星月夜の海

Yonekoto8484

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忌月

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数週間が経ち,海保菜も,保奈美も,回復し,いつもの生活に戻った。

龍太は,よく一人で海に行くようになった。本当は,誰かと一緒に行きたいのだが,保奈美は,いつ誘っても断るし,海保菜は,暗くなってからじゃないと行かないと決めていたから,仕方なく一人で行っていた。

ある日,一人で泳いでいると,ばったり仁海に出会った。
「あら!こんなところに来るようになったの?」

「来てしまう…。」

「お姉ちゃんに続いて,あなたも人魚になっちゃったね…お姉さんは?来ないの?」

「保奈美は,誘っても,一緒に来てくれない。」

「また体調を崩すんじゃないかな,あの子?素直じゃないから…。」

「…助けてくれる?」

「助けるって…どうしたの?」

「…胸が痛い。こうして,横にならないと耐えられないくらい,痛い。」

「体を起こしてみて。」
仁海が龍太の横に座って,言った。孫の目をよく見て,手を龍太の胸に当ててみた。直ぐに問題がわかったという顔をした。

「深呼吸して,自分を落ち着かせなきゃ。ここまで神経が昂(たかぶ)ると,危ないよ。」

「…できない。おさまらない。」

「胸は,どうして痛くなるか,わかる?」

「わからない。」

「お母さんが何か言っていないの?」

「訊いていない。こんなに痛くなったのは,今日が初めてだから。」

「お母さんは,あなたが今ここに来ていることを知っているの?」

「わざわざ言ってないけど,多分知っていると思う。」

「今すぐ,帰って。すぐ話して来て。」

「なんで?」

「あなたのこの姿を見たら,お母さんは,すぐに我に返って,助けるから…私にでもできるけど,彼女がしなくちゃ。とても大事なことだ。」

「病気?」

仁海は,龍太の質問には,答えなかった。
「海保菜に言ってきて。」

「いやだ。もうこういうのは、いやだ…。」
龍太が珍しく弱音を吐いた。

「何が嫌だ?」
仁海は笑った。

「普通の人生がいい…。」

「普通の人生って,何だろうね…あなたは,どうしたいわけ?」

「普通に学校に通って,友達と遊んで…変わらない体がいい…。」

「あら,まあ。そういう人生は,私からしたら,少しも「普通」じゃないなぁ。面白くもないし。

そして,あなたは,あなただから,そんなこと言っていてもしようがないよ。自分を大事にして。周りの人を羨ましく思う必要は,ないのよ。誇りを持った方がいい。いずれは,落ち着くし、変わらなくなる。その時まで,辛抱して。」

「なんで,こうじゃなきゃならないの?」

「そういう怒りや不満のせいで,落ち着かなくなっているんじゃない?自分を愛していないし,受け止めていない…。

そっちで育っているから,受け止めにくいかもしれないけど,そろそろ本当の意味で,海に飛び込まなくちゃ。片足をつけるんじゃなくて。今は,とりあえず帰って,お母さんに本当の気持ちを話して来て。いつも平気そうな顔をしていると,心の葛藤には,気づけないよ。強がらなくていいから。泣きたい時に泣いて,嫌な時には,「いや」と言えばいいよ。」

