記憶のかけら

Yonekoto8484

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第7話

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昔の記憶はなかなか衰えないのに対し,新しい出来事が記憶されないにくいというのは,アルツハイマー病の特徴の一つだ。祖母も例外ではない。

ある日うちに来ているときに
「もうすぐ夕食の時間だし支度があるからそろそろ帰らなければ」
とイライラし出した。地下室で何か作業をしている母の指図通り,
「今はまだ帰っちゃダメだよ。後で送るから待っていてね」
と返事した。祖母は私の返答を気に食わなかったようだった。

「帰って晩ご飯の支度をしないと母が心配するから,私は今すぐ帰る。歩くから送らなくていい。」
と素っ気なく言ってきた。

ここで驚いたのは,祖母が帰りたいと言っている場所は祖父と暮らす家ではなく,自分が生まれ育った家だったということ。そして,私が生まれるよりずっと前に亡くなっている母親が心配で自分の帰りを待っていると思い込んでいること。母によると,祖母が生まれ育った家は火事で全焼したからもう存在しないみたい。なのに,祖母は今あの家に帰ろうとしている。もしまだあったとしても,私の家から車で一時間ほど移動しないといけない距離だ。なのに,徒歩で行くと言っている。亡くなって十五年以上経つ母親もまだ生きていて自分が帰ってきてご飯の支度をするのを首を長くして待っていると信じている。

しかし,これはたとえ他人から見て出鱈目なことを言っているように聞こえても,祖母の現実だった。祖母は真剣で,変なことを言っているつもりは毛頭ない。彼女の中では母親はまだ元気で,生まれ育った家もまだ立派に建っている。その現実を否定しても,祖母が困惑して,狼狽るだけだ。私にはそんなことはしたくない。

だから,余計なことを何も言わずに
「今はダメだって」
と祖母を引き留めようとした。

そしたら,祖母はかなり腹が立って
「あなたは子供だ。私は一人前の大人だ。何で私があなたの言うことを聞かなければいけないわけ!?」
と怒ってきた。

確かにその通りだと思った。私は子供で,祖母は大人だ。確かに私のいうことなんか聞かなければならない理由は何もない。反論できないと思った。祖母の言っていることは最もだ。だから,母に私と祖母を二人置いて,地下室に行くのをやめてほしい。

祖母は,
「じゃ,行くわ」
と言い捨ててから外に出て行ってしまった。

お手上げだった私は母を呼びに行った。母は慌てて追いかけ,祖母をなんとか連れて帰った。しかし,まだ説得中だったようできつい言葉のやりとりが続いている。

「お母さん,あの家はもうないって!とっくに焼けたの!」

「そのはずはない!その話,聞いてない!」

「おばあちゃんも,もういないよ。天国にいるよ」

「何を言ってるの!?死んだら,私に報告が来るはずだ。娘だもん!私は聞いてないのに死んでいる訳がない!」
祖母はむっきになって母の言うことにいちいち反論する。

「祖母は困っている。母があんふなこと言って,可哀想だ。大人が対応してもこの有様か。もう少し上手くやれないのかな」
と内心で思ったのは覚えている。でも,今なら母も必死だったことも理解できる。

大学生になって心理学の授業で,「世界や現実は生きている人間一人一人にとってびっくりするぐらい違う」
という説明があったときになんの違和感や驚きもなく,すーっと受け止め肯けたのも、この経験があったからなのかもしれない。
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