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第7話 映子の決意
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―映子Vision―
鈴原さんたちが去って、学食には私ひとりが残されていた。
一緒に学食に残っていた鈴原さんのお友だちも先ほどどこかに行ってしまった。
鈴原さんは大丈夫だろうか。
鈴原さんの彼氏も一緒なのだから、私が心配する必要はないと思う。そう分かっていても、やはり心配だ。
しず香という女性が騒いでいたとき、何が起こっているかよくわからなかった。
とにかく鈴原さんを助けなければいけないと思った。
だけど私には何もできなかった。
颯爽と現れて鈴原さんを助けた、あの彼氏とは大違いだ。
自分の無力さが情けない。
「お、こんなところで発見」
明るい声とともに私の肩を叩く人がいた。
「相変わらず暗い顔してるね、映子」
声を掛けた人を見て、私は声を上げてしまうところだった。
そこにいたのは海外に留学しているはずの橋口亜佐美(はしぐちあさみ)先輩だったからだ。
「亜佐美先輩、帰国したんですか?」
「うん。昨日帰ってきた」
亜佐美先輩は笑顔で言う。
ダメージ加工のデニムとTシャツというシンプルな服装がよく似合う。トレードマークとも言える大きなカメラバッグを抱えているのは留学前と変わらない。
私は幼い頃から人と話すことが苦手だった。
そのために友だちもほとんどできなかったし、イジメられてしまうこともあった。
それなのに高校生になれば何かが変わるはずだと漠然と考えていた。
年を一つ重ねる。
中学生から高校生になる。
通う学校が変わる。
たったそれだけのことで私に変化が訪れるはずもない。
そんな当たり前のことにも気付かず、私は高校に入学して数日で自分自身に絶望していた。
亜佐美先輩とは、そんなときに出会った。
真面目なだけが取り柄の私が、その日は学校に行く気になれず、通学途中の川縁でぼんやりとしていた。
河川敷に作られた小さな公園。
遊具もなく、ベンチが少しあるだけの公園に、他の人影はなかった。
ベンチに座り、川風に吹かれながら、ただ川面を眺める。
どれくらいの時間そうしていたのだろうか。
「ここ、眺めいいよね」
という女性の声に、私は我に返った。
学校が始まっている時間に制服でこんな場所にいたら咎められるかもしれない。
そう思って声の方を恐る恐る見ると、そこには私と同じ制服を着た女性が立っていた。リボンの色で三年生だと分かる。
制服には似つかわしくない大きな黒いバッグを持って笑顔を浮かべていたこの女性が亜佐美先輩だった。
亜佐美先輩はおもむろにバッグの中から大きなカメラを取り出す。
「それ……」
私は思わず声を出してしまった。
女子高生が持つには武骨にも見えるカメラだったが、亜佐美先輩にはよく似合っているような気がした。
「これ? オヤジのお古をもらったんだ。一眼レフカメラってわかる?」
私は首を横に振る。『一眼レフ』という言葉は聞いたことがある。だが、それが他のカメラと何が違うのかはわからない。
すると亜佐美先輩は太陽のような笑顔を浮かべた。
「一眼レフカメラはね、写真を撮るのがすっごく楽しくなるカメラだよ」
その一言で私はカメラに興味を持ったのだと思う。
それから亜佐美先輩に誘われてカメラ同好会に入り、亜佐美先輩の後を付いて回るようになった。
私は高校生になっても何も変わらなかった。
それでも孤独だった私の世界に、カメラと亜佐美先輩の場所ができた。
空っぽだった私の世界を、カメラと亜佐美先輩が支配していくようだった。
亜佐美先輩が大学に進学してからも、私たちの交流は続いた。
亜佐美先輩は嫌な顔ひとつせず、私に会ってカメラや写真について教えてくれた。
大学の写真部の部員を増やすために、スマホ撮影も研究していると聞いたときは少し意外だった。
先輩はその理由を「友だちがスマホでの写真の撮り方教えてほしいっていうからさ」と言った。
私が意外だったのは部員を増やそうとしていたことだ。高校の同好会は私も含めて五名しかいなかった。それでも「本当に写真が好きな人間だけでいいよ」と亜佐美先輩は言っていたのだ。
だけど亜佐美先輩を絶対的に信頼していた私は、先輩がそうしたいのならばそれが正しいことだと思った。
亜佐美先輩は私が持っていないものをたくさん持っている。
明るく、奔放で、自由で、男性にも女性にも好かれる存在だった。
亜佐美先輩と特別な関係を持った人は、男女問わずたくさんいる。
それでも特定の恋人はいない。
亜佐美先輩が軽薄なわけではない。求められ、それに応えているだけだ。
私は亜佐美先輩のすることは、すべて正しいと思っていた。
そして私は、私の心を大きく占める亜佐美先輩のことを好きだと思っていた。
私は当然のように亜佐美先輩と同じ大学に進学した。
そして大学生になってすぐの頃、亜佐美先輩に言った。
「私を、抱いてください」
求れば応じてくれることを分かっていて言った。
亜佐美先輩と恋人になれると思ったわけではない。
ただそうすることで、私の中で何かが変わるような気がした。
私の申し出に、亜佐美先輩は少し驚いたような、少し残念そうな顔をした。それでも、断ることはなかった。
