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悠生ゆう

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season4-2:したたかな花(viewpoint紫雨子)

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「どうしましょう」
 私は会社の後輩たちが出て行ったお店のドアを見つめて言った。冷静さを装っているが内心はかなり慌てている。
「うーん」
 私と二人、店に残った彼女もぼんやりと扉を見つめていた。その表情に焦りの色は見えないが、元々焦ったり怒ったりする表情が分かりにくい性質を持っているから、見た目の印象だけでその心情を図ることはできない。
 先ほどまで会社の後輩である砂川さん、矢沢さん、錦さんそして野崎さんがこの店に来ていた。そして矢沢さんが突然店を飛び出し、他の三人も後を追うように店を去った。
「彼女たちが来ているなら連絡をください」
「どうして?」
「草吹主任と私が、その……付き合っていることがあの子たちに知られてしまったじゃありませんか」
「しゅうちゃん、ここ、会社じゃないよ」
「あ、ごめん。でもね、光恵さん」
 光恵さんは眉根を寄せて私を見た。
「別に知られてもいいでしょう?」
「光恵さんはいいかもしれないけど私が恥ずかしいの!」
 会社の子たちには知られたくなかった。光恵さんと一緒に勤めている間、私の役回りといえば光恵さんに小言を言うことだった。別にそれは演技をしていたわけではない。光恵さんはマイペースだし、社員たちは光恵さんに甘いから必然的に私がそうせざるを得なかっただけだ。だけど私と光恵さんが付き合っているとわかれば、それが茶番だったように見えてしまうのではないかと思う。
 勤めている間も光恵さんは付き合っていることを公表してしまっていいのではないかと言っていたけれど、社内恋愛は周囲が気を使うからなどと理由を付けてなんとか押し留めていた。
 会社を辞めた光恵さんにとっては、みんなには秘密にするという約束はもう解禁されたという認識なのだろう。
「しゅうちゃんは私のことが恥ずかしいの?」
 光恵さんの顔がみるみる曇っていく。
「あ、そ、そんなこと言ってない。違う。そうじゃなくて、その私が照れるというか。月曜からどんな顔をして会社に行けばいいのか」
 慌てて否定をすると、光恵さんはパッと笑みを浮かべた。どうやら演技だったらしい。私はがっくりとうなだれる。
「それならきっと大丈夫だよー」
 私とは違って光恵さんはかなり大らかだ。光恵さんのそんなところに苛立つこともあるけれど、同時にそこに惹かれて救われている。
「でも矢沢さんはかなりショックを受けちゃったみたいだよ。あの子、光恵さんのことが大好きだから」
「ショック? そうかなぁ?」
「光恵さんも見たでしょう、あの子の顔」
「陽ちゃん、別のことで何か悩んでたんじゃないかと思うの。毎日ここに来てくれてたけど、なんだか様子がおかしかったから」
「光恵さんから聞かなかったの?」
「考えてるのなら私があんまり口出ししちゃいけないかなと思って。陽ちゃんから言ってくれるのを待ってたんだけど……」
 そう言うと光恵さんは私に体を寄せる腕を絡ませて私の肩に頭を預けた。
「光恵さん?」
「もう先生でも上司でもないから話してくれないのかな?」
 私はそんな光恵さんを抱き寄せて背中を撫でる。
「そんなことないでしょう。あの子は光恵さんのことが大好きなんだよ。そうじゃなかったら毎日この店に来るはずがないじゃない。それでも自分で解決しようとがんばってたんじゃないの?」
「なんだかちょっと寂しいね」
 光恵さんがボソリと言う。
「寂しい?」
「陽ちゃんも大人になっちゃうんだなって」
「だけど光恵さんもそれを望んでたんでしょう?」
「私以外にも陽ちゃんを大切に思ってくれて、陽ちゃんが大切に思える人ができたらいいなって思ってるんだよ。でもやっぱりちょっと寂しいな……」
「子離れできない親みたいね」
「お姉さんって言ってよ。陽ちゃんはかわいいかわいい妹みたいなものなんだから」
 光恵さんは私から体を離して頬を膨らませた。私はその顔を見てクスッと笑う。
「はい、お姉さんだね。それでお姉さんはこれからどうするの? 矢沢さんを探しに行く?」
