ヒナ鳥の育て方

悠生ゆう

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ヒナ鳥にサヨナラ 3 忘年会

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 結局、忘年会当日まで高乃さんとゆっくり話す時間は取れなかった。
 参加人数を考慮した結果だろう。忘年会会場はステージまで付いた広い大宴会場だった。
 高乃さんは、社員を会場に誘導し、着席させ、大人しくさせ、飲み物を全員に行き渡らせ……と、ずっと動き回っている。幹事の代表というよりは使い走りのような奮闘ぶりだ。
 しかも、高乃さんに指示らしきものを出している女性とやけに仲が良いように見える。女性は、高乃さんよりも少し年上に見える。その顔にはなんとなく見覚えがあるような気がしたが、名前までは分からない。
 胸の奥の黒いモヤモヤがさらに成長していた。
 私は会場奥の端の席にいる。高乃さんがその女性と何を話しているのかは聞こえない。たわいもない話をしているだけかもしれないけれど、高乃さんがその人に笑いかけるだけで胸の奥がキュッと痛くなる。物理的な距離以上に高乃さんを遠くに感じた。
 私はビールをチビチビのみながら、ひっそりと高乃さんの様子を伺っていた。しばらくするとようやく落ち着いたようで、高乃さんはステージ近くの席に腰を下ろして勢いよくビールを飲んだ。
 するとすかさず近くの席にいた、先ほどとは違う女性がビールを注ぐ。高乃さんはだらしなく笑ってそれを受けていた。
 それを機に、他の女性や若い男性社員が高乃さんの周りに集まり出した。やけに近い距離で話をしたり、ツーショットで写真を取ったり、よく分からないけれど手の平を合わせたりしている。
 黒いモヤモヤが喉の奥から飛び出してしまいそうで、私はグラスのビールを一気に飲み干した。
「いい飲みっぷりだね」
 すぐ隣から男性の声がして、私は心臓が止まるかと思うほど驚いた。私の右側は壁だが、左側には同じ部署の女性社員が座っていたはずだ。だが、いつの間にかその女性は別の場所に移り、代わりにはじめて見る男性が座っていた。
 真っ赤な顔をして目も少し座っているようだ。かなりお酒を飲んでいるのだろう。
「たしか、久遠さんだよね? 沼田(ぬまた)です。よろしく」
 沼田と名乗った男性は私の方へビール瓶を向ける。お酌をするという合図だ。私は少し迷ってからグラスをそちらに出した。沼田さんはうれしそうな笑みを浮かべて、私のグラスになみなみとビールを注ぐ。
「久遠さんの噂は聞いててさ、一度話してみたかったんだ」
「噂?」
「男を手玉に取る魔性の女って」
 沼田さんは値踏みするような目で私を見た。私は少し体を壁際にずらす。
「あと、女と付き合ってるっていうのも」
 高乃さんのことだ。それは公言しているので知っていても不思議ではない。だけど、なぜこの人はそんなことを言いに来たのだろう。
「男も女もいけるクチ?」
 そう言いながらニヤニヤする沼田さんの表情に鳥肌が立つ。
「どうしたの? 黙っちゃって、おしゃべりしようよ」
 そうしてジワリとにじり寄ってきた。私は反射的に後ろに下がろうとしたが、壁に阻まれてそれ以上は下がれない。
「どっちでもいけるなら、オレと一回どう? 女なんかより絶対いいと思うよ」
 そうして沼田さんはさらに体を寄せようとする。恐怖で体硬直して声も出せない。
「おい、沼田、離れろよ」
 私と沼田さんの間に無理やり体をねじ込むようにして現れたのは城田さんだった。さらに、テーブルの向こうから体を乗り出して「久遠さんにちょっかい出すな」と言う西島さんもいた。
 よく知る人たちが現れたことで、少しホッとして体の硬直が解けた。
 だが、状況が良くなったようには思えない。むしろ三倍に増してしまったような気もする。
 城田さんが「最近ゆっくり話せなかったから、今日はじっくり飲みながら話そうよ」と言えば、西島さんが「そんな奴よりオレと飲もうよ、こっち側においでよ」と言う。さらに、沼田さんが「負け犬が今更何言ってるんだか」と二人を煽った。
