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season1-3:犯人は誰だ?(viewpoint満月)

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 ボールペンの紛失からはじまった私に対するいたずらは毎日のように続いていた。
 電話で雅に相談すると「本当に嫌われてるんだね」と明るい声で言われた。もしも暗い声で言われたら本気で凹むところだからいいのだけれど、友だちなんだから少しくらいは心配してほしい。
 そして犯人を見付けることができないとボヤくと「満月の曇った眼では真実を見付けることなんてできないよ。絶対に。確実に。百パーセント」と断言された。
 もしも雅が同じ会社なら真っ先に疑うと思う。
 いたずらの実質的な被害は七百円のボールペンを壊されたことくらいだ。片方だけ無くなっていた猫のスリッパは、翌日出社すると汚れも破損もない状態でゴミ箱に入っていた。
 その他にデスクに糊が塗られていたこともある。終業後に水糊を塗ったのだろう。出社したときはカピカピになっていた。触ったときには異様な手触りに驚いたが、しっかり渇いていたため定規でカリカリしたら簡単にはがすことができた。むしろ、そのはがし心地はちょっと気持ちよく感じたくらいだった。
 放置してもよさそうないたずらばかりだったが、無視することもできない。それに、犯人の目的が分からないのは気持ちが悪いし、今後エスカレートしていく可能性だってある。
 今週末からは入社三年目までの若手社員が参加する合宿研修の予定になっていた。だから、できればそれまでに犯人を特定しておきたい。いたずらを止めることができなかったとしても、犯人が分かっているだけで何らかの対処ができるはずだ。


 私は九割九分矢沢さんが犯人だと見ている。
 普段から近くにいるから私の隙を突きやすいだろうし、居酒屋での会話を聞いていたなら動機も充分だ。いたずらがはじまった時期と居酒屋で見かけた時期も合致する。
 それに、矢沢さんはちょっと不気味だった。二カ月近く一緒に仕事をしていても、何を考えているのかさっぱり分からない。
 私が矢沢さんを怪しいと感じたのはボールペン事件のときだ。
 ボールペンを紛失した日、矢沢さんは予備のボールペンを貸してくれた。新しいボールペンを買ってくるまで借りていていいか確認すると、矢沢さんは無表情に「どうぞ」と言った。
 遠慮なくそのまま二日間ボールペンを借りていたのだが、三日目の朝、借りていたボールペンが無くなっていたのだ。
 幸い新しいボールペンを買ってきていたので、仕事には支障がなかった。だが、借り物を紛失してしまったと言うのは心苦しい。だから、矢沢さんに気付かれないように必死で探し回った。しかし、結局見付けることはできなかった。
 いつまでも隠していても仕方がないので、私は観念して矢沢さんにボールペンを無くしたことを白状することにしたのだ。
「矢沢さん、お借りしていたボールペンですけど……」
「はい」
「すみません、紛失してしまったみたいです……」
「そうですか」
「本当にすみません。お借りしたものを無くしてしまうなんて」
「他にもあるので問題ありません」
 矢沢さんはいつもと同じように無表情で言う。少し苦手だと感じている淡々とした口調も、この時ばかりはありがたいと思った。
 だが次の瞬間、私は自分の目を疑った。矢沢さんが握っているボールペンこそが、私が矢沢さんから借りたボールペンだったのだ。
 矢沢さんから借りたボールペンは、特徴のない量産品だった。だから、他の人の物と間違えないよう、目印にシールを貼っておいた。目立たないところに貼ったが、そこにあると知っていればすぐに見つけられる。
 矢沢さんが握っているボールペンには確かにそのシールがある。