「うーん……。探しにはいかない。お店の片づけをする」
「いいの? 片付けなら私がやっておくよ?」
「野崎さんたちが追いかけてくれたみたいだから、私はクローゼットで待つことにする」
「じゃあ、二人で矢沢さんを待ちましょうか」
 そうして私はレジの集計をはじめ、光恵さんはテーブルの上に残さされているハーブティーの食器を運んで洗いはじめた。
 レジの中にある現金を数えて帳簿に印し、レジで出した集計と照らし合わせる。現金は店に残さず持ち帰るようにしているので、まとめて集金袋に入れてバックヤードにある光恵さんのバッグの中に入れた。
 毎回のことだけど集計はピッタリと合うのでそれほど時間はかからない。売上がまだそれほど多くないとか、カフェのメニューが少なく料金も複雑じゃないという理由もあるのだけれど、光恵さんは大雑把でぼんやりしているようでも、こうしたところはきっちりしている。
 光恵さんは洗い物を終えて花のコーナーに移動して、花の様子をチェックしていく。売り物にできない花をピックアップして、明日仕入れる花の量を決める作業だ。
 私は布巾と除菌スプレーを持って店内に戻りテーブルを拭いていく。
 みんながいるときに光恵さんが「私ひとりで大丈夫だって言うのに、しゅうちゃん信用してくれないの」と言ったことを思い出す。
 本当はレジの集計だって清掃だって光恵さん一人で問題なくできる。それでも「心配だから」なんて言って毎日店に来るのは、ただ私が光恵さんを手伝いたいというだけのことだ。
 光恵さんは矢沢さんが大人になるのが寂しいと言っていたけれど私も同じだ。光恵さんに「一人でできるから来なくていい」と言われてしまうのが寂しい。
 そんなことを考えながらテーブルを拭いていると、カランカランとドアベルが鳴った。店に入ってきたのは気まずそうな表情を浮かべた矢沢さんだった。
「陽ちゃん」
 光恵さんは即座に矢沢さんに駆け寄って、ギュッとその小さな体を抱きしめる。するとすぐに矢沢さんは苦しそうに光恵さんの肩をタップした。見慣れた光景に少しだけホッとした。
「光恵さん、そろそろ……」
 私もいつものように光恵さん肩に手を置いて言う。すると光恵さんはそっと矢沢さんを解放した。
「あ、あの……ごめんなさい」
 少し上がった息を整えて、矢沢さんが小さな声で言った。その姿は、いたずらがバレて謝っている少女のようだ。
「陽ちゃんは私に謝らなきゃいけないようなことはしていないでしょう?」
 光恵さんの声はやさしいが矢沢さんは俯いたままだ。それでも何か話したいことがあるのか、矢沢さんが少しモジモジとしているのがわかった。
「座ってゆっくり話したらどうですか?」
 私が言うと、光恵さんがすぐに「そうだね」と言って矢沢さんの手を引いてテーブルに誘った。
「何か飲み物もってくるね」
 私が言うと光恵さんが私の腕を引っ張った。
「それは私の仕事」
 そう言ってカウンターの方にパタパタと歩いていく光恵さんの背中を見送り、私は矢沢さんと向かい合って座ることになった。
 矢沢さんは光恵さんと話がしたくて戻ってきたのだろうから、私と二人きりにされても気まずいだけだ。どうしようかと考えていると矢沢さんがゆっくりと口を開いた。
「さっきはすみませんでした」
「え?」
「あの、急に帰っちゃって……よくなかったなって思って」
「別に気にしていないので大丈夫ですよ」
 私はできるだけ軽い口調を心掛けて話してみたのだけど、矢沢さんの表情は曇ったままだ。光恵さんはまだ来ない。そして矢沢さんはそれ以上口を開こうとしない。沈黙に耐えかねたのは私だった。
「びっくりしましたよね? 私と光恵さんのこと」
「あ、はい。少しだけ……」
「そうだよね」
「でも、なんとなくわかっていたので大丈夫というか……」
「え? わかってた?」
 矢沢さんの言葉は衝撃だった。会社では絶対にバレないように気を付けていたつもりだし、その点は光恵さんもちゃんとしてくれていたと思う。たまに油断して私のことを「しゅうちゃん」と呼ぶこともあったけれど、光恵さんの場合、矢沢さんのこともときどき「陽ちゃん」と呼んでいたからそれほど気に留められることもないだろうと思っていた。
「陽ちゃん、知ってたの?」
 お盆の上に三人分のアイスティーを乗せて運んできた光恵さんが呑気な声を上げた。私は立ち上がって二人分のアイスティーを取り、ひとつを矢沢さんの前に置いてもうひとつを自分の手元に置いた。
