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心月
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長い夏のいつまでも容赦なく長引く猛暑には,これ以上耐えられないと思いきや,ある日,秋の到来を感じさせる気候の変化が訪れた。ずっと気を張っていた体も,心も,酷い熱暑から解放されて,肩から力が抜け,ほっこりする感覚を覚えた。
日中の空には,暖かい陽射しを浴びせてくれる陽気な太陽が,夜空には,空の鏡が,浮かぶ季節がやって来た。カラッとしていて,澄んだ空気を吸い込むだけで,力と元気が湧いてくる。
樹々の葉っぱは,少しずつ彩り始めたものの,依然として,しっかりと樹木の枝にしがみついて,離れない。初秋の到来だ。
澄んだ空気に包まれた,ぽかぽか陽気の空に光る太陽の真下に,中年の夫婦が並んで座る。
「人間をもうやめようと思う。決めたんだ。」
人魚の海保菜が切り出した。
「やめるって,最初から人間じゃないだろう?」
「体は,もうそろそろ限界だし,子供たちのこともあるし,私は,人間芝居をやめて,みんなで暮らせる場所を探すことにしばらく専念する。」
「それがいいと思う。僕も,いつでも仕事をやめられるように準備しておく。
でも,子供たちは,どう思うかな?」
「まだ話していない。今夜,話してみる。」
「よかった。これで,あなたは,もう苦しまなくていい。ずっと,心配して来た。普通に他の人魚と結婚して,海の中で暮らしていたら,苦痛を感じることもなかっただろうに,僕なんかを選ぶから…。」
「いいの。自分の選んだ道だし、私は,こういう運命だったのかもしれない。
でも,色々と状況は変わって来たから,その運命を変える。変えられるものなら,違う道を選ぶ。」
その晩,海保菜は,保奈美と龍太に,「話があるから浜辺へ行こう。」と誘った。
「私は,もう人間をやめることにした。」
海保菜がいきなり言った。
「人間をやめるって…人間じゃないのに?」
保奈美が言った。
「陸での暮らしを諦めるってことなの。体は,そろそろ限界だし,随分前から,お父さんと話していたんだ。みんなで無理せずに暮らせるところに行きたいって。だから,私はもう人間に扮装して暮らすのをやめて,私たちの新しい住処(すみか)を探すことに集中しようと思っている。きっと,どこか良い場所があるはずだ。
でも,あなたたちは,どう思う?学校に通えなくなるかもしれないし,きっと,街からかなり離れたところになると思うけど,いい?ついてくる?」
「もちろん,ついていくよ。」
龍太が言った。保奈美も,頷いた。
「学校は,もういいし。みんなで暮らせるなら,どこへでも行くよ。」
保奈美が言った。
海保菜は,頷いた。
「ありがとう。じゃ,私がこの姿で過ごすのは,いよいよ,今晩が最後だということになるね。別に,寂しくはないけど…感慨深いところは,あるね。
私は,陸で人間の隣で暮らして,弟と私がやったことを償いたいともしかして思っていたかもしれない…でも,無理をして,自分に苦痛を与えることは,償うことじゃないことがようやくわかった。私は,自分を赦してみる。充分反省したし…もちろん,忘れないけど…。」
「お母さんが一人で新しいところを探すの?」
龍太が尋ねた。
「そのつもりだよ。お父さんより,私の方が自由に動けるし,探しやすいから。」
「僕たちにも,手伝わせてよ。」
「え?」
海保菜には,息子の言っている言葉の意味がよくわからなかった。
「ずっと,二人で話しているけど…お母さんって,私たちがもう変わらなくていいような体に出来るでしょう?」
保奈美が説明した。
海保菜の顔が一瞬で暗くなった。
「しないよ。頼まれても,しない。」
「…して欲しい。もう,嫌だよ。いつまでも,落ち着かないのは,嫌だよ。ちょっとずつ,ちょっとずつ変わるより,変えてもらった方が楽だけど。」
