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season5-2:ライバル(viewpoint輝美)
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「何やってるの?」
ここは無視しておいた方が厄介ごとに巻き込まれないで済む。そう考えるよりも早く私の口から言葉がこぼれてしまっていた。
私の声にピクリと体を震わせた満月はゆっくりと私を見上げて、目をパチパチとしばたかせる。完全に呆けている顔だ。
「あ、輝美ちゃんだ。あれ? どうしたの? 今日ってバイト休みだって言ってなかったけ?」
満月は至って普通に私に尋ねた。これが単に居酒屋で偶然顔を合わせた、という状況だったならば私だってこんな風に顔を歪めたりはしない。
居酒屋の椅子に座っている満月は、なぜか頭からずぶ濡れになっているのだ。しかも全身からプンプンとお酒の匂いを漂わせている。
空のジョッキから察するに、頭からビールを浴びたのだろう。
満月は呆けた顔のまま、私の返事を待つようにじっと私を見上げていた。もしかして、ビールを浴びていることにも気付いていないんじゃないの? と思うような落ち着きぶりだ。それが気持ち悪い。
私はチラリと店長に目をやった。すると両手を広げて「さぁ」という表情をして肩をすくめる。周囲のお客様も何が起こったのか気になる様子で、チラチラと満月に視線を送っていた。
私はフウと小さく息を付いて満月の腕を引く。
「こっちに来て」
満月は特に抵抗も見せずにスッと立ち上がって促されるままに私の後に続いた。
もう一度店長に視線を送ると小さく頷いてくれたので、私はそのまま満月をバックヤードにある休憩スペースに向かった。
「ねぇ、輝美ちゃん、どうしたの?」
私の後につづく満月が小さな声で尋ねる。私は「どうしたのって、それはこっちのセリフだつーの!」と大声で叫びたい気持ちをグッと堪えて足早にバックヤードに引っ張っていく。今日はバイトの日ではないけれど、私の顔を知っているお客様はたくさんいる。そこで大声を上げてツッコミを入れるなんて元バイトリーダーの私ができるはずもない。
やっとバックヤードに満月を放り込んで椅子に座らせたとき、店長がヒョイっと顔を覗か出て「輝美ちゃん、これ」と言ってタオルを渡してくれた。
お店の備品のタオルではないので、店長の私物なのだと思う。一瞬、断ろうかとも思ったが、私が使うわけではないから「ありがとうございます」と受け取って、そのまま満月の頭に被せた。
「え? ああ、そっか……ありがとう」
満月やようやく状況を理解したようにポツリという。
しばらく濡れた髪や洋服を大人しくふいていた満月は、ふと手を止めて私を見上げた。
「それで、輝美ちゃんはどうしてここにいるの?」
私は腕組みをした仁王立ちの状態で満月を見下ろす。
私が休みのはずのバイト先に来ていることは、満月が頭からビールを浴びていることよりも重要なことだろうか。頭のネジがビールに溶かされたとしか思えない。
「今日、バイトはお休みだって言ってなかったっけ?」
答えない私に満月がさらに問いかけた。
「私が休みの隙に、あんたが抜け駆けして陽さんとご飯を食べてるんじゃないかと思って」
理由を口に出してみると、自分がとても小さい人間のように思えてくる。
「矢沢さんは草吹主任のお店に行ったって教えたじゃない」
「それが嘘だとまで疑ったわけじゃないけど、その後一緒に食事に行くかもしれないでしょう」
「ああ、なるほど……でも、抜け駆けしてもいいはずだったよね?」
「抜け駆けしてもいいけど、抜け駆けの阻止をしちゃダメだとは言ってないでしょう」
「そっか! 輝美ちゃん、頭いいね~」
満月はヘラヘラと笑いながら言った。なんだか妙に苛立つ笑顔だ。何を考えているのかさっぱりわからないけれど、本当に何も考えていないだけなのかもしれない。
「私のことより、あんたは何してるよの。優勝でもしたの?」
「優勝? してないけど?」
キョトンとした顔で満月に返事をされて、少し頬が赤くなってしまった。意味が通じなかったようだ。ビール掛けといえば優勝イベントだと思っていたのだけれど、これは一般的ではないのだろうか。
「それじゃあ、どうしてビールなんて浴びてるのよ。それ、雅がやったんでしょう? 新しい遊びなの?」
遊びでないことくらいわかっている。いくら悪趣味で性格の悪い雅だといっても、居酒屋で友人にビールを掛ける遊びなんてしないだろう。
それに店に入る前に怖い顔をした雅とすれ違った。雅は私に気付くことなく歩き去ったから何も話は聞いていないけれど、その様子だけでもいつもと違う何かが起こっていることは察しがついた。
そうして店内に入ったらずぶ濡れの満月がいたのだ。二人の間に何かのトラブルが起こったのは間違いないだろう。
私はそこそこ短気だと思うけれど、怒って誰かにビールをぶっかけたことはない。一体どんなトラブルがおきたらこんなことになるのだろう。
ところが相変わらず満月はのほほんとした顔のまま「遊びじゃないよ」と言った。
「それくらいわかってるっつーの」
「そうなんだ」
「どうしてそんなことになったのかって聞いてるの」
「どうして? ……どうしてだろう……」
そうして満月は俯くと黙り込んでしまった。話したくないことなのか、本当に理由がわからないのか、気にならないかと言えばウソになるが、満月と雅の仲がどうなろうと私には関係ないことだ。これ以上関わり合うのは止めよう。
「まぁいいや。それよりどうするの?」
「え? 何が?」
「いくらタオルで拭いてもめちゃくちゃビール臭いよ。ここから電車で帰るんでしょう」
「あ、そうか……でも、まぁ、しょうがないよ」
「あんたがしょうがないって言っても、迷惑なの周りの人でしょう」
「そっか……じゃあ、歩いて帰ろうかな」
満月とはまともに話したことはほとんどない。いつもは雅や日和がいるし、陽さんと付き合うことになった日も、満月とは業務連絡的な話しかしなかった。
それでもいつもとは様子が違うような気がする。モスコミュールばかり飲んでいる女だし、あの雅と友だちだという変人だけど、以前陽さんと二人で飲んでいるのを見掛けたときは、もう少ししっかりしていたような気がする。
するとこの呆けた感じは雅とのいざこざが原因なのかもしれない。