 光恵さんは矢沢さんの前にガムシロップを置いて、自分のアイスティーをテーブルに置くと私の隣の席に座る。
「はっきりとわかっていた訳ではないんですけど、ずっとお二人を見ていたので不思議じゃないというか……」
 矢沢さんはそう答えながらガムシロップをトポトポと入れてストローでかき回した。そして三分の一程を一気に飲む。かなり喉が渇いていたのかもしれない。
 矢沢さんの言葉を聞いて光恵さんは「私たちお似合いだって!」なんて言いながら、私の肩をバンバンと叩いた。矢沢さんはそんなことを言っていないと思うけれど、光恵さんにはそう聞こえたらしい。
 私は苦笑いを浮かべつつ話を戻す。
「それならさっきはどうして飛び出したんですか? てっきり私たちのことがショックだったのかと思ったんですけど」
 すると矢沢さんが意を決したように顔を上げて光恵さんの顔と私の顔を交互に見た。
「光恵さんと用賀さんはお付き合いをしているんですよね? お二人は好き合っているんですよね?」
 矢沢さんの直球の質問に、光恵さんが「そうだよ」と即答した。隣でアワアワしてしまった私が恥ずかしい。
 光恵さんの返事を聞き、矢沢さんはゆっくりと事情を語ってくれた。
 矢沢さんの説明によると、どうやら最近二人の人物から告白をされたらしい。二人ともいい人だと知っていて、二人に対して好感も抱いている。しかし、その二人の矢沢さんに向ける恋愛感情に対してどう応えていいのかがわからずにモヤモヤしていたのだという。
「私には『好き』という気持ちがわからないんです。だけどなんとなく、二人が私に言ってくれた『好き』と私が二人に対して抱いている『好き』が違うんだろうということだけはわかります。ずっとそういうことを考えたことがなくて……。それなのに、私以外の人はみんな知っていることなんだと思ったら、なんだか苦しくて、イライラして、もう考えるのも嫌になって……」
 最後には消え入りそうなか細い声になりながら、矢沢さんは懸命に話してくれた。
「さっきは、光恵さんも用賀さんも私とは違って『好き』を知っているんだと思ったら……」
「そっか、それでずっと様子がおかしかったんだね。話してくれてありがとう」
 光恵さんは包み込むような声で言った。矢沢さんはコクリと頷く。
「どうしたら『好き』がわかるようになるんですか? みんなの『好き』と私の『好き』はどう違うんですか?」
 矢沢さんの声は切実だ。私はチラリと光恵さんの横顔を覗き見る。
 私は矢沢さんのことも好きだし、錦さんのことも好きだと思っている。野崎さんのことはよく知らないけれど嫌いではない。だけど彼女たちに対する気持ちと光恵さんに対する気持ちは明らかに違う。ただ、その違いを説明しろと言われたら難しい。
 例えば矢沢さんが誰かとイチャイチャしていたら微笑ましいと感じるだろうが嫉妬はしない。光恵さんが誰かとイチャイチャしていたら嫉妬してしまう。それでもその相手が矢沢さんだったら嫉妬心は起こらない。
 光恵さんを抱きしめたいとかキスをしたいとか、そういった性的な対象なのだといえばそれもある。だけどそれが無くても光恵さんのことを好きだと思う。それに世の中には性的な関係を持っていても恋愛感情がないという場合だってある。
 強いて挙げるならば認識だろうか。この人が特別だと、この人しかいないと認識した瞬間、光恵さんに対する『好き』が他に対する人の『好き』とは違うものになった。
「光恵さんと用賀さんは、どうして相手のことを『好き』になったんですか?」
 矢沢さんの純粋な視線が私たち二人に降り注ぐ。
「私はね~」
 光恵さんが躊躇することなく言葉を発しはじめたのでギョッとした。その顔はウキウキとしている。会社勤めの間は私たちのことを秘密にしていたから、話したくてしょうがなかったのかもしれない。
「しゅうちゃんがいっつも怒ってたからかな?」
 矢沢さんは真剣なまなざしを光恵さんに送っている。私は一気に顔が熱くなるのがわかった。恥ずかしいし逃げ出したい。
「怒っていたから好き?」
 掘り下げないでほしいけれど、ここで口を挟んだら私にお鉢が回ってきそうで口を出せない。光恵さんの話も恥ずかしいのだけれど、光恵さんの話だけで済むのならまだ我慢できそうだ。