龍太は,すぐに帰ったが,家に帰ると,胸は収まっていたから,母親に何も言わなかった。

その日の夜、海保菜は,龍太に肩を揺さぶられて,起こされた。

「…どうした?」
海保菜は,すぐに起き上がった。

龍太は,無言のまま,必死な顔で海保菜を見た。

海保菜は,すぐに立ち上がり,一緒に廊下へ出た。
「どうした?!」
龍太の体が震えているのを見て、心配そうに訊いた。

「お母さん,助けて。ひどくなっている。何をしても,ダメだ。海に行ってしまう。毎日,行ってしまう。でも、行っても,収まらないし、痛いよ!何とかして!」

海保菜は,急にとても柔らかくなった。龍太の肩に手をかけて,一緒に階段を下りた。
「心の中は,荒い海になっているね。危ないよ。落ち着かなきゃ。」

「できない…胸がしんどい…。」

「落ち着かせ方がまだわからないね。代わりにやってみる。横に座って。」

海保菜は,龍太の体に腕を巻いて,優しく抱きしめて、落ち着かせようとした。
「深呼吸してごらん。」
海保菜が指示した。

龍太は,深呼吸しようとしたが,一向に落着かなかった。

すると,海保菜までしんどくなり、息子の体を急に離した。苦しそうに,自分の胸に手を当てて,喘いだ。離しても収まらなくて,苦しそうに喚いた。

「お母さん,大丈夫!?」

「強すぎる…びっくりした。」
海保菜は,酸欠になりかけて,立てなくなり、床に跪いた。

龍太は,駆け寄った。
「ごめんなさい!僕のせいだね…。」

「いや、いいの。ただ、今は,しばらく近寄らないで。」

「でも、何とかしなきゃ!」
龍太が海保菜の肩に手をかけて,言った。

海保菜は,苦しそうにお腹を抱えてまた喚いた。
「ダメ、龍太!触ったら!」

「ごめんなさい!」
龍太は,怖そうに自分の手を見つめて,泣き出した。

海保菜は,ようやく諦めて,人魚の姿に変わり、楽になった。
「久しぶりに負けたなあ…。」
海保菜が静かに呟(つぶや)いた。

むせび泣いている息子を向き直った。

「龍太,おいで。もう大丈夫。」
海保菜が優しく声をかけた。

龍太は、首を横に振って,泣き続けた。

「もう大丈夫よ。」

「だって…怪我させた…。」

「大丈夫。今は,どんなに近づいても,どんなに触っても,お母さんは,もう痛くない。怪我していないし,大丈夫よ。」

海保菜が龍太に手を差し出した。
「この状態のあなたに,人間の姿のまま近寄った私が悪い。龍太は何も悪くない。心配して,私を助けようとしただけだ。」

龍太は,自分の手を見つめながら泣き続けた。
「お化けみたいだ。手で触っただけで,そこまで苦しませて。」

「お化けじゃないよ。おいで。」

龍太は,首を横に振り続けた。

「変わらないように抵抗していたから,痛かっただけだ。あなたのせいじゃない。この姿なら,助けられる。 信じて。私の手を取って。」

龍太がためらいがちに,手を途中まで差し出した。でも,母親の手を取る勇気はなかった。

海保菜は,これを見て,
「人魚の子、人魚のママのところに来て。大丈夫だから。」

龍太の手が海保菜の手に触れると、龍太の体がすぐに震えなくなって、楽になった。

海保菜は,龍太のほっとした顔を見て,優しく微笑んだ。
「大丈夫。お化けじゃない。恐れることはない。」

龍太は,また話せるように,自分の息を整えようとした。海保菜は待った。龍太の息が元に戻り、海保菜の方を振り向いてみると、海保菜は,やさしく笑った。
「大丈夫。もう大丈夫よ。」
海保菜が何度も繰り返して言った。

龍太が母親にしがみついて、また激しく泣き始めた。
「お願い…お願い…。」

「あなたが怖いことに気付く余裕がなくて,ごめんね。いつも,保奈美の相手ばかりして…あなたも,本当は,ずっと怖かったんだね…ごめんなさい。」

「ずっとじゃない。最近怖くなった…さっき,なんで,あんなに痛くなった?」

海保菜は,しばらく黙ってから,龍太の質問に質問で答えた。
「…龍太が保奈美を浜まで連れてきてくれた夜の私とおばあちゃんの話を覚えている?」

「いや,意味がよくわからなかったから…。」

「やっぱり,そうか…。」

「なんで? 」

「今は,タイミングがちょっと悪いかな。あなたが興奮したら,危ないから…。」

「何が危ない?」

「話した方がいいね。知った方がいいね。私も,あなたと保奈美の事をもっと信じなきゃ。

いずれ自分でわかってしまうことだけど,その前に,私から話さなきゃね…思ったより時間がないみたい…保奈美を起こして来て。一緒に話すから。」

龍太に起こされて,保奈美も階段を下り,弟の隣にソファに座った。

「お母さんは,どうした!?」
保奈美が母親の姿を見て,驚いた。

「ちょっと色々あって…。」

「何の話?」

「今日は,大事な話がある。前にも,ちらっと言ったことがあると思うけど,あなたたちの中のどんどん強くなって行く力は,生き物だよ。形があるの。そして、コントロールできるようにならないと,人魚よりずっと凶暴で,怖い生き物に変わっちゃう。」