授業を終えてから二人でホテルに行き、驚くほどあっさり一線を越えた。
亜佐美先輩と体を重ね、この世界にこんなに心地良いものがあるとはじめて知った。
同時に、私の恋が終わったことを知った。
「亜佐美先輩は、どうして写真を撮るんですか?」
「写真には、撮る人間が写らないからかな」
亜佐美先輩は、私の持っていないものをたくさん持っている。
だから私とは全く違う存在だと思っていた。もっと近くに行けば、私まで変えてくれる存在だと信じていた。
だけど、きっとそうではない。
私と亜佐美先輩はコインの裏と表でしかないのだ。
どれだけ憧れても、決して見つめ合うことはできない関係。
自分が見られない世界を見たくて、私は亜佐美先輩に恋をしていると思い込んでいた。
私がなりたかったのは、亜佐美先輩の恋人ではなく、亜佐美先輩自身だったんだと、体を重ねてようやく気が付いた。
亜佐美先輩への恋心が勘違いだと気付いた後も、私は亜佐美先輩の側にいた。
私とは形の違う孤独を抱える亜佐美先輩を近くで感じることは、私にとって小さな救いだった。孤独なのは自分だけではないと思えた。
そんな先輩が留学を決め、私は本当の孤独になった。
写真部の部員たちに蔑ろにされても写真部に残り続けたのは、少しでも亜佐美先輩の痕跡に縋りたかっただけだ。
四月、新入生の勧誘のために設けた写真部の展示会場の番を私一人に押し付けられた。
でも賑やかな場所は苦手なので、その役割を歓迎した。
南棟は人通りも少なく、展示会場に現れる生徒は滅多にいない。
静かな教室で写真のパネルに囲まれているのは心地よかった。
そこに、一人の少女が入ってきた。
小柄であどけなさが残る少女は、ひと目で新入生だと分かった。
偶然迷い込んだのかもしれない。
少女は写真パネルが飾られていることに気付くと、入り口の近くから順番に写真を見ていく。
私は来場者にサービスするためのお茶を準備して近寄った。
熱心に写真を見ているからなのか、私の存在感が希薄過ぎるのか、近くに寄っても少女に気付いてもらえない。
写真を見ながらゆっくりと歩みを進めていた少女の足がピタリと止まった。
私は、そのタイミングで「あの」と声を掛けた。
驚いて振り返った少女が鈴原さんだ。
鈴原さんは、私が撮影した写真を好きだと言ってくれた。
「匂いとか、音とかを感じるような気がします」
そう言われたとき、写真の中に私を見つけてもらえたような気持ちになった。
私が撮影する写真に私は写らない。写真を撮るときも、私は自分の存在をできる限り消す。
多くの人が私の存在が見えないように通り過ぎる中でシャッターを切る。
誰にも見られていない。
どこにも私は存在していない。
そんな私を、鈴原さんが見つけてくれたように錯覚した。
うれしさと気恥ずかしさをごまかすように写真の説明をしていると、鈴原さんがクスッと笑う。
その瞬間、私は思わずシャッターを切っていた。
ほとんど無意識に体が動いていた。
私は人物の撮影はしない。
特定の人物を撮影すると、被写体がカメラを意識するからだ。
そこに撮影者の姿があぶり出されてしまうような気がする。
だからこれまで人を撮りたいと思ったことはない。
あれほど憧れた亜佐美先輩ですら、撮りたいと思わなかった。
それなのに、なぜ体が動いてしまったのか、私にもわからなかった。
私は大学から家に帰ってすぐに写真を現像した。
鈴原さんに現像した写真を見せると約束したからというのもある。だがそれよりも、写真を見れば体が勝手に動いた理由がわかるかもしれないという期待からだった。
フィルムはまだ半分ほど残っていた。いつもならば、無駄にするのはもったいないと考える。でもそのときは、一刻も早く写真が見たいという気持ちが勝っていた。
現像した写真を見た率直な感想は『がっかり』だ。
被写体に近すぎて構図がおかしい。その上ピントも合っていない。
何の準備もなく反射的にシャッターを切ったのだから、当然といえば当然だ。
それなのに私は、最高の一枚が撮れているのではないかと期待していた。
鈴原さんに見せると約束したが、こんな写真を見せるのはカメラマンとして許せない。
翌日から私はキャンパス内で鈴原さんを探して、こっそりシャッターチャンスを待った。
しかしシャッターチャンスは訪れなかった。
友だちと談笑しているときでも、あのとき見た、私の体を衝動的に動かした笑顔を見ることはできなかった。
一週間以上が経っても、私が納得できる写真は一枚も撮れなかった。あまりに遅いと催促の連絡が来るかもしれないとビクビクしていたが、鈴原さんから連絡が入ることはない。
あのときは写真を見せてほしいと言ったが、興味を無くしているのかもしれない。
もしかしたら、私のことなどすでに忘れてしまっているのかもしれない。
そう考えると急に不安に襲われて、納得のいく写真がないまま鈴原さんに連絡を入れた。
何パーセントか「どなたですか?」という返事が来ることを覚悟していたのだが、鈴原さんはすぐに会う約束をしてくれた。
最初に写した写真を見せると、やはり鈴原さんの表情は曇っている。どう考えても失敗作だ。その反応は仕方ない。
頭では分かっていたが、やはり目の前でその反応を見るのは辛い。
それで話は終わってしまうと思ったのだが、鈴原さんは他の写真も見たいと言ってくれた。
私はこれまでの作品を鈴原さんに見せる。
