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藤
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ある日、幸子が仕事を終えて、帰宅すると、珍しく沈んだ顔をしていた。
「どうした?」
と哲雄が活気のない様子の訳を尋ねた。
幸子から訳を聞いて、哲雄は腰を抜かしそうになった。職場で、婦人服売り場前の看板を季節に合わせて藤の柄にして欲しいと指示があったのを忘れてしまい、自分の指導の元で部下たちが違う柄にしたら、上司に呼び出され、油を絞られたと言う。それに、藤の柄にして欲しいと言われたことが全く記憶になくて、叱られて、ぐうの音も出ないくらい混乱したと、幸子が自分でも腑に落ちない様子で哲雄に話した。
哲雄の屁理屈ならともかく、幸子が何か大事な指示をうっかり忘れるような性格ではない。
「きっと、あの上司が悪いんだ。忙しすぎて、指示していないことを指示したつもりで、自分に向けるべきなのに、幸子に怒りの矛先が向を向けちゃったんだ!きっと、そうだ!」
哲雄が幸子を慰めようと、自信満々に言った。哲雄の中には、幸子の記憶力を疑う余地はない。なんせ、いつも忘れ物をしてしまっているのは、自分の方である。
しかし、哲雄がそう励ましても、幸子はまだ振り切れない様子で、食事の支度を始めた。
テーブルに乗ったものを見ると、哲雄は、思わずよだれが出そうになった。親子丼だった。親子丼は、いつも幸子が哲雄に元気を出してもらうために作るメニューだと言うのに、どうして自分自身の気分が塞ぎ込んでいる時にまで作ってくれるのだろう。哲雄は、一瞬引っかかった、深く考えずに、有り難くいただくことにした。
最初の一匙を口まで運び、顔をしかめた。親子丼にしては、塩辛かったからである。哲雄は、自分の味覚のせいかもしれないと疑い、もう一匙を口に入れて、確かめた。しかし、二口目も、やっぱり、塩辛かった。あたかも、醤油しか調味料を入れていないような味がする。
「おかしいなぁ。」
哲雄が首を傾げながら考えた。40年に及ぶ結婚生活だが、幸子がここまで味付けが外れたのは、初めてのことである。40年間、幸子の料理を毎日食べて来たのだが、これまで「不味い!」と吐き出したくなるようなものは、一度も卓上に出たことがない。しかし、目の前の親子丼は、紛れもなく不味かった。議論の余地はなかった。
「幸子、この親子丼は、塩っぱいよ。」
思ったことを何でもぶっきらぼうに言う癖の哲雄がそのまま言った。
「あ、そう?」
幸子が自分の作った親子丼を一口掬い、口に運んだ。口に入れて、すかさず幸子が顔をしかめた。
「不味い!」
幸子が自分を戒めるように言い捨てた。
哲雄は、それ以上何も言わないことにした。幸子は、職場でミスをし、大目玉を食うという辛い経験をしたばかりだから、きっと疲れが溜まっているに違いない。味付けに失敗したことで大袈裟に心配したり、問い詰めたりすれば、真綿で首を絞めるようで、幸子のためにはならない。哲雄は、幸子は、疲労が溜まっているということで、事件を処理することにした。
ところが、幸子の失敗は、親子丼の味付けでは終わらなかった。別の生活の人間なら、「軽率」や「不注意」で片付けらるようなミスを幸子が毎日犯すようになった。しかし、幸子の几帳面で、律儀な性格を考慮すると、たとえ疲労状態にあったとしても、尋常ではないと判断せざるを得ない程度だった。すでに冷蔵庫に在庫のあるものを間違えて買ったり、友人とのお茶の約束を忘れたり、出勤日と休日を混同したり、鍵を玄関の鍵穴に挿したまま上がったりと、幸子は、普段の振る舞いからすれば、「異常」としか言いようがない失敗を繰り返した。
幸子の顕著になった不注意の症状が、子供たちにも気づかれ、哲雄が度々尋問された。「いつから物忘れの症状が出たのか」、「何かきっかけがあったのか」、「幸子は自分のミスについて自覚しているのか」などと、子供が会いに来るたびに、本人に質問するのを避け、哲雄が矢継ぎ早に質問を浴びせられるようになった。
しかし、自分の今の状態が前とはあからさまに違うという自覚をしっかりと持っていた幸子は、誰より途方に暮れ、辛そうだった。
とうとう、母親の辛い姿を見兼ねた美恵子は、幸子を病院に連れて行くと言い出した。病院や医師が苦手中の苦手で、出来れば関わらずに、こっそりと息を引き取りたいと密かに願っている哲雄は、「疲労が溜まっているだけなのに、騒ぎすぎじゃない?」と反対したが、美恵子は、後へ引かなかった。美恵子が電話でアポを取り、幸子が病院で診て貰えることになった。