「しゅうちゃんがウチの部署に異動になったときね、なんだかいつも怒ってる子だな~って思ったの。怒る人って怖いでしょう?」
「は、はい……」
 矢沢さんはチラッと申し訳なさそうに私を一瞥して返事をした。私はもう顔を覆い隠すしかない。
「だけどね、しゅうちゃんのことは怖いって思わなかったの。どうしてかな~って観察してたら、本当はあんまり怒ってないからだったのね」
「怒ってない?」
「あー、あの、もうやめませんか?」
 やはり耐え切れなくなって私はそろりと提案する。しかし光恵さんは聞き入れてくれない。
「やだ、話したい。しゅうちゃん、責任感が強くてね、自分ばっかりがんばっちゃうの。その上、不器用で素直じゃないから、みんなにガンバレとか言えなくて怒ってるフリをしちゃってたんだよ」
「そうなんですか?」
 あいづちを打ちながらも矢沢さんはよくわかっていないという顔をしている。
「それに気付いたら、しゅうちゃんのことがとっても気になってね。このままじゃしゅうちゃん自身が傷つくばっかりなのになって。誰かが近くにいてちゃんと見てあげなきゃダメなんだろうな~って。そう思ってたら、しゅうちゃんのことがかわいくて仕方がなくなっちゃったの。だから私がずっとしゅうちゃんの側にいてあげようかなって思ったのね」
 話し終えると光恵さんは満足気な笑みを浮かべて、氷をカランとならしながらアイスティーを飲んだ。
「気になって、かわいくて、側にいたい?」
「そうそう、そんな感じ」
 本当に恥ずかしい。あの頃のことはあまり思い出したくない。光恵さんが気付いてこうして側にいてくれなかったら、私はずっと孤立したままだっただろう。
「それで、用賀さんは?」
 光恵さんの話だけで私は免れるかと思ったのだが、矢沢さんは見逃してくれないようだ。さらに光恵さんが「しゅうちゃんの話も聞きたーい」と囃し立てる。
「私の話はいらないでしょうっ!」
 恥ずかしさを誤魔化すためにちょっと大きな声を出すと、矢沢さんがあからさまにシュンと肩を落とした。
「そうですよね……すみません……」
 矢沢さんの場合、計算してこうした態度をとっているわけでなないから余計に厄介だ。
「あ、別に、怒ってるわけじゃないから。その、なんていうか……」
 そして私の怒ったような声になんて慣れっこの光恵さんはニコニコしながら「教えてよ、しゅうちゃん。聞きたいな~」とさらに催促した。
 私はアイスティーを手に取ってグビグビと飲む。そしてひとつ息を付いてから観念して話しはじめた。
 思い返してみると、あの頃はいつも何かに苛立っていたような気がする。その苛立ちの一番の対象は自分自身だった。
 もっとやさしく伝えればいい場面でも厳しい口調になってしまう。責めているわけではないのに、責めているように伝わってしまう。私はただうまく仕事が回るようにしたいと思っていただけなのに、それをうまく伝えることができない自分に苛立っていた。
 そしてそれが原因で異動になったのだと思った。前の部署から私は不要だと判断されたのだと考えて苛立ちはさらに募った。
 光恵さんは責任感が強いなどと言ってくれたけれど、そんな格好のいいものではなかった。ただのひとりよがりだ。
 良かれと思ってしたことも私の立ち回り方が下手で衝突し、それに苛立ちさらに悪化させる。そしてその責任を周囲にまで押し付けるようになっていた。本当にあの頃の私は最悪だったと思う。
 異動した先で光恵さんと出会い私は自分の矮小さを思い知らされて打ちのめされた。
 マイペースにのんびりとしていていつも笑っているような光恵さんのことを社員たちは信頼していた。もしも光恵さんがミスをしても周りの人たちが率先してフォローしようとしていた。
 光恵さんは周囲の人たちを鼓舞するわけでも檄を飛ばすわけでもないのに、自然と団結して同じ目標に向かえているように見えた。
 どうしてそんなことができるのか、あの頃の私には全く理解できなかった。私が想像すらできないやり方で光恵さんは周囲を巻き込んでいく。だからそんな光恵さんが嫌いだった。腹がたった。そして強く憧れた。
 光恵さんは私がどんなに苛立っても怒っても、飽きることなくちょっかいを掛けてきて、知らない間に私も光恵さんが作る輪に取り込まれてしまったのだ。
 そうしたらいつも感じていた苛立ちや焦りが消えて無くなり、光恵さんのために何かしたいと思うようになっていた。