「あの、そのボールペン見せてもらってもいいですか?」
 私は恐る恐る矢沢さんに言う。
「どうぞ」
 矢沢さんは躊躇することなくボールペンを私に差し出した。私はじっくりとそれを確認する。それは間違いなく私のお気に入りの猫柄のシールだった。
「お借りしてたの、このボールペンです。無くさないようにシールを貼っておいたんですよ」
 私はシールの部分を矢沢さんに見せた。矢沢さんはシールをジッと凝視した。身じろぎせずしばらく見つめ続けると「そうですか」とボソリとつぶやくように言った。
「私が間違えて持って来てしまったのかもしれませんね」
「そ、そうですね。無くしてなくてよかったです……」
 そう言いながら矢沢さんの様子を伺う。矢沢さんはボールペンのシールをジッと見つめ何かを考えているようだった。
 これだけでも犯人の証拠になるのではないかと思った。だが、「間違えて持って来てしまった」という主張を覆すことはできない。だから、犯人だと決めつけるには証拠が弱すぎる。不快そうにボールペンを見つめる姿だけでは証拠としての決め手に欠けるのだ。
 この一連の出来事についても雅に相談した。
「趣味の悪いシールを貼られてムカついただけじゃないの?」
 雅からはこうしたしょっぱい意見しか出てこないと分かっていて、どうして私は雅に相談したのだろう。そもそも、なんで私は雅と友だちなんだろうと思ってしまう。
 だが、次の言葉を聞いて友だちでありつづける理由を思い出した。
「疑って思い込み過ぎると見誤るよ。真実を知りたいなら、まずは思い込みを捨てて考えるべきじゃない?」
 本当にときどきだけれど、雅はこうした役立つ言葉も投げてくれる。もう少しその頻度が高くなって、もう少し毒舌が減ればもっとうれしいのだけれど。
 ともかく私は雅の言葉を参考に、思い込みを捨てて犯人の可能性がある人物について考えてみることにした。


 一人目の容疑者は矢沢陽さん。
 入社三年目で私の指導担当をしている二十歳の女性。最も私にいたずらを仕掛ける動機を持っている人物だ。その理由についてはすでに考察した通りである。


 二人目の容疑者は草吹光恵主任。
 確か三十一歳だと聞いた。やさしく包容力のある女性で、少し天然なところも愛嬌がある。そのため社内の人気も高いようだ。私の好みのタイプではないが、仲良くなりたいとは思う。
 そんな草吹主任を容疑者として挙げたのは、矢沢さんのことを特にかわいがっているように見えるからだ。それこそ、『目に入れても痛くない』というようなかわいがり方なのである。
 上司が特定の部下をそこまでかわいがれば嫉妬による確執や悪い噂も出そうなものだ。しかし、そういった噂を聞いたことはない。それは草吹主任の人柄によるところが大きいと思う。さらに草吹主任のかわいがり方がペットに対するものと類似しているからだろう。
 こうして考えると、草吹主任がいたずらをする要素などないように感じる。だが、だからこそのいたずらではないかと思うのだ。
 かわいいペット(矢沢さん)を困らせる目障りな人物(私)が現れたら、草吹き主任は排除しようとするのではないだろうか。
 草吹主任が矢沢さんをミーティングルームに呼び出したことがある。デスクではなくミーティングルームを利用するということは、私たちには聞かれたくない話をしたはずだ。そして、ミーティングルームから出てきた矢沢さんは少しぐったりしているように見えた。
 それを見て私は、いたずらに気付いた草吹主任が密かに注意をしてくれたのではないかと期待した。しかし、その日以降もいたずらは収まらなかった。
 つまり、いたずらを注意したのではないということだ。それならばどんなやり取りがあったと考えられるだろうか。私はあれこれと思いを巡らし、一つの可能性を導き出したのだ。
 二人きりのミーティングルームで草吹主任は矢沢さんに問う。
「ねえ矢沢さん、野崎さんはどうなの?」
「ダメですね」