鈴原さんは一枚ずつゆっくりと私の写真を見ていく。
少しずつ私の心の中を覗かれるようで気恥ずかしい。
そう思いながら鈴原さんの横顔を見ていて、シャッターチャンスが来たと感じた。
私は慌てないようにカメラを構えてピントを合わせる。
しかし、最高の一枚のチャンスは鈴原さんに阻止されてしまった。
「何してるんですか?」
「あ、ごめんなさい」
私は謝ったが、どうしても鈴原さんの写真が撮りたかった。
だから写真部への入部と私の写真のモデルになることを打診した。
無茶なリクエストであることは分かっていた。断られることも覚悟していた。
それなのに鈴原さんは、私に昼食を食べさせてくれた上に写真部への入部とモデルを快諾してくれたのだ。
女神かと思った。
いくつかの条件は出されたものの、無茶な条件ではない。これまで、亜佐美先輩以外、誰にも見向きもされなかった私の言葉を聞き、受け入れてもらえたことに、私は有頂天になっていた。
鈴原さんはやさしい。誰に対してもそうなのかもしれない。
写真にお金を使う私がいつもお腹を空かせていると知って、大盛の定食を分けてくれる。
おごると言わず、自分の食べ残しを食べてくれというのは、私に気を遣わせないためだろう。
人と話すことが苦手で、思っていることを口に出すのに時間がかかる私の言葉を、じっと待っていてくれる。
モデルの期限を「映子先輩が納得のできる写真が撮れるまで」と言ってくれた。つまり私にこの契約の期限を委ねてくれるということだ。
月、火、木の昼食前後は鈴原さんと過ごすようになった。
キャンパス内を散策したり、おしゃべりをしたりしてシャッターチャンスを狙う。
鈴原さんは私なんかと話すときも笑顔になってくれる。
私のことを見てくれる。
だけど鈴原さんと会う時間が増えていくほどに、私はカメラを構えられなくなっていった。
何枚かいい写真は撮れていた。
もうすぐ納得できる最高の一枚も撮れるような気がしていた。
だからこそ、私はカメラを構えられない。
その一枚が撮れたとき、私は鈴原さんと共に過ごす理由をなくしてしまうのだから。
鈴原さんから髪を切ってほしいと言われたとき、「美容室に行くお金がなくて……」と答えた。
それはこれまで、髪を切らずに伸ばしっぱなしにしていた理由だ。
髪を切るよりカメラにお金を費やしたい。
だけど鈴原さんに会ってから、髪を切らない理由がもう一つ増えた。
髪を切って、鈴原さんに私の顔を見られるのが嫌だったからだ。
顔を見られたら、私が鈴原さんに対して抱きはじめた気持ちまで見透かされてしまうような気がした。
髪を切ってしまったら、私はきっと、鈴原さんの顔をまっすぐに見て話すことができなくなってしまう。
そんな身勝手な理由で、鈴原さんとの契約を反故にし続けていた私に天罰が下ることになる。
写真部の部長から、新歓コンパ開催の連絡が届いた。
私が勧誘した新入生を必ず連れて来いとの言葉も添えられていた。
さらに連れてくれば会費を無料にするという、私用の飴まで提示される。
そのことを鈴原さんに伝えると、渋々という感じだったが新歓コンパに参加してくれると答えてくれた。
新歓コンパ当日、待ち合わせの場所にいた鈴原さんは少し疲れているようだった。だけど、私はそんな鈴原さんを気遣ってあげることができなかった。
昼休み以外の時間にも、鈴原さんと一緒にいられることに浮かれていたのだ。
コンパの会場でも、本当は鈴原さんの近くに座りたかった。
だが鈴原さんは部長に連れていかれてしまい、私はいつものように端の席に収まった。
中盤から注文取りなどをやらされることが分かっていたので、私は最初から食事を食べることに集中する。
横目で鈴原さんの様子を伺うと、男性陣に囲まれて笑顔を浮かべていた。
だけどその笑顔はちょっと不自然に見える。
私と二人で話をしているときの方が楽しそうだと考えてしまうのは、うぬぼれに過ぎないと自分に言い聞かせた。
コンパも盛り上がりはじめ、男性陣は鈴原さんを囲んでひっきりなしにアプローチをしている。
私は、飲み物の追加オーダーをとるために会場内をうろうろしていた。
そのとき「私、彼氏いるから」という鈴原さんの声が聞こえて、心臓が止まるかと思った。
鈴原さんはかわいらしい。それにとてもやさしい女の子だ。彼氏がいても不思議ではない。
でも今の発言は、周りの男性陣を退けるための嘘のように思えた。
今思えば、自分に都合の良いように解釈していたにすぎない。
少しすると鈴原さんが会場から立ち去った。
そっと後を追い、トイレで休んでいた鈴原さんに声を掛けた。
「大丈夫?」
鈴原さんは疲労の色を隠すことなく「大丈夫じゃありません」と答える。
「帰りたいので、私のバッグを持って来てくれませんか」
そう言われたとき、私はそれでももう少し鈴原さんと一緒にいたいと思ってしまった。
それに、私が先に帰ってしまうと、部長たちに何を言われるか分からない。だからといって疲れた様子の鈴原さんを一人で帰すこともできない。
この二択ならば迷う余地はない。
私はできるだけ静かに鈴原さんのバッグと私のバッグを持って会場を出た。幸い誰にも気づかれなかったようだ。
「梢ちゃん、まだ戻らないのー」
という声も聞こえたが、無視して外に出た。
「映子先輩まで帰らなくてもいいですよ。まだ、ご飯ものとデザートが出てませんよね」
