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悠生ゆう

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season4-5:迷い道(viewpoint満月)

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 朝の陽ざしが目に染みる。太陽の位置がまだ低いから光が目に直接飛び込んでくるのかもしれない。
 そう考えて街をぐるりと見渡してみると、古ぼけたビルも、葉っぱが枯れ始めた街路樹も、ゴミ置き場を狙うカラスさえもなんだかキラキラと輝いて見えた。
 今日はいつもより早く目が覚めた。ゆっくり出勤の準備をしても時間が余ったので、早めに出勤をすることにしたのだ。
 少し早いだけでこれほど景色が違って見えることを知り、なんだかとても得をした気分だ。
 景色が美しかったことだけではない。いつもならば身動きが取れないほど混んでいる電車も空いていて、ストレスが八十パーセントほどオフされた。車窓から風景を眺める余裕もある。あまりに余裕があったので雅にメッセージを送ってみた。
『おはよう! さわやかな朝だね!』
 無視されるかと思ったのだけどすぐに返信が届く。
『うざい』
 雅が今日も元気そうでよかった。
 出勤時間まではかなり余裕がある。そこで私はいつもより一駅手前で下車して会社まで歩くことにした。
 そういえば来年の合宿研修に向けてトレーニングをしようと思っていたのにまだ何もしていなかった。これから天気の良い日は、こうして一駅分歩くことにしようと心に決める。
 体がとても軽い。背中に羽が生えているのではないかと思うほどだ。
 生まれ変わったような気持ちとはこういうことを言うのかもしれない。事実、昨日までの私と今日の私はまったく違う私になったのだ。
 昨日までの私がただの満月だったとすれば、今日の私はスーパー満月だと言っていいと思う。
 もっとはっきり言うならば、昨日まで恋人がいない歴イコール年齢の私だったが、今日は恋人がいる私なのだ。
 これまで雅がいつも大きな態度で私のことを雑に扱っている理由がよくわからなかったけれど、私が知らなかっただけで雅には日和さんという恋人がいた。つまり雅はスーパー雅だったのだ。だから無敵超人のような態度がとれていたのだろう。
 スーパー満月なった今の私ならば、スーパー雅とも対等にやりあえるかもしれない。
 とはいえ、私の恋人となった矢沢さんにはもう一人の恋人がいるから、雅と対等にやりあえるレベルに達しているかといえば少し自信が無い。
 私は昨日、日和さん経由で矢沢さんに呼び出された。矢沢さんの様子がずっとおかしかったから、きっとその話だろうと思って私は待ち合わせの場所に行った。
 輝美ちゃんも待ち合わせの場所にいたことに驚いたけれど、私をもっと驚かせたのはその後のことだ。
 矢沢さんは私がついついしてしまった告白の言葉を正しく受け止めてくれていた。
 私の記憶が正しければ、酔って我が家に泊った矢沢さんに「好き」だと言ったとき、恋愛のそれではなく、友人や同僚に対するものだという感じで受け止められていたような気がする。
 それがいつどうやって正しく矢沢さんに伝わってしまったのかはわからないけれど、矢沢さんは私の気持ちを知ってどう受け止めればいいのかを考えてくれたのだ。
 最近様子がおかしかったのは、どうやら草吹主任の退職のことではなく、私の告白のせいだったらしい。
 実際には、私と輝美ちゃんの告白のことを考えていたようだけど、それでも私のことを考えていてくれたことに違いはない。
 それにも関わらず、当の私が雅と日和さんの関係に気を取られて気付かずにいたなんて本当に馬鹿だ。