私は、深く深くため息をついた。
満月の住んでいる場所は、いつだったかの雑談でチラリと聞いて知っている。正確な距離はわからないが、十キロ近くあると思う。
昼間だったら気にもしないけれど、夜も更けたこの時間に、一応女である満月を、しかも呆けた状態で歩いて帰らせるのはさすがに心配だ。
満月のことは好きか嫌いかでいえば、恋敵だから嫌いの部類に入るのだけど、それと心配するのは別の話だと思う。
私はしばし目を閉じて考えを巡らせた。
ビール臭いとわかっていて、電車に乗って帰るのに目をつぶる。周囲の人は大迷惑だろうが、私はその場にないから関係ない。
そもそもビールをかけた本人が責任を取るべきだろうから、雅の家に放り込む。多分修羅場になるだろうけど私には関係ない。
陽さんの家も近いけれど、陽さんの家に助けを求めるのは絶対に許せない。
歩いて帰ると言っているのだから、何時間かけてでも勝手に歩いて帰ってもらう。何かあっても自己責任だし、私には関係ない。
タクシーで帰らせる。運賃は結構かかるだろうし、密室でこのビール臭を我慢することになる運転手さんは気の毒だけれど、私には関係ない。
なるほど、満月がどんな選択をしようと、結局私には関係ないのだ。陽さんの家にさえ行かなければ、私があれこれ考える必要などないような気がしてきた。
満月を見ると、まだ頭にタオルをかけたままぼんやりとしている。
「あー、もうっ!」
私が大きな声を上げると、満月はビクッとして私を見上げた。
「しょうがないから家でシャワーを浴びさせてあげるわよ」
「え?」
「仕方ないでしょう」
そう、嫌々だけど仕方がない。いくら関係ないと言っても、何かあったら後味が悪いことこの上ないのは目に見えている。
我が家はここの一駅隣にある。歩くのが面倒だから電車を使ってしまうけれど、真っすぐ家まで歩けば十五分もかからない。あらゆる選択肢の中で一番真っ当なものを選んだまでだ。
「え、でも、迷惑でしょう」
「迷惑だよ! だけど他のどれを選んでも迷惑なんだから仕方ないって言ってるの」
「あ、うん、ごめん」
満月は申し訳なさそうに眉尻を下げてうなだれた。どうにも張り合いがない。
「はい、じゃあ立って」
私は満月を立ち上がらせると腕を引っ張ってバックヤードを出た。
店長から借りたタオルをどうしようかと思っていると「まだ服が濡れてるし、そのタオルはあげるからそのまま使って」と言ってくれた。
私は店長にお礼を言って店を出る。よく考えたら私がお礼を言う意味がよく分からなかったけれど、呆けている満月は役に立たないから仕方がない。
私の後ろをトボトボとついてくる満月の様子を気に掛けながら、無言で十五分の距離を歩いた。夜になると気温が急激に冷え込むから汗をかくようなことはなかったけれど無駄に疲れてしまった。
なにより陽さんよりも先に満月を我が家に入れることになったのが悔しい。
とはいえ、私は実家暮らしだからノーカウントにしよう。一人暮らしをはじめたら、そのときは一番に陽さんを招待しようと心に決める。
「立派なお宅だねぇ」
家の前まで来ると満月が立ち止まってつぶやいた。一戸建てで小さいけれど庭がある。すごく広い豪邸というわけではないけれど、家族三人が暮らすには十分な広さがある。
「そうでしょう」
私は特に謙遜をすることもなく答えた。両親がこの家を建てたのは私が中学に入学する直前だ。私にとっては自慢の我が家だった。それに両親が仕事をがんばって建てた家のことを「そんなことないよ」なんていうと、両親のことをそう言っているような気持ちになる。
共働きだから両親と一緒に過ごす時間は少なかった。それでも愛情が少ないとは思わない。この家こそが両親が送ってくれた愛情のカタチだとも思っている。
いつか一人暮らしをしたいと思っているのに、なかなか実行に移せないのは、この家に愛着があるからかもしれない。
私はバッグから玄関の鍵を取り出してドアを開けた。廊下には明かりが灯っている。
「お、おじゃまします……」
満月は少しビクビクした様子で玄関に足を踏み入れた。そしてそのまま立ち止まってしまう。
「何してるの、さっさと上がりなさいよ」
「あ、いや、先にご両親にご挨拶を……」
緊張した面持ちで満月が言う。
「母親は夜勤だから不在。父親は少し前から海外出張中。誰もいないから気にしないで」
「でも電気が……」
「時間になったら勝手に付くようになってるの」
「そっか、誰もいないのか……」
「だ、誰もいないからって、別にそういう意味じゃないからね!」
「え? そういう意味って?」
慌てて言った私の顔を、満月は小首をかしげてみる。なんだか付き合いたてのカップルみたいなことを言ってしまった。満月が気付いていないところが余計に恥ずかしさを増長させる。
「なんでもないっ! ともかくさっさとシャワー浴びてよ。ビール臭いんだから!」
妙な照れ臭さを隠して私が叫ぶと、満月は「はい」と小学生のような返事をしてようやくパンプスを脱いだ。
満月を浴室に案内すると、私は二階にある自室に行き、満月が切られそうな服をみつくろった。
高校時代の体操服がまだクローゼットの奥に残っていたから、一瞬それを着せてやろうかと思ったけれどやめておいた。万が一、マニアックな趣味を持っていると思われたら嫌だし、それが陽さんに伝わってしまったら最悪だ。
無難なルームウエアを持って浴室に行き、一応軽くノックをしてから脱衣所に入る。洗い場からシャワーの音が聞こえてくる。
「着替え、ここに置いておくからね」
満月に聞こえるように大きな声で言うと「ありがとう」とシャワーの音の隙間から満月の声が届いた。
だからついつい声がした方向に視線を移してしまう。半透明のガラスから肌色のシルエットが見えた。
満月には興味がないはずなのに、シャワーの音と反響する声、そしてシルエットというコンボはなかなかの威力があって、ついドキドキしてしまう。
私はブンブンと首を振り、満月が脱いだ洋服を洗濯機に放り込んでスイッチを入れた。
「あれ? 洗濯してくれてるの? ごめんね、ありがとう」
「そのまま着たらまたビール臭くなるでしょう!」
満月の声につられた、再び肌色のシルエットがチラリと視界に入ってしまって、私は慌てて顔を背けながら叫ぶとすぐに脱衣所を出た。
しばらくすると満月がバスタオルで髪を拭きながらリビングに現れた。私はドライヤーを渡して入れ違いで浴室に向かう。