「ダメって?」
「全然仕事ができません。覚えるのが遅いです」
「そんな子の指導、大変じゃない」
「はい。すごく大変です。それに、私の悪口も言ってました」
「矢沢さんの悪口を? それは許せないわね」
「でも指導担当なので仕方ありません」
「そんなことないわ。かわいい矢沢さんを困らせるなんて許せない。野崎さん目障りね。わかった。私が排除してあげる」
 そうして草吹主任は矢沢さんのためにいたずらをはじめたのだ。
 この会話だといたずらがはじまった時期と合わないのだが、あくまで私の想像なので細かいことは気にしないことにしよう。
 私に仕掛けられたいたずらは少々子どもっぽさを感じるが、草吹主任の天然っぽさの現れだと思えば納得できる。
 だが、この仮説には決定的な穴があった。そもそも、新入社員の指導担当者を決めたのが草吹主任なのだ。
 自分で配置しておいて「目障りだから排除しよう」なんて言うとは思えない。
 草吹主任が犯人である確率は極めて低いように思える。


 三人目の容疑者は錦日和(にしきひより)さん。
 同じ部署に配属された同期で、私より一歳年下の女性。
 この部署の同期は私たちだけなので話す機会も多い。互いに「日和さん」「満月さん」と呼び合う程度には仲良くなった。
 これが犯人ではないかと疑う理由だ。うちの部署に同期は二人だけ。つまり唯一のライバルということになる。ライバルを蹴落とすために数々のいたずらを仕掛けているのではないだろうか。
 しかし普通に考えれば、いたずら程度でライバルを蹴落とせるはずがない。だからこそ、日和さん犯人説の説得力が増すのだ。
 日和さんは年齢よりも子どもっぽいところがある。そんなポワポワとした日和さんならば、幼稚な行動にも納得ができるからだ。
 しかし、そんな日和さんの性格は日和さん犯人説を否定する材料にもなる。
 ポワポワとしたお嬢様的な雰囲気を見ていると、そもそもライバルを蹴落とそうという発想がないように思えるからだ。むしろ、自分がいたずらをされても、いたずらされていることに気付かないタイプに見える。
 それに、もしも日和さんが犯人だったとしたら、すぐに決定的なミスをして、犯人である証拠を残すのではないだろうか。今回のいたずら犯は証拠を残さない程度には狡猾なのだ。
 日和さんは悪事には向いていないと思う。とはいえ、女の子は一筋縄ではいかないことも知っている。私が知っている日和さんの姿がすべてではないかもしれない。
 日和さんが犯人である可能性は非常に薄いとは思うが、完全に容疑者から外すこともできない。


 四人目の容疑者は、日和さんの指導担当をしている用賀紫雨子(ようがしゅうこさん。
 矢沢さんの二年先輩だと聞いたから入社五年目になる女性だ。
 正直に言ってしまうと、私は用賀さんが怖い。日和さんが注意を受けている様子を見て、指導担当が用賀さんでなくてよかったと胸をなでおろしている。
 いわゆるツンデレ女子は嫌いじゃないが、今のところ用賀さんからはツンしか感じられない。日和さんは持ち前のおっとりスキルで用賀さんの厳しい指摘を受け流しているようだが、私だったら耐えられないと思う。
 私も用賀さんから幾度か注意を受けたことが何度かある。その被害が矢沢さんにまで及び「なんでちゃんと教えておかないの!」と小言を言われていた。あれは本当に申し訳なかった。
 そんな用賀さんだからこそ、仕事のできない私に苛立ちを募らせていたのではないだろうか。だが、指導担当ではないため、あまり口出しすることができない。だから、間接的に私を追い詰めるためにいたずらという手段に出たのだ。
 しかし、用賀さんがコソコソと子どもっぽいいたずらをするタイプには思えない。例え担当者でなくても、気に入らないことがあれば、ストレートに正面からぶつけてくるのではないだろうか。
