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悠生ゆう

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season3-3:ずるい人(viewpoint日和)

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 ベッドヘッドの棚に置かれている携帯が鳴った。雅は「出ていい?」と私に聞く。ずるい人だと思う。
 私が「イヤ」「出ないでほしい」「もうその人と連絡をとらないで」と言わないことをわかっていて聞くのだから――。
 私は「どうぞ」とだけ言って起き上がる。素肌が外気に晒されて少し身震いする。もう暑い季節だけど空調が効いた室内に裸は向かない。特に雅は部屋を寒くして布団を被るのが好きらしく室温がかなり下げられている。
「シャワー浴びてくる」
 雅の視線を背中に感じながら私は浴室に向かった。
 雅が満月さんを好きなことは出会ったときから知っている。それを納得した上で雅との関係を続けている。
 それでも好きな人が別の相手と話すところなんて見ていたくはない。こうしていつも見たくないものから目を逸らしてやり過ごしている。
 頭から熱いシャワーを浴びて心の中に小さく湧いた嫉妬心を洗い流す。こんな気持ちを雅に知られてはいけない。雅の満月さんへの想いを容認しているから、雅は私の隣にいてくれるのだ。下手に嫉妬心を見せれば雅は離れて行ってしまうだろう。
 これまでも別れるチャンスはいくらでもあった。いや、今だって「別れよう」のひと言で簡単に別れることができる。
 その道を選ばず雅といるのは私自身が望んだことだ。
 それでもときどき雅に私だけを見て欲しいと思ってしまうことがある。同時に好きな人に振り向いてもらえない可哀想な雅のことも好きだった。
 私の愛情は歪んでいるのかもしれない。
 だからもしも雅が満月さんのことをきっぱりと諦めて私だけを見てくれるようになったとしたら、今と同じように雅を愛し続ける自信がない。
 雅の心には最初から満月さんがいた。そんな雅を私は好きになったのだ。
 電話を終えた雅が浴室にやって来た。そして私をそっと抱きしめる。背中に雅の胸のふくらみを感じた。触れ合う肌から雅の傷が伝わってくるようで愛しさが込み上げる。
「どうしたの?」
 振り返って雅に問う。聞くまでもない質問だけど私は何も知らないという顔でそう質問する。
 雅は頭からシャワーを浴びて髪からポタポタとお湯を落としていた。まるで涙を流しているように見える。
 両手を伸ばして雅の頬に触れる。
「そんな顔をするくらいなら打ち明けちゃえばいいのに」
 それができないことを知っていて私は笑顔で言う。雅は何も言わずに目を伏せた。
 そんな雅に私はキスをした。私は、心の傷に付け入って毒を流し込む魔女のようだ。

+++

 大学四年の夏に友人と一緒にあるバーに行った。そこは同性愛の女性が集まるバーだった。
 そのときの私は別に同性が好きだと思っていたわけではない。友人との話のノリで好奇心と冷やかしくらいの気持ちでその店に足を踏み入れた。
 そこに雅がいた。
 バーの片隅で一人、つまらなそうな顔でお酒を飲んでいるその横顔に一目惚れした。
 バーに来ている多くの人は、交友を広げようとしていたり恋人を見付けようとしていたり、話し相手を見付けようとしていたりしていた。そしてカップルらしき人たちは楽しそうに肩を寄せ合ってお酒を飲んでいる。
 そんな中で人を近づけないオーラを放ち、拗ねたような顔でお酒をチビチビと飲んでいる雅は異質に見えた。
 私は雅に声を掛けることに躊躇しなかった。もう二度と会わないかもしれない人だ。フラれたとしてもこの場限りのことだ。