「えっと、え? 嫌いで腹が立ったのに好き?」
 矢沢さんは完全に混乱していた。恥ずかしいのを我慢して一生懸命に話したのにうまく伝わらなかったようだ。
 光恵さんは光恵さんでニヤニヤしながら「そっかぁ」なんてつぶやいている。
「ごめん、わかりづらかったね。えっと、つまり……光恵さんのことを嫌いだったわけじゃなくて本当は憧れていて、素直にそれを認められなかっただけで……」
 顔から火が出るとはこういうことを言うのだと思う。体中の血液が顔に集まっているような気がする。喉が渇いてグラスに手を伸ばしたけれどすでにアイスティーは空になっていた。そのことに気付いた光恵さんが自分のグラスから私のグラスに少しアイスティーを移した。私はそれをありがたく飲ませてもらったけれど、冷たいアイスティーでも私の顔のほてりを収めることはできなかった。
 私の話に納得できたのかそうでないのか、矢沢さんはジッと自分のグラスを見つめて考え込んでいる。
「陽ちゃん」
 光恵さんがそんな矢沢さんに声を掛けた。
「私たちの話を聞いても、陽ちゃんの答えは出なかったでしょう?」
「え……」
 矢沢さんは下を向く。
「誰のどこを好きになるかなんて人それぞれだもの」
 光恵さんは身も蓋もないことを言った。それがわかっていたのに私に話すことを強いたようだ。
「で、でも、少しだけ分かったような気も……。相談をされたとき力になってあげたいと思いましたし、私にできないことができるのを見て、あんな風になりたいって憧れました。だから……」
「だけど、それでその人を好きになるっていうわけじゃないでしょう?」
「え? でも、光恵さんと用賀さんは……」
「もしもしゅうちゃんじゃない人がしゅうちゃんと同じようにしていても、私はきっと好きになってないと思うよ。好きになったのは、それがしゅうちゃんだったから」
 光恵さんの言葉に私の頬が緩んでしまったので慌てて右手で覆い隠す。不意打ちでうれしいことを言うのはちょっとずるい。
「それなら、どうすればいいんですか?」
「陽ちゃんに告白した人って、ひとりは野崎さんでしょう?」
 光恵さんの指摘に矢沢さんは驚いて、ワタワタと手を振って言葉にならない声を発している。
「もう一人って誰なの?」
「あ、いえ、そ、それは、その……」
 どうやら一人が野崎さんだということは当たっていたようだ。野崎さんは矢沢さんのことを苦手なんだとばかり思っていた。そう言われれば、合宿研修の後くらいから少し仲良くなっていたように見えなくもない。
 野崎さんはどちらかと言えばあまり考えずに感情で動いてしまうタイプだろう。ひとつのことに対して考えすぎてしまう矢沢さんと補い合えるのならばいい関係を築けるかもしれない。
「えっと、よく行く居酒屋の店員さんで……ずっとよくしてくれて……」
 矢沢さんは隠しきれないと思ったのか素直に打ち明けた。
「その人も陽ちゃんのことをよく知ってるの?」
「多分、そうだと思います」
「二人とも、陽ちゃんのことをよく分かっていて、それで好きだって言ってくれたのね」
 光恵さんの言葉に矢沢さんはコクリと頷いた。
「だったら陽ちゃんの答えは私たちじゃなくて、その二人と話して決めたら?」
「え?」
「好きだって言われても私にはよくわからないんだけどどうすればいいかな? ってその二人に聞いちゃえばいいんじゃない?」
 光恵さんの提案はかなり乱暴な気がする。
「でも、自分でちゃんと考えないと……」
「陽ちゃんは一生懸命考えて、それでもわからないでしょう?」
 矢沢さんは力なく頷いた。
「だったら二人に聞いてみるしかないじゃない。陽ちゃんの気持ちをその二人に決めてもらうわけじゃないのよ。陽ちゃんの今の気持ちをそのまま伝えて、これからどうしていくか三人で考えればいいじゃない」
「でも、もしも二人が怒ったら……」
「怒るような人だったら、陽ちゃんからフッちゃえば?」
「え?」
「陽ちゃんはその二人が怒るような人に見えるの?」
 矢沢さんは首を横に振る。もう一人のことは知らないけれど、野崎さんのことだけでいえば、矢沢さんが悩んで打ち明けた心情を聞いて怒ることはないと思う。
 もしも矢沢さんがこうして悩んでいるのだと知ったら、野崎さんなら……一緒に悩んで迷路に飛び込むかもしれない。
「はい。わかりました」
 矢沢さんは小さな声で返事をした。そしてハッと気づいたように時計を見上げると「遅い時間まですみません」と、この話の終わりを告げた。
