女子高生に拾われる話。

悠生ゆう

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6.そして私は貴女の犬になる

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 不動産屋のおじさんには申し訳ないけれど、部屋探しを待ってもらうことにした。もうしばらく広瀬家でお世話になることにしたと告げたら、おじさんは機嫌を損ねるどころか満面の笑みで「そりゃよかった」と言ってくれた。
 翡翠さんには、琥珀が学校の友だちと仲違いしているとだけ伝えた。友だちに告白をしたことが原因だとは伝えなかったけれど、もしかしたら翡翠さんは少し勘づいているのかもしれない。だけどもしもそれをきちんと伝えるのならば琥珀本人の口から伝えるべきことだと思う。
 琥珀はといえば、琥珀の秘密を聞いた日から犬への愛情表現が過熱気味だ。
 私が夕食を残さず食べれば「すごい! よく食べたね!」と褒めながら撫でまわし、夕食の片づけを終えると「すごい! 頑張ったね、いい子いい子!」と撫でまわす。
 とにかく私の一挙手一投足を褒めてくれるので、褒められ慣れない大人としては、ちょっと居心地が悪い。
 その代わり、なぜか一緒にお風呂に入ることと一緒に眠ることはしなくなった。それが少し……かなり寂しい。
 琥珀の中でどんな変化が起きたのかわからない。私を犬としてではなく人として真剣に意識しはじめたのかもしれないし、逆に完全に犬として扱うことで私との距離を置こうとしているのかもしれない。
 琥珀と友だちの関係に何か変化があったのかは知らない。だけど琥珀は毎日笑顔で学校に向かう。
 私は一度、「辛いなら無理して学校に行かなくてもいいんじゃない?」と琥珀に言った。
 だけど琥珀は「碧依が知っていてくれるから大丈夫」と笑顔を浮かべた。
 琥珀がそれだけ頑張っているのだから、私も私の役割りをまっとうするために頑張らなくてはいけない。
 面倒だからと放置していた案件にきっちりと片を付けて、琥珀が癒されるまで全力で琥珀の犬になろう。
 私は翡翠さんに事情を説明して、午後から喫茶店の仕事を休ませてもらった。
 浮気男に別れ話をしに行くことを翡翠さんは心配して一緒に行こうかと言ってくれたけれどそれは断った。
 冬物の服もそろそろ準備しておきたいから、荷物を取りに行くついでにきっぱりと別れを告げてくるだけだ。あまり大事にはしたくない。
 琥珀には伝えていないから、学校から帰ってくるまでにすべてを終らせて広瀬家に戻るつもりでいた。
 いつものように家で琥珀を出迎えて、夕方の散歩と買い物に行くんだ。そう決心して彼と住んでいた家に向かった。
 彼の浮気が発覚してから、しばらくは連絡もなかったけれど、あの家を出て一週間が過ぎたころから毎日のようにメッセージが届くようになった。
 最初はすぐに帰ってくると思っていたのに、なかなか帰ってこないから不安になったのか、浮気相手にもフラれて寂しくなったからなのかはわからない。
 彼からのメッセージは『ゴメン』とか『反省した』とか『話し合おう』みたいな内容ばかりだった。正直にいえば、どうしてそんなに私と寄りを戻したいのか理解できない。そもそも寄りを戻せると思っているところが不可解だし不愉快だ。
 電車を乗り継いでようやく彼と暮らした家に着いた。
 我ながらよくでたらめに動き回ってあの商店街に辿り着いたものだと思う。
 そう考えると、私があの商店街に辿り着いたのも、偶然琥珀が通りかかったのも運命の出会いだったと言えるのかもしれない。
 半年以上彼と暮らした家の中に入る。たった一月あまり離れていただけなのに、この家で暮らしていたのを随分昔のことのように感じた。
 私は感傷に浸ることなく用意してきた段ボールに、私の洋服や雑貨などをテキパキと詰め込んでいく。箱詰めが終わったタイミングで玄関のチャイムが鳴った。
 予め時間を指定して呼んでおいた宅配業者が荷物を引き取りに来てくれたのだ。優秀な仕事ぶりに感謝しつつ、荷物が詰まった段ボールを引き渡す。
 私の荷物が無くなった部屋だったけれど、意外と雰囲気は変わらない。それほど私のものは少なかったということだろう。