保奈美は,訴えた。
「どうせ,いずれそうなるでしょう?なら,いいんじゃない?」
龍太が言った。
「あなたたちがどこまで変わるかは,まだわからない。いつか,人間に戻れなくなるかどうかも,わからない。私から見て,その可能性は高そうに見えるのは,事実だけど…。
でも,いつか,そうなる運命だとしても,焦らずに,人間としての残りの時間を楽しんだら?」
「苦しいよ!」
保奈美がイライラして来て,大きな声で言った。
「人魚になって,歩いたり,走ったり,立ったり出来なくなるのも、苦しいと思うけど…。」
「そんなのは,もういいって!もう四年も,ずっとこの苦しみが続いているから、早く解放されたいの!前は,大人になってから決めてと言ったけど,もう十六歳だし,子供じゃない!」
「僕も,もう子供じゃないし。」
「私は,しない。自分の手で,子供の自由を奪うことなんて,出来ない。人魚になるなら,自分でして。」
「やり方がわからない。やり方を教えて。」
龍太が言った。
海保菜は,すぐに答えずに,子供から目を逸らし,海と空を眺めた。夜空は,眩しかった。澄んだ空気に満月が浮かび,その周りに無数の星が月明かりの強さに負けまいと,キラキラと瞬き,輝いていた。
保奈美と一緒に見た星月夜の空を思い出した。夜空があの時と同じくらい,眩しく感じる。あれから,随分と色々あったのだ。あの時,初めて浜辺まで会いに来てくれて,「もう怖くないよ。」と人魚の自分を抱擁した娘が今度,「人魚になりたい。」と弟を味方につけて,言い出したのだ。なんてことだ。
でも,あの時とあからさまに違うのは,保奈美と龍太は,彼らがいう通り,もはや,子供ではないということだ。娘と息子が決めたことなら,親としては,渋らずに尊重しないといけない。彼らの人生だから。
「私は,しないけど,心を決めていれば,どうぞ。その思いで,海に入れば,海が自分のものにするよ。海は,全てを飲み込むからね。あなたたちが,まだ人間に戻れるのは,心のどこかで,戻りたいと思っているから,海の力に逆らっているからだ。そこがなくなれば,残っている人間らしさを海が瞬時に飲み込み,無にするよ。呪いとかは,要らない。
でも,決める前に,じっくり考えるのよ。人間の生活に少しでも,未練があるなら,やめておくべきだよ。人魚になるのは,いつでも出来る。望まなくても,いつか,なってしまうかもしれない。でも,一旦その体になってしまえば、泣いても,喚(わめ)いても,もう二度と人間には,戻れないよ。」
保奈美と龍太の表情を見ると,迷っていることがよくわかる。気持ちは,揺らいでいる。
「心には,少しでも迷いがあれば,今はやめとけ。もう少し,考えて。」
保奈美と龍太は,頷いた。
「じゃ,私は,もうあの家には,戻らないから,しばらくお父さんと待っていてね。良い場所が見つかれば,知らせるから。」
「探すのに,どのくらいかかりそう?」
「わからないよ。やってみないと…。
人間を楽しんで,待っていてね。」
海保菜が目配せをして,二人を抱きしめてから、海に飛び込み,姿を消した。
保奈美と龍太が二人で夜空を静かに眺めながら,帰路についた。
「ねぇ,今年,落ち葉が散ったら,山を作らない?小さい頃のように。」
龍太が提案した。
「いいね。」
保奈美は,すぐに賛成した。
数週間が経ち,落ち葉が散り始めた。その週の土曜日に,二人は早起きをして,熊手(くまで)を持って,出掛けた。公園に着くと,二人は,ひたすら熊手で落ち葉をかき集めて,大きな山を作った。
この早い時間帯の公園には,人の姿はほとんどなく,静かだ。落ち葉の香りは,懐かしかった。時折吹く風は,海保菜が数週間前に家を出た時より,随分冷たくなっている。
自分たちの腰ぐらいの高さの落ち葉の山ができると,二人が満足そうに笑った。
「出来たね。」
保奈美が言った。
「うん,ちょうどいい大きさだね。」