 他人に対する怖さは以前と比べれば薄くなっている。それでもこうして囲まれれば怖い。
 心臓の鼓動が速くなる。高乃さんに見つめられたときに感じる心地良い鼓動ではない。「今年は私がいるでしょう? 大丈夫だよ」と言ってくれた高乃さんは近くにいない。助けを求めれば来てくれるかもしれない。だけど、高乃さんは遠い席で女の子たちに囲まれている。私のことなんて、忘れてしまっているのだろう。再び胸の奥が熱くなり思わずビールを飲んでしまう。
「久遠さん、オレが注ぐよ」
 西島さんと城田さんが同時にビール瓶を向けた。そしてそのまま睨み合っているところに沼田さんがビールを注ぐ。
「おまえっ」
 城田さんが大きな声を出した。体がビクッと震える。
「おーい、男どもー」
 聞き慣れた声に心臓がトクンと鳴った。顔を上げると高乃さんが西島さんの背後に仁王立ちしている。高乃さんの顔を見て、私は少し冷静になれた。
「その子は私のだって言ったでしょう。アピールしても無駄だから」
 高乃さんは腕を組んで三人の顔を見下ろす。
「そ、そんなの分かんないでしょう!」
 果敢に口答えしたのは城田さんだ。普段、会社ではそんな態度は見せない。これも「お酒」と「無礼講」のせいだろうか。西島さんも「そうだ、そうだ」と賛同している。
「ほほぅ。体力以外で、何か私にまさるところがあると?」
 まるで悪役のように薄い笑みを浮かべて高乃さんが言う。すると、城田さんも西田さんも悔しそうな顔をしながら黙ってしまった。
 ところが、沼田さんは「いやいや、男ってだけで、俺の勝ちでしょう?」とニヤニヤとした嫌らしい笑みを浮かべながら言い放つ。
 その沼田さんの態度に、私はカッと頭に血が上るのを感じた。多分、これは怒りだ。
 当の高乃さんはあからさまにがっかりした顔でため息をついた。
「確か、沼田くんだっけ? そういうことを言ってる間は、絶対に私には勝てないよ。っていうか、モテないよ。その点は、西島くんや城田くんの方が勝ってるね」
 沼田さんは顔に怒りをにじませて少し腰を上げた。それに対して、西島さんと城田さんはうれしそうな顔で高乃さんを見上げている。
 そのとき、高乃さんの横に女性が歩み寄って、高乃さんの肩に腕を回す。
「そうだぞ、沼ちゃんモテないぞ。それに、酒の席だからってあんまりオイタが過ぎると、お姉さん、怒っちゃうぞ」
 とても軽い口調だったが、沼田さんの背筋がピシッと伸びた。
 その女性は、先ほどから高乃さんに指示を出して親し気にしていた人だ。
「キミたち、女の子に魅力をアピールしたいなら、ステージで美声でも披露してきたまえ」
 女性の声に合わせるように、高乃さんが西島くんの肩をポンと叩く。それを合図に三人は立ち上がり、ふらつく足でステージへと向かった。
 私はホッと肩をなでおろして改めて高乃さんを見た。かっこよくてドキドキするし、もっと早く来てほしかったと怒りたいし、うれしかったと抱き着きたいし、側にいなくて寂しいと泣きつきたい。そして、隣でまだ絡みついている女性は何者なのかと問いただしたい。
 グルグルと渦巻く色々な感情で、何を話せばいいのか分からなかった。
「で、梓はなんでこんなところでサボってるの?」
 女性が言った。高乃さんの名前を呼び捨てにしている。
「サボっているわけではないですよ」
 高乃さんは呼び捨てにされたことを気に留めてもいないようだ。つまり、普段からそう呼ばれている関係なのだろう。胸が苦しい。
 女性は高乃さんから体を離すとしゃがみこんで私の顔を覗き込む。
「ふーん」
 何か言いたげな顔でジロジロと見られるのはいい気分ではない。
「ちょっと、戻りますよ」
 高乃さんは慌てて女性の腕を引いて立ち上がらせた。
「久遠さん、近くにいられなくてゴメン。代わりにお守りを配備しておくから」
 高乃さんは手を合わせて謝罪の意を示すと、女性を引っ張ってステージの方に去って行った。
 少しすると「お守りです」と言いながら、板垣さんが私の隣に座った。
「まあまあ、そんな顔しないで」
 板垣さんは苦笑いを浮かべて言う。自分がどんな顔をしていたのか分からなくて頬に触れて確認する。
「久遠さん、ボクのこと嫌いだよね」