 それから残っていた小物などをボストンバッグに詰め込んで荷物の引き上げ作業は順調に完了した。
 予定通りにきっちりと終了したことに大きな達成感を得る。だけどあと一つ大きな仕事が残っていた。
 時間をずらして私がここに来ることを知らせておいたから、そろそろ彼が家に戻ってくる頃だろう。
 別れの手紙だけを置いて家を去ることも考えた。だけど仮にも一緒に暮らした人だ。一応の礼儀としてきちんと話をしておきたいと思った。
 私が知らせた時間より十分遅れて彼が家に帰ってきた。
 何の話をするために私が来るのかがわかっていても遅刻する、彼はそんな人だった。
 付き合っていたときには、彼のそんなところを大らかな人だと思っていた。
「ごめん!」
 家に入るなり、彼はいきなり土下座をした。そのパフォーマンスにも私の心は揺らがなかった。
 ここに来る前から彼ときっぱり別れると決めていたけれど、顔を見たら少しは気持ちが揺れるかもしれないとも思っていた。だけど意外なほど私は落ち着いていた。
 そして彼のメッセージを思い出した。彼はこうして謝れば私が許してよりを戻せると真剣に思っているのだ。
 琥珀と出会う前の私は確かにそうだったかもしれない。
 浮気ほどのことではないけれど、私はいつだって彼のすることを許してきた。だから彼は今回も許されるものだと思っているのだ。
 どうして私はずっと彼を許し続けてきたのだろう。
 彼を愛していたからだろうか。それとも仕事の忙しさで彼をないがしろにしていた罪悪感だろうか。
 多分、どちらも違う。
 私は怖かったのだ。彼が去り、ひとりで取り残されるのが怖かった。彼が私の元を去れば、私に残るのはあの地獄のような仕事だけだ。それが怖かったのだ。
 自分が人間らしく生きているのだと感じられるものが、彼しかなかった。だから何を我慢しても彼を手放せなかった。
「もうやめましょう」
 私は言う。
「本当に反省してる。何度でも謝る。だから……」
「何度謝られても私の気持ちは変わらないよ」
「頼む、もう一度チャンスをくれないか? オレ、寂しかったんだ。碧依はいつも仕事に夢中で……」
「でも、もしもまた寂しくなったら別の誰かを探すんでしょう?」
「そんなことは絶対しない。それに碧依だってあの会社を辞めたんだから、こんなことにはならないだろう?」
「多分、同じだよ」
「そんなことない。オレたち、やり直せるよ」
 彼は力強く言う。何を根拠にそんな自信が持てるのかよくわからない。
「ねぇ、どうしてそんなにやり直したいの?」
 私は疑問に思ったことを率直に聞いた。
「そんなの、碧依のことを好きだからに決まってるだろう。碧依だってオレのことが好きだろう? まだ好きでいてくれるだろう?」
 なんだかその答えにびっくりしてしまった。この人は本当に私を好きなのだろうか? 一緒に暮らしていたとき、彼からそんな気持ちを感じたことはない。
 私はどうだろう。
 彼とは話が合った。大らかな彼の雰囲気のおかげで緊張することなく過ごすことができた。少しピントがずれていると感じるコトもあったけれど、彼の大らかさとやさしさのから生じるものだと目をつぶった。
 まだ仕事が多少楽だったころは、デートをすれば楽しかったし、一緒に過ごすことで癒されたこともある。だから私は彼と付き合っていた。
 だけどそれは彼のことを好きだったからだろうか。
 寂しかった自分を満たしたいだけだったのかもしれない。琥珀が『犬』に救いを求めたように、私はたまたま目の前に現れた彼にすがっていただけだ。
 そしてその関係に執着して手放せなくなった。
 そう考えて胸が小さく痛んだ。
 いつか琥珀も、今の私のように勘違いに気付いて離れて行く日が来るのだろう。
 こんなときにまで、私は琥珀のことを考えてしまう。
 彼と付き合っているとき、私は彼に対してこんな風に思いを巡らせたことはない。彼が何をどう感じて、どう考えているのかに気持ちを割いたことが無い。
 それはきっと彼も同じだったのではなかと思う。
 互いに都合が良くて、少し居心地がいいと思った相手を隣に置いていただけのことだ。
「やっぱり無理だよ、絶対に」