 そもそも、接点が少ないので繰り返しいたずらをされるほど嫌われるとも思えない。用賀さんが犯人だと言われるよりも、日和さんが犯人だと言われる方がまだ納得できる。日和さんなら「ちょっと面白そうだったからぁ」という軽い理由も考えられるからだ。
 用賀さんんは厳しい。用賀さんは怖い。それでも好き嫌いでそうした態度を取っているようには思えない。真面目で堅物で一生懸命なだけだと思う。
 それに、面倒見のいい人だとも感じている。そうでなければ、マイペースな日和さんに小言を言いながらも根気強く接することはできないだろう。
 用賀さんが犯人である可能性は限りなくゼロに近いと思う。


 最後、五人目の容疑者は砂川花(すなかわはな)さん。
 砂川さんは一年先輩で私と同い年の女性だ。とても気さくで話しやすい人で、先輩社員の中では最も交流がある。
 個人的な思いとしては砂川さんを疑いたくない。入社してすぐ、不愛想な矢沢さんに放置されていた私に声を掛けてくれたのが砂川さんだった。そして、私と日和さんをランチに連れて行ってくれたのだ。それから、度々一緒にランチを食べに行くようになった。
 気を使わせてしまっていないか尋ねたときに「去年まで一番下っ端だったからちょっと先輩面したいの」と笑顔を浮かべていた。その言葉と笑顔で気持ちが楽になったのを覚えている。
 だが、一番疑わしくない人物が犯人だというのはサスペンスでは常套だ。
 接する機会が多いからこそ、私に対して苛立つことがあるのかもしれない。同じ年齢だということで私も馴れ馴れしく話し過ぎたような気はする。
 表情や態度に表われていないからといって、私に対して苛立ちを感じていない証拠にはならない。
 砂川さんには私に対していたずらをする明確な動機が見当たらない。同時に犯人説を否定する決定的な材料もない。
 砂川さんは容疑者の中で最も犯人から遠い人のように思える。


 今のところ考えられる容疑者は以上の五人だ。
 じっくり考えてみたところで犯人を特定することはできないし、矢沢さんが最重要容疑者であることも変わらない。
 もちろん、接点が少ないから嫌われていないということにはならない。自分が気付かなかっただけで、誰かをひどく傷つけているかもしれない。しかし接点がない人については考察すらできない。
 あと一つ考えられるのは、いたずらが嫌がらせではなく好意である可能性だ。密やかに私に想いを寄せている誰かが、私の気を引くためにいたずらを仕掛けているという可能性だ。
 もしもその場合は黙っていてもいつか自分の存在をアピールしてくるはずだ。
 だから今は嫌がらせとしていたずらをしていると考えて捜査をした方がいいと思う。
 私は、容疑者の五人が怪しい行動を取らないかをしっかりと観察することにした。


 雅が言う通り、私の目は曇っていて鈍くておバカなのかもしれない。薄々自覚はしていたけれど、やっぱりそうなのかと思うとちょっぴり凹む。五人の容疑者を真剣に観察していたのに、まったく尻尾がつかめないのだ。もちろん細々としたいたずらは続いている。
 いや、私が鈍いのではなく犯人が狡猾過ぎるのだ。そう自分を慰めても状況が変化するわけではない。
 多分、惜しいところまでは行ったと思う。
 昼休み前や終業時間前に矢沢さんがチラチラと私の様子を伺うことには気付いたのだ。恐らく、私が席を空けるタイミングを計っているのだろう。そう思った私は、犯行現場を押さえるために一旦席を空けてから忘れ物をしたフリをして戻ったり、時間をずらしてみたりと色々やったのだ。それでも何も掴めなかった。
 そして、矢沢さん以外の四人については、怪しい動きすら見付けることができなかったのだ。もしかして、容疑者をこの五人にしたこと自体が間違っているのだろうか。
 時間は残酷に過ぎ去り、私は暗鬱(あんうつ)とした状態で合宿研修の日を迎えることとなった。