 私は友人に断りをいれてから雅の近くに歩み寄る。
 友人はかなり驚いていた。私に対してどう思ったのか分からないけれど、それよりも雅に話しかけるチャンスを逃したくないという思いの方が強かった。
「隣、いいですか?」
 私がそう声を掛けたとき雅は迷惑そうな顔をして横目で私を睨んだ。だけどそれがポーズに過ぎないと思えた。だからその表情に気付かないフリをして隣に座る。
 雅は何も言わずにグラスを口に運びながら値踏みするような冷たい視線を私に投げた。その視線を受けて、この人は私のことを気に入ってくれると思った。
 誘ったのは私だ。断られることなんて考えなかった。
 自分の容姿に自信があったわけじゃない。雅がほんの一夜でも寂しさを埋めてくれる相手を探しているような気がしたからだ。きっと私でなくてもよかったのだと思う。だからそのときはお互いの名前すら知らなかった。
 寂しい夜を二人で過ごして私はますます雅のことを気に入った。だから別れ際に携帯の番号をメモして渡した。
 一週間程が過ぎたとき私の携帯に知らない携帯番号が表示された。
――私、だけど……。
 少しの戸惑いと少しの不機嫌さを混ぜたような声に私は満足した。
 それから私たちは一緒に過ごすことが多くなった。
 お互いのことをよく知るようになったし、何度も体を重ねている。それでも付き合っているというのとは違うのかもしれない。
 セフレというには近すぎるし、恋人というには遠すぎる。それでも雅は私のことを必要としてくれたし、私もそんな雅を愛していた。
 そんな関係が心地いいと思っていたのに、入社した会社に雅の好きな人がいたことで私は少なからず動揺した。
 雅には私以外に好きな人がいる。
 それがわかっていても平気だったのは相手のことを何も知らなかったからだ。知っていたのは大学の同級生だということと満月という名前くらいだった。だからその事実から目を逸らして雅のそばに居続けることができた。
 だけど目の前に雅の好きな人が現れたら、どんな人なのかを知りたくなる。雅はこの人のどこを好きなのだろうと考えてしまう。そして私との違いを見付けるたびに胸の奥にしまい込んでいる何かが壊れていくような気がした。
 私は周囲の人たちから「人当たりがいい」とか「ぼんやりしてるね」とか「雰囲気がやさしい」なんて言われることが多い。
 だけど実際は少し違う。
 ただ笑顔を浮かべて目を細めて、見たくないものを見ないようにしているだけだ。だから私は特別に誰かを嫌いになることがないかわりに、特別に誰かのことを好きになることもなかった。
 雅だけだ。
 雅の顔が好きだから、拗ねている顔も苛立っている顔も悲しんでいる顔も強がっている顔も全部を見たかった。見たくないところまで見えてしまうけれど、それはそっと心の奥にしまい込んで忘れたフリをしてしまうことができた。
 同僚になってしまった雅の好きな人は良く言えば素直な人だった。明るくて人が好きでお人よしで、真っすぐに育ってきたんだろうなと感じた。悪く言えば単純で鈍感な人だ。
 そんな満月さんを知るたびに雅とは似合わないと思ってしまう。
 だけど私のようなずるい人間じゃないから雅は満月さんのことを好きになった。それを思い知らされるたびに自己嫌悪や焦燥感や虚無感に襲われた。
 同期だからというだけで私に気を許して話しかけてくる満月さんと距離を置きたかったし、いっそのこと嫌いになってしまいたかった。
 雅に似合うのは満月さんではなく私だと思いながら、雅が満月さんを選ぶ日が来ることを恐れていた。
 嫉妬心が芽生えてもそれを笑顔で覆い隠す。それを見せたら雅が離れてしまうことがわかっていたからだ。
 だけどそれも限界を感じていた。
 どれだけうまく隠したつもりでもきっとどこかから漏れてしまっていたのだろう。雅が少しずつ私と過ごすことに息苦しさを感じはじめているのに気が付いた。