「どうした?」
と哲雄が活気のない様子の訳を尋ねた。
幸子から訳を聞いて、哲雄は腰を抜かしそうになった。職場で、婦人服売り場前の看板を季節に合わせて藤の柄にして欲しいと指示があったのを忘れてしまい、自分の指導の元で部下たちが違う柄にしたら、上司に呼び出され、油を絞られたと言う。それに、藤の柄にして欲しいと言われたことが全く記憶になくて、叱られて、ぐうの音も出ないくらい混乱したと、幸子が自分でも腑に落ちない様子で哲雄に話した。
哲雄の屁理屈ならともかく、幸子が何か大事な指示をうっかり忘れるような性格ではない。
「きっと、あの上司が悪いんだ。忙しすぎて、指示していないことを指示したつもりで、自分に向けるべきなのに、幸子に怒りの矛先が向を向けちゃったんだ!きっと、そうだ!」
哲雄が幸子を慰めようと、自信満々に言った。哲雄の中には、幸子の記憶力を疑う余地はない。なんせ、いつも忘れ物をしてしまっているのは、自分の方である。
しかし、哲雄がそう励ましても、幸子はまだ振り切れない様子で、食事の支度を始めた。
テーブルに乗ったものを見ると、哲雄は、思わずよだれが出そうになった。親子丼だった。親子丼は、いつも幸子が哲雄に元気を出してもらうために作るメニューだと言うのに、どうして自分自身の気分が塞ぎ込んでいる時にまで作ってくれるのだろう。哲雄は、一瞬引っかかった、深く考えずに、有り難くいただくことにした。
最初の一匙を口まで運び、顔をしかめた。親子丼にしては、塩辛かったからである。哲雄は、自分の味覚のせいかもしれないと疑い、もう一匙を口に入れて、確かめた。しかし、二口目も、やっぱり、塩辛かった。あたかも、醤油しか調味料を入れていないような味がする。
「おかしいなぁ。」
哲雄が首を傾げながら考えた。40年に及ぶ結婚生活だが、幸子がここまで味付けが外れたのは、初めてのことである。40年間、幸子の料理を毎日食べて来たのだが、これまで「不味い!」と吐き出したくなるようなものは、一度も卓上に出たことがない。しかし、目の前の親子丼は、紛れもなく不味かった。議論の余地はなかった。
「幸子、この親子丼は、塩っぱいよ。」
思ったことを何でもぶっきらぼうに言う癖の哲雄がそのまま言った。
「あ、そう?」
幸子が自分の作った親子丼を一口掬い、口に運んだ。口に入れて、すかさず幸子が顔をしかめた。
「不味い!」
幸子が自分を戒めるように言い捨てた。
哲雄は、それ以上何も言わないことにした。幸子は、職場でミスをし、大目玉を食うという辛い経験をしたばかりだから、きっと疲れが溜まっているに違いない。味付けに失敗したことで大袈裟に心配したり、問い詰めたりすれば、真綿で首を絞めるようで、幸子のためにはならない。哲雄は、幸子は、疲労が溜まっているということで、事件を処理することにした。
ところが、幸子の失敗は、親子丼の味付けでは終わらなかった。別の生活の人間なら、「軽率」や「不注意」で片付けらるようなミスを幸子が毎日犯すようになった。しかし、幸子の几帳面で、律儀な性格を考慮すると、たとえ疲労状態にあったとしても、尋常ではないと判断せざるを得ない程度だった。すでに冷蔵庫に在庫のあるものを間違えて買ったり、友人とのお茶の約束を忘れたり、出勤日と休日を混同したり、鍵を玄関の鍵穴に挿したまま上がったりと、幸子は、普段の振る舞いからすれば、「異常」としか言いようがない失敗を繰り返した。
幸子の顕著になった不注意の症状が、子供たちにも気づかれ、哲雄が度々尋問された。「いつから物忘れの症状が出たのか」、「何かきっかけがあったのか」、「幸子は自分のミスについて自覚しているのか」などと、子供が会いに来るたびに、本人に質問するのを避け、哲雄が矢継ぎ早に質問を浴びせられるようになった。
しかし、自分の今の状態が前とはあからさまに違うという自覚をしっかりと持っていた幸子は、誰より途方に暮れ、辛そうだった。
とうとう、母親の辛い姿を見兼ねた美恵子は、幸子を病院に連れて行くと言い出した。病院や医師が苦手中の苦手で、出来れば関わらずに、こっそりと息を引き取りたいと密かに願っている哲雄は、「疲労が溜まっているだけなのに、騒ぎすぎじゃない?」と反対したが、美恵子は、後へ引かなかった。美恵子が電話でアポを取り、幸子が病院で診て貰えることになった。
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