 この合宿研修には入社三年目までの若手社員が参加する。つまり私と同期の日和さん、二年目の砂川さん、三年目の矢沢さんが参加するのだ。さらに指導官として草吹主任と用賀さんも参加する。
 山奥の合宿施設に隔離される金曜日からの二泊三日、容疑者の五人と過ごすことになる。平穏無事に終わるなんて到底思えない。
 合宿前日の夜、雅にそのことを電話で伝えると「ワオ、密室殺人が起こりそうなシチュエーションだね」と喜ばれた。
 さすがに殺人事件は起こらないと思うが、いたずらが過激になる可能性はある。気の休まるときのない三日間になりそうだ。


 バスに揺られて約二時間、山中に唐突に現れたのは、かつては白かったであろうと思われる四角い箱といった様相の建物だった。
 周辺には観光できそうな場所もお土産屋もない寂しい場所だ。良く言えば、喧騒から離れた自然豊かな場所といったところだろう。確かに会議や合宿に集中しやすい環境ではある。
 私はハッとして携帯の画面を見た。そこに電波を表すアンテナが半分程立っている。何とか携帯の電波は届いているようでホッとした。これで電波もなかったらまさに陸の孤島だ。雅の言った通り密室殺人事件の舞台めいてくる。
 合宿施設と聞いていたので、一から十まですべて自分たちでやらなくてはいけないのかと思っていたがそうでもないようだ。食堂もあるし大浴場もある。簡単に言ってしまえば、サービスやアメニティが最小限に抑えられたホテルという感じだ。研修や会議のために利用しされている施設なので会議室が充実しているのが大きな特徴だろう。
 合宿施設に到着した私たちは、ロビーで三日間のスケジュールについて説明を聞いた。
 初日の今日は、昼食の後、入社年次に別れて研修を受ける。二日目は全体のミーティングとリクリエーション。三日目は特に予定はなく帰るだけのようだ。
 スケジュール説明が終わると部屋割り表が配布された。二人一部屋になっているようだ。私の名前と並んでいたのは砂川さんだった。できれば五人の容疑者とは別の部屋が良かったが、矢沢さんでなければ少しは安心だ。
 矢沢さんの名前を探すと、なぜか草吹主任と同室になっていた。指導官と同室であることに少し違和感を覚えたが、矢沢さんがいたずら犯だった場合、草吹主任と同室であることで犯行の足止めになるかもしれない。そして、日和さんは別部署の同期と、用賀さんは別の指導官と同室だった。
 私はロビーを見渡してそれぞれの顔を確認する。
 日和さんは部屋割り表を手に同室となった人の名前を呼んで探している。
 用賀さんは指導官なのですでに部屋割りを知っていたのだろう。特に表情を変えることもなく部屋割りを確認する社員たちの様子を見守っていた。
 草吹主任はニコニコとうれしそうな笑みを浮かべて矢沢さんを見ている。
 そして矢沢さんは、草吹主任を見ながら少し険しい表情をしているように見えた。草吹主任と同室になったことで、いたずらがしづらくなったとか、目を付けられているかもしれないとか、そんなことを考えているのだろうか。
 最後に私と同室となった砂川さんを見る。砂川さんは部屋割り表をじっと見つめて微笑んでいた。私はその近くに歩み寄って声を掛ける。
「あの、砂川さん。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。はぁ、野崎さんと同室で良かった。よく知らない人だと緊張するもんね」
 砂川さんはそう言って晴れやかな笑顔を私に向けた。その笑顔を見て、私は砂川さん犯人説を完全に打ち消す。
 いたずら犯の明確な動機は分からないけれど、恐らく私のことが嫌いなはずだ。砂川さんが犯人だったとしたら、嫌いな人間と同室になってこんなに晴れやかに笑えるとは思えない。
 私もかなり気が楽になった。
 一通りの説明を聞き終え、私は砂川さんと連れ立って指定された部屋に向かった。
 宿泊する部屋は、シングルルームに無理やり二台のベッドを押し込んだような感じだった。
