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第一章 紗夜と蛙
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しおりを挟む収穫祈願祭の前夜。満月が美しく輝く夜でした。
夜宮での役目を終えた後、私は巫女の装束さえも着替えぬまま、祭りを抜け出しました。
いよいよ明日が祈願祭の本番です。私の龍神の巫女としての本格的な「初仕事」となる日なのです。私に特別な神通力がない事を村人たちはまだ知りません。それどころか、村人たちは私の父が龍神の神官として雨を降らせたように、明日私が村に雨を降らせると信じ切っているのです。
「紗夜様、明日はよろしくお願いいたします。」
「巫女様が村を救ってくださることを信じております。」
そのような声をかけて下さる村人たちの目を、私はまっすぐに見ることができませんでした…。
そして、言い知れぬ羞恥の情に駆られた私は村を飛び出し、たった一人で妖の棲む魔の山と呼ばれる龍神山へ向かったのです。
今夜中に主様にお会いして願いを聞き入れていただければ、夜明けまでには村へ戻って来るつもりでおりました。
漆黒の闇の中、私はたった一人で提燈(ちょうちん)の弱い明りだけを頼りに、龍神山の山頂にあるという湖を目指しました。人間の寄り付かない深い森の中には道など無く、常に闇の奥から複数の視線に監視されているような圧迫感があり、道のりは捌け口の無い耐えがたく陰鬱なものでした。それは全身の血液が逆流してしまうほどの恐ろしさでした。
「主様…、どうかお助け下さい…。この痩せ細った村の大地に雨を…。」
私は押し戻されるほどに深い闇の中で、恐怖のあまりうわ言のように呟いていました。
「(お困りか?)」
「…?」
「お困りなのですか?」
突然背後から発せられた言葉に、耳のそばで大砲を撃たれたように驚きました。全身の毛穴から汗が噴き出し、心臓は今にもこの胸をブチ破り駆けだしそうなほど激しく鼓動しています! ガタガタと制止することができない震えと闘いながら振り返ると、提燈の微かな光に浮かび上がる足元に、何処から現れたのか、一尺(約30㎝)ほどもあろうかという大きな蛙が這いつくばっているではありませんか…!!
この蛙が真ん丸の瞳で私を見つめながら、人間の言葉を喋っているのです!!!!!
「巫女殿、口づけして下さるなら…」
「は…?」
「…貴女のお力になります。ですから、お願いします。貴女の口づけを!!」
じわじわとにじり寄る蛙。全身の生皮を剥がれるような圧迫感。
「い…嫌ぁぁぁぁ!!!」
長く正視するに堪えません。私は既に半狂乱になっておりました。恐怖におののく私の全身の毛穴が全開に開き、冷や汗が噴き出して巫女の装束と肌の間を滝のように滑り落ちてゆきました。
「お待ち下さい、巫女殿!」
「いっ、嫌です…!!」蛙の呼びかけを振り切って、私は一目散に逃げだしました。
痴漢、辻斬り、いいえ…蛙。
16歳になったばかりの私は、よりによって龍神山の蛙に誰にも許したことのない唇を狙われ、闇の中を文字通り闇雲に逃げ回りました。
蛙に追われるあまりの恐怖に、先程までは押し返されるほどの圧力を感じていた暗闇の中へ自ら飛び込んでしまったのです。
「巫女殿、その先は危ない!!」
「?!」
目の前を覆う茂みを勢いよくかき分けたところで少しばかり視界が開けました。それと同時に私の目にとび込んできたのは、私の背丈よりもはるかに大きな一間(1.81m)以上もある犬!? …人間界の生き物で無いことは確かです。
龍神山に棲む妖、魔犬でした。
私が突然驚かせてしまったせいでしょうか?
それとも、もとより人間に対しての憎悪を持っていたのでしょうか…? 剥き出しの牙には既に爆発的な殺意が纏わりついています。
「貴様は憎き人間ではないか!!。この地は我らの領分ぞ!!。喰い殺してくれる!!!」
人間に対する激しい恨みと剥き出しの殺意を叩きつけられ、私の瞼の奥に「死」がちらつきました。恐怖のあまり息が詰まり動けませんでした。
たった一人で村の運命を背負い、雨を降らせるために龍神山に足を踏み入れた哀れな巫女は、志半ばにして魔犬の牙に嚙み裂かれて死ぬのです。
「巫女殿!!」蛙が私を呼びます。
「?」
「脱いで!」
「は!?!?!?!?!?!?!?(どさくさに紛れて何という事を!?)」
呆然とする私には構わず、この助平蛙は「むにゃむにゃむにゃ…」と奇妙な呪文のようなものを唱えます。すると、何ということでしょう!!
私が身につけている巫女装束の千早(巫女が神事の奉仕や、神楽(かぐら)を舞うときなどに使う、儀礼用の衣装。白衣の上に羽織る。)が、風も無いのにバサバサとなびき、前をゆったりと留めただけの緋色の飾り紐は瞬く間に千切れてしまいました。
間違いありません、この蛙は神通力を使ったのです!
私の千早はあっという間に脱がされ宙に舞いました。これは、唇を奪われるだけでは済みそうにない極めて危険な展開です。何をされるのでしょうか? 精神を破壊するほど恐ろしい事態が脳裏を駆け巡ったのです。
しかし、それは杞憂でした。
宙を舞った千早は私に迫りくる魔犬の殺気立った牙の前に舞い降りてきたかと思えば、突如激しい光を放ち発火したのです。それは目の前で白い爆発を起こしたような閃光で目を貫きました。
「お前は、もしや…!!」
魔犬の驚きに満ちた叫び声が響きました。
私の閃光の中で視界を奪われ、暫くの間何も見ることが出来ませんでしたが、そんな中でも魔犬は「何か」を見たようでした。
私の視力が戻る頃には魔犬の姿はここにはなく「それ」が一体何だったのかは解かりませんでした。しかし、わかった事もありました…それは、
この蛙は神通力を使い私の千早を発火させて魔犬を追い払ったという事。
そしてこの蛙に私は命を助けられたという事です…。
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