龍太が言った。
「せーの,ジャンプ!」
保奈美の掛け声に合わせて,二人が一斉に大きな落ち葉の山の中へ飛び込んだ。
落ち葉の音と香りに包まれて,二人は,童心に戻り,はしゃいだ。こんなに無邪気に笑うのは,久しぶりだった。
二人は,何度も山を作っては,飛び込み,子供のように遊んだ。思う存分遊んだ後は,熊手(くまで)を持って,帰路についた。
「誰もいなくて,よかった!誰かに見られたら,恥ずかしいわ!」
保奈美が笑いながら言った。
「だから,この時間帯を選んだだろう?」
「でも,楽しかったなぁ…!なんか,随分長いこと,遊ぶことを忘れていたような気がするんだよね。色々真剣に考え過ぎて,最近,あまり楽しんでいなかったなぁ,何も。」
「僕も,そうだよ。」
「お母さんから,いつ連絡が来るんだろうね…。」
「良い場所が見つかったら。」
「知っているけど,いつ見つかるんだろう…長いね。もう一ヶ月近く経ったよ。」
「まあ,連絡があるまで,待つしかないなぁ。」
「…ちょっと心配だけど…ずっと連絡がなかったら,どうしよう。」
「信じて待てば,きっと,あるよ。」
「龍太のそういうところがいいね。信じられるところが。」
話しながら歩いていると,前方から同じ学校の同級生たちが数人,近づいてくるのが見える。
「まずい。熊手を持っているし,見られたくないなぁ。」
保奈美は,嘆いた。
「もう見られているし,笑われても,別にいいんじゃない?」
「そうだね。」
保奈美が開き直って,言った。
二人が笑顔で同級生たちに会釈をすると,彼らも,同じように会釈をしてくれたが,通り過ぎてしまってから,こそこそと何かを話しているのが耳に入った。
「やっぱり,変わっているよね。」
という言葉が聴こうとはしなくても,耳に入って来た。
「変わっているんだって,僕たち。」
龍太が笑顔で言った。
「確かに,変わっているね。」
保奈美も笑顔で言った。
家に帰ると,尚弥は,休日出勤で留守だった。家で,二人きりだった。最近,このパターンが多い。
「ココア,飲まない?」
保奈美が弟に尋ねる。
「いいね!体も冷えたし。」
二人がリビングのソファに並んで座り,出来立てのココアを啜(すす)り始めた。
「やっぱり,人間もいいね。」
保奈美が言った。
「僕も,同じことを考えていた。」
夕方になり,日が暮れ始めると,尚弥が帰宅した。
「お母さんが良い場所を見つけたらしい。今すぐ,見に行くよ。あなたたちも,賛成してくれれば,来週にでも引っ越すよ。」
「え?お母さんに会った?」
「会ったよ。帰り道に,海辺へ少し寄ったら,待っていた。」
保奈美も,龍太も,ハッとした。「もう人間芝居をやめる。あの家には,もう戻らない。」と言っていた母親のことだから,自分たちが海へ行かないと,連絡が取れないのは,当然だ。待っていても,ダメだ。海保菜は,もしかして,大分前から,誰かが海まで来てくれるのを待っていたのかもしれない。そう思うと,申し訳なくなった。
尚弥が着替えると,三人ですぐに家を出発した。
海岸に着くと,海保菜が波打ち際で待っていた。
「久しぶり!元気だった?」
「ごめん。もしかして,待っていた?私たちが来るのを前から待っていた?」
保奈美が恐る恐る訊いた。
「待っていたよ。でも,気にしないで。」
海保菜が笑顔で言った。
「じゃ,少し距離はあるけど,行こうか?」
「どうやって?」
龍太が訊いた。
「お父さんは,私が助ける。あなたたちは,自分で泳げるでしょう?」
海保菜が単純に答えた。
保奈美と龍太は,ためらった。まだ父親の前では,一度も,人魚の姿に変わったことがない。
二人がためらっているのを見ると,
「大丈夫よ。びっくりしないから,恥ずかしがらなくていい。」
と言った。
「行こう。」
海保菜が尚弥と手を繋(つな)ぎ、二人の目を真っ直ぐに見て,言った。
二人が顔を一瞬見合わせてから,親の後を追って,海に飛び込んだ。