私は服を脱ぎ捨てて飛び込むように洗い場に入るとシャワーを頭から浴びた。
「なんだアレ……」
思わず声が漏れる。
浴室で見たシルエットの影響なのか、私が貸した部屋着姿の満月がなんだかいつもと違って見えてしまった。
多分、見慣れていない雰囲気にびっくりして過剰反応してしまっただけだ。落ち着けば元通り満月には苛立ちしか感じないはずである。
そういえば陽さんへの片想いをはじめてから、そういったシチュエーションと疎遠になっている。だから脳が驚いて誤作動しているのだ。
私が好きなのは陽さんだ。
そうだ陽さんで同じ場面を想像してみよう。
何らかの理由で陽さんを我が家に招き、シャワーを浴びている陽さんのために着替えを用意する。陽さんに声を掛けると緊張したような陽さんの声が浴室に反響して、そこには肌色のシルエットが……。
ヤバい、鼻血が出そう。
やっぱり実際の満月よりも、想像の陽さんの方が興奮する。大丈夫、正常運転に戻った。
冷静さを取り戻した私は浴室から出てリビングに戻る。
すると満月がソファーから立ち上がって私を見た。髪もすっかり乾いているし、私の気持ちは落ち着いている。やはりさっきのアレはちょっとした勘違いだったようだ。
「本当に色々ありがとう」
「あんなところに出くわしちゃったから仕方ないでしょう……」
そうだ。仕方ないから満月に親切にしたのであって、それ以上でもそれ以下でもない。満月はライバルなのだ。
私は満月からドライヤーを受け取って髪を乾かしはじめる。なぜか突っ立ったまま私を見ている満月に「座れば」と声を掛けた。
「あ、あのね、私の服なんだけど……」
満月がドライヤーの音を気にしてか、少し大きめの声で言う。
「ああ、もう少ししたら洗い終わるから、それから乾燥機に掛けて……」
「うん、そうだよね」
「何よ」
「えっと……終電の時間が……」
そう言われて気が付いた。世の中には終電というタイムリミットがある。
時計を見ると今から走っても終電には間に合わないという時間だった。
「あー、ふぅ、今日は泊まっていけば」
「あ、えっと……ごめん、ありがとう」
家に招くだけでなく泊めることになってしまうとは、何ということだろう。一人暮らしをはじめたら、陽さんには一番に泊ってもらうことに……と、そこまで考えて頭を振る。先ほどの妄想が頭をよぎってしまった。
満月と二人きりの状況でそういうことを想像してしまうと、また脳が誤作動してしまうかもしれない。
「はぁ」
私はドライヤーを切ってわかりやすくため息をついてみせた。
「本当にごめんなさい」
「今日は妙にしおらしいじゃない。まぁ、仕方ないでしょう。そのかわり、今度奢りなさいよ。あと、店にも迷惑をかけたんだから、ちゃんと謝りに行ってね」
「うん。もちろん」
そう言うと満月はようやく笑みを浮かべた。
さて、問題はどこに寝てもらうかだ。両親の部屋は空いているけれど、さすがにそこに寝かせるわけにはいかない。リビングのソファーで寝てもらってもいいのだけど、母親の帰宅時間によっては説明をする前に鉢合わせして、母親をびっくりさせてしまうだろう。残念ながら我が家に客間はない。
そうすると消去法で私の部屋で寝てもらうことになる。確か来客用の布団が両親の部屋の押し入れにあったはずだ。もしかしたら少々カビ臭いかもしれないけれど、満月だからいいだろう。これが陽さんなら「私のベッドで一緒に寝ましょうか」なんて言ってみるところだけど、それはそれで緊張するから、陽さんをベッドで寝かせて私は布団で寝ることになるだろうか。
「じゃあちょっと部屋を片付けてくるからここで待ってて」
「あ、私、ソファーで寝かせてもらえばいいよ」
「そうして欲しいのはやまやまだけど、母親が帰ってきて鉢合わせた面倒だから」
「あ、そっか……」
満月はマヌケな顔で答える。こうして改めて見ると、やっぱり満月はマヌケ顔だなとしか思えない。やっぱりさっきのアレは気の迷いだったようだ。
欲求不満なのかもしれない。
マヌケ顔の満月をとりあえずリビングに放置して、私は一旦、二階にある自室に入る。そこらに積み上げている教科書やら就活用のテキストやら書きかけのエントリーシートやらをざっとまとめてデスクの端に積み上げて布団を敷く場所を確保した。
そして両親の部屋の押し入れから来客用の布団を運んできて自室に敷いた。
なんで私がこんなことをしなくちゃいけないのか、無性に腹立たしくなってきたけれど、今更どうしようもない。とりあえず満月が今夜使う枕を思いっきりチョップして腹立たしさを解消しておいた。
リビングに戻るころには洗濯も終了していたので、乾燥機は止めて浴室乾燥を利用することにした。
私の部屋に移動してすると、満月はもう何度目かもわからない感謝の言葉を口にする。
「本当にありがとうね。輝美ちゃんってちょっと言葉はキツイけどやさしいんだね」
「めちゃくちゃ不本意なんだけどね」
「あはあ、そっかぁ」
苦笑いを浮かべて立ち尽くす満月を無視して私はさっさとベッドにもぐりこんだ。それを見た満月も遠慮気味に布団に横になる。
電気を消して目を閉じたのだけど、満月が「そういえば」と話掛けてきた。
「輝美ちゃん、就活はどうなの?」
よりによって嫌な話題を振られてしまった。さすがに私も焦っていた。手あたり次第に面接を申し込んでいるけれど、書類選考で落とされるのが半分、残りの半分は面接で落とされる。つまりまだひとつも内定だか内々定だかがもらえていない状態なのだ。
やはり嘘しか書いていないエントリーシートや嘘しかつかない面接は見抜かれるのだろうか。だけど名前すら知らなかった会社の志望動機なんてあるはずがない。
今度は思い切って「御社の名前も何をやってるのかも知らないけど、とりあえず働きたかったからです」とか言ってみようか。
「難しい感じ?」
私が無言なのを返事だととらえたのか、満月が小さな声で聞く。
「まぁね」
「就活、大変だよね。私もなかなか決まらなくてさ」
「マヌケ顔のあんたが採用されるのに私が落ちる理由がわからない」
「結構ズバズバ言うね。でも本当だよね。私より輝美ちゃんの方がずっとしっかりしてるのにね」
「あんた、私より年上なんだから、もうちょっとしっかりした方がいいんじゃないの?」
こうして暗い部屋の中で話をしていると、修学旅行みたいでちょっとだけワクワクする。