一緒に帰ろうとした私に、鈴原さんはそう言ってくれた。
ぐったりした顔をしているのに、まだ私のことを気遣ってくれる。
私は鈴原さんの手を取り、店の外に出た。鈴原さんの手は小さくてやわらかくて、少しひんやりとしていた。
店の外に出ても手を離したくなかった。心臓がドキドキして、顔も赤くなっているだろう。髪を切らなくてよかったと考えていた。
そこで別れればよかったのに、私は鈴原さんについて中華料理屋まで行ってしまった。
少しでも長く鈴原さんと一緒にいたいという私の欲だ。
だから会ってしまった。
なぜ鈴原さんが路地裏の小さな中華料理屋の場所を知っていたのか、考えればわかることだ。
これまでに何度もこの場所に来たことがあるからだ。
そして一緒に来ていたのは、鈴原さんの彼氏だ。
私はコンパで耳にした「彼氏」の話が嘘だと言ってほしくて、「彼氏って、どんな人なの?」と聞いてしまった。
「あんな人ですよ」
そう言って鈴原さんが中華料理店の入り口を指さす。
そこには、はじめて見る男性の姿があった。
背が高く、落ち着いた大人の男性。
大学で彼氏といる姿を見たことがないため、彼氏はいないものだと決めつけていた。
同じ大学生でないのならば、大学で見ないのは当たり前だ。
睦さんと呼ばれた男性と並ぶ鈴原さんはリラックスした表情になっていた。
「睦さん、今日、このあと睦さんの部屋に行ってもいい?」
「ん? ああ、いいけど」
そんなやり取りをする二人はとても自然で、お似合いに見えた。
息ができない。
睦さんを見る鈴原さんの穏やかな表情は、コンパで写真部の男性陣に囲まれていたときとは全く違う。
この人を信頼していることが伝わってくる。
私はその場を逃げ出すことしかできなかった。
その週末はボロボロだった。
考えてみれば、私は鈴原さんのやさしさに甘えて、自分の都合にばかり付き合わせてきた。
それなのにもっと一緒にいたいと欲を出した。
実際に彼氏と一緒にいるところなど見たくはなかった。
あの後、鈴原さんはどうしたのだろう。
彼氏の家に行くと言っていた。夜、彼氏の家に行く理由など考えるまでもない。
月曜日は鈴原さんと一緒に昼食をとる日だ。これまで通りの態度でいられるだろうか。
そんな不安を抱えて迎えた月曜日。
鈴原さんは佑夏さんという友だちを連れて学食に来た。
どんな顔で鈴原さんに向き合えばいいのかと考えていたのに、二人で過ごせる時間が減ったことに、私はがっかりしていた。
そして鈴原さんが佑夏さんにも笑顔を向けるのを見て、さらにショックを受ける。
鈴原さんの周りのすべての人に嫉妬するなんて、私はどれだけ独占欲が強いのだろう。
そこに、しず香という友だちが現れ、鈴原さんをレズだと吹聴しはじめた。
「ち、違……」
鈴原さんは違う。そう言いたかった。
言わなければいけないところだ。
それなのに言葉がうまく出てこない。
鈴原さんの様子を伺ったが、何を考えているか分からない。
私はとにかく鈴原さんを守りたいと思った。
「ち、違う……。鈴原さんには、彼氏が、いるから……」
私はなんとか言葉を口にする。
そうだ。鈴原さんには彼氏がいる。
だけど、声に出すことを拒否するように喉が詰まる。
言葉にすると、それを現実として認めてしまうような気がした。
私が認めようが認めまいが、現実は変わらないのに。
彼氏と二人でいるところをこの目で見ていたのに、まだ諦められず、何かに期待していたことに気が付いた。
「私、ちゃんと見た……から……。鈴原さんの、か、彼氏……」
言葉にするたびに、自分の言葉で傷ついていく。
それでも私にはそうすることでしか鈴原さんを守れない。
鈴原さんが私の腕を引き、私を止めようとした。だけど私も引き下がることはできない。
「鈴原さんを、侮辱して、傷つけるのは、やめてください」
私は精一杯の声で言った。こんなに大きな声を出すのは何年ぶりだろう。
だけどそんな言葉では、しず香さんを止めることはできなかった。
どんなに頑張っても、私は無力だ。
結局、鈴原さんを守ってくれたのは、鈴原さんの彼氏だった。
しず香という女性が、なぜ鈴原さんをレズだと言ったのか分からない。
もしかしたら、私と一緒にいたせいかもしれない。
私は、私のわがままで鈴原さんを振り回して、鈴原さんに迷惑をかけてばかりだったのではないだろうか。
鈴原さんが去った学食に、今、目の前には、私がずっと憧れ続けた亜佐美先輩がいる。
今日、このときに亜佐美先輩が現れたことには何か意味があるのだろうか。
「それにしても映子、髪伸びすぎじゃない?」
亜佐美先輩は少し渋い顔をして言う。
「あー、美容室に行くお金がなくて……」
「私が切ってあげようか? 結構うまいよ」
「あ、いえ……」
私は下を向く。
これまで鈴原さんに何度も言われ、そのたびに断ってきたことだ。
私は亜佐美先輩を見た。
今でもこうなりたいと思う憧れの人。
髪を切れば、亜佐美先輩のようになれるだろうか。
そうすれば、もう鈴原さんに迷惑を掛けずに済むだろうか。
例えば、私が変わったとしても、鈴原さんには彼氏がいる。
いくら変わったとしても、あの彼氏のようにはなれない。
だけど、今変わらなければ、私はこれから先もずっと変われないだろう。
少しでも変わって、これまで鈴原さんにかけてきた迷惑を、少しずつでも返していきたい。
「亜佐美先輩、お願いします。私の髪を、切ってください」