幸せとは,何なのか,自分で手に入れられるものなのか,天から恵まれるものなのか,いつも暗中模索だ。
私たちは,地球の歴史に比べたら,ちっぽけな斑点(はんてん)に過ぎない。宇宙の歴史に比べたら,点にもならないほどのとてつもなく,ちっぽけな存在だ。
生まれてくるのも,死んでいくのも,自分の意思ではない。人魚か人間,雄か雌,健康か病気,長寿か早死,私たちには,選べない。
泣いても,笑っても,宇宙は存在し続け,地球は回り続け,季節は移ろい行く。私たちの力では,何一つも変えられない。
それでも,私たちは,物心がついてから命が尽きるまで,様々な選択をしながら,自分なりの幸せを思い描き,叶えようと努力を重ねる。果たして,その選択が自分の未来を自ら切り開いているのか,すでに決まった運命に向かって自分を知らずに向かわせているのか,私たちには,知る由がない。
どの立派な功績を残した偉人でも,一旦死んでしまえば,少しの間しか覚えてもらえないのは,常だ。まして,偉人でも何でもない私たちは,息を引き取ってしまえば,すぐに忘れ去られ,あたかも最初から存在しなかったかのように消え失せる。
しかし,それでも,自分らしく人生を全うしたいと願い,自分の生きた証を残そうと足掻(あが)く。
自分の存在をどう確かめ,どう認識すれば良いのか,その答えは,自分の心に問いかけることでしか,知ることが出来ない。どうすれば,幸せになれるのかも,自問自答,試行錯誤をしながら,自分で発掘していくしかない。
海保菜は,これを知っている。しかし、知っていても,行き当たりばったりにしか生きられない。
家族と環境を変えて,新しい場所へ向かっても,果たして,その新天地で新たな幸せが訪れるのか,不幸が訪れるのか,わからない。
しかし,それでも,勇気を出して,信じるのだ。自分の有り様を自分で決め,自分の運命や未来を自分で変えられると信じたいのだ。
そう信じることが浅はかなのか,利口なのかは,関係ない。信じることが生きる力そのものなのだから。
日中の空には,暖かい陽射しを浴びせてくれる陽気な太陽が,夜空には,空の鏡が,浮かぶ季節がやって来た。カラッとしていて,澄んだ空気を吸い込むだけで,力と元気が湧いてくる。
樹々の葉っぱは,少しずつ彩り始めたものの,依然として,しっかりと樹木の枝にしがみついて,離れない。初秋の到来だ。
澄んだ空気に包まれた,ぽかぽか陽気の空に光る太陽の真下に,中年の夫婦が並んで座る。
「人間をもうやめようと思う。決めたんだ。」
人魚の海保菜が切り出した。
「やめるって,最初から人間じゃないだろう?」
「体は,もうそろそろ限界だし,子供たちのこともあるし,私は,人間芝居をやめて,みんなで暮らせる場所を探すことにしばらく専念する。」
「それがいいと思う。僕も,いつでも仕事をやめられるように準備しておく。
でも,子供たちは,どう思うかな?」
「まだ話していない。今夜,話してみる。」
「よかった。これで,あなたは,もう苦しまなくていい。ずっと,心配して来た。普通に他の人魚と結婚して,海の中で暮らしていたら,苦痛を感じることもなかっただろうに,僕なんかを選ぶから…。」
「いいの。自分の選んだ道だし、私は,こういう運命だったのかもしれない。
でも,色々と状況は変わって来たから,その運命を変える。変えられるものなら,違う道を選ぶ。」
その晩,海保菜は,保奈美と龍太に,「話があるから浜辺へ行こう。」と誘った。
「私は,もう人間をやめることにした。」
海保菜がいきなり言った。
「人間をやめるって…人間じゃないのに?」
保奈美が言った。
「陸での暮らしを諦めるってことなの。体は,そろそろ限界だし,随分前から,お父さんと話していたんだ。みんなで無理せずに暮らせるところに行きたいって。だから,私はもう人間に扮装して暮らすのをやめて,私たちの新しい住処(すみか)を探すことに集中しようと思っている。きっと,どこか良い場所があるはずだ。