 だから私は決意した。
「別れましょうか」
 そう伝えたとき、雅は信じられない言葉を聞いたという顔で私を見ていた。
 雅はずるい人だ。
 そして私もずるい。
 雅に捨てられることを予感したから、私から雅を捨てることにしたのだ。

+++

 お腹が減った。
 どれくらい時間が経ったのだろう。部屋の中はすっかり真っ暗になっていた。今日は雅の家で夕食を食べるつもりだったから、ランチを食べて以降、何も口にしていないことを思い出した。
 自分で選んだ結末に泣いたりしない。ただ情けないと感じていた。
 雅が満月さんからの電話を無視して私を追いかけてくることはないと分かっていたのに、振り返って雅の姿を探していた。くだらない期待を抱いてしまう自分が情けなかった。
 食事をとることも忘れて暗い部屋でひざを抱えている自分が情けなかった。
 雅は満月さんに呼び出されて会っているのかもしれない。「面倒臭い」とか「遠いからイヤ」とか言いながら、雅は満月さんに呼び出されればホイホイ出掛けて行ってしまう。本当に馬鹿だと思う。
 そうして帰って来てから落ち込んで私を呼び出すのだ。それにホイホイ釣られてしまう私も馬鹿だった。
 最近、満月さんと矢沢さんの関係に少しだけ変化したように感じる。だからきっと雅はまた傷ついているはずだ。私と同じように暗い部屋中でひざを抱えているかもしれない。それとも別の慰めてくれる誰かを探しに行っているのだろうか。
 それでも私はもう雅を慰めたりしない。
 私の胸に顔をうずめて背中に回した手が何かに抵抗するように強くなるとき、私は雅に必要とされているのだと感じていた。だけどそんな歪な関係が長く続くはずないのだ。遅かれ早かれ終わりはやって来ただろう。それが今日だっただけの話だ。
 ピンポーン
 インターフォンの音に私は顔を上げた。宅配が届く予定も来客の予定もない。私はその音を無視する。
 ピンポーン
 少しして再びインターフォンが鳴った。
 時計を見るともう二十三時を回っている。時間を確認したら余計にお腹が減ってきた。だけど今からコンビニに行くのは面倒だし、デリバリーもちょっと罪悪感が湧く。家の中に食べられるものはあっただろうか。雅の家で過ごすことが多いから、あまり食材をストックしていない。
 私は食材を探すために立ち上がってキッチンに向かった。
 ピンポーン
 三度鳴るインターフォン。
 まだ諦めないようだ。私は仕方なくインターフォンの画面をのぞき込んだ。
「雅?」
 画面に映った姿に思わず声が漏れる。
 雅が私の家に来るのは想定外だ。雅は私の言葉をただ黙って受け入れるはずだ。だから別れたくないとここまで来たとは思えない。
 満月さんのことで傷ついているのかもしれない。
 だけど今まで雅が慰めてほしいと私の家にやってくることはなかった。私が差し出す手は拒まないけれど、いつだって強がって平気なフリをする。
 今までとは違う雅の様子が気になった。
 私は少し考えてから部屋の明かりをつけて玄関を開けた。雅は静かに玄関に足を踏み入れる。
「とりあえず、上がって」
 私は部屋の中に招き入れた。
「これ」
 雅はそう言って手に持ったビニール袋を差し出す。受け取って中を見ると、数本のお酒とちょっとしたおつまみが入っていた。お腹がすいていたから助かるのだけれど今から二人で飲もうというのは少し違う気がする。
 私は受け取った袋をそのままテーブルの上に置いた。
 雅は片足を立ててラグマットに座る。そしてぐるりと室内を見回した。
「そういえばここに来るの久しぶり」
 いつも私が雅の家に行っていた。雅が家に来たことなんて数えるほどしかない。
「それで、何の用?」
 私は座椅子に座って素っ気なく聞く。すると雅は照れたような笑みを浮かべた。
「満月と会ってきた」
「そう」