「オッケー。任せといて」
亜佐美先輩は太陽のような笑顔で言った。
鈴原さんたちが去って、学食には私ひとりが残されていた。
一緒に学食に残っていた鈴原さんのお友だちも先ほどどこかに行ってしまった。
鈴原さんは大丈夫だろうか。
鈴原さんの彼氏も一緒なのだから、私が心配する必要はないと思う。そう分かっていても、やはり心配だ。
しず香という女性が騒いでいたとき、何が起こっているかよくわからなかった。
とにかく鈴原さんを助けなければいけないと思った。
だけど私には何もできなかった。
颯爽と現れて鈴原さんを助けた、あの彼氏とは大違いだ。
自分の無力さが情けない。
「お、こんなところで発見」
明るい声とともに私の肩を叩く人がいた。
「相変わらず暗い顔してるね、映子」
声を掛けた人を見て、私は声を上げてしまうところだった。
そこにいたのは海外に留学しているはずの橋口亜佐美(はしぐちあさみ)先輩だったからだ。
「亜佐美先輩、帰国したんですか?」
「うん。昨日帰ってきた」
亜佐美先輩は笑顔で言う。
ダメージ加工のデニムとTシャツというシンプルな服装がよく似合う。トレードマークとも言える大きなカメラバッグを抱えているのは留学前と変わらない。
私は幼い頃から人と話すことが苦手だった。
そのために友だちもほとんどできなかったし、イジメられてしまうこともあった。
それなのに高校生になれば何かが変わるはずだと漠然と考えていた。
年を一つ重ねる。
中学生から高校生になる。
通う学校が変わる。
たったそれだけのことで私に変化が訪れるはずもない。
そんな当たり前のことにも気付かず、私は高校に入学して数日で自分自身に絶望していた。
亜佐美先輩とは、そんなときに出会った。
真面目なだけが取り柄の私が、その日は学校に行く気になれず、通学途中の川縁でぼんやりとしていた。
河川敷に作られた小さな公園。
遊具もなく、ベンチが少しあるだけの公園に、他の人影はなかった。
ベンチに座り、川風に吹かれながら、ただ川面を眺める。
どれくらいの時間そうしていたのだろうか。
「ここ、眺めいいよね」
という女性の声に、私は我に返った。
学校が始まっている時間に制服でこんな場所にいたら咎められるかもしれない。
そう思って声の方を恐る恐る見ると、そこには私と同じ制服を着た女性が立っていた。リボンの色で三年生だと分かる。
制服には似つかわしくない大きな黒いバッグを持って笑顔を浮かべていたこの女性が亜佐美先輩だった。
亜佐美先輩はおもむろにバッグの中から大きなカメラを取り出す。
「それ……」
私は思わず声を出してしまった。
女子高生が持つには武骨にも見えるカメラだったが、亜佐美先輩にはよく似合っているような気がした。
「これ? オヤジのお古をもらったんだ。一眼レフカメラってわかる?」
私は首を横に振る。『一眼レフ』という言葉は聞いたことがある。だが、それが他のカメラと何が違うのかはわからない。
すると亜佐美先輩は太陽のような笑顔を浮かべた。
「一眼レフカメラはね、写真を撮るのがすっごく楽しくなるカメラだよ」
その一言で私はカメラに興味を持ったのだと思う。
それから亜佐美先輩に誘われてカメラ同好会に入り、亜佐美先輩の後を付いて回るようになった。
私は高校生になっても何も変わらなかった。
それでも孤独だった私の世界に、カメラと亜佐美先輩の場所ができた。
空っぽだった私の世界を、カメラと亜佐美先輩が支配していくようだった。
亜佐美先輩が大学に進学してからも、私たちの交流は続いた。
亜佐美先輩は嫌な顔ひとつせず、私に会ってカメラや写真について教えてくれた。
大学の写真部の部員を増やすために、スマホ撮影も研究していると聞いたときは少し意外だった。
先輩はその理由を「友だちがスマホでの写真の撮り方教えてほしいっていうからさ」と言った。
私が意外だったのは部員を増やそうとしていたことだ。高校の同好会は私も含めて五名しかいなかった。それでも「本当に写真が好きな人間だけでいいよ」と亜佐美先輩は言っていたのだ。
だけど亜佐美先輩を絶対的に信頼していた私は、先輩がそうしたいのならばそれが正しいことだと思った。
亜佐美先輩は私が持っていないものをたくさん持っている。
明るく、奔放で、自由で、男性にも女性にも好かれる存在だった。
亜佐美先輩と特別な関係を持った人は、男女問わずたくさんいる。
それでも特定の恋人はいない。
亜佐美先輩が軽薄なわけではない。求められ、それに応えているだけだ。
私は亜佐美先輩のすることは、すべて正しいと思っていた。
そして私は、私の心を大きく占める亜佐美先輩のことを好きだと思っていた。
私は当然のように亜佐美先輩と同じ大学に進学した。
そして大学生になってすぐの頃、亜佐美先輩に言った。
「私を、抱いてください」
求れば応じてくれることを分かっていて言った。
亜佐美先輩と恋人になれると思ったわけではない。
ただそうすることで、私の中で何かが変わるような気がした。
私の申し出に、亜佐美先輩は少し驚いたような、少し残念そうな顔をした。それでも、断ることはなかった。
授業を終えてから二人でホテルに行き、驚くほどあっさり一線を越えた。
亜佐美先輩と体を重ね、この世界にこんなに心地良いものがあるとはじめて知った。
同時に、私の恋が終わったことを知った。