中学の修学旅行のときは、彼女と同じ部屋割りになって、遅い時間まで二人でコソコソと話していたっけ。
「その通りすぎて返す言葉もないよ。あ、輝美ちゃん、うちの会社にしたら? 私でも採用されたんだから、大丈夫なんじゃないかな?」
どうやら満月はかなり自己評価が低いようだ。それが打倒な評価なのかどうか判断できるほど私は満月を知らない。特に知りたいとも思わないけれど……。
「陽さんと一緒の会社っていうのは魅力的だなぁ」
「そうだよ、そうしたら矢沢さんと輝美ちゃんと日和さんと私と四人でランチに行こうよ。あ、砂川さんっていうちょっと変わった人もいるし、用賀さんは怖いけどいい人だよ」
「あんたと日和がいるのはマイナスポイントだよね」
「ひどいなぁ」
「あんたはマヌケ顔だし、日和は変人だし……。っていうか、雅も変人だから、変人の周りには変人が集まるんだね。怖い。近寄りたくない」
「日和さんも雅も変人じゃないよ」
「雅にビールぶっかけられた人が良く言うわ」
「あー、ちょっとそれはビックリしたけど……多分、私が何か悪かったんだよ」
「どうしてなのかわかってないの?」
「んー、どうだろう……。あんなに怒った理由はよくわからないかな」
「あんた、マヌケだもんね」
「そうだね」
「いい機会だから雅から離れたら。少しはまともな人間になれるかもしれないよ」
「辛口だねぇ。だけど雅とはこれからも友だちでいたいな」
「マゾなの?」
「違うよ。雅は良いヤツだもん」
「どこが?」
「そりゃ、口は悪いし、いっつも対応が冷たいし、相談しても適当な答えしかくれないし……あれ、いいところがないな?」
「でしょう」
「だけど、ずっと私の友だちでいてくれたから」
「何それ」
私は思わず満月の方を見た。薄暗い部屋に目が慣れてきて、天井を見上げる満月の横顔がうっすらと見える。
「雅はどんなに私のやることに呆れても、馬鹿だって言っても、絶対に離れずにいてくれるんだ」
「それは……」
あんたのことが好きだったからでしょう。と言いかけてやめた。雅は日和と付き合っているし、この様子だと満月は雅の気持ちには全く気付いていないのだろう。
だけどそれほど仲良くしていて、本当に雅の気持ちに気付かなかったのだろうか。
「そんなに雅と一緒にいたいのなら、雅と付き合えばよかったんじゃない。雅のことを好きになったりしなかったわけ? まったくそういうのを感じてないの? っていうか、あんた実は雅のことを好きだったんじゃないの?」
言っている間に本当にそんな気がしてきた。きっと雅は満月を好きだということを隠してきたのだろう。そして満月も同じように雅を好きだということを隠してきた。それでお互いに気持ちを確認しあったらどうなるだろう。答えは簡単だ。陽さんを巡るライバルがいなくなる。
雅と日和と満月で修羅場になるかもしれないけれど、変人同士が対立しても私には痛くもかゆくもない。
満月の返事を待っているのだが、なかなか返事が返ってこない。もしかして思い当たることがあって、答えに窮しているのだろうか。
私は少々の期待を込めて、満月の横顔に目を凝らした。
そして満月が穏やかな顔でスース―と寝息を立ているのが見える。
思わずその顔を足で踏んづけてやろうと思ったけれど、グッと堪えて布団を被った。
翌朝、いつもより早く目が覚めた。満月が隣に寝ていたから落ち着かなかったのかもしれない。
母親が帰ってくるまでにはまだ時間がある。
私は惰眠をむさぼっている満月をたたき起こした。
さすがに朝食までは用意してやらない。そこまでやるのはやり過ぎた。
満月はすっかり乾いた自前の服に着替えて玄関に立つ。
「本当にありがとうね」
「もう二度とこんなことはごめんだから」
「うん」
昨夜の呆けた顔よりは随分ましになっているようだ。
「あのね、輝美ちゃん」
満月が私の顔を見て真顔になった。
「雅のことは好きだけど、それは友だちとしてだよ」
一瞬何の話をしているのかわからなかったけれど、昨夜の会話を思い出した。どうやら昨夜は狸寝入りをしていたようだ。
でもそれならば、なぜすぐにこのシンプルな返事をせずに寝たふりをしていたのだろう。
私が何も答えずにいると満月は続けた。
「そう言う意味では輝美ちゃんのことも好きだよ」
真っすぐに私の目を見て言った満月の言葉に思わず照れてしまう。それを隠すように私はそっぽを向いた。
「私は好きじゃないけどね」
「あはは、そうだよね~」
「一体何なのよ」
「ひとつ聞きたいんだけど、矢沢さんのこと、このままでいいと思う?」
どうやらこっちの話の方が本題のようだ。
「いいはずないじゃない。陽さんは私ひとりと付き合うべきだもん」
「輝美ちゃんらしい答えだね。でもそうじゃなくてさ……。矢沢さんは『好き』がわからないって言ってたでしょう。そういう矢沢さんに好きになってもらおうっていうのは、私たちのエゴじゃないのかな?」
確かにあの提案は私のわがままだ。これまで通りでいいと言いながら、陽さんに仮初であっても恋人になることを強いている。
それでもそうしなければ何も動かないような気がしたのだ。
「別にいいんじゃないの」
「どうして?」
「陽さんがどう思っていようと、私が陽さんを好きな気持ちは変わらないし、少しでも可能性があれば私はそれを引き寄せたい」
「それってやっぱりエゴなんじゃない?」
「恋愛なんて、多かれ少なかれエゴなんじゃないの?」
「でも、それで矢沢さんが苦しむかもしれないんだよ」
「たとえそうであっても……陽さんの気持ちは陽さんが何とかするしかないものでしょう」
「そうだけど……」
「それに苦しいのは陽さんだけじゃないよ。私だって苦しい。だから何とかしようと頑張ってるんだよ。もしも、陽さんが本当に嫌だっていうなら諦めるけど、それまでは絶対に諦めない」
満月は目を丸くして私を見つめたあと、やわらかな笑みを浮かべた。
「やっぱり輝美ちゃんはすごいね」
「何、それ。あんたがマヌケなだけじゃないの?」
「そうかも。ありがとうね」
そう言って再度笑みを浮かべた満月の顔は、胸の奥のつかえがとれたかのようにすっきりとしていた。
「それじゃ、私帰るね。今度ごはん奢るから」
満月はそう言って家を出て行った。
満月が雅と喧嘩をしたのも、ずっと呆けていたのも、陽さんのことが原因なのだろうか。そうだとするならば、さっきのすっきりした笑顔にどんな意味があるのだろう。