でも,あなたたちは,どう思う?学校に通えなくなるかもしれないし,きっと,街からかなり離れたところになると思うけど,いい?ついてくる?」
「もちろん,ついていくよ。」
龍太が言った。保奈美も,頷いた。
「学校は,もういいし。みんなで暮らせるなら,どこへでも行くよ。」
保奈美が言った。
海保菜は,頷いた。
「ありがとう。じゃ,私がこの姿で過ごすのは,いよいよ,今晩が最後だということになるね。別に,寂しくはないけど…感慨深いところは,あるね。
私は,陸で人間の隣で暮らして,弟と私がやったことを償いたいともしかして思っていたかもしれない…でも,無理をして,自分に苦痛を与えることは,償うことじゃないことがようやくわかった。私は,自分を赦してみる。充分反省したし…もちろん,忘れないけど…。」
「お母さんが一人で新しいところを探すの?」
龍太が尋ねた。
「そのつもりだよ。お父さんより,私の方が自由に動けるし,探しやすいから。」
「僕たちにも,手伝わせてよ。」
「え?」
海保菜には,息子の言っている言葉の意味がよくわからなかった。
「ずっと,二人で話しているけど…お母さんって,私たちがもう変わらなくていいような体に出来るでしょう?」
保奈美が説明した。
海保菜の顔が一瞬で暗くなった。
「しないよ。頼まれても,しない。」
「…して欲しい。もう,嫌だよ。いつまでも,落ち着かないのは,嫌だよ。ちょっとずつ,ちょっとずつ変わるより,変えてもらった方が楽だけど。」
保奈美は,訴えた。
「どうせ,いずれそうなるでしょう?なら,いいんじゃない?」
龍太が言った。
「あなたたちがどこまで変わるかは,まだわからない。いつか,人間に戻れなくなるかどうかも,わからない。私から見て,その可能性は高そうに見えるのは,事実だけど…。
でも,いつか,そうなる運命だとしても,焦らずに,人間としての残りの時間を楽しんだら?」
「苦しいよ!」
保奈美がイライラして来て,大きな声で言った。
「人魚になって,歩いたり,走ったり,立ったり出来なくなるのも、苦しいと思うけど…。」
「そんなのは,もういいって!もう四年も,ずっとこの苦しみが続いているから、早く解放されたいの!前は,大人になってから決めてと言ったけど,もう十六歳だし,子供じゃない!」
「僕も,もう子供じゃないし。」
「私は,しない。自分の手で,子供の自由を奪うことなんて,出来ない。人魚になるなら,自分でして。」
「やり方がわからない。やり方を教えて。」
龍太が言った。
海保菜は,すぐに答えずに,子供から目を逸らし,海と空を眺めた。夜空は,眩しかった。澄んだ空気に満月が浮かび,その周りに無数の星が月明かりの強さに負けまいと,キラキラと瞬き,輝いていた。
保奈美と一緒に見た星月夜の空を思い出した。夜空があの時と同じくらい,眩しく感じる。あれから,随分と色々あったのだ。あの時,初めて浜辺まで会いに来てくれて,「もう怖くないよ。」と人魚の自分を抱擁した娘が今度,「人魚になりたい。」と弟を味方につけて,言い出したのだ。なんてことだ。
でも,あの時とあからさまに違うのは,保奈美と龍太は,彼らがいう通り,もはや,子供ではないということだ。娘と息子が決めたことなら,親としては,渋らずに尊重しないといけない。彼らの人生だから。
「私は,しないけど,心を決めていれば,どうぞ。その思いで,海に入れば,海が自分のものにするよ。海は,全てを飲み込むからね。あなたたちが,まだ人間に戻れるのは,心のどこかで,戻りたいと思っているから,海の力に逆らっているからだ。そこがなくなれば,残っている人間らしさを海が瞬時に飲み込み,無にするよ。呪いとかは,要らない。
でも,決める前に,じっくり考えるのよ。人間の生活に少しでも,未練があるなら,やめておくべきだよ。人魚になるのは,いつでも出来る。望まなくても,いつか,なってしまうかもしれない。でも,一旦その体になってしまえば、泣いても,喚(わめ)いても,もう二度と人間には,戻れないよ。」