 満月さんと会った後にこんな顔をしたことはない。もしかしてうまくいったのだろうか。もう私には関係の無いことだけどそんな報告をするためにここに来たのならば無神経過ぎる。
 よく見ると雅の顔がほんのりと赤く染まっていた。
「お酒、飲んでるの?」
「ああ、うん。少しだけ」
 雅は満月さんの前でお酒を飲まない。その雅が満月さんとお酒を飲んだ意味とは何だろう。
 私の知る雅の行動と違い過ぎて何を考えているのかわからない。
「それで何をしに来たの?」
「ちゃんと話をしようと思って」
 雅は別れ話について私と話したいと思ってくれたようだ。それは意外だったけれど少しだけうれしくなる。
「別れようって言ったこと、本気?」
 私は頷く。
「私のこと、嫌いになった?」
 私は首を横に振ることも、まして頷くこともできずに、ただ雅の顔を見る。
「そう、わかった」
 雅は小さく言った。そしてひとつ息を付くと背筋を伸ばす。それから私をまっすぐに見つめてはっきりとした口調で言った。
「別れましょう」
 自分から言い出したことなのに、雅のその言葉にひどく胸が痛んだ。だけど私は唇を引き締めてその言葉を受け入れる。
 そのまま雅はジッと私を見つめ続けた。
 そんな雅の顔が愛おしい。この期に及んで私はもう一度雅に抱かれたいと思っていた。その肌に触れてその温もりを感じたい。
「日和、今日までゴメン」
 雅は静かに言う。
「日和が私を甘やかすから、それに甘え切ってた。それが当然だと思ってた。本当にゴメン」
 私は目を伏せた。終止符を打つ雅の言葉に黙って耳を傾ける。
「そんなの間違ってたよね。私はずるかった。だから終わりにしよう」
 話が長すぎる。涙が出てしまいそうだ。雅の前で泣きたくない。
「本当にありがとう」
 そうして雅は言葉を終えた。だけどいつまで経っても雅は動こうとしない。そんな雅に焦れて顔を上げると、雅はまだ私をジッと見つめていた。
「な、何? まだ何かあるの?」
 私はなんとか言葉を振り絞る。
「日和は察しが良くて何でも私のことを見通していると思ってたけど、これまでの私がわかりやすかっただけなんだね」
 雅はそう言うと苦笑いを浮かべた。
「何を言ってるの?」
 今日は雅が何を考えているのかさっぱりわからない。なんだかひどく不安になった。別れを告げたそれだけのことで、雅のことがわからなくなるくらい心が離れてしまったのだろうか。
「日和」
 雅は正座をして背筋を伸ばした。
「改めて、私と付き合ってください」
「は?」
「これまでみたいに、ただ日和に甘えている関係じゃなくて、本当の恋人として私と付き合ってください」
 心臓が急に暴れ出す。雅が何を言い出したのか理解が追い付かない。
「ちょ、ちょっと待って」
「いや?」
「そうじゃなくて……満月さんは?」
「さっぱりした」
「へ?」
「確かに私は満月のことが好きだった。でも『だった』なんだよね。ずっと前に過去になっていた想いに執着していただけだった。そのことにやっと気づいた」
 そして雅は目を細める。
「待たせてゴメン。私はこんなバカな人間だけど、それでも付き合ってくれますか?」
「……はい……」
 何が起こっているのかまだよくわかっていなかったけれど、私の口からは勝手に言葉が漏れていた。
 返事を聞いた雅は私を強く抱きしめる。その温もりを感じて、ようやく実感が押し寄せてきた。
「あー、なんか超緊張した」
 雅がクスクスと笑う。
 私は雅から体を離して改めて雅の顔を見る。自分の手が震えているのに気付いた。はじめてバーで雅を見掛けて声を掛けたときのように、私は緊張していた。
「私、雅が好きだよ」
 これまでに幾度となく伝えてきた言葉だった。だけどはじめて伝えられた言葉だった。
「うん。私も日和が大好きだよ」
 雅は少し照れながら笑みを浮かべて私をギュっと抱きしめた。そして耳元で言う。