もしかして私は、敵に塩を送ってしまったのだろうか。
ここは無視しておいた方が厄介ごとに巻き込まれないで済む。そう考えるよりも早く私の口から言葉がこぼれてしまっていた。
私の声にピクリと体を震わせた満月はゆっくりと私を見上げて、目をパチパチとしばたかせる。完全に呆けている顔だ。
「あ、輝美ちゃんだ。あれ? どうしたの? 今日ってバイト休みだって言ってなかったけ?」
満月は至って普通に私に尋ねた。これが単に居酒屋で偶然顔を合わせた、という状況だったならば私だってこんな風に顔を歪めたりはしない。
居酒屋の椅子に座っている満月は、なぜか頭からずぶ濡れになっているのだ。しかも全身からプンプンとお酒の匂いを漂わせている。
空のジョッキから察するに、頭からビールを浴びたのだろう。
満月は呆けた顔のまま、私の返事を待つようにじっと私を見上げていた。もしかして、ビールを浴びていることにも気付いていないんじゃないの? と思うような落ち着きぶりだ。それが気持ち悪い。
私はチラリと店長に目をやった。すると両手を広げて「さぁ」という表情をして肩をすくめる。周囲のお客様も何が起こったのか気になる様子で、チラチラと満月に視線を送っていた。
私はフウと小さく息を付いて満月の腕を引く。
「こっちに来て」
満月は特に抵抗も見せずにスッと立ち上がって促されるままに私の後に続いた。
もう一度店長に視線を送ると小さく頷いてくれたので、私はそのまま満月をバックヤードにある休憩スペースに向かった。
「ねぇ、輝美ちゃん、どうしたの?」
私の後につづく満月が小さな声で尋ねる。私は「どうしたのって、それはこっちのセリフだつーの!」と大声で叫びたい気持ちをグッと堪えて足早にバックヤードに引っ張っていく。今日はバイトの日ではないけれど、私の顔を知っているお客様はたくさんいる。そこで大声を上げてツッコミを入れるなんて元バイトリーダーの私ができるはずもない。
やっとバックヤードに満月を放り込んで椅子に座らせたとき、店長がヒョイっと顔を覗か出て「輝美ちゃん、これ」と言ってタオルを渡してくれた。
お店の備品のタオルではないので、店長の私物なのだと思う。一瞬、断ろうかとも思ったが、私が使うわけではないから「ありがとうございます」と受け取って、そのまま満月の頭に被せた。
「え? ああ、そっか……ありがとう」
満月やようやく状況を理解したようにポツリという。
しばらく濡れた髪や洋服を大人しくふいていた満月は、ふと手を止めて私を見上げた。
「それで、輝美ちゃんはどうしてここにいるの?」
私は腕組みをした仁王立ちの状態で満月を見下ろす。
私が休みのはずのバイト先に来ていることは、満月が頭からビールを浴びていることよりも重要なことだろうか。頭のネジがビールに溶かされたとしか思えない。
「今日、バイトはお休みだって言ってなかったっけ?」
答えない私に満月がさらに問いかけた。
「私が休みの隙に、あんたが抜け駆けして陽さんとご飯を食べてるんじゃないかと思って」
理由を口に出してみると、自分がとても小さい人間のように思えてくる。
「矢沢さんは草吹主任のお店に行ったって教えたじゃない」
「それが嘘だとまで疑ったわけじゃないけど、その後一緒に食事に行くかもしれないでしょう」
「ああ、なるほど……でも、抜け駆けしてもいいはずだったよね?」
「抜け駆けしてもいいけど、抜け駆けの阻止をしちゃダメだとは言ってないでしょう」
「そっか! 輝美ちゃん、頭いいね~」
満月はヘラヘラと笑いながら言った。なんだか妙に苛立つ笑顔だ。何を考えているのかさっぱりわからないけれど、本当に何も考えていないだけなのかもしれない。
「私のことより、あんたは何してるよの。優勝でもしたの?」
「優勝? してないけど?」
キョトンとした顔で満月に返事をされて、少し頬が赤くなってしまった。意味が通じなかったようだ。ビール掛けといえば優勝イベントだと思っていたのだけれど、これは一般的ではないのだろうか。
「それじゃあ、どうしてビールなんて浴びてるのよ。それ、雅がやったんでしょう? 新しい遊びなの?」
遊びでないことくらいわかっている。いくら悪趣味で性格の悪い雅だといっても、居酒屋で友人にビールを掛ける遊びなんてしないだろう。
それに店に入る前に怖い顔をした雅とすれ違った。雅は私に気付くことなく歩き去ったから何も話は聞いていないけれど、その様子だけでもいつもと違う何かが起こっていることは察しがついた。
そうして店内に入ったらずぶ濡れの満月がいたのだ。二人の間に何かのトラブルが起こったのは間違いないだろう。
私はそこそこ短気だと思うけれど、怒って誰かにビールをぶっかけたことはない。一体どんなトラブルがおきたらこんなことになるのだろう。
ところが相変わらず満月はのほほんとした顔のまま「遊びじゃないよ」と言った。
「それくらいわかってるっつーの」
「そうなんだ」
「どうしてそんなことになったのかって聞いてるの」
「どうして? ……どうしてだろう……」
そうして満月は俯くと黙り込んでしまった。話したくないことなのか、本当に理由がわからないのか、気にならないかと言えばウソになるが、満月と雅の仲がどうなろうと私には関係ないことだ。これ以上関わり合うのは止めよう。
「まぁいいや。それよりどうするの?」
「え? 何が?」
「いくらタオルで拭いてもめちゃくちゃビール臭いよ。ここから電車で帰るんでしょう」
「あ、そうか……でも、まぁ、しょうがないよ」
「あんたがしょうがないって言っても、迷惑なの周りの人でしょう」
「そっか……じゃあ、歩いて帰ろうかな」
満月とはまともに話したことはほとんどない。いつもは雅や日和がいるし、陽さんと付き合うことになった日も、満月とは業務連絡的な話しかしなかった。
それでもいつもとは様子が違うような気がする。モスコミュールばかり飲んでいる女だし、あの雅と友だちだという変人だけど、以前陽さんと二人で飲んでいるのを見掛けたときは、もう少ししっかりしていたような気がする。
するとこの呆けた感じは雅とのいざこざが原因なのかもしれない。
私は、深く深くため息をついた。
満月の住んでいる場所は、いつだったかの雑談でチラリと聞いて知っている。正確な距離はわからないが、十キロ近くあると思う。
