は使用人になることを承諾した。
例え騙されていたのだとしても私に失うものなんて何もない。行方不明の『やる気』がいつ戻ってくるかもわからない状況で、貯金が底をつくのを待つよりましだと思った。
たとえ期限を前に契約が解除されたとしても私にとっては何の不都合もない。当初の予定通り、パン屋で働き口を探せばいいのだ。
契約満了まで働くことができたなら、結構な金額を貯められる。契約満了時、私は四十歳だ。貯めたお金でパン屋を開業するのにちょうどいいタイミングのような気がした。
だから、お嬢様がどんな気まぐれで路頭に迷っている私に声を掛けたのかは知らないけれど、その気まぐれを利用してやろうと思った。
使用人になって最初の一年はかなり苦労した。お嬢様のわがままに振り回され、厳しい言葉に真剣に凹んで枕を涙で濡らしたのも一度や二度ではない。
行方不明の『やる気』が戻ってくる気配もなく、結局その一年はパンの修行を再開することができなかった。
その代わりに少しだけ護身術を習いに行った。お嬢様はハイヤーを使わず、徒歩と電車で通学をしている。
できるだけ実家の手を借りたくないというのがその理由らしいが、毎日通学のお供をする身にもなってほしいものだ。お嬢様の通学のお供は道案内をするためではない。いわゆる護衛を兼ねているのだ。
名門女子高の制服に身を包むお嬢様が電車で移動すれば、よからぬ考えを持った人物が近寄ってくることも多い。いざというときお嬢様を守れなくては私が側に付き添う意味がない。
お嬢様自身も自衛のための武術を嗜んでいるし、気丈なお嬢様がそうした輩に屈するとも思えないけれど、お嬢様はまだ子どもなのだ。そしてそんな子どものお嬢様を守れるのは私しかいない。使用人の仕事に目覚めたというわけではないけれど、高い給料をもらっているのだから、それくらいの責任感を持つことは当然だと思った。
使用人になって二年が過ぎた頃、何気ない雑談の中で護身術の教室で身に着けた痴漢撃退法を披露していると、お嬢様がため息交じりに言った。
「別に紗雪にそんなことを望んでないんだけど?」
「いえ、でも一応最低限の知識はないと……」
「護身術よりほかに勉強しなきゃいけないことがあるんじゃないの?」
私が首を捻ると、お嬢様は冷たい視線を私に送り、これ見よがしに大きなため息を付きながら首を横に振った。その仕草は中学生というよりは五十代がらみのやり手経営者のような風格がある。
「明日からは毎日朝食にパンを出して」
唐突に朝食のオーダーをされて私は慌てて「はい」と返事をした。
「焼きたてのパンよ」
「わかりました。確か最近近所にできた店が早朝から開いているはずなので、そこで買ってくるようにします」
朝の準備は分刻みのスケジュールなので、どのタイミングでパンを買いに行けば効率が良いかを頭の中で組み立てる。
すると、お嬢様は虫けらを見るような冷たい視線を私に送った。
「あなた、馬鹿なの?」
「え?」
私がお嬢様の意思にそぐわない返事をすると、たいがいこうして「馬鹿」と言われる。十四歳にもなって十四歳の女の子に馬鹿呼ばわりされるされてしまうのは楽しいことではないけど、意外と慣れるものだ。
「私は焼き立てが食べたいの。あなたがパンを焼けばいいんでしょう」
「私が?」
「できないの?」
お嬢様は少し目を細めて挑発的な顔をする。頭の隅でお嬢様の手の平で転がされているなと感じてはいるのだけど、ついついその挑発にのって「できますよ」と返事をしてしまった。
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