 矢沢さんは「好き」だという気持ちが理解できず、私と輝美ちゃんからの告白に戸惑い、悩んでいた。
 だから矢沢さんと付き合うことになったけれど、矢沢さんと両想いになれたわけではない。
 それでも私の告白を受け止めて真剣に考えてくれた。それだけでもうれしいのだ。
 私の初恋は小学生の頃だと思う。
 とても仲の良い同級生の女の子で、私が「好きだよ」と言うと彼女も「私もみっちゃんのこと大好き」と言ってくれた。
 休み時間はいつも一緒に遊んだし、誕生日にはお互いの家に行きお祝いをした。中学生になっても仲良くしようと誓い合った。
 その誓いは確かに守られた。新しい友だちができても、彼女は私を一番の友だちだと言ってくれた。そして好きな男の子ができたときも、彼氏ができたときも一番に私に教えてくれた。
 そのとき私は何が起こっているのかわからなかった。一番の友だちのままだったのに、一番遠い場所に引き離されてしまったように感じた。
 だから私から距離を置いて一番の友だちの座を放棄したのだ。
 そんなことを幾度か繰り返して、鈍くて馬鹿な私もようやく気が付いた。私の言う「好き」と彼女たちの言う「好き」が同じではないということに。そしてそれは決して同じにはならないということに。
 だから私は諦めることを覚えた。
 私が好きになる人は私を好きにはならない。同じ目線で見つめ合い、お互いを想い合うことはできない。
 だったら人を好きになんてならなければいいのに、私はそれでも懲りずに人を好きになってしまう。
 だから私は片想いを楽しむことにした。
 気になる人の好きな食べ物を真似したり、好きな本や映画を見たり、ほんの少しおしゃべりをしたり、ただそれだけでウキウキと心が弾んだ。
 告白もせず、両想いになることを望まず、ただ片想いの時間を楽しもうと決めてしまえばとても気が楽になった。好きな人に恋人ができれば失恋の辛さは押し寄せるけれど、それすらも片想いを楽しむエッセンスのようなものに思えた。
 それで満足していたはずなのに、どうして私は矢沢さんに告白をしてしまったのだろう。
 おそらく雅と砂川さんのせいだ。
 大学で雅と出会い、雅は同性を好きになる私のことを受け入れてくれた。塩対応だったり呆れたりしても、雅は私を拒絶することはなかった。だから私は同性を好きになる私自身を許されたような気がしたのだ。
 そして砂川さんには面倒臭いと思うくらい、草吹主任と矢沢さんのカップリングの尊さについて説明された。きっとそのせいで感覚が麻痺してしまっていたのだと思う。
 自分でも思いがけずに矢沢さんに告白してしまったけれど、矢沢さんは私の気持ちを否定しなかった。「好き」という気持ちがわからないと悩みながらも、矢沢さんは私と向き合おうとしてくれた。
 輝美ちゃんの提案で、私と矢沢さん、輝美ちゃんの三人でお付き合いをするという、なんだか変則的な恋人関係になったけれど、それでも私にとっては大きな前進に思えた。
 だからこれほど世界が輝いて見えるのだろう。
 私は顔を上げて輝く街をぐるりと見渡した。
 そして時計店に飾られている大量の時計が、ひとつ残らず始業間近を指していることに気が付く。時間に余裕があるからとのんびり考えごとをし過ぎてしまったようだ。
「やば、走れば間に合うか?」
 私は駆け足で会社に向かった。


 会社には滑り込みで間に合った。息を切らして自席に着くと、当然ながら矢沢さんはもう席について仕事をはじめようとしていた。
 この人が私の恋人になったんだと感慨深い思いで見つめていると、矢沢さんはほとんど無表情で「おはようございます」と挨拶をした。
 その表情に私は少し拍子抜けをしてしまった。矢沢さんはあまり表情が変わらない。だからほとんど無表情だけど、ほんの少し笑みを浮かべてくれていたのはわかった。
 だけどその表情はこれまでと同じに見えたのだ。