「亜佐美先輩は、どうして写真を撮るんですか?」
「写真には、撮る人間が写らないからかな」
亜佐美先輩は、私の持っていないものをたくさん持っている。
だから私とは全く違う存在だと思っていた。もっと近くに行けば、私まで変えてくれる存在だと信じていた。
だけど、きっとそうではない。
私と亜佐美先輩はコインの裏と表でしかないのだ。
どれだけ憧れても、決して見つめ合うことはできない関係。
自分が見られない世界を見たくて、私は亜佐美先輩に恋をしていると思い込んでいた。
私がなりたかったのは、亜佐美先輩の恋人ではなく、亜佐美先輩自身だったんだと、体を重ねてようやく気が付いた。
亜佐美先輩への恋心が勘違いだと気付いた後も、私は亜佐美先輩の側にいた。
私とは形の違う孤独を抱える亜佐美先輩を近くで感じることは、私にとって小さな救いだった。孤独なのは自分だけではないと思えた。
そんな先輩が留学を決め、私は本当の孤独になった。
写真部の部員たちに蔑ろにされても写真部に残り続けたのは、少しでも亜佐美先輩の痕跡に縋りたかっただけだ。
四月、新入生の勧誘のために設けた写真部の展示会場の番を私一人に押し付けられた。
でも賑やかな場所は苦手なので、その役割を歓迎した。
南棟は人通りも少なく、展示会場に現れる生徒は滅多にいない。
静かな教室で写真のパネルに囲まれているのは心地よかった。
そこに、一人の少女が入ってきた。
小柄であどけなさが残る少女は、ひと目で新入生だと分かった。
偶然迷い込んだのかもしれない。
少女は写真パネルが飾られていることに気付くと、入り口の近くから順番に写真を見ていく。
私は来場者にサービスするためのお茶を準備して近寄った。
熱心に写真を見ているからなのか、私の存在感が希薄過ぎるのか、近くに寄っても少女に気付いてもらえない。
写真を見ながらゆっくりと歩みを進めていた少女の足がピタリと止まった。
私は、そのタイミングで「あの」と声を掛けた。
驚いて振り返った少女が鈴原さんだ。
鈴原さんは、私が撮影した写真を好きだと言ってくれた。
「匂いとか、音とかを感じるような気がします」
そう言われたとき、写真の中に私を見つけてもらえたような気持ちになった。
私が撮影する写真に私は写らない。写真を撮るときも、私は自分の存在をできる限り消す。
多くの人が私の存在が見えないように通り過ぎる中でシャッターを切る。
誰にも見られていない。
どこにも私は存在していない。
そんな私を、鈴原さんが見つけてくれたように錯覚した。
うれしさと気恥ずかしさをごまかすように写真の説明をしていると、鈴原さんがクスッと笑う。
その瞬間、私は思わずシャッターを切っていた。
ほとんど無意識に体が動いていた。
私は人物の撮影はしない。
特定の人物を撮影すると、被写体がカメラを意識するからだ。
そこに撮影者の姿があぶり出されてしまうような気がする。
だからこれまで人を撮りたいと思ったことはない。
あれほど憧れた亜佐美先輩ですら、撮りたいと思わなかった。
それなのに、なぜ体が動いてしまったのか、私にもわからなかった。
私は大学から家に帰ってすぐに写真を現像した。
鈴原さんに現像した写真を見せると約束したからというのもある。だがそれよりも、写真を見れば体が勝手に動いた理由がわかるかもしれないという期待からだった。
フィルムはまだ半分ほど残っていた。いつもならば、無駄にするのはもったいないと考える。でもそのときは、一刻も早く写真が見たいという気持ちが勝っていた。
現像した写真を見た率直な感想は『がっかり』だ。
被写体に近すぎて構図がおかしい。その上ピントも合っていない。
何の準備もなく反射的にシャッターを切ったのだから、当然といえば当然だ。
それなのに私は、最高の一枚が撮れているのではないかと期待していた。
鈴原さんに見せると約束したが、こんな写真を見せるのはカメラマンとして許せない。
翌日から私はキャンパス内で鈴原さんを探して、こっそりシャッターチャンスを待った。
しかしシャッターチャンスは訪れなかった。
友だちと談笑しているときでも、あのとき見た、私の体を衝動的に動かした笑顔を見ることはできなかった。
一週間以上が経っても、私が納得できる写真は一枚も撮れなかった。あまりに遅いと催促の連絡が来るかもしれないとビクビクしていたが、鈴原さんから連絡が入ることはない。
あのときは写真を見せてほしいと言ったが、興味を無くしているのかもしれない。
もしかしたら、私のことなどすでに忘れてしまっているのかもしれない。
そう考えると急に不安に襲われて、納得のいく写真がないまま鈴原さんに連絡を入れた。
何パーセントか「どなたですか?」という返事が来ることを覚悟していたのだが、鈴原さんはすぐに会う約束をしてくれた。
最初に写した写真を見せると、やはり鈴原さんの表情は曇っている。どう考えても失敗作だ。その反応は仕方ない。
頭では分かっていたが、やはり目の前でその反応を見るのは辛い。
それで話は終わってしまうと思ったのだが、鈴原さんは他の写真も見たいと言ってくれた。
私はこれまでの作品を鈴原さんに見せる。
鈴原さんは一枚ずつゆっくりと私の写真を見ていく。
少しずつ私の心の中を覗かれるようで気恥ずかしい。
そう思いながら鈴原さんの横顔を見ていて、シャッターチャンスが来たと感じた。