保奈美と龍太の表情を見ると,迷っていることがよくわかる。気持ちは,揺らいでいる。
「心には,少しでも迷いがあれば,今はやめとけ。もう少し,考えて。」
保奈美と龍太は,頷いた。
「じゃ,私は,もうあの家には,戻らないから,しばらくお父さんと待っていてね。良い場所が見つかれば,知らせるから。」
「探すのに,どのくらいかかりそう?」
「わからないよ。やってみないと…。
人間を楽しんで,待っていてね。」
海保菜が目配せをして,二人を抱きしめてから、海に飛び込み,姿を消した。
保奈美と龍太が二人で夜空を静かに眺めながら,帰路についた。
「ねぇ,今年,落ち葉が散ったら,山を作らない?小さい頃のように。」
龍太が提案した。
「いいね。」
保奈美は,すぐに賛成した。
数週間が経ち,落ち葉が散り始めた。その週の土曜日に,二人は早起きをして,熊手(くまで)を持って,出掛けた。公園に着くと,二人は,ひたすら熊手で落ち葉をかき集めて,大きな山を作った。
この早い時間帯の公園には,人の姿はほとんどなく,静かだ。落ち葉の香りは,懐かしかった。時折吹く風は,海保菜が数週間前に家を出た時より,随分冷たくなっている。
自分たちの腰ぐらいの高さの落ち葉の山ができると,二人が満足そうに笑った。
「出来たね。」
保奈美が言った。
「うん,ちょうどいい大きさだね。」
龍太が言った。
「せーの,ジャンプ!」
保奈美の掛け声に合わせて,二人が一斉に大きな落ち葉の山の中へ飛び込んだ。
落ち葉の音と香りに包まれて,二人は,童心に戻り,はしゃいだ。こんなに無邪気に笑うのは,久しぶりだった。
二人は,何度も山を作っては,飛び込み,子供のように遊んだ。思う存分遊んだ後は,熊手(くまで)を持って,帰路についた。
「誰もいなくて,よかった!誰かに見られたら,恥ずかしいわ!」
保奈美が笑いながら言った。
「だから,この時間帯を選んだだろう?」
「でも,楽しかったなぁ…!なんか,随分長いこと,遊ぶことを忘れていたような気がするんだよね。色々真剣に考え過ぎて,最近,あまり楽しんでいなかったなぁ,何も。」
「僕も,そうだよ。」
「お母さんから,いつ連絡が来るんだろうね…。」
「良い場所が見つかったら。」
「知っているけど,いつ見つかるんだろう…長いね。もう一ヶ月近く経ったよ。」
「まあ,連絡があるまで,待つしかないなぁ。」
「…ちょっと心配だけど…ずっと連絡がなかったら,どうしよう。」
「信じて待てば,きっと,あるよ。」
「龍太のそういうところがいいね。信じられるところが。」
話しながら歩いていると,前方から同じ学校の同級生たちが数人,近づいてくるのが見える。
「まずい。熊手を持っているし,見られたくないなぁ。」
保奈美は,嘆いた。
「もう見られているし,笑われても,別にいいんじゃない?」
「そうだね。」
保奈美が開き直って,言った。
二人が笑顔で同級生たちに会釈をすると,彼らも,同じように会釈をしてくれたが,通り過ぎてしまってから,こそこそと何かを話しているのが耳に入った。
「やっぱり,変わっているよね。」
という言葉が聴こうとはしなくても,耳に入って来た。
「変わっているんだって,僕たち。」
龍太が笑顔で言った。
「確かに,変わっているね。」
保奈美も笑顔で言った。
家に帰ると,尚弥は,休日出勤で留守だった。家で,二人きりだった。最近,このパターンが多い。
「ココア,飲まない?」
保奈美が弟に尋ねる。
「いいね!体も冷えたし。」
二人がリビングのソファに並んで座り,出来立てのココアを啜(すす)り始めた。
「やっぱり,人間もいいね。」
保奈美が言った。
「僕も,同じことを考えていた。」
夕方になり,日が暮れ始めると,尚弥が帰宅した。