 恋人になったからといって、朝から「おはよう! 会いたかった」なんてハグしてもらえるなんて思ってはいなかったけれど、こんなものかと思ってしまった。
 だけど矢沢さんなりに恋人として何かを変えようとしてくれていたよようだ。
 なんと、昼休みに矢沢さんからランチに誘ってくれたのだ。
 もちろん私は意気揚々と矢沢さんとランチに出掛けた。いつも通り、少しずつ話をして、ランチを食べて、会社に戻る。
 それだけのことがうれしかったのだけど、なぜか心の奥がモヤモヤしていた。
 輝美ちゃんのことを思い出してしまったからかもしれない。
 次の日も、その次の日も矢沢さんは私をランチに誘ってくれた。
 一緒にランチをとる時間は楽しいはずなのに、どんどん気持ちが重くなっていくのを感じた。
 うれしい気持ちが湧いてくると反比例するようにモヤモヤが心の中に渦巻く。
 私の中に輝美ちゃんに申し訳ないという気持ちがあるからだと思った。
 四人で会った日曜日、日和さんだけが先に帰って三人で話をした。
 三人で付き合うと決めたものの、どんな風にしていけばいいのかわからなかったから、そのことを話した。
「えっと、何かルールを決めますか? んー、たとえば抜け駆け禁止とか?」
 私は懸命に脳を動かしてひとつの案を出した。
「別にルールなんてなくていいんじゃない?」
 そう言ったのは三人の不思議な関係の発案者である輝美ちゃんだった。
「それでいいの?」
「だって、私、抜け駆けしたいもん」
 輝美ちゃんは身もふたもないことを言い放つ。
「えっと、じゃぁ私が抜け駆けしてもいいの?」
「私たちがどう動こうと選ぶのは陽さんだもん」
 そんな輝美ちゃんの言葉に私は納得した。
 私たちは抜け駆けをしてもいい。あくまでも選ぶのは矢沢さんであるというルールだ。
 だけど別れ際、私と二人になったとき輝美ちゃんはこうも言った。
「抜け駆けは良いけど、毎日陽さんと顔を合わせるあんたの方が有利なんだからね。陽さんが悩んでるとか、困ってるとか、様子がおかしいようっだったら教えるくらいのことはしてよ」
 私はそれに頷いた。
 矢沢さんとのランチは私が強要しているわけではない。輝美ちゃんに報告する義務もない。抜け駆けと言う程のことでもないし、そもそも抜け駆けをしていいことになっている。
 だから輝美ちゃんに対して罪悪感を抱く必要なんてないのだ。きっと矢沢さんは夜には輝美ちゃんがバイトする居酒屋に行って会っているのだと思う。
 だから罪悪感なんて抱かずに、ランチタイムを有効に活用して矢沢さんとの距離を縮めるべきなのだ。
 そう考えていたのだけれど、金曜日には矢沢さんからのランチの誘いを断ってしまった。
「ごめんなさい。実は今日、砂川さんと約束をしてて……」
「そうなんですか?」
 砂川さんと約束なんてしていなかった。
 だけど矢沢さんはその嘘を信じて一人でオフィスを出て行った。
 私は矢沢さんを見送ってから、まだパソコンに向かっていた砂川さんに声を掛ける。
「砂川さん、よかったら一緒にランチに行きませんか?」
「私と? 野崎さんから誘ってくれるなんて珍しいわね」
 私は笑みを浮かべたけれど、きっと引きつっていたと思う。少し前まで砂川さんに誘われることを避けていたのに、こうして砂川さんを利用するなんて調子がよすぎる。さらに自己嫌悪が襲ってきた。
 ランチの場所に選んだのは、日和さんも一緒に行ったカレー店だった。店内に入るとすぐにランチセットをオーダーする。今日はチーズナンではなく普通のナンにした。
「それで何か話でもあるの?」
 砂川さんが頬杖をついて尋ねる。
「あー、いえ。その……平気なのかなと思って」
 特に話したいことがあったわけでもないのでちょっと慌てたけれど、咄嗟に浮かんだ言葉を口にする。すると砂川さんはキョトンとして「何が?」と聞き返した。