 砂川さんが窓側のベッドを、私が入り口側のベッドを利用すると決めて、持ち込んだ荷物をベッドの脇で解いていく。着替えの他にタオルや歯ブラシといったものも持参しなければいけなかったため、通常の旅行よりも大荷物だ。
 鞄の中から取り出した荷物をベッドの上に並べながら、私は砂川さんに質問した。
「土曜日のリクリエーションって何をやるんですか? 予定表には昼食の時間もなかったんですけど……」
「お昼は多分お弁当だと思うよ。リクリエーションの内容は直前まで分からないんだよ。毎年サプライズリクリエーションなの」
「ちなみに、去年は何をやったんですか?」
「地獄の長距離ハイキング……」
「え……」
「ゴールしたときは、みんなで抱き合って喜びをかみしめ合ったものだよ」
 砂川さんはどこか遠い目をして言う。もしや電車が止まっても歩いて帰宅できるようにするための訓練だろうか。
「おととしの内容はご存じですか?」
「ドッヂボール大会って聞いたよ」
「そっちの方が楽そうですね」
「そうでもなかったみたい。変則ドッヂボールでね、田の字のコートで四チームが争うんだって。しかもボールは三つ。もう阿鼻驚嘆だったらしいよ。しかもそれをエンドレスで続けたらしいから」
「地獄だ……」
「苦難を共に乗り越えることで固い絆を結ぶんだって」
「はぁ」
 過去二年のリクリエーション内容から察するに、今年のリクリエーションも地獄と化すのだろう。
「だから、今夜は夜更かししないで早く寝て体力を温存しておいた方がいいよ」
「はい、そうします。ありがとうございます」
 私が苦笑いを浮かべると、砂川さんも同じような笑みを浮かべていた。


 昼食後に開催された研修は、一年目の社員は『基礎力強化』、二年目の社員は『スキルアップ・ステップアップ』、三年目の社員は『リーダーシップ、モチベーションアップ』といったテーマが設けられているそうだ。
 夕方まで休憩を挟みながら三つの講座を受講する。ほとんどを同行した先輩社員が講義するようだが、一部外部講師による講義もあった。
 私たちが受けた講義の内容は新入社員研修の延長のような内容だった。だが、ゲーム的な要素も含まれていて思ったよりも楽しく受講することができた。
 最も面白かったのは、二つ目に開催された草吹主任が講師を務めた講座だ。
 A4のコピー用紙をいかに高く建てられるかをチームで競うゲームで、使用した用紙の枚数も考慮されて優勝チームを決める。役割分担とか、計画性とか、チームワークとか、経済の仕組みとか、そんなことを学ぶためのゲームらしいが、正直そんなことはあまり考えていなかった。
 草吹主任は室内をグルグル歩き回り、気分によってフーと息を拭いたり机を揺らしたりして用紙タワー建築を邪魔した。草吹主任曰く「わたしは避けられない外的要因でぇ~す」だそうだ。
 草吹主任の妨害にも倒れないタワーを作ろうと用紙を投入すれば費用が嵩む。タワーの建て方を工夫したり草吹主任の動向を観察したりしながら、ワイワイ用紙タワーを建てるのは楽しかった。
 もしも、いたずら犯が草吹主任ならば、さりげなく私が所属する班への妨害工作が多くなるのではないかと思ったが、特にそんなことは起きなかった。他の班と平等にイキイキと妨害された。
 楽しそうに妨害工作をして歩く草吹主任を見ていると、とても隠れていたずらをするようなタイプには見えない。いたずら自体は好きそうだが、その場合は「わーい、ひっかかったー」と目の前で大喜びするのではないだろうか。


 そんな感じで合宿初日はいたずら被害もなく平穏に終えることができた。
 二日目は、突然やってきた会社の偉い人の「若い頃の絆は、十年、二十年経ってからも宝として残る」的な訓話を聞く全体ミーティングからはじまった。
 サクッと全体ミーティングが終わるとリクリエーションのルール説明がはじまる。