「どうして?」
「私、あなたのこと、まったく好きじゃないから」
「それはオレが浮気して怒ってるからだろう? そのことはちゃんと謝ったじゃないか」
「謝ったからってなかったことにはならないよね?」
「そうだけど、だからこれからやり直そうって」
「あなたのこと、好きじゃないからやり直す意味がないよ」
 若干冷たい言い方になってしまっている気がしたけれど、もう話しているのが面倒になってきた。
 チラリと時計を見ると、すでに琥珀は家に帰ってきている時間だ。きっと私がいないことに気付いて翡翠さんを問い詰めている頃だろう。
「他に好きなヤツでもできたのか」
 彼が急に低い声で言った。
 好きなヤツと言われて真っ先に頭に浮かぶのは琥珀の顔だ。どうやら私は琥珀のことをかなり本気で好きになってしまったらしい。
 他の誰と比べても琥珀が世界一かわいくみえるのも、私が琥珀を好きだからだ。
 十歳近く年下の女子高生にこんなに振り回される日がくるなんて夢にも思わなかった。
 そもそも私は一度も同性を好きになったことはない。
 よく考えたら、付き合っていた彼のことも好きではなかったのだから、人を好きになったことが無いのだろうか。
「もしもそうだったとしても、あなたには関係ないでしょう」
「お前も浮気してたんじゃないのか?」
 自分は浮気したけれど、お前も浮気していたなら同罪だ。罪をチャラにしよう。とでも言いたいのだろうか。
「あの頃の私にそんな余裕あったと思う?」
 ブラックな会社でどれだけ疲弊していたかを彼は間近で見ていたはずだ。
「そんなの、演技かもしれないだろう」
「だったら、私、アカデミー賞とかもらえるんじゃない?」
「この家を出てから会ったヤツか?」
「だから、あなたには関係ないでしょう」
「騙されてるんじゃないか? 傷心につけ込まれてるんじゃないのか?」
 今度は心配をするような素振りを見せて言う。アカデミー賞は彼の方が似合うのかもしれない。
 傷心につけ込まれたといえば、そうだと言えなくはない。あんな状況でなければ、絶対に『犬になる』なんて承知しないだろう。
 だけど騙されているわけではない。
 いや、琥珀だったら騙されていてもいい。傷を癒すためにわずかな間利用されているだけでもいい。
 琥珀の言動に驚かされた。
 琥珀の無邪気さに癒された。
 琥珀の健気さに胸が苦しくなった。
 琥珀が何に悩み、何に傷ついているのか知りたい。
 琥珀を守ってあげたい。
 この想いが愛でないのなら、一体何が愛だというのだろう。
「たとえそうだったとしても、それは私自身の責任でどうにかするから、あなたが心配する必要はないわ」
「どうしてオレじゃだめなんだよ」
「どうして?」
 そんなことはわかりきっている。琥珀じゃないからだ。
 本当にもう帰らないと琥珀が心配する。
 広瀬家に戻ったら、琥珀が寝ているベッドにもぐりこんでやろう。最近は一緒に寝てくれないからびっくりして追い出されるかもしれないけれど、かわいい犬のフリをしたら琥珀の方が折れてくれるかもしれない。
 そのやり取りを妄想して思わず笑みがこぼれそうになる。
「ともかく、もうあなたとやり直すつもりはないし、会うのもこれが最後。今までありがとう。それじゃさようなら」
 私は言いたいことだけ言って玄関に向かう。
 彼は私の腕を引き「もう少し話をしよう」と引き止めた。
「あと何十時間話しても結論は変わらないから!」
 私は強く言い放って腕を振り払った。私がそんな風に言うと思っていなかったのか、一瞬呆然とした隙に私はボストンバッグを抱えて玄関から飛び出した。
 そのすぐあとで玄関が開く音がする。どうやら追いかけて来たらしい。
 面倒臭い。
 とにかく足を動かしたけれど、案の定すぐに追いつかれてしまった。
「あと少しだけ話そう。悪いところは直すから」
「だから、どれだけ話しても無理だって言ってるでしょう」
「どうしてダメなんだよ」
「さっきも言ったでしょう、あなたのこと、少しも好きじゃないから」
「どうしてそうなるのか、オレにはわからないよ」
 彼の手が少し緩んだ。
「それでもこれが今の私の本当の気持ち。お願いだからもう諦めて。あなたのことを嫌いにはなりたくない」