「草吹主任が辞めるときはかなり大騒ぎしてたじゃないですか。用賀さんとの件を知って動揺してないんですか?」
「ああ、そのこと。それは別に気にしてないよ」
 かつて『草×陽』が見られなくなると大騒ぎしていたのと同じ人だとは思えない落ち着きぶりだ。
 オーダーしていたランチセットが届き、私たちはナンをちぎってはカレーを付けて口に運ぶ。今日のカレーは濃い緑色のほうれん草カレーと鮮やかな黄色のチキンカレーだった。
 しばらく食事に集中していた砂川さんがポツリと言った。
「草×陽じゃなくて草×用だったわけね」
 私は一瞬意味が分からず首をひねったが、前者の『よう』が矢沢さんの『陽』で後者の『よう』が用賀さんの『用』だと気付いた。
「ああ! 確かにそうですね」
 そんなことには全く気付いていなかったので、思わず素で感心してしまう。
 少し大きめにちぎったナンを豪快に頬張った砂川さんは、口の端氏に付いた緑のカレーをテーブルナプキンでふき取り、少し眉をしかめながらモグモグと噛みしめた。そしてそれを飲み込んでからゆっくりと口を開く。
「勝手にカップリングを決めつけて勝手に騒ぐとか、失礼な話だよね」
 その落ち着いた声色が私の知る砂川さんのものではなくて私は少し怖く感じた。
「一体どうしちゃったんですか?」
「別に。私も大人になったってことかな」
「何かあったんですか?」
「何もないわよ。ただ……」
 そうして私の顔をしばらく見ると、砂川さんは口を閉ざしてしまった。これ以上の話をしたくないとアピールするように、淡々とナンをちぎって口に運ぶ砂川さんを見ていたら、私はそれ以上何かを聞くことができなくなった。
 モヤモヤとした重苦しい気持ちが嫌で矢沢さんの誘いを断ったのに、結局私は重苦しいランチタイムを過ごすことになった。


 帰り際、私は日和さんに声を掛けた。
「ちょっと雅と会って話がしたいんだけど、いいかな?」
 すると日和さんはキョトンとして軽く首を傾げた。
「別にいいんじゃないの?」
「あ、そう?」
「なんでそんなこと訊くの?」
「いや、ほら、なんか悪いかなと思って……」
 すると日和さんは「今更?」と言いながらケラケラと笑った。
 私が知る前から雅と日和さんは付き合っている。だから日和さんにしたら「今更」なのかもしれない。
「だけど、ほら、やっぱり……」
「私、雅が友だちと会うのを止めたりしないよ。今までだってずっとそうだったでしょう?」
「あぁ、そうだよね」
 だけど付き合っていると知らない頃に雅を呼び出していたときと今とでは全然違う気がする。
「今日は会う予定じゃないし、私のことは気にしなくてもいいよ」
「うん、わかった」
「雅も満月さんのこと気にしてたから、話しを聞きたいと思ってるんじゃないかな?」
 日和さんはやわらかな笑みを浮かべて言う。
「雅が?」
「うん、雅はいつだって満月さんのことを心配してるよ」
 今度は私が首を傾げる番だ。確かに雅は私の相談事を聞いてくれる。だけどいつだって塩対応で心配をしているようには見えない。
 そんな私をみて日和さんはクスクスと笑った。
 そんな日和さんを見ていると、雅と日和さんの間には私の知らない何かがあるのだとヒシヒシと感じる。
 雅とは長く友だちをしているけれど、日和さんは私の知らない雅を知っているのだ。そう思うと少し胸の奥がジリッと焼けるような感覚が走る。
「じゃあ、今日はちょっと雅を借りるね」
 私は笑顔を浮かべて日和さんにそう伝えて会社を出た。
 矢沢さんは用賀さんと共に草吹主任のお店に行った。きっと私たちのことを話しに行ったのだと思う。そのことを輝美ちゃんに伝えるついでに、輝美ちゃんが今日、居酒屋のバイトに入っていないことも確認している。