昼間だったら気にもしないけれど、夜も更けたこの時間に、一応女である満月を、しかも呆けた状態で歩いて帰らせるのはさすがに心配だ。
満月のことは好きか嫌いかでいえば、恋敵だから嫌いの部類に入るのだけど、それと心配するのは別の話だと思う。
私はしばし目を閉じて考えを巡らせた。
ビール臭いとわかっていて、電車に乗って帰るのに目をつぶる。周囲の人は大迷惑だろうが、私はその場にないから関係ない。
そもそもビールをかけた本人が責任を取るべきだろうから、雅の家に放り込む。多分修羅場になるだろうけど私には関係ない。
陽さんの家も近いけれど、陽さんの家に助けを求めるのは絶対に許せない。
歩いて帰ると言っているのだから、何時間かけてでも勝手に歩いて帰ってもらう。何かあっても自己責任だし、私には関係ない。
タクシーで帰らせる。運賃は結構かかるだろうし、密室でこのビール臭を我慢することになる運転手さんは気の毒だけれど、私には関係ない。
なるほど、満月がどんな選択をしようと、結局私には関係ないのだ。陽さんの家にさえ行かなければ、私があれこれ考える必要などないような気がしてきた。
満月を見ると、まだ頭にタオルをかけたままぼんやりとしている。
「あー、もうっ!」
私が大きな声を上げると、満月はビクッとして私を見上げた。
「しょうがないから家でシャワーを浴びさせてあげるわよ」
「え?」
「仕方ないでしょう」
そう、嫌々だけど仕方がない。いくら関係ないと言っても、何かあったら後味が悪いことこの上ないのは目に見えている。
我が家はここの一駅隣にある。歩くのが面倒だから電車を使ってしまうけれど、真っすぐ家まで歩けば十五分もかからない。あらゆる選択肢の中で一番真っ当なものを選んだまでだ。
「え、でも、迷惑でしょう」
「迷惑だよ! だけど他のどれを選んでも迷惑なんだから仕方ないって言ってるの」
「あ、うん、ごめん」
満月は申し訳なさそうに眉尻を下げてうなだれた。どうにも張り合いがない。
「はい、じゃあ立って」
私は満月を立ち上がらせると腕を引っ張ってバックヤードを出た。
店長から借りたタオルをどうしようかと思っていると「まだ服が濡れてるし、そのタオルはあげるからそのまま使って」と言ってくれた。
私は店長にお礼を言って店を出る。よく考えたら私がお礼を言う意味がよく分からなかったけれど、呆けている満月は役に立たないから仕方がない。
私の後ろをトボトボとついてくる満月の様子を気に掛けながら、無言で十五分の距離を歩いた。夜になると気温が急激に冷え込むから汗をかくようなことはなかったけれど無駄に疲れてしまった。
なにより陽さんよりも先に満月を我が家に入れることになったのが悔しい。
とはいえ、私は実家暮らしだからノーカウントにしよう。一人暮らしをはじめたら、そのときは一番に陽さんを招待しようと心に決める。
「立派なお宅だねぇ」
家の前まで来ると満月が立ち止まってつぶやいた。一戸建てで小さいけれど庭がある。すごく広い豪邸というわけではないけれど、家族三人が暮らすには十分な広さがある。
「そうでしょう」
私は特に謙遜をすることもなく答えた。両親がこの家を建てたのは私が中学に入学する直前だ。私にとっては自慢の我が家だった。それに両親が仕事をがんばって建てた家のことを「そんなことないよ」なんていうと、両親のことをそう言っているような気持ちになる。
共働きだから両親と一緒に過ごす時間は少なかった。それでも愛情が少ないとは思わない。この家こそが両親が送ってくれた愛情のカタチだとも思っている。
いつか一人暮らしをしたいと思っているのに、なかなか実行に移せないのは、この家に愛着があるからかもしれない。
私はバッグから玄関の鍵を取り出してドアを開けた。廊下には明かりが灯っている。
「お、おじゃまします……」
満月は少しビクビクした様子で玄関に足を踏み入れた。そしてそのまま立ち止まってしまう。
「何してるの、さっさと上がりなさいよ」
「あ、いや、先にご両親にご挨拶を……」
緊張した面持ちで満月が言う。
「母親は夜勤だから不在。父親は少し前から海外出張中。誰もいないから気にしないで」
「でも電気が……」
「時間になったら勝手に付くようになってるの」
「そっか、誰もいないのか……」
「だ、誰もいないからって、別にそういう意味じゃないからね!」
「え? そういう意味って?」
慌てて言った私の顔を、満月は小首をかしげてみる。なんだか付き合いたてのカップルみたいなことを言ってしまった。満月が気付いていないところが余計に恥ずかしさを増長させる。
「なんでもないっ! ともかくさっさとシャワー浴びてよ。ビール臭いんだから!」
妙な照れ臭さを隠して私が叫ぶと、満月は「はい」と小学生のような返事をしてようやくパンプスを脱いだ。
満月を浴室に案内すると、私は二階にある自室に行き、満月が切られそうな服をみつくろった。
高校時代の体操服がまだクローゼットの奥に残っていたから、一瞬それを着せてやろうかと思ったけれどやめておいた。万が一、マニアックな趣味を持っていると思われたら嫌だし、それが陽さんに伝わってしまったら最悪だ。
無難なルームウエアを持って浴室に行き、一応軽くノックをしてから脱衣所に入る。洗い場からシャワーの音が聞こえてくる。
「着替え、ここに置いておくからね」
満月に聞こえるように大きな声で言うと「ありがとう」とシャワーの音の隙間から満月の声が届いた。
だからついつい声がした方向に視線を移してしまう。半透明のガラスから肌色のシルエットが見えた。
満月には興味がないはずなのに、シャワーの音と反響する声、そしてシルエットというコンボはなかなかの威力があって、ついドキドキしてしまう。
私はブンブンと首を振り、満月が脱いだ洋服を洗濯機に放り込んでスイッチを入れた。
「あれ? 洗濯してくれてるの? ごめんね、ありがとう」
「そのまま着たらまたビール臭くなるでしょう!」
満月の声につられた、再び肌色のシルエットがチラリと視界に入ってしまって、私は慌てて顔を背けながら叫ぶとすぐに脱衣所を出た。
しばらくすると満月がバスタオルで髪を拭きながらリビングに現れた。私はドライヤーを渡して入れ違いで浴室に向かう。
私は服を脱ぎ捨てて飛び込むように洗い場に入るとシャワーを頭から浴びた。
「なんだアレ……」
思わず声が漏れる。