 だけどもうかなり嫌いに傾いている。
「嫌いじゃないなら、少しでも可能性は……」
「ない。もうほとんど嫌いになりかかってる」
 そのとき視界の端に人影が動き、ドンと彼を突き飛ばした。
 予想外の方向からの衝撃だったからか、彼は簡単に尻もちをついてしまった。
 彼を突き飛ばした人物は琥珀だった。琥珀は鬼のような形相で彼を見据えている。
「琥珀、どうしてここにいるの?」
 私の問いに琥珀は答えることなく彼だけを睨みつけていた。
「碧依は私のなんだから」
 琥珀はそう叫ぶとパッと振り向いて私の手を取ると「行こう」と言って駆け出した。
 私は琥珀に促されるままに足を踏み出した。
 怖い顔で走る琥珀の横顔を見る。ドキドキしているのはきっと走っているからだけじゃないだろう。だって今の琥珀はこれまで見たこともないくらいかっこいい。
 かなりの距離を走り、さすがに息が切れた。私は立ち止まって肩で息をする。
「ごめん、もう無理、走れない」
 琥珀もハァハァと大きく息を吐いている。それでも警戒するように走ってきた方向を睨みつけていた。
 彼が追ってくる気配はない。本気で追いかけてきていたならば、きっともう追い付かれているだろう。
「多分、もう大丈夫よ」
 私が言うと、やっと安心したように琥珀の表情が緩んだ。
「ちょっと、お水買っていい?」
 少し先にコンビニを見つけて私は言う。琥珀も黙って頷いた。ペットボトルの水を二本買って、一本を琥珀に渡す。
 コンビニの前にはテラス席のような椅子とテーブルが設置してあったので、私たちはそこで少し休むことにした。
 コンビニのまぶしすぎる光を背にして二人で並んで椅子に座る。
 彼としゃべりづめだった上に走ったものだから、もう喉がからからだ。一気に半分程の水を喉に流し込む。
 ようやく息も整ってきたので、私は改めて琥珀に尋ねた。
「どうして来たの?」
「碧依が、帰ってこなかったらどうしようと思って……」
「帰るわよ」
 今、帰る場所は琥珀と翡翠さんが住むあの家だ。
「でも、こ、怖くて……」
 琥珀が震えていた。私は琥珀の手を握る。
「碧依がいなくなるの、怖くて……」
「ありがとうね。琥珀が来てくれてうれしかったよ。それに、すっごくカッコよかった」
 私の言葉に琥珀が少し微笑む。そして気が緩んだせいか、琥珀の瞳から涙が一筋零れ落ちた。
 光を浴びてキラキラ光る雫は、頬をスーッと伝い唇の端まで下りていく。
 私は顔を近づけてその光る雫を舐めた。
「キャッ、な、なにするのっ!」
 琥珀は体を引くと、舐められた場所を手で押さえて叫んだ。顔が真っ赤に染まっているのがかわいい。
「なにって……。犬がご主人様を舐めるのなんて普通のことでしょう?」
 そう。犬とは人間の顔を舐め回す生き物だ。だからこれは、犬から飼い主へのあいさつのようなものだ。
「なに言ってるの、碧依は……」
「琥珀の犬でしょう?」
 琥珀はさらに顔を赤くして目を彷徨わせている。
 私はじりじりと琥珀に体を寄せて囁いた。
「ねえ琥珀、もっと舐めてもいい?」
 そうして琥珀の顔に自分の顔を少しずつ寄せていく。
「ま、待て!」
 琥珀が立ち上がって叫んだ。
「えー」
 不満を表して琥珀に近寄ろうとすると、さらに「待て!」と叫ばれてしまった。
 私は琥珀の犬だから、「待て」と言われたら待つしかない。とても残念だけど。
「ママが心配してるから、帰ろう」
 琥珀は私と目を合わせようとしないまま私の手を引っ張った。
「はーい」
 私と琥珀は手をつないで私たちの家へと帰る。
 私は琥珀の犬だ。琥珀だけの犬だから、琥珀の言葉には従う。
 だけどそんなに賢い犬でもないから、いつまで「待て」を守れるかはわからない。
 琥珀の横顔を見ていると、今すぐにでも「待て」を破りたい気持ちでいっぱいになる。
 だけど今日は大人しく言いつけを守ることにしよう。
 それで琥珀が眠った頃に、琥珀のベッドの中にもぐりこんでやるのだ。
 だって飼い主のベッドに勝手に潜り込むのは、犬の特権なのだから。


     おしまい
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