 だから雅には、いつもの居酒屋で会いたいと連絡を入れた。雅からはいつもの通り『面倒臭い』という返事が来たけれど、断れれることはなかった。いつも通りの雅の対応に少しだけ気持ちが軽くなる。
 居酒屋について店内を見回すとすでに雅がテーブルについていた。
「急にゴメンね」
 そう言いながら雅の前に座る。
「先にはじめてるよ」
 雅はそう言いながらビールをグビリと飲んだ。店員がホッケの開きをテーブルに置きにきたついでに私はモスコー・ミュールをオーダーする。
「まだホッケブームなの?」
「ん? そうじゃないけどこの店のホッケ、おいしいんだよね」
 箸でホッケの身をほぐして口に放り込むと、雅は「あんたも食べれば?」と言った。本当にブームは終わっているようだ。ブーム中は私に食べさせてはくれない。
 私は遠慮なくホッケの身に箸を突きたてる。
 そうしてホッケを味わっているとオーダーしたモスコー・ミュールが届いた。
 一応乾杯をしてひとくち飲むと、雅が「で、何の話?」と切り出してくれた。
「あー、いやぁ……。私と矢沢さんのこと、日和さんから聞いてるよね?」
「うん。輝美と三人で付き合うんでしょう? 面白いことやってるね」
「斬新だよねぇ」
「なに? 初彼女ができたのに元気ないじゃない。うれしくないわけ?」
 私はモスコー・ミュールをグイッと飲む。雅もつられるようにビールを飲んでジョッキを空にすると、追加のビールをオーダーした。
「うれしいし、浮かれてたのは事実なんだけど……」
「そういえば、月曜日に頭悪い感じのメッセ届いてたよね」
 私は苦笑いを浮かべる。確かにそんなメッセージを送っていた。
「ただ、時間がたって色々考えていたら、どうすればいいのかよくわからなくなってきてさ」
「どういうこと?」
「んー、なんていうか……。矢沢さん、お昼にランチに誘ってくれるようになったんだよね」
「良かったじゃない」
「うん。でも、なんだか無理をさせてるんじゃないかなって思って」
 矢沢さんに誘われてうれしさを感じるのにモヤモヤと重い気持ちになる理由のひとつはこれだった。
 矢沢さんは「好き」だという気持ちがわからないと言っていた。
 それを聞いて、私にはその意味がよく理解できなかったのだ。
 私は馬鹿だけど、自分が抱いた「好き」という気持ちを疑ったことはない。片想いしかしてこなかったけれど、私はその人のことを「好き」だった。
 だけどなぜ好きになったのか、どこを好きになったのかを説明しろと言われたら無理だ。
 笑顔がかわいいとか、おっとりした話し方がいいとか、恋をした相手の好きなところを挙げることはできる。だけど他にも笑顔がかわいい人はいたし、おっとりした話し方をする人もいる。それでも他の誰かではなく、その人を好きになる。だから「好きなところ」があるから「好き」になったわけではないのだと思う。「好き」になったから「好きなところ」が見えてくるのだ。
 矢沢さんに関しては、最初は何を考えているのかよくわからなくて苦手だと思っていた。合宿研修を経て、それらが誤解だとわかった。小さい体で、不器用に一生懸命なところがかわいいと思った。本当は素直で幼くて、それでも精一杯背伸びをして大人になろうとしているところが愛おしいと思った。
 だけどだから「好き」になったのかと言われたらよくわからない。
 気が付くと自分の中に「好き」だという感情が生まれていて、その感情が生まれるまでは気付かなかった矢沢さんの表情も見えてくる。そして「好き」だという感情がもっと育っていく。
 この「好き」という感情は誰かに教えてもらったわけではない。鈍い私だから、その感情に気付くまでには時間がかかったけれど、自然に生まれて育っていった。
 友人として日和さんのことが好きだ。上司として草吹主任のことが好きだ。それらの「好き」と矢沢さんに対する「好き」が違うことははっきりと理解できる。