「…何に変わる?」
龍太が訊いた。

「言わなくてもいいと思っていたけど、あなたたちは,もう完全に海のものだ。あなたたちの力は本当に強い。私でも,負けてしまうくらい強い。そして、どんどん強くなっている。」

保奈美と龍太は,小さく頷いた。

「人魚には,もう一つの姿があるの。人魚の間では,「元の姿」と呼んでいるけど,海竜だね。つまり,心の中に竜が住んでいると考えればいい。」

「またこの話か…。」
保奈美がつぶやいた。

「え?聞いたことあるの,この話?」
龍太は,驚いて,尋ねた。

「ちょっとだけね…なんで,今この話をするの?わざわざ私を夜中に起こして…。」
保奈美が母親に訊いた。

「そろそろ…見せた方がいいかなと思って…。」
海保菜が言いづらそうに言った。

「見せる!?なんで?」
保奈美も,龍太も,びっくりした。

「強くなっているから…そろそろ力を制御できるようにならないと,海竜に変わっちゃうかもしれないから。

海竜は,人魚がみんな若い時に,一度なるものだ。コントロール出来ずになって,一度しまって,そこで制御の仕方を学ぶんだ。つまり,心の中の嵐と面と向かって,立ち会ってみて、初めてうまく付き合えるようになるんだ。

さっき,私が龍太の中で感じた力なら,そして保奈美がこの間変わる時に感じた力なら,もう十分強い。自分を落ち着かせられるようにならないと,ちょっとした刺激で変わってしまう。それぐらい強くなっている。」
海保菜は,説明の途中で少し止まって,子供たちの反応を見た。

二人とも,キョトンとした顔で母親を見つめていた。
「…竜に!?」
保奈美がようやく沈黙を破った。

「でも,ならなくても,制御できるようになれると思う。見せればね。」

「…見て,どうやって…?」

「それは,私が直接答えたり,教えられたり出来ることじゃない。自分たちで悟らなければならないことだ。

見せるだけで,わかるかどうかは,正直,私にもわからない。でも,少なくとも,手がかりにはなると思う。そして,力の制御の仕方だけじゃなくて,もう一つの問題の解決の糸口になるのかもしれない。」

「もう一つの問題って?」

「恐怖と向き合うことで,恐怖を克服出来るかもしれないってことだ。」

「…じゃ,見せてくれるの?」
保奈美がまた訊いた。

「はい。あなたたちに少しでも役立てることなら,何でもやりたいから。でも,ここでは,もちろん,無理だね。」

「なっても,戻れるよね?」
龍太が恐る恐る訊いた。

「やり方がわかっていればね。痛みを伴うし,集中力も必要だけど。
人魚に戻れなくなって,意識もなくなって,本当海竜になってしまう人もいるよ。だから,危ない。
何でも,周りが見えなくなるくらい,夢中になり過ぎるのは,ダメだ。中庸(ちゅうよう)を保つことだ。あなたたちにそれを学んで欲しいの。」