 今年のリクリエーションは『オリエンテーリング』だった。それを聞いて、動きやすき服装(注意:長袖長ズボン)と靴で集合と念を押された理由が分かった。
 オリエンテーリングというだけならば、それほど突飛なリクリエーションではない。ペアで決められたチェックポイントをまわり、最も早く合宿所に戻ったペアが優勝となる。三位までのペアには豪華景品を用意していると発表されたところまではよかった。
 リタイヤをしてもいいけれど、その場合は地味に嫌なペナルティがあると発表されたくらいから雲行きが怪しくなっていく。
 そして、合宿施設に戻る制限時間が二十時と発表されてどよめきが起こった。もろもろ準備をして出発が十一時頃になるため、ゴールまで九時間も請けられていることになる。恐らく制限時間はゴールが想定できる時間より少し余裕を持っているだろうが、七時間から八時間は歩き回らせるつもりのコース設定だということは分かる。
しかも、草吹主任は満面の笑みで不吉な注意事項も発表した。
「暗くなったら無暗に歩き回らないで本部に電話してください。場合によっては野宿してもらうことになりま~す」
 その明るい声に一年目の社員たちはどよめきを止めて青ざめた。二年目三年目の社員たちは比較的冷静に草吹主任の言葉を受け止めているように見える。ある程度覚悟していたのかもしれない。
「スマホのGPSを使ってもいいですけど、電池の残量には注意してくだしね。いざというときに電話ができないと大変ですからね」
 草吹主任はさらに楽しそうに追い打ちをかける。もしかしたらSなのかもしれない。
 そして運命を左右するオリエンテーリングのペアが発表された。私のペアとなったのは矢沢さんだった。ざっと見回すと、一年目の社員は二年目か三年目の社員と組まされているようだ。地獄リクリエーション経験者と未経験者を組ませたのは運営側の配慮なのだろう。でも、そんな配慮をするくらいならコース設定の方を見直してほしい。
 私は目の前が真っ暗になるような気持ちになった。かなり過酷だと思われるリクリエーションの内容と、いたずら最重要容疑者の矢沢さんと山中で二人きりになる事実を突きつけられたのだ。さすがに山中で危険ないたずらはしないと思うが、何も起こらない保証もない。
 私は緊張を隠して矢沢さんに歩み寄る。
「よろしくお願いします」
そう声を掛けると、矢沢さんは無表情に「よろしくお願いします」と返した。ウソでも少し笑みを浮かべてくれればいいのに。本当に何を考えているのか分からないから怖い
「荷物を受け取りに行きましょう」
 矢沢さんに促されて配給物を受け取りに行く。
 ずっしりと重いナップサックが一人に一つ。そしてペアに一つずつ地図とコンパス、チェックカード、懐中電灯を渡された。
 そして、ロビーの床にしゃがみこみ、ナップサックの中身を確認していく。
 おにぎり二個、チョコレート一枚、ビスケット一箱、二リットルの水一本(重さの要因はこれらしい)、薄手のミニ毛布一枚、その他ゴミ袋や携帯トイレ、ミニ救急セットなどが入っていた。
「矢沢さん、これ遭難しても何日か耐えられるようになってるんでしょうか……」
 思わずぼやくように言うと、矢沢さんは何も言わず、無表情に私の顔を見るだけだった。それがやけに怖い。
「えっと、ナップサックについているこの鈴は?」
「熊よけ鈴ですね」
「え? 熊……出るんですか?」
「この辺りは大丈夫だと思います。念のためだと思います」
「そ、そうですか。まあ、鈴の音がすれば他のチームがいることも分かってちょっと安心ですよね」
 私が空笑いをして見せても、矢沢さんはやっぱり無表情だった。いたずらの件がなくても、矢沢さんと二人で過酷なオリエンテーリングをクリアするのは難しいような気がしてきた。何時間もほとんど会話せずに歩き回らなければいけないのだ。それはもう修行と言っていいのではないだろうか。