 よく「恋愛的な好き」を性的な対象として見られるか否かで語られることがあるけれど、私にはそれもピンとこない。
 確かに年を経てキスをしたいとか触れ合いたいという欲求が生まれるようになったけれど、もっと幼い頃の恋心にはそんな欲求は伴わなかった。だけどそれは確かに恋だったと思う。
 例えば音のない世界や光のない世界で生きる人がいる。私はその世界を想像することはできるけれど、本当の意味で理解することはできないと思う。どれだけ心を寄せて、どれだけ理解しようとしても完全に理解することはできない。
 音を聞く方法を誰かに教えてもらったわけではないのに、私は当たり前に音を聞き、音を理解している。だからどんなに理解したいと思っても、きっと音のない世界を理解することは不可能だ。
 それと同列で考えることはできないのかもしれないけれど、当たり前に人を好きになれた私に、好きだという気持ちを知らない矢沢さんの不安や苛立ちを本当の意味で理解することはできないのではないのだろうか。
 どれだけ理解したいと思い、どれだけ寄り添いたいと思っても、それは独りよがりに過ぎない気がする。
 たとえお試し期間であったとしても、矢沢さんと付き合えることはうれしい。だけど矢沢さんが一生懸命、私の「好き」に応えようとしてくれるほど、矢沢さんを追い詰めてしまっているような気がするのだ。
 私は片想いには慣れている。だから矢沢さんが無理をしなくても、仲の良い同僚として近くにいられればいいんじゃないかとも思う。その方が矢沢さんにとっても良いのではないだろうか。
「雅はさ、日和さんと付き合ってるでしょう?」
「うん」
「どうして日和さんが好きなの?」
「どうして? どこがじゃなくて?」
「うん。世の中にはいっぱい人がいてさ、かわいい人もきれいな人も頭がいい人も性格がいい人もいるでしょう? その中でどうして日和さんなのかなと思って」
「日和が私を好きでいつづけてくれたからかな?」
「自分を好きになってくれた人を好きになるってこと? だけど自分が好きだから相手にも好きになって欲しいってエゴじゃないかな?」
 すると雅は少しムッとした。雅と日和さんのことを言ったわけではない。私が矢沢さんを好きだからといって、矢沢さんにも好きになってもらおうというのは違うのではないかと思ったのだ。それが矢沢さんを苦しめてしまうかもしれない。
「日和は私に好きになってほしいなって言わなかったよ。ただ、私がどんなに馬鹿なことをやってても、日和はずっと同じ距離でずっと私を好きでいてくれた。私はそんな日和にずっと救われてた……」
「雅が馬鹿なことを?」
 私のことをいつも「馬鹿だ」「ボケだ」と言っている雅自身がそんなことをしていたというのが想像できなかった。
 すると雅は気まずそうに眉をしかめて届いたばかりの二杯目のビールをグビリと飲む。
「私のことはどうでもいいでしょう。どうして突然そんなこと訊くの?」
「矢沢さん、好きっていう気持ちがわからないって言ってたから。私も考えはじめたらよくわからなくなっちゃって」
「普段使わない頭を使ったからオーバーヒートしてるわけね」
 そう言うと雅はケケケッと少し意地悪な笑い声を立てた。
「そうだね。それに輝美ちゃんのことも……」
 私はなんとなく店内を見回す。輝美ちゃんがバイトに入っていないことは知っていたけれど、なんとなく確認せずにはいられなかった。
 三人で付き合うことを決めた日曜日、日和さんが帰った後のことを思い出していた。
 三人で付き合うことを承諾した矢沢さんだったけれど、やはり戸惑っていた。当然のことだと思う。
「お二人と付き合うとして、私はどうすればいいんでしょうか」
 矢沢さんが私と輝美ちゃんを交互に見ながら尋ねた。私にだってわからない。私が何も答えられずにいると輝美ちゃんが矢沢さんをまっすぐに見つめて答えた。