「…怖い!絶対に出来ない,そんなこと!」

「私も,難しいと思う…全くコントロール出来ていない。振り回されている…だから,しなくていいように,早く見せたい。」

保奈美と龍太が怖そうに海保菜の顔を見上げた。

「僕たちに見せてもいいの?安全なの?」
龍太が自分の疑問を口にした。

「今と同じぐらい安全だよ。あなたたちのことがわかるし,絶対に傷つけたりしないよ。守るよ。」

保奈美は,頷いた。
「信じている。お母さんの事を信じている。」

海保菜は,少し驚いて,保奈美の顔を見た。
「私も,保奈美の事を信じているよ。」
海保菜が小さい声で言った。

「僕も,怖くない。見るだけなら…。」

「見るだけだよ。大丈夫。」
海保菜が安心させた。

「見てみたい。」
保奈美は,少しも怖がらずに言った。声も震えていなかった。

「じゃ,お父さんを呼んできて。」

「お父さんには,見せた?お父さんは,知っているの?」
龍太が訊いた。

「知っているけど,見せていないし,見せるつもりもない。」

尚弥は,欠伸をしながら階段を下りてきた。
「この夜中に何をしているの?」

海保菜が始終話して,尚弥に浜辺まで送るようにお願いした。

「夜中にすみません。」
車から下ろしてもらう時に,海保菜が謝った。

「いいよ。」

尚弥が海保菜を海のそばまで抱きかかえて,運んだ。保奈美と龍太は,歩いてついてきた。

「じゃ,僕は,もう帰るね。」

「お父さんは,やっぱり怖い?」
保奈美が訊いた。

「怖いというか…正直に言うとね,今さら,どんな怖いものを見せられても,お母さんを愛する気持ちは,揺るぎ無い。びくともしない。その自信は,ある。
でも、見たいか?と訊かれたら、見たくないと答えざるを得ないなあ。」

海保菜は,頷いた。
「見せられないから,いいよ。ありがとう。」

「保奈美と龍太は,大丈夫?」
尚弥は,確認してから,駐車場の方へと戻って行った。

保奈美と龍太は,無言で,母親を怖そうに見た。

「おいで。近くまで来て。」
海保菜が指示した。

二人がゆっくりと近づいて,母親のそばに座った。

「見せるけど、少し距離を置いて,あっちから見ていてほしいの。わかった?絶対に近づかないで。」

「安全なら,傷つけないなら,なんで近寄ってはいけないの?」
保奈美が訊いた。

「僕たちのことがわかるでしょう,変わっても?」

「うん、わかるよ。危なくない。むしろ、今よりも,安全かもしれない。力があるから,襲われても,絶対に守れるし。」

「なら…なんで?」
保奈美が追求した。

「唯一の危険は,あなたの中にあるから。私と触れたら,刺激になる。そして,あなたたちには,まだコントロール出来ないから,刺激されたら,変わるしかない。私も,あの姿なら,止められない。

そして、あなたの事がわかるけど,今より,動物的だ。まさか,あの姿ならしないと思うけど、あなたが近寄れば、私も触れたくなる。でも、だめだ。わかった?あなたが距離を置かないと,だめなんだ。接触がないように。」

保奈美と龍太は,頷いた。

「じゃ、あっち行っていて。」
海保菜が指図した。

子供たちは,母親の言いつけに従って、少し距離を置いて,座った。

海保菜は,長い時間,目を閉じ,黙って座ったが,体は変わらなかった。しばらくすると,歌いだした。

子供たちは、その歌の音色にうっとりし、魅了された。人間の歌とは,音の質が違った。歌というより、人の心を虜にし、操るまじないや呪文のようだった。

しばらく歌うと、海保菜の体がようやく変わり始めた。小さい波が体の中を流れているようだった。途中から歌が動物の呻き声に変わり、止まった。

ふと気が付くと,母親の姿は,すっかり変わっていた。 海保菜の姿は,もうどこにもなくて、竜が砂浜の上で寝転がっていた。竜の肌は,爽やかな緑や青の鱗で覆われ、静かだった。胴体が海の風景とは,完璧に溶け込み、まるで風景の一部と化しているようだった。肌は,なめらかで冷たそうだった。目は,嵐みたいだったが,どこか優しくて,落ち着いていた。竜は,子供たちの方を向いて、視線を合わせた。目と目が合った。

今,目の前に立つ竜は,海保菜がこれまでちらっと子供たちに見せてきた人間らしくないところを全部表していた。目も,表情も,見覚えはあった。決して知らない生き物ではなかった。雰囲気も,海保菜が油断するときにいつも、つい出してしまっていた雰囲気だった。海保菜より,海保菜らしかった。