 と、板垣さんがこともなげに言った。背中に緊張が走る。
「いやいや、いいと思うよ。前よりもずっといい」
 そうして笑う板垣さんは嘘をついているようには見えなかった。
「嫉妬だろう? まあ、惚れた相手が、別のヤツと仲良くしてたらイヤだよな」
「嫉妬?」
 そう言われれば、そうなのかもしれない。板垣さんが悪い人だとは思わない。それなのに嫌いだと思ったのは、高乃さんと仲良くしているからだ。
 それと同じ感情をさっきの女性にも持った。
「ボクと高乃は、そういうことにはならないから安心していいよ」
「だけど、高乃さんは、板垣さんのことを信頼していますよね。今だって……」
 自分の代わりにと板垣さんを連れてきた。それは、板垣さんを強く信頼しているからだ。それは、好きということとは違うのだろうか。
「信頼じゃなくて、安全牌だと思ったからだろう」
 板垣さんは楽しそうに笑ってグラスを空にした。私はビール瓶を手に取って注ごうと構える。
「いや、いいよ。手酌の方が気楽で好きなんだ」
 そう言うと板垣さんは、私の手から瓶を取って自分でビールを注いだ。
 その間にステージの方をチラリと見ると、高乃さんは先ほどの男性三人組とカラオケの前でワイワイやっていた。近くにあの女性の姿はない。
「高乃とボクが同期入社なのは知ってるよね?」
 その声に私は、板垣さんの方に向き直って「はい」と答えた。
「入社してしばらくしたときに、相手のいない同士をくっつけようぜって、ありがた迷惑な企画したヤツがいたんだよ」
 板垣さんは手酌でビールを継ぎ足しながら話を続ける。
「そのせいで、なんか高乃とデートみたいなことをさせられてさ」
 その言葉に一瞬イラっとすると、板垣さんは楽しそうに「そんな顔しないで」と言った。
「そのときに高乃に言われたんだよ。『私は女の子しか好きにならないから。それに、もしも板垣くんが女の子でも、好みじゃないから無理』って」
 驚いて目を見開くと、板垣さんはとても楽しそうに笑った。そして、少し辺りを気にするようにキョロキョロと視線を動かすと、少し身をかがめて声を潜めた。
「で、その後、『板垣くんも同じでしょう?』って。まあ、ボクの場合、高乃が男だったら惚れてたかもしれないけどね」
「そ、それって……」
「高乃とボクの仲がいいのも、久遠さんのお守りにボクを選んだのも、そういうこと」
「え、えっと……びっくりしました」
 板垣さんはやさしい笑みを浮かべた。
「ボクは、高乃以外にはカムアウトしてないから、内緒だよ」
 私は両手で口を押えてコクコクと頷く。
「それにしても、久遠さんは随分表情が豊かになったよね」
「そう、でしょうか?」
「うん。最初はボクも結構心配してたんだよ」
 そんなに変わった意識はない。だが、高乃さんと付き合うようになって、それまでの自分の行動が正しくなかったことは、なんとなく分かるようになった。
 嫌われないように、怒らせないようにと、相手の気持ちだけを考えていた頃は、次第に人が離れて行って、私はいつも孤独だった。
 高乃さんに会い、高乃さんを信じて、少しずつ自分の意見が伝えられるようになって、周りの人たちの雰囲気が変わった。驚いたことに、私が意見を伝えても相手が怒ることはなかった。むしろ、好意的に対応してもらえることもある。
 分かってきたのは、以前の私は、扉を閉めて小さな窓から見える相手の気持ちの一部だけを受け取ろうとしていたということだ。
 相手が怖いから扉は開けられない。だけど、嫌われたくないから、相手の想いを汲もうとした。自分の姿は見せないまま、小さな窓から見える小さな事実だけがすべてだと思い込んでいた。
 高乃さんは、その小さな窓から私を覗き込み「そこから出ておいで」と手を差し伸べてくれた。
「高乃さんは、本当にすごいです。私なんて、高乃さんには釣り合わない……」
 そうだ。釣り合わないのだ。それなのに、拗ねたり、焼きもちを焼いたりしてしまった。
「まあ、確かに高乃はなかなかのヤツだと思うけど、そんなにすごいってこともないと思うぞ」
「そんなことはありません。すごいです」
「本当にすごいヤツは、うっかり部下に落とされたりしないだろう」