「今までと同じでいいです。例えば一緒にご飯を食べましょうって誘ったとき、陽さんが行きたいと思ったらOKして、行きたくないと思ったら断ればいいんです」
「今までと同じ?」
「はい。私たちが勝手にがんばるので、陽さんは今までと同じで大丈夫です」
「本当にそれだけでいいの?」
「だけど、ひとつだけ約束してください」
 輝美ちゃんは姿勢を正して言葉を続ける。
「メッセージ、もう無視しないでください。私のことを避けないでください。嫌いになったらそう言ってください。だけど無視だけはしないでください」
 輝美ちゃんの声が少しずつ震えていくのがわかった。その横顔を見ると目から涙が溢れそうになっている。
「私、本当にどうしたらいいのかわからくて。怒っていいのか、悲しんでいいのか……だから、もう……」
 最後まで言葉を話し終えるのを待たず、目から涙が零れ落ちていた。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
 矢沢さんもそう答えながらポロポロと涙を落としていた。私はそんな二人をただ眺めていることしかできなかったのだ。
 想いを見ることはできない。想いを測ることもできない。
 それでもそんな輝美ちゃんを見ていたら、なんだか負けたような気持ちになったのだ。
 モスコー・ミュールに手を伸ばすとグラスはいつの間にか空になっていた。私は伸ばした手を戻して頬杖をつく。
「もしも想いの大きさを測れる天秤みたいなものがあってさ、私の想いと輝美ちゃんの想いを両端にのせたら、輝美ちゃんの方に傾くと思うんだよね」
「は? なにそれ?」
 雅は飲もうとして持ち上げていたジョッキをテーブルの上に戻して私を見た。
「だから、私よりも輝美ちゃんの方が矢沢さんのことを好きなんじゃないかなと思ってさ」
「あんたは矢沢陽を好きじゃないの?」
「好きだよ。好きだけどさ、輝美ちゃんには負けてるっていうか……」
「馬鹿じゃないの?」
 雅はあからさまに呆れた顔をしている。
「うん……やっぱ馬鹿だよねぇ。もうどうすればいいのかわからなくなってきたよ」
「あんたねぇ」
「もう、やめようかな……」
 不意にアイデアが湧いたように、言葉がひとつポロリと落ちた。雅の眉がピクリと動く。機嫌が悪くなっているのがわかった。きっと言ってはいけない言葉なのだ。だけどこぼれはじめた言葉を私は止めることができない。
「私と輝美ちゃんの二人で好きだって言うの、矢沢さんにとっても負担だろうし、私より輝美ちゃんの方が矢沢さんを好きだと思うし、私が矢沢さんを好きなのを止めたら、なんか丸く収まるんじゃないかな」
「何言ってるの?」
 雅の声が低い。これまでも冷たい言葉を私に浴びせてきた雅だけど、それまでのどの声よりも低くて、冷たくて、硬い声だった。
「だって、なんか考えるのも面倒になってきちゃったしさ。こういうの、私には向かないよね」
 私は笑顔を浮かべてわざと明るい口調で言う。そう言葉にすると、それが本当に正しいことのように感じた。
 次の瞬間、雅が立ち上がる。
 そして手にしていたビールジョッキを私の頭の上で傾けた。半分以上残っていたビールが一滴残らず私の頭に降り注ぐ。
 何が起こったのか理解できずに雅を見た。雅は冷たい目で私を見下ろしている。
 冷えたビールが頭から顔を伝い、体まで濡らしてポタポタと床に落ちた。
 雅はバッグから財布を取り出して、テーブルの上に一万円を置くと「クリーニング代」とだけ言って店から出て行ってしまう。
 店員さんがおしぼりを持って駆け付けてくれたけれど、私は雅が出て行った店の入り口を眺めていた。
 前髪の先から、ポタリポタリとビールの雫が落ちる。
 なんだかその雫がやけにきれいに見えた。
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