保奈美と龍太は,母親の姿に強く心を打たれた。恐怖を一切感じなかった。心の中には,感嘆と憧れと懐かしさしかなかった。二人にとっては,目の前にいる生き物が母親だというのは,もはや否定する余地のない事実だった。 いつもの姿より,ずっと母親らしかった。

二人とも,無性に近寄って,触れたくなったが,海保菜の忠告を思い出して,ためらった。でも、やっぱり目の前の生き物に対して,親近感と燃えるような好奇心を抱かずにはいられなかった。

海竜は,しばらく保奈美と龍太の表情をゆっくりと見つめ様子を確認してから、海に入って行った。

「待って!行かないで!」
保奈美は,思わず叫んだ。

二人は,胸が急に淋しさで締め付けられた。まだ眺めていたかった。近くにいたかった。ずっとそばにいたかった。なのに、離れていってしまう。母親だった。でも、母親だけじゃなかった。あの生き物の姿には,自分の魂の奥底に訴えるところがあった。自分の心を動かし、操るとんでもない力を有していた。心のリモコンのようだった。前の保奈美と龍太だったら、目の前の生き物の姿に畏怖(いふ)を感じ、怖気づいたに違いない。恐怖で怯んで、心と共鳴していることや自分の心に訴えかけていることに気付く余裕すらもなかっただろう。でも、今の二人の心は,もはや,その人間らしさはなかった。逆に、恐怖を感じるゆとりはなくなっていた。

二人が一斉に駆け出した。まっしぐらに、海に入ろうとする生き物を全速で追いかけて行った。何かにとり憑かれているようだった。目に涙が滲(にじ)んだ。二人の足音を聞くと、海竜が振り向いて,二人をまっすぐに見つめた。

二人は,荘厳で凛とした生き物のすぐそばまで駆け寄り、数メートル前で,ようやく足を止めた。

数メートル前に立って、実際どのくらい大きいか目の当たりにして、やっと少しだけ怖くなった。しかし,目の前の生き物が怖いのではなく、自分が怖かった。これまで全く恐怖を感じずに,ほとんど躊躇(ちゅうちょ)せずに,ここまで走ってきた自分が怖かった。

自分は,一体どうなっているのだろう?何になろうとしているのだろう?でも、尋ねるまでもなく,その答えもわかっていた。認めたくないだけだった。目の前に立っている生き物にとり憑かれている。いや、なろうとしている。自分の心は,どんどん少しずつこの生き物に似てきて、今も,なろうとしている。その事実の恐ろしさに二人は,怯みそうになった。怖くて,仕方がなかった。

母親が見せたかったのは,感じて欲しかったのは,これだったと,海保菜の意図に納得した。

「私たちもこれか…。」
保奈美は,海竜の目を覗き込み,呟いた。生き物の目の一番奥の方まで,覗き込んだ。まるで,自分の影を見ているようだった。すると、恐怖がまた薄れ,自分の手で海竜の鼻を撫でた。

「お母さん…。」
龍太も海竜の鼻を撫で始めて,囁(ささや)いた。すると、生き物の母性本能が働き、二人を優しく舐め始めた。保奈美は,海竜の首にしがみついた。

すると、生き物が突然体を揺すり、また姿が変わり始めた。

保奈美と龍太は,ずっと生き物の肩に手をかけたまま,母親のそばを離れなかった。

海保菜の姿がある程度元に戻り,また喋れるようになると、
「大丈夫?」
と二人に尋ねた。

「大丈夫。」

「どうして,私の言うことを聞かなかった?近寄ってはいけないと言ったのに!」

「でも、なんで?無傷だよ。傷つけられていないよ。」
保奈美が反論した。

「お母さんは,優しかったよ。」
龍太も,言った。

「もちろん,優しくしたよ。最初から,私が傷つけるかどうかの問題じゃない。引き金になるから,近づいてはいけないと言ったはずだよ。まあ、無事なら、いいけど…。」

「無事だよ。」
保奈美が安心させた。

「よかった。」
海保菜は,完全に元の人魚の姿に戻っていた。

「ずっと手を離さなかったね!?」
海保菜は,子供が自分の肩にかけてくれていた手を強く握った。

「触ってくれたし,逃げなかったし…なんで!?なんで怖くないの!?」

「なんか,ここなら,自分は,大丈夫,無事だと思ったから。そこまで安心して,落ち着いて感じたのは,初めてだ。自分の居場所がわかった。」
龍太が言った。

「自分のことがようやく分かった。そして、初めて,それでいいと思えた。自分の心の中を見ているみたいだった…あの竜になったら,初めて,本当の自分になれると思う。」
保奈美が言った。