 その後、それぞれ一旦部屋に戻って支給品だけでは足りない荷物をナップサックに追加することになった。部屋に戻ると、砂川さんも同じようにナップサックに私物を入れる作業をしていた。
「お疲れ様です」
 私が声を掛けると、なぜか砂川さんにキッと睨まれてしまった。今朝までは機嫌が良かったのでびっくりしたが、あのオリエンテーリングの詳細を聞いた後なのでピリピリするのも仕方ないのだろう。
 私は砂川さんに声を掛けるのは止めて自分の鞄の中を漁った。
 山歩きに必要なものとは一体何だろう? 正直、そんなことは想定していないので、鞄の中に役立ちそうなものがあるようには思えない。それでも何か入れなくては不安なので、ハンカチやウエットティッシュなど目に付いたものを適当に放り込んだ。
 合宿所のロビーに戻ると、すでに出発したペアもあるようだ。どうやら一斉スタートではなく準備ができたペアから順次出発しているようだ。そんな話をしていただろうか。だったら、モタモタせずにさっさと降りてくるべきだった。私のせいでスタートが遅れたら、これまで以上に矢沢さんの機嫌を損ねてしまうかもしれない。
 私は慌ててロビーを見渡して矢沢さんの姿を探す。
 程なくロビーの端で草吹主任と話し込んでいる矢沢さんの姿を発見した。「野崎さん、とろくて準備が遅いんですけど」なんて愚痴をこぼしているのだろうか。少し表情が厳しいように見える。
 私は少しビクビクしながら矢沢さんの側に歩み寄った。私に気付いた矢沢さんは草吹主任と話すのを止めて私の顔を厳しい表情で見つめる。
「用意は終わりましたか?」
「あ、はい。遅くなってすみません」
「いえ。それでは出発しましょう」
 矢沢さんはそれだけ言うと、草吹主任に小さく頭を下げて歩き出した。草吹主任は笑顔で手を振っている。
 私もペコリと頭をさげて矢沢さんの後を追った。
 矢沢さんの小さな背中を追っていると、山道に入る手前でピタリと足を止めて振り返った。
「先に打ち合わせをしておきましょうか」
「え? でも、出遅れてますし急がないと……」
 遅れてきたのは私なのに、ついついそんなことを言ってしまう。
「長丁場なので多少遅れても問題ありません」
「あ、はい……」
 矢沢さんは地図を広げて見せる。私もそれを覗き込んだ。だが、正直に言うと地図を見てもさっぱり意味が分からない。
「ここが合宿所で、赤い丸がチェックポイントです」
 どこを見ても山の地形で目印になりそうなものは一切ない。ただ、チェックポイントが広範囲に渡っていることだけはなんとなく理解できた。
 そのとき、ドンと体が押されて少しよろけてしまう。私を押しのけたのはピリピリした表情の女性だった。
「そんなところに立ってたら邪魔だから」
 そんな言葉と厳しい視線を送られて私は頭を下げた。他の部署で接点のない人だが、もしやこの人がいたずら犯だったのか? と思ってしまう程の敵意をヒシヒシと感じる。
 その後ろから日和さんがヒョコヒョコと現れた。さらに用賀さんが続く。
「錦さん、パートナーに迷惑を掛けないようにしなさいよ」
「はーい」
 用賀さんの言葉に日和さんはポワンとした返事をした。用賀さんの姿は、幼い子どもを一人でおつかいにだす母親のようだ。
「そもそも、錦さんの準備が遅いから彼女は怒ってるんだからね。分かってるの?」
「はい、ごめんなさい」
「私に謝らなくていいから彼女に謝りなさい」
 先ほど私を押しのけた女性が苛ついていたのは日和さんのせいだったのか。ちょうど視界に入った私に八つ当たりしただけなのだろう。
 この様子を見ていると、いたずら犯が用賀さんか日和さんだったとしても、今日は私にいたずらを仕掛けている余裕はなさそうだ。
 つまり、私が今日警戒すべきなのは、オリエンテーリングのパートナーである矢沢さん一人ということだ。
 私は難しい顔で地図を眺める矢沢さんを見下ろした。
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