浴室で見たシルエットの影響なのか、私が貸した部屋着姿の満月がなんだかいつもと違って見えてしまった。
多分、見慣れていない雰囲気にびっくりして過剰反応してしまっただけだ。落ち着けば元通り満月には苛立ちしか感じないはずである。
そういえば陽さんへの片想いをはじめてから、そういったシチュエーションと疎遠になっている。だから脳が驚いて誤作動しているのだ。
私が好きなのは陽さんだ。
そうだ陽さんで同じ場面を想像してみよう。
何らかの理由で陽さんを我が家に招き、シャワーを浴びている陽さんのために着替えを用意する。陽さんに声を掛けると緊張したような陽さんの声が浴室に反響して、そこには肌色のシルエットが……。
ヤバい、鼻血が出そう。
やっぱり実際の満月よりも、想像の陽さんの方が興奮する。大丈夫、正常運転に戻った。
冷静さを取り戻した私は浴室から出てリビングに戻る。
すると満月がソファーから立ち上がって私を見た。髪もすっかり乾いているし、私の気持ちは落ち着いている。やはりさっきのアレはちょっとした勘違いだったようだ。
「本当に色々ありがとう」
「あんなところに出くわしちゃったから仕方ないでしょう……」
そうだ。仕方ないから満月に親切にしたのであって、それ以上でもそれ以下でもない。満月はライバルなのだ。
私は満月からドライヤーを受け取って髪を乾かしはじめる。なぜか突っ立ったまま私を見ている満月に「座れば」と声を掛けた。
「あ、あのね、私の服なんだけど……」
満月がドライヤーの音を気にしてか、少し大きめの声で言う。
「ああ、もう少ししたら洗い終わるから、それから乾燥機に掛けて……」
「うん、そうだよね」
「何よ」
「えっと……終電の時間が……」
そう言われて気が付いた。世の中には終電というタイムリミットがある。
時計を見ると今から走っても終電には間に合わないという時間だった。
「あー、ふぅ、今日は泊まっていけば」
「あ、えっと……ごめん、ありがとう」
家に招くだけでなく泊めることになってしまうとは、何ということだろう。一人暮らしをはじめたら、陽さんには一番に泊ってもらうことに……と、そこまで考えて頭を振る。先ほどの妄想が頭をよぎってしまった。
満月と二人きりの状況でそういうことを想像してしまうと、また脳が誤作動してしまうかもしれない。
「はぁ」
私はドライヤーを切ってわかりやすくため息をついてみせた。
「本当にごめんなさい」
「今日は妙にしおらしいじゃない。まぁ、仕方ないでしょう。そのかわり、今度奢りなさいよ。あと、店にも迷惑をかけたんだから、ちゃんと謝りに行ってね」
「うん。もちろん」
そう言うと満月はようやく笑みを浮かべた。
さて、問題はどこに寝てもらうかだ。両親の部屋は空いているけれど、さすがにそこに寝かせるわけにはいかない。リビングのソファーで寝てもらってもいいのだけど、母親の帰宅時間によっては説明をする前に鉢合わせして、母親をびっくりさせてしまうだろう。残念ながら我が家に客間はない。
そうすると消去法で私の部屋で寝てもらうことになる。確か来客用の布団が両親の部屋の押し入れにあったはずだ。もしかしたら少々カビ臭いかもしれないけれど、満月だからいいだろう。これが陽さんなら「私のベッドで一緒に寝ましょうか」なんて言ってみるところだけど、それはそれで緊張するから、陽さんをベッドで寝かせて私は布団で寝ることになるだろうか。
「じゃあちょっと部屋を片付けてくるからここで待ってて」
「あ、私、ソファーで寝かせてもらえばいいよ」
「そうして欲しいのはやまやまだけど、母親が帰ってきて鉢合わせた面倒だから」
「あ、そっか……」
満月はマヌケな顔で答える。こうして改めて見ると、やっぱり満月はマヌケ顔だなとしか思えない。やっぱりさっきのアレは気の迷いだったようだ。
欲求不満なのかもしれない。
マヌケ顔の満月をとりあえずリビングに放置して、私は一旦、二階にある自室に入る。そこらに積み上げている教科書やら就活用のテキストやら書きかけのエントリーシートやらをざっとまとめてデスクの端に積み上げて布団を敷く場所を確保した。
そして両親の部屋の押し入れから来客用の布団を運んできて自室に敷いた。
なんで私がこんなことをしなくちゃいけないのか、無性に腹立たしくなってきたけれど、今更どうしようもない。とりあえず満月が今夜使う枕を思いっきりチョップして腹立たしさを解消しておいた。
リビングに戻るころには洗濯も終了していたので、乾燥機は止めて浴室乾燥を利用することにした。
私の部屋に移動してすると、満月はもう何度目かもわからない感謝の言葉を口にする。
「本当にありがとうね。輝美ちゃんってちょっと言葉はキツイけどやさしいんだね」
「めちゃくちゃ不本意なんだけどね」
「あはあ、そっかぁ」
苦笑いを浮かべて立ち尽くす満月を無視して私はさっさとベッドにもぐりこんだ。それを見た満月も遠慮気味に布団に横になる。
電気を消して目を閉じたのだけど、満月が「そういえば」と話掛けてきた。
「輝美ちゃん、就活はどうなの?」
よりによって嫌な話題を振られてしまった。さすがに私も焦っていた。手あたり次第に面接を申し込んでいるけれど、書類選考で落とされるのが半分、残りの半分は面接で落とされる。つまりまだひとつも内定だか内々定だかがもらえていない状態なのだ。
やはり嘘しか書いていないエントリーシートや嘘しかつかない面接は見抜かれるのだろうか。だけど名前すら知らなかった会社の志望動機なんてあるはずがない。
今度は思い切って「御社の名前も何をやってるのかも知らないけど、とりあえず働きたかったからです」とか言ってみようか。
「難しい感じ?」
私が無言なのを返事だととらえたのか、満月が小さな声で聞く。
「まぁね」
「就活、大変だよね。私もなかなか決まらなくてさ」
「マヌケ顔のあんたが採用されるのに私が落ちる理由がわからない」
「結構ズバズバ言うね。でも本当だよね。私より輝美ちゃんの方がずっとしっかりしてるのにね」
「あんた、私より年上なんだから、もうちょっとしっかりした方がいいんじゃないの?」
こうして暗い部屋の中で話をしていると、修学旅行みたいでちょっとだけワクワクする。
中学の修学旅行のときは、彼女と同じ部屋割りになって、遅い時間まで二人でコソコソと話していたっけ。
「その通りすぎて返す言葉もないよ。あ、輝美ちゃん、うちの会社にしたら? 私でも採用されたんだから、大丈夫なんじゃないかな?」