「今、びっくりするぐらいムラムラしてるんだけど、抱いていい?」

+++

 なんだか不思議だった。
 私の隣の席で上機嫌な表情を浮かべて満月さんをからかう雅の横顔を眺める。
 出会ったときには雅の心の中に満月さんがいた。
 傷ついたり拗ねたりする雅が好きだった。そうして私にすがる雅が好きだった。満月さんへの想いに区切りをつけてすっきりした顔の雅はこれまで見てきた雅とは少し違う。
 雅は私のことを満月さんに、ついでに矢沢さんや輝美という人にも明かしてしまった。これからは傷ついた雅に夜遅く呼び出されることもないのだろう。
 傷ついていない雅をそれまでと同じように愛せるのか自信が無かった。だけど今もやっぱり雅のことが好きだと感じる。
「だーかーら、どうやって知り合ったのか教えてよ」
 満月さんが唇を尖らせて雅に突っかかる。
「やだよ。なんで教えなきゃいけないの?」
 雅は眉根を寄せて心底嫌そうな顔を作って答えた。
 矢沢さんは満月さんと雅の顔を交互に見ながら戸惑いの表情を浮かべている。輝美という子は頬杖をついてつまらなそうな顔でビールを飲んでいた。
「友だちでしょう! ちょっとくらい教えてよ!」
「絶対イヤ!」
 雅はケラケラと笑いながら満月さんの訴えを退けた。
「雅?」
 私が声を掛けると「ん?」と言って雅が私の方を見る。私は雅の頭に片手を回してそのまま口づけをした。
「わー! いきなり何してんの!」
 叫んだのは満月さんだ。
「なんだか急にキスがしたくなった」
 満月さんは真っ赤な顔をしていて、矢沢さんは見たこともないほど目を丸くしていて、輝美さんは興味深そうに私たちを見つめていた。
 そして雅は「そっか、ならしょうがないなぁ」なんて言いながらヘラヘラしている。
「日和さん! 雅なんかのどこがいいの! めちゃくちゃ性格悪いよ!」
 満月さんが唾を飛ばす勢いで私に言う。
「んー、顔?」
「雅ってそんな美人でもかっこよくもないじゃん!」
 満月さんは結構失礼なことを大声で言い放つ。雅は雅で「顔かぁ」と言いながら自分のあごをさすっていた。
「別に美人だから好きになるわけじゃないでしょう? 満月さんは美人じゃないと好きにならないの?」
「え、あ、別にそういう訳じゃないけど……でも納得できない!」
「そう言われてもなぁ」
 私は改めて雅の顔を見る。どこがどうだから好きとか嫌いとかいう訳じゃない。雅が雅の顔をしているから好きなのだ。顔をじっくり見たついでにもう一度雅にキスをしてみた。
「わー! またっ!」
 満月さんが叫び、雅はヘラヘラと笑みを浮かべる。
「雅も雅だよ! 私には塩対応なのに、どうして日和さんにはデレデレしてるのさ!」
 満月さんの声がどんどん大きくなる。多分すごく周囲に迷惑をかけていると思う。
「そんなの日和がかわいいからに決まってるでしょう」
「私がかわいくないっていいたいの!」
「うん、まあ、そういうことだね」
 雅は心にもないことを言うとチラリと私を見た。結局私は雅の顔が好きだから、雅の心に別の人が住んでいようがいまいが関係なかったらしい。
 傷ついている雅が好きだったけれど、私に対してデレデレした顔を見せる雅もやっぱり好きだった。

+++

「錦さん、お願いしておいた書類はできてる?」
 用賀さんに声を掛けられて私はゆっくりと振り返った。
「あと少しです」
「丁寧なのは良いけど、もう少しスピードも意識して」
「はい」
 用賀さんはそう言い残すと書類を抱えてバタバタと事務所を出て行った。
 草吹主任が退職することを発表してから用賀さんがピリピリしている。草吹主任がいなくなることでどう振る舞っていいのか迷っているように見えた。