海保菜は,頷いた。目は,涙で光っていた。
「そうだよ。本当の自分になれるの…見せてよかった。やっぱりわかってくれたね…。

私も,初めて,痛くなかった。十五歳の時から何度も経験して,いつも死ぬほど痛かったのに…ありがとう。あなたたちのおかげだ。

でも、本当に少しも怖くなかったの?どうして人魚に姿が戻ろうとしている竜の肩が抱っこできるの?私には,とてもそんなことができないわ!怖くはないけど…敬うというか…畏敬(いけい)の念はあるなぁ。あなたたちには,そんなものはないのかな?びっくりしたよ!」

「少し怖かったよ。実際近付いてみたら,やっぱり,少し怖かった。」
保奈美が言った。

「でも、ただの竜じゃないから。今も,ただの人魚じゃないから…あなたは,僕たちのお母さんだから…。」
龍太が言った。

「ありがとう。」
海保菜は,泣きそうになった。

「また見たいなあ…もっと一緒にいたいなぁ…。」

「…ちっとも,こわくないんだね…凄い。」

「お母さんだから,怖くないよ。」
龍太が言った。

「美しい…私も…私が…。」
保奈美も,何か言葉にならないことを言おうとした。

「あなたたちの心は,やっぱり,もう人間のものじゃないね…。

私もその姿が好き。だから、美しいって言ってもらえて,嬉しいけど,美しさがあるところには,危険も潜んでいるからね。自分の心の中、魂の中にあるものは,あなたが克服するまで,危険を孕(はら)んでいる。とても危ないよ。 頑張って,制御できるようになって。」

保奈美と龍太は,母親の表情が一瞬黒い波に負けないくらい暗くなるのを見逃せずに,頷いた。

「お母さん,大丈夫?」
保奈美が訊いた。

「大丈夫。」

「お母さんがあんなに「危ないよ。気をつけてよ。」と言うのは,なんで?何か,あったの?」
龍太が鋭く尋ねた。

「…話した方がいいかな…誰にも,話したことがないけど…。」

「何?」

海保菜は,とても長い時間,黙って,海と月を眺めた。

「弟とうまく行かなくなった理由だけど…。」
海保菜が苦しそうに切り出した。

海保菜は,言葉にするはおろか,思い出すだけで,辛そうだった。

「何か,あったの?」
保奈美は、海保菜が話を続けるように促した。

「弟とは,ずっと仲が良かった。毎日,一緒に遊びまくって,育った。

一時期,歌にハマって,友達も呼んで,みんなで歌ったりして,遊ぶのが好きだった。

でも,人魚の歌はね,ただの歌じゃない。呪いだ。人間が聴くと,気が狂ってしまう。古代からその歌に誘き寄せられて,海に飛び込み,命を落とした人間は,後をたたない。

ある時,歌っている最中に,船が近くまで来たの。気づいていたけど,危ないと自覚していなかったというか…歌に夢中になりすぎて,やめられなかった。

そして,その船に乗っていた人が海に飛び込んだ,数人。私たちは,我に返って,すぐに救助しようとしたけど,一人は,もう手遅れだった…その人の死に顔を見てしまった,私と海星が。

海星は,あの日から,人間は,ただの動物だと言うようになった。私たちのしたことを認めたくないから,そう言って,正当化しようとする。

でも,私は,そうだと割り切れなくて,何年もうなされたの。そして,お父さんと出会って,結婚までした。それを海星は,認めてくれない。結婚も,あなたたちの存在も,認めてくれない。認めてしまうと,自分が人殺しになるから…。」
海保菜は,終始,海のどん底のような暗い顔で話した。
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