「お母さんが良い場所を見つけたらしい。今すぐ,見に行くよ。あなたたちも,賛成してくれれば,来週にでも引っ越すよ。」
「え?お母さんに会った?」
「会ったよ。帰り道に,海辺へ少し寄ったら,待っていた。」
保奈美も,龍太も,ハッとした。「もう人間芝居をやめる。あの家には,もう戻らない。」と言っていた母親のことだから,自分たちが海へ行かないと,連絡が取れないのは,当然だ。待っていても,ダメだ。海保菜は,もしかして,大分前から,誰かが海まで来てくれるのを待っていたのかもしれない。そう思うと,申し訳なくなった。
尚弥が着替えると,三人ですぐに家を出発した。
海岸に着くと,海保菜が波打ち際で待っていた。
「久しぶり!元気だった?」
「ごめん。もしかして,待っていた?私たちが来るのを前から待っていた?」
保奈美が恐る恐る訊いた。
「待っていたよ。でも,気にしないで。」
海保菜が笑顔で言った。
「じゃ,少し距離はあるけど,行こうか?」
「どうやって?」
龍太が訊いた。
「お父さんは,私が助ける。あなたたちは,自分で泳げるでしょう?」
海保菜が単純に答えた。
保奈美と龍太は,ためらった。まだ父親の前では,一度も,人魚の姿に変わったことがない。
二人がためらっているのを見ると,
「大丈夫よ。びっくりしないから,恥ずかしがらなくていい。」
と言った。
「行こう。」
海保菜が尚弥と手を繋(つな)ぎ、二人の目を真っ直ぐに見て,言った。
二人が顔を一瞬見合わせてから,親の後を追って,海に飛び込んだ。
幸せとは,何なのか,自分で手に入れられるものなのか,天から恵まれるものなのか,いつも暗中模索だ。
私たちは,地球の歴史に比べたら,ちっぽけな斑点(はんてん)に過ぎない。宇宙の歴史に比べたら,点にもならないほどのとてつもなく,ちっぽけな存在だ。
生まれてくるのも,死んでいくのも,自分の意思ではない。人魚か人間,雄か雌,健康か病気,長寿か早死,私たちには,選べない。
泣いても,笑っても,宇宙は存在し続け,地球は回り続け,季節は移ろい行く。私たちの力では,何一つも変えられない。
それでも,私たちは,物心がついてから命が尽きるまで,様々な選択をしながら,自分なりの幸せを思い描き,叶えようと努力を重ねる。果たして,その選択が自分の未来を自ら切り開いているのか,すでに決まった運命に向かって自分を知らずに向かわせているのか,私たちには,知る由がない。
どの立派な功績を残した偉人でも,一旦死んでしまえば,少しの間しか覚えてもらえないのは,常だ。まして,偉人でも何でもない私たちは,息を引き取ってしまえば,すぐに忘れ去られ,あたかも最初から存在しなかったかのように消え失せる。
しかし,それでも,自分らしく人生を全うしたいと願い,自分の生きた証を残そうと足掻(あが)く。
自分の存在をどう確かめ,どう認識すれば良いのか,その答えは,自分の心に問いかけることでしか,知ることが出来ない。どうすれば,幸せになれるのかも,自問自答,試行錯誤をしながら,自分で発掘していくしかない。
海保菜は,これを知っている。しかし、知っていても,行き当たりばったりにしか生きられない。
家族と環境を変えて,新しい場所へ向かっても,果たして,その新天地で新たな幸せが訪れるのか,不幸が訪れるのか,わからない。
しかし,それでも,勇気を出して,信じるのだ。自分の有り様を自分で決め,自分の運命や未来を自分で変えられると信じたいのだ。
そう信じることが浅はかなのか,利口なのかは,関係ない。信じることが生きる力そのものなのだから。
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2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
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