「落とされる?」
 私のことを言っているのだろうか。
「そ、それは、私が高乃さんを好きになってしまっただけで……」
 言いかけて顔が熱くなる。
 板垣さんはビールを飲みながらケタケタと笑った。
「そうか? 久遠さんがウチの部署に来たときから、高乃はずいぶん君のことを気にしてたと思うぞ。必死に体面は保ってたけどな」
 そう言うと板垣さんはさらに楽しそうに笑った。
「朝礼で宣言したのだって、君を守るためってのもあったんだろうけど、概ね独占欲だろう。高乃なんてそんなもんだよ。久遠さんの前でカッコつけてるだけ」
 私は釈然としない気持ちで板垣さんの言葉を聞く。
「こらー、梓、逃げるな!」
 唐突耳に届いた声に、私はステージを見る。先ほどの女性が高乃さんとじゃれ合っていた。私と高乃さんとは釣り合わない。そう思ったばかりなのに胸の奥に嫉妬が生まれる。
「高乃も大変だ……」
 板垣さんがつぶやいた。
「えっと、あの人のこと、知ってますか?」
「光城(みつしろ)沙理奈(さりな)さん。ボクと高乃が新人だった頃にお世話になった人だよ」
 光城さんに絡まれている高乃さんは怒ったような顔をしているが、それが作った表情だということはすぐに分かる。
「今回、高乃に幹事をするように指名したのもあの人だよ。ボクも高乃もあの人には頭が上がらないからな。高乃も随分こき使われてたみたいだな」
 光城さんとじゃれ合う高乃さんは、いつもより少しだけ幼く見えた。
 胸の奥がジリジリする。私はグラスを空にすると、板垣さんからビール瓶を奪ってグラスに注ぐ。そして、それも一気に飲み干した。
「もしかして……」
 高乃さんと光城さんは付き合っていたんですか? 板垣さんに聞きたいと、喉元まで出たその言葉をビールと共に飲み込んだ。
「ハーイ、豪華景品が当たるビンゴだよー」
 陽気な光城さんの声が会場に響き渡る。
 高乃さんと光城さんは肩を寄せ合って楽しそうに数字を引き、順番に発表していく。
 胸の熱さが止められない。私には、ビールで押し流すことしかできなかった。
 いくつかの数字が読み上げられたとき、板垣さんが私の左手を持って高くつき上げた。
「久遠さんがビンゴ!」
 板垣さんの声に自分の手元を見ると、ビンゴカードの一列がきれいに開いていた。数字なんて聞いていなかったので、恐らく板垣さんが代わりにやってくれていたのだろう。
「はーい、じゃあ、景品渡すから前に来て~」
 光城さんに呼ばれ、私はふらつく足で立ち上がってステージへと歩み出た。
 光城さんは満面の笑みを浮かべている。その笑顔はまぶしい太陽のようだった。まぶしすぎて焼けてしまいそうだ。
「ちょっと、ふらついてるけど大丈夫? 飲み過ぎた?」
 高乃さんが心配そうな顔で私の体を支える。
「梓はヒヨコちゃんを甘やかしすぎ」
「ちょっと、サリー」
 私は酔っぱらい過ぎて耳がどうにかなったのかと思いたかった。「梓」「サリー」と呼び合う会社の先輩と後輩なんて見たことがない。私なんて、付き合っているのに「久遠さん」「高乃さん」としか呼び合っていない。
 光城さんは、私の顔を見ると挑発的な笑みを浮かべた。そして、私から視線を逸らすと何事もなかったかのように「ヒヨコちゃんには、朝起きられないグッスリ枕が当たりましたー」と景品を読み上げた。
 さっきの笑みの意味を問いただそうと一歩踏み出すが、うまく足に力が入らない。
「久遠さん、ちょっと休もうか?」
 高乃さんが私を支えてやさしい声で言う。
「梓は仕事があるでしょう。板垣、その子を連れてって」
 光城さんの指示で板垣さんが素早く駆け寄って、高乃さんの代わりに私の体を支える。
「サリー、久遠さんは私が……」
 高乃さんの言葉を止めて、光城さんが高乃さんの耳元で何かを囁いた。「でも」という高乃さんを押しとどめてさらに何かを話す。そして、意味深な笑みを浮かべて私を見た。
「板垣、早くその子を休ませてあげて」
「あ、はい」
 板垣さんは「歩ける?」と言いながら、私を会場の外へと連れ出した。
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