私は慌てないようにカメラを構えてピントを合わせる。
しかし、最高の一枚のチャンスは鈴原さんに阻止されてしまった。
「何してるんですか?」
「あ、ごめんなさい」
私は謝ったが、どうしても鈴原さんの写真が撮りたかった。
だから写真部への入部と私の写真のモデルになることを打診した。
無茶なリクエストであることは分かっていた。断られることも覚悟していた。
それなのに鈴原さんは、私に昼食を食べさせてくれた上に写真部への入部とモデルを快諾してくれたのだ。
女神かと思った。
いくつかの条件は出されたものの、無茶な条件ではない。これまで、亜佐美先輩以外、誰にも見向きもされなかった私の言葉を聞き、受け入れてもらえたことに、私は有頂天になっていた。
鈴原さんはやさしい。誰に対してもそうなのかもしれない。
写真にお金を使う私がいつもお腹を空かせていると知って、大盛の定食を分けてくれる。
おごると言わず、自分の食べ残しを食べてくれというのは、私に気を遣わせないためだろう。
人と話すことが苦手で、思っていることを口に出すのに時間がかかる私の言葉を、じっと待っていてくれる。
モデルの期限を「映子先輩が納得のできる写真が撮れるまで」と言ってくれた。つまり私にこの契約の期限を委ねてくれるということだ。
月、火、木の昼食前後は鈴原さんと過ごすようになった。
キャンパス内を散策したり、おしゃべりをしたりしてシャッターチャンスを狙う。
鈴原さんは私なんかと話すときも笑顔になってくれる。
私のことを見てくれる。
だけど鈴原さんと会う時間が増えていくほどに、私はカメラを構えられなくなっていった。
何枚かいい写真は撮れていた。
もうすぐ納得できる最高の一枚も撮れるような気がしていた。
だからこそ、私はカメラを構えられない。
その一枚が撮れたとき、私は鈴原さんと共に過ごす理由をなくしてしまうのだから。
鈴原さんから髪を切ってほしいと言われたとき、「美容室に行くお金がなくて……」と答えた。
それはこれまで、髪を切らずに伸ばしっぱなしにしていた理由だ。
髪を切るよりカメラにお金を費やしたい。
だけど鈴原さんに会ってから、髪を切らない理由がもう一つ増えた。
髪を切って、鈴原さんに私の顔を見られるのが嫌だったからだ。
顔を見られたら、私が鈴原さんに対して抱きはじめた気持ちまで見透かされてしまうような気がした。
髪を切ってしまったら、私はきっと、鈴原さんの顔をまっすぐに見て話すことができなくなってしまう。
そんな身勝手な理由で、鈴原さんとの契約を反故にし続けていた私に天罰が下ることになる。
写真部の部長から、新歓コンパ開催の連絡が届いた。
私が勧誘した新入生を必ず連れて来いとの言葉も添えられていた。
さらに連れてくれば会費を無料にするという、私用の飴まで提示される。
そのことを鈴原さんに伝えると、渋々という感じだったが新歓コンパに参加してくれると答えてくれた。
新歓コンパ当日、待ち合わせの場所にいた鈴原さんは少し疲れているようだった。だけど、私はそんな鈴原さんを気遣ってあげることができなかった。
昼休み以外の時間にも、鈴原さんと一緒にいられることに浮かれていたのだ。
コンパの会場でも、本当は鈴原さんの近くに座りたかった。
だが鈴原さんは部長に連れていかれてしまい、私はいつものように端の席に収まった。
中盤から注文取りなどをやらされることが分かっていたので、私は最初から食事を食べることに集中する。
横目で鈴原さんの様子を伺うと、男性陣に囲まれて笑顔を浮かべていた。
だけどその笑顔はちょっと不自然に見える。
私と二人で話をしているときの方が楽しそうだと考えてしまうのは、うぬぼれに過ぎないと自分に言い聞かせた。
コンパも盛り上がりはじめ、男性陣は鈴原さんを囲んでひっきりなしにアプローチをしている。
私は、飲み物の追加オーダーをとるために会場内をうろうろしていた。
そのとき「私、彼氏いるから」という鈴原さんの声が聞こえて、心臓が止まるかと思った。
鈴原さんはかわいらしい。それにとてもやさしい女の子だ。彼氏がいても不思議ではない。
でも今の発言は、周りの男性陣を退けるための嘘のように思えた。
今思えば、自分に都合の良いように解釈していたにすぎない。
少しすると鈴原さんが会場から立ち去った。
そっと後を追い、トイレで休んでいた鈴原さんに声を掛けた。
「大丈夫?」
鈴原さんは疲労の色を隠すことなく「大丈夫じゃありません」と答える。
「帰りたいので、私のバッグを持って来てくれませんか」
そう言われたとき、私はそれでももう少し鈴原さんと一緒にいたいと思ってしまった。
それに、私が先に帰ってしまうと、部長たちに何を言われるか分からない。だからといって疲れた様子の鈴原さんを一人で帰すこともできない。
この二択ならば迷う余地はない。
私はできるだけ静かに鈴原さんのバッグと私のバッグを持って会場を出た。幸い誰にも気づかれなかったようだ。
「梢ちゃん、まだ戻らないのー」
という声も聞こえたが、無視して外に出た。
「映子先輩まで帰らなくてもいいですよ。まだ、ご飯ものとデザートが出てませんよね」
一緒に帰ろうとした私に、鈴原さんはそう言ってくれた。
ぐったりした顔をしているのに、まだ私のことを気遣ってくれる。
私は鈴原さんの手を取り、店の外に出た。鈴原さんの手は小さくてやわらかくて、少しひんやりとしていた。