「大丈夫だよ。いつでも話をしに来てね」
「はい。ありがとうございます」
 立ち上がろうとした矢沢さんを光恵さんが「ちょっと待って」と引き止める。そして花のコーナーからアレンジメントをひとつ持って矢沢さんに渡した。
「これあげる」
「いえ、申し訳ないです」
「気にしないで~。もう売り物にはできない花だから」
 光恵さんはいつもどおりの笑顔で言う。売り物にはならないと判断した花は家に持ち帰って飾っている。
「家ももう花を飾るところがないくらいだから、もらってくれるとありがたいです」
 私も横から付け加えた。
「それじゃあいただきます。ありがとうございます」
 矢沢さんは両手でその花を受け取った。私には違いがよく分からないけれど、一見した感じではまだ下げなければいけない状態ではないように感じる。もしかしたら光恵さんは激励のつもりで花を渡したのかもしれない。
 矢沢さんは渡された花をジッと見つめて「きれいですね」とつぶやいた。
「そうでしょう」
 光恵さんは満足そうに言った。
 それから矢沢さんは立ち上がって深々と頭を下げた。その顔は少しだけ晴れているようだった。
 帰る矢沢さんを店の外まで見送ってから、私たちは途中になっていた片付けを再開する。
「光恵さん、さっきの花、回収分じゃないでしょう?」
「あ、わかっちゃった? よく見てるね」
「まぁ、なんとなく」
 私は三人分のアイスティーのグラスを洗い終えて、店内に移動すると、テーブルに消毒スプレーを振りかけて布巾で丁寧に拭き上げる。
 光恵さんは飾ってある花を一つひとつチェックしながら回収分を脇に避けていた。
「矢沢さんに花を贈ったのは激励?」
「うーん、まぁそうかな。陽ちゃんにもお花たちみたいにもう少ししたたかになってほしいから」
「したたか?」
 仕訳を終えた光恵さんは花用の台帳に記録をして、明日仕入れる花をメモしながら続けた。
「花がきれいなのは、人間にきれいだって思ってもらうためじゃないでしょう?」
「まぁ、そうだね」
 私はテーブルを拭き終えて、椅子をテーブルの上に掛けると次のテーブルに取り掛かる。
「花がきれいなのは生存戦略なんだよ」
「生存戦略?」
「昆虫を呼び寄せて受粉の手伝いをさせるためだったり、寄ってきた昆虫を食べちゃうためだったり」
「ああ、食中植物」
「自分たちの子孫を残すために、あらゆる手段を講じた結果、偶然人間が見たらきれいだなって思うお花になったの」
 私はすべてのテーブルを拭き終えると、振り返って光恵さんの前に並ぶ花たちを見た。
「そう言われると、花がきれいなのもちょっと怖い感じがするね」
「そう? だからきれいなんだよ」
「でも矢沢さんがしたたかってちょっと似合わない気がするけど」
「そうだね。だけどもう少ししたたかになることを覚えないと、どこかで折れちゃいそうだから」
「うん」
「しゅうちゃん、会社で陽ちゃんのこと見てあげてね」
「それはもちろん」
 私は物置からモップを取り出して今度は床を磨いていく。光恵さんも花の手入れや片付けを終えてモップを手に私の横に立った。
「いつも手伝ってくれてありがと」
 光恵さんが床を磨きながら言う。その横顔に少しの罪悪感が芽生えた。
「私が勝手に手伝ってるだけだから」
「すごく助かってるよ」
「迷惑じゃない?」
「どうして? 迷惑なはずないでしょう。それに私がちゃんとできないのがいけないんだし」
 私は掃除をする手を止めて光恵さんを見た。
「違うよ。本当は私が来なくても光恵さん一人で大丈夫だって知ってる。それでも来るのは、その……光恵さんに頼りになると思われたいだけで……」
 すると光恵さんも手を止めてクスリと笑った。
「わかってるよ。私もそうやってしゅうちゃんが来てくれるのがうれしいんだもん」
「へ?」
 それから光恵さんはモップを壁に立てかけて私に歩み寄るとガバっと抱きしめた。
「そんなこと気にして、本当にしゅうちゃんはかわいいんだから」
 どうやら私は光恵さんの手の平の上だったらしい。
 光恵さんがしたたかできれいな花であることは間違いなさそうだ。その戦略にまんまと引っかかっているわけだけど、このきれいな花を一番近くで見られるのなら悪くない。
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