 用賀さんは厳しい人だけれど私は嫌いではない。むしろ面倒見のいいやさしい人だと思う。おそらく良くも悪くもマイペースな草吹主任をサポートするためにわざと厳しい先輩を演じているのだろうと思う。二人でいたからバランスが取れていた。草吹主任が会社を去れば用賀さんはただ厳しいだけの人になってしまうかもしれない。
 用賀さんも大変だなと思いつつ私は作業に戻った。
 最近変化したのは満月さんの態度もだ。私と雅が付き合っていることを知ってから、私にあまり声を掛けてくれなくなった。
 どう接していいのかわからないというのもあるし、一番の友だちだと思っていた雅に私のことを教えてもらえなかったことが悔しいというのもあるのだろう。
 わかりやすく言ってしまえば、私に雅を取られたようで嫉妬をしているのだ。
 もしかしたらほんの少し雅のことを好きだという気持ちがあったのかもしれない。だけど雅を譲るつもりはないからそのままにしておくことにした。
 満月さんのことで傷ついて私にすがる雅はかわいそうでかわいかったけれど、今の雅の方がずっといいと感じている。満月さんがいくら拗ねようが雅を渡そうとは思わない。
 もう一人、矢沢さんの様子もおかしくなっていた。
 満月さんと良好な関係を築きはじめていると思っていたのに、私たちと食事をした後から妙にギクシャクしているように見えた。だけど満月さんはそのことにあまり気付いていないように見える。雅のことを気にするよりも矢沢さんのことを気に掛けるべきだと思う。
 いずれにしても私には関係ないので放っておくことにした。
 だけど珍しく残業をしているときに矢沢さんから声を掛けられてしまった。
 矢沢さんはキョロキョロしてしきりに辺りを伺っていたけれど、会社にほとんど人は残っていない。もちろん満月さんも草吹主任もすでに帰った後だ。
「何かご用ですか?」
「あの、み、雅さんに、お会いしたくて」
 矢沢さんは顔を赤くしながらたどたどしく言った。
「雅のことを好きになったんですか?」
「ちっ、違います。絶対違います!」
 冗談のつもりだったのだけれどすごい勢いで否定されてしまった。
「雅さんにお聞きしたいことがあって……でも、連絡先を知らなくて」
「ああ、それなら満月さんに聞けばよかったのでは?」
 すると矢沢さんは下を向いて黙ってしまう。
「……分かりました。ちょっと待ってくださいね」
 私は雅に電話をかける。矢沢さんは神妙な顔で私のことを見つめていた。
「雅?」
―― 仕事終わった?
「それはもうすぐなんだけど、矢沢さんが雅に会いたいって」
―― 矢沢さん? 矢沢陽? なんで?
「さあ?」
―― うーん。特に話すこともないしなぁ。
「多分、満月さんのことだと思うよ」
 私が言うと矢沢さんがギョッとした顔で私を見た。
―― 満月のこと? 何だろう。
「そこまではわからないけど」
―― 日和が残業するって言ったから迎えに来てるんだけど。
「そうなの?」
 ちゃんと恋人として付き合うとそんなサービスまで付いてくるのかとちょっと驚いた。
―― もうすぐそっちに着くから、日和も一緒でいいならって伝えて。
「わかった」
 電話を切ってジッと待っている矢沢さんを見た。
 満月さんが矢沢さんに惹かれた理由が少しだけ分かったような気がする。なんだか小動物みたいで庇護欲に駆られる佇まいだ。
「雅、OKみたいです」
 すると矢沢さんはホッとしたように少しだけ頬を緩めた。そういえば入社してすぐに挨拶をしたときに比べて矢沢さんの表情が豊かになったような気がする。
「ただ、私も一緒ならってことなんですけど、それでいいですか?」
「えっと……はい。大丈夫です」
「じゃあ、少し待ってもらえますか? もうすぐ終わるので」
「はい」
 そうして私は作業に戻った。
 仕事を終えられたのは十五分程が過ぎてからだった。緊張した様子の矢沢さんと一緒に会社を出ると、ビルの前に雅が待っていた。
「お疲れ様」
 そう言って雅は笑顔を浮かべる。