店の外に出ても手を離したくなかった。心臓がドキドキして、顔も赤くなっているだろう。髪を切らなくてよかったと考えていた。
そこで別れればよかったのに、私は鈴原さんについて中華料理屋まで行ってしまった。
少しでも長く鈴原さんと一緒にいたいという私の欲だ。
だから会ってしまった。
なぜ鈴原さんが路地裏の小さな中華料理屋の場所を知っていたのか、考えればわかることだ。
これまでに何度もこの場所に来たことがあるからだ。
そして一緒に来ていたのは、鈴原さんの彼氏だ。
私はコンパで耳にした「彼氏」の話が嘘だと言ってほしくて、「彼氏って、どんな人なの?」と聞いてしまった。
「あんな人ですよ」
そう言って鈴原さんが中華料理店の入り口を指さす。
そこには、はじめて見る男性の姿があった。
背が高く、落ち着いた大人の男性。
大学で彼氏といる姿を見たことがないため、彼氏はいないものだと決めつけていた。
同じ大学生でないのならば、大学で見ないのは当たり前だ。
睦さんと呼ばれた男性と並ぶ鈴原さんはリラックスした表情になっていた。
「睦さん、今日、このあと睦さんの部屋に行ってもいい?」
「ん? ああ、いいけど」
そんなやり取りをする二人はとても自然で、お似合いに見えた。
息ができない。
睦さんを見る鈴原さんの穏やかな表情は、コンパで写真部の男性陣に囲まれていたときとは全く違う。
この人を信頼していることが伝わってくる。
私はその場を逃げ出すことしかできなかった。
その週末はボロボロだった。
考えてみれば、私は鈴原さんのやさしさに甘えて、自分の都合にばかり付き合わせてきた。
それなのにもっと一緒にいたいと欲を出した。
実際に彼氏と一緒にいるところなど見たくはなかった。
あの後、鈴原さんはどうしたのだろう。
彼氏の家に行くと言っていた。夜、彼氏の家に行く理由など考えるまでもない。
月曜日は鈴原さんと一緒に昼食をとる日だ。これまで通りの態度でいられるだろうか。
そんな不安を抱えて迎えた月曜日。
鈴原さんは佑夏さんという友だちを連れて学食に来た。
どんな顔で鈴原さんに向き合えばいいのかと考えていたのに、二人で過ごせる時間が減ったことに、私はがっかりしていた。
そして鈴原さんが佑夏さんにも笑顔を向けるのを見て、さらにショックを受ける。
鈴原さんの周りのすべての人に嫉妬するなんて、私はどれだけ独占欲が強いのだろう。
そこに、しず香という友だちが現れ、鈴原さんをレズだと吹聴しはじめた。
「ち、違……」
鈴原さんは違う。そう言いたかった。
言わなければいけないところだ。
それなのに言葉がうまく出てこない。
鈴原さんの様子を伺ったが、何を考えているか分からない。
私はとにかく鈴原さんを守りたいと思った。
「ち、違う……。鈴原さんには、彼氏が、いるから……」
私はなんとか言葉を口にする。
そうだ。鈴原さんには彼氏がいる。
だけど、声に出すことを拒否するように喉が詰まる。
言葉にすると、それを現実として認めてしまうような気がした。
私が認めようが認めまいが、現実は変わらないのに。
彼氏と二人でいるところをこの目で見ていたのに、まだ諦められず、何かに期待していたことに気が付いた。
「私、ちゃんと見た……から……。鈴原さんの、か、彼氏……」
言葉にするたびに、自分の言葉で傷ついていく。
それでも私にはそうすることでしか鈴原さんを守れない。
鈴原さんが私の腕を引き、私を止めようとした。だけど私も引き下がることはできない。
「鈴原さんを、侮辱して、傷つけるのは、やめてください」
私は精一杯の声で言った。こんなに大きな声を出すのは何年ぶりだろう。
だけどそんな言葉では、しず香さんを止めることはできなかった。
どんなに頑張っても、私は無力だ。
結局、鈴原さんを守ってくれたのは、鈴原さんの彼氏だった。
しず香という女性が、なぜ鈴原さんをレズだと言ったのか分からない。
もしかしたら、私と一緒にいたせいかもしれない。
私は、私のわがままで鈴原さんを振り回して、鈴原さんに迷惑をかけてばかりだったのではないだろうか。
鈴原さんが去った学食に、今、目の前には、私がずっと憧れ続けた亜佐美先輩がいる。
今日、このときに亜佐美先輩が現れたことには何か意味があるのだろうか。
「それにしても映子、髪伸びすぎじゃない?」
亜佐美先輩は少し渋い顔をして言う。
「あー、美容室に行くお金がなくて……」
「私が切ってあげようか? 結構うまいよ」
「あ、いえ……」
私は下を向く。
これまで鈴原さんに何度も言われ、そのたびに断ってきたことだ。
私は亜佐美先輩を見た。
今でもこうなりたいと思う憧れの人。
髪を切れば、亜佐美先輩のようになれるだろうか。
そうすれば、もう鈴原さんに迷惑を掛けずに済むだろうか。
例えば、私が変わったとしても、鈴原さんには彼氏がいる。
いくら変わったとしても、あの彼氏のようにはなれない。
だけど、今変わらなければ、私はこれから先もずっと変われないだろう。
少しでも変わって、これまで鈴原さんにかけてきた迷惑を、少しずつでも返していきたい。
「亜佐美先輩、お願いします。私の髪を、切ってください」
「オッケー。任せといて」
亜佐美先輩は太陽のような笑顔で言った。
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