どうやら満月はかなり自己評価が低いようだ。それが打倒な評価なのかどうか判断できるほど私は満月を知らない。特に知りたいとも思わないけれど……。
「陽さんと一緒の会社っていうのは魅力的だなぁ」
「そうだよ、そうしたら矢沢さんと輝美ちゃんと日和さんと私と四人でランチに行こうよ。あ、砂川さんっていうちょっと変わった人もいるし、用賀さんは怖いけどいい人だよ」
「あんたと日和がいるのはマイナスポイントだよね」
「ひどいなぁ」
「あんたはマヌケ顔だし、日和は変人だし……。っていうか、雅も変人だから、変人の周りには変人が集まるんだね。怖い。近寄りたくない」
「日和さんも雅も変人じゃないよ」
「雅にビールぶっかけられた人が良く言うわ」
「あー、ちょっとそれはビックリしたけど……多分、私が何か悪かったんだよ」
「どうしてなのかわかってないの?」
「んー、どうだろう……。あんなに怒った理由はよくわからないかな」
「あんた、マヌケだもんね」
「そうだね」
「いい機会だから雅から離れたら。少しはまともな人間になれるかもしれないよ」
「辛口だねぇ。だけど雅とはこれからも友だちでいたいな」
「マゾなの?」
「違うよ。雅は良いヤツだもん」
「どこが?」
「そりゃ、口は悪いし、いっつも対応が冷たいし、相談しても適当な答えしかくれないし……あれ、いいところがないな?」
「でしょう」
「だけど、ずっと私の友だちでいてくれたから」
「何それ」
私は思わず満月の方を見た。薄暗い部屋に目が慣れてきて、天井を見上げる満月の横顔がうっすらと見える。
「雅はどんなに私のやることに呆れても、馬鹿だって言っても、絶対に離れずにいてくれるんだ」
「それは……」
あんたのことが好きだったからでしょう。と言いかけてやめた。雅は日和と付き合っているし、この様子だと満月は雅の気持ちには全く気付いていないのだろう。
だけどそれほど仲良くしていて、本当に雅の気持ちに気付かなかったのだろうか。
「そんなに雅と一緒にいたいのなら、雅と付き合えばよかったんじゃない。雅のことを好きになったりしなかったわけ? まったくそういうのを感じてないの? っていうか、あんた実は雅のことを好きだったんじゃないの?」
言っている間に本当にそんな気がしてきた。きっと雅は満月を好きだということを隠してきたのだろう。そして満月も同じように雅を好きだということを隠してきた。それでお互いに気持ちを確認しあったらどうなるだろう。答えは簡単だ。陽さんを巡るライバルがいなくなる。
雅と日和と満月で修羅場になるかもしれないけれど、変人同士が対立しても私には痛くもかゆくもない。
満月の返事を待っているのだが、なかなか返事が返ってこない。もしかして思い当たることがあって、答えに窮しているのだろうか。
私は少々の期待を込めて、満月の横顔に目を凝らした。
そして満月が穏やかな顔でスース―と寝息を立ているのが見える。
思わずその顔を足で踏んづけてやろうと思ったけれど、グッと堪えて布団を被った。
翌朝、いつもより早く目が覚めた。満月が隣に寝ていたから落ち着かなかったのかもしれない。
母親が帰ってくるまでにはまだ時間がある。
私は惰眠をむさぼっている満月をたたき起こした。
さすがに朝食までは用意してやらない。そこまでやるのはやり過ぎた。
満月はすっかり乾いた自前の服に着替えて玄関に立つ。
「本当にありがとうね」
「もう二度とこんなことはごめんだから」
「うん」
昨夜の呆けた顔よりは随分ましになっているようだ。
「あのね、輝美ちゃん」
満月が私の顔を見て真顔になった。
「雅のことは好きだけど、それは友だちとしてだよ」
一瞬何の話をしているのかわからなかったけれど、昨夜の会話を思い出した。どうやら昨夜は狸寝入りをしていたようだ。
でもそれならば、なぜすぐにこのシンプルな返事をせずに寝たふりをしていたのだろう。
私が何も答えずにいると満月は続けた。
「そう言う意味では輝美ちゃんのことも好きだよ」
真っすぐに私の目を見て言った満月の言葉に思わず照れてしまう。それを隠すように私はそっぽを向いた。
「私は好きじゃないけどね」
「あはは、そうだよね~」
「一体何なのよ」
「ひとつ聞きたいんだけど、矢沢さんのこと、このままでいいと思う?」
どうやらこっちの話の方が本題のようだ。
「いいはずないじゃない。陽さんは私ひとりと付き合うべきだもん」
「輝美ちゃんらしい答えだね。でもそうじゃなくてさ……。矢沢さんは『好き』がわからないって言ってたでしょう。そういう矢沢さんに好きになってもらおうっていうのは、私たちのエゴじゃないのかな?」
確かにあの提案は私のわがままだ。これまで通りでいいと言いながら、陽さんに仮初であっても恋人になることを強いている。
それでもそうしなければ何も動かないような気がしたのだ。
「別にいいんじゃないの」
「どうして?」
「陽さんがどう思っていようと、私が陽さんを好きな気持ちは変わらないし、少しでも可能性があれば私はそれを引き寄せたい」
「それってやっぱりエゴなんじゃない?」
「恋愛なんて、多かれ少なかれエゴなんじゃないの?」
「でも、それで矢沢さんが苦しむかもしれないんだよ」
「たとえそうであっても……陽さんの気持ちは陽さんが何とかするしかないものでしょう」
「そうだけど……」
「それに苦しいのは陽さんだけじゃないよ。私だって苦しい。だから何とかしようと頑張ってるんだよ。もしも、陽さんが本当に嫌だっていうなら諦めるけど、それまでは絶対に諦めない」
満月は目を丸くして私を見つめたあと、やわらかな笑みを浮かべた。
「やっぱり輝美ちゃんはすごいね」
「何、それ。あんたがマヌケなだけじゃないの?」
「そうかも。ありがとうね」
そう言って再度笑みを浮かべた満月の顔は、胸の奥のつかえがとれたかのようにすっきりとしていた。
「それじゃ、私帰るね。今度ごはん奢るから」
満月はそう言って家を出て行った。
満月が雅と喧嘩をしたのも、ずっと呆けていたのも、陽さんのことが原因なのだろうか。そうだとするならば、さっきのすっきりした笑顔にどんな意味があるのだろう。
もしかして私は、敵に塩を送ってしまったのだろうか。
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