「あ、あの、急にすみません」
 矢沢さんは深々と頭を下げた。
「いえ、別にいいですよ。どっか入りましょうか?」
 雅の提案で私たちは駅の近くにあるカフェに移動した。
「それで、どんなご用件ですか?」
 雅はホットコーヒーを一口飲んでから言う。
 矢沢さんはアイスティーを両手に抱えて固まっていた。あまり話が得意ではないのでどう切り出せばいいのか悩んでいるのだろう。私は雅にしばらく待つように目で合図を送った。
 かなりの時間が経ってからようやく矢沢さんが口を開く。
「あの、少し前に酔っぱらってしまって、野崎さんの家に泊めてもらったことがあって……」
 私も雅も口をはさまずにじっと矢沢さんの言葉を聞く。
「そ、そのときに、野崎さんから、す、好き、みたいなことを言われて……」
 そこでひとつ息を付いて矢沢さんはアイスティーをゴクゴクと飲む。
「それが、先輩だからとかじゃなくて、雅さんと錦さんみたいな、好き、だったのかどうかわからなくて……」
 満月さんは矢沢さんに想いを伝えていたようだ。ヘタレに見える満月さんにしては頑張ったのだろう。それが上手く伝わり切っていないところが満月さんらしいところだろう。
「それで私に何を聞きたいんですか?」
 雅が冷たい声で言った。横顔を見ると厳しい目つきをしている。
 満月さんが矢沢さんに告白したことに苛立っているのだろうか。まだ少し満月さんに対して気持ちが残っているのだろうか。
「だから、あの、野崎さんが、どういう意味で言ったのかわからなくて」
「なぜそれを私に聞くんですか?」
「野崎さんと雅さんは仲が良いので、知っているかと……」
「知りませんよ」
 雅は冷たく言い放つ。
「あ、そ、そう、ですか……」
 矢沢さんは落胆した様子で顔を伏せた。
 五人で飲んだときも矢沢さんはずっと目を白黒させていた。人の気持ちに鈍感だというよりは、恋愛に対する免疫がないのだと思う。
 そして厳しい顔をしていた雅の表情が少し緩む。
「もしも知っていたとしても私は教えませんよ。それを知りたいのなら満月本人に直接聞くべきことなんじゃありませんか?」
 先ほどまでよりもずっとやさしい声で言ったけれど矢沢さんは気付いていないかもしれない。唇を噛んでずっと下を向いている。
 助け舟を出した方がいいだろうかと思ったとき、雅が小さく首を横に振った。
「矢沢さん、満月がどんなつもりで言ったのか私は知りません。だけど、満月の言葉を確かめたいのなら、矢沢さんも真剣に考えてみてください」
 雅はそう言うと私の手を握って立ち上がった。
「話がそれだけなら私たちはもう行きますね」
 そうして雅は私の手を引いて、俯いたままの矢沢さんを置いてカフェを出た。
「ねえ、雅、あんな風に突き放しちゃって大丈夫?」
「大丈夫でしょう」
「もしかして、満月さんと矢沢さんが上手く行くのが嫌なの?」
 私が聞くと雅は一瞬キョトンとした後ケラケラと笑った。
「違う違う」
「本当に?」
「本当。満月には幸せになってもらいたいけど、それは自分で何とかしてもらわないとね」
 雅はうれしそうな顔で言う。
「それに輝美ちゃんも矢沢陽のことが好きなんだよね」
「ああ、あの子? それはそうだろうなとは思ってたけど」
「前に輝美ちゃんのことをたきつけたことがるし、満月だけに味方しちゃうのはちょっとね」
「性格悪くない?」
「そう? でもさ、矢沢陽って恋愛に対する免疫ゼロっぽいから、ちょっと自分で考えてもらわないとみんなが不幸になると思わない?」
「それはそうかもしれないけど……」
「まあ、私たちは蚊帳の外から見守らせて頂くことにしましょう」
 複雑な恋愛レースから一足先に離脱した雅は呑気な顔でそう言った。
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