星月夜の海

Yonekoto8484

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孤月

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戻って来てから,海保菜があえて娘に尋ねてみた。
「さっき痛かった?」
海保菜が非常に真剣な顔で訊いた。

「いや、痛くなかったよ…。」

「本当?正直に言って。」

「痛くなかった。」

「でも、ゆっくりだったね?」

「大丈夫。」
保奈美は,全然不思議に思っていない様子だった。

「…あまり私とべったり一緒にいるのは,良くないかもしれないね…。」
海保菜が小さい声で言った。

「は!?」

海保菜は,海を眺めて少し考えてから続けた。
「保奈美と龍太がいつも一緒にいてくれて,嬉しいし,夢みたい…
でも、いつもべったり一緒にいるのは,良くないと思う。いてほしいけど、良くない。」

「なんで?」

「…最初話した時、私が変えているとか,私のせいだとか,言ったでしょう?覚えている?」

「うん,覚えているけど、違う。怖かっただけだよ。悪かった。」

「いや…あの時,私も違うと思っていたけど,今思うと…私と一緒にいることがあなたに影響を与えていないとは,思えない。変えてはいないけど、影響を与えているのは否(いな)めない。

わかる?恐れてほしくないけど、保奈美の私を最初恐れていた気持ちは,外れていなかったということだ。恐れた方がいい…。」
海保菜は,俯いて保奈美と目線を合わせずに言った。

「何を言っているの?」

「この場所に来れば来るほど…私と一緒にいればいるほど,あなたは,人魚になって行く。

そして、あなたは,まだ後悔せずにその大きな決断ができる歳ではない。若すぎる。」

「なっていないし…別になってもいいんじゃない!?」

「なっている。変わっている…自分では,わからないかもしれないけど…前とは,全然違う。今日,戻るのもかなり時間がかかったし…。」

「戻れたよ、普通に。」

「でも、前よりずっと時間がかかった…。」

「別にいいんじゃない?」

「良くない。戻れなくなるよ…いつか。このままだと。」
海保菜は,久しぶりに保奈美の胸に自分の手を当てた。

保奈美は,圧倒されて,すぐに後ろへ飛び下がった。
「何それ!?」

「私じゃない…。」
海保菜は,暗い口調で保奈美と目線を合わせて,言った。
「これは,あなたが強くなっている。」

「どういう意味?」
保奈美が胸を押さえて,訊いた。

「私と距離を取らなきゃ。海も,もう来ない方がいいわ。わかった?」

「距離を取るって,お母さんでしょう!?なんで,そんなことを言うの!?」

「お母さんだけど…人間じゃない…一緒にいても,大丈夫だと思っていたけど,害はないと思っていたけど…違った。害を与えている。」

「害だって,勝手に決めつけているだけじゃない!害でも,なんでもないのに…しようがない。自分でも,言ったくせに、血だから戦えない、止められないって!」

「うん、止められないし,戦っても疲れるだけだ…でも,あなたと龍太には,もう少しじっくり考える時間を与えたい…手遅れになる前に。だから、私を毒だと思って,もう近づかないで。この場所にも,来ないで。わかった?」

「なんで,そんな冷たいことをするの!?」

「だから、守りたいの、あなたを。」

「守っていない!助けると言っといて,結局,突き放しているだけじゃない!」

「違う…人間の自分も,大事にしてほしいだけだ。私がそばにいると,それができなくなる。私は,邪魔だ。」

「違う!邪魔じゃない!」

「保奈美、縁を切っているわけじゃないよ。前と変わらず,いつでも話せるし、同じ家にいるし…ただ接触を控えてほしいと言っているだけだ。なるべく影響は出ないように。」

「嫌だ!絶対,嫌だ!」
保奈美は,人魚の言葉で怒鳴りながら,海保菜にしがみついた。

海保菜は,少し驚いたが,娘が人魚の言葉を真似できるようになったのを見て,気持ちはさらに固まった。
「だから、保奈美…触らない方がいいって言っているでしょう?」

「別にいい!構わない!影響が出ても,構わない!やっと仲良くなれたのに…!助けるって言ったのに…!」

「助けた。あなたは,もう大丈夫だ。もう助ける必要は,ない。これ以上助けたら,逆効果だ。」

「そんなことはない!」

「保奈美、わかって…どうか,わかって。

私は,あなたの母親だ。あなたを産んで,これまで大事に育てた。愛している。宝物だ。

でも、あなたの母親である前に,人魚だ。人間じゃない…この海と同じような存在だ。一緒にいすぎると,あなたの存在まで左右されてしまう。人間か,人魚か,選べなくなる。海に虜になる。

そうなってほしくない。

あなたは,まだ人魚の楽しい面や,明るい面しか知らないから。暗い面もあるよ。それから守りたいし,何よりも,虜になってほしくない。あなたは,私と違って,選べるから。」

「なら、今,選ぶ!人魚がいい!お母さんと一緒がいい!」

「後悔するよ,もう少し大人になってから決めないと。その時まで,距離を置かなきゃ。」

「いやだ!」

海保菜は,保奈美が少しも分かろうとしない態度には,呆れた。
「保奈美!私だって,嫌だよ!こうしたいと思っていないの!

できたら,このまま,毎日一緒に過ごしたい。ずっと一緒にいてほしい。でも、それは我儘(わがまま)だ。

こんなすぐに,こうなるとは,思っていなかった。ごめんなさい。あなたが言った通りだ。モンスターだ,私。」
海保菜が自分の手を見つめて,声を低くして,つぶやいて。

「モンスターじゃない!しかも,何も悪いこと起きてないし!」

「そうね。悪いことじゃないかもしれない…。

でも、止められないことだ。長くて,辛い道のりだ。覚悟の上で,選ばないといけないものだ。」

「いやだ…。」

「でも、わかるでしょう?私の言っていること?」

保奈美は,何も言わなかった。

海保菜は,また手を差し出して,保奈美の胸に当てた。
「強くなったでしょう?前より。

私は,強くしていない。私じゃない。あなたの力は,強くなった。

これだって…これ以上強くなると,怖いものだよ…恐れないでと言ったけど、これが強くなれば,どうなるかわかる?」

「わからないし、気にしていない!お母さんは,もっともっと強いでしょう!なのに、何も悪いことは起きていないし,大丈夫でしょう?元気でしょう?」

「悪いことじゃない…善悪の問題じゃない…。

でもね、私たちは,まだまだ同じ生物じゃない…そして、同じになってほしくない…覚悟していないと。覚悟してくれたら,大丈夫だけど,まだこの歳では,それができないから。」

「覚悟って,お母さんだって選んでいないでしょう!私も選べないって,自分でも言ったくせに!」

「私の運命は,生まれで決まった。

でも,あなたは,違う。人魚の血も,人間の血も,ある。だから,選べる。あなたの選ぶ自由を守りたい。

だから、もう触らないで。今日,ここに一緒に来るだけで,あなたがまた少し変わっちゃうよ。」

「それでいい。嫌じゃない。」

「今は,嫌じゃないかもしれない。でも、いつか嫌になっても,もう止められないから…もう戻れないからね。」

「まだ同じ生物じゃないって!?だから,私を突き放すって!?

なら、同じになる!同じになってみせる!」
保奈美は,波に向かって走り出した。

「ダメ!」
海保菜は,すぐに追いついて,取り押さえた。

「放して!放して!なんで,こんなに強い!?」

「あなたも強いけど,まだ私には勝てない。勝てるようになったら,もう遅い。」

保奈美は,海保菜の腕を振り解こうとして,でも,できなくて,泣き出した。
「服を脱ぐ!何でもする!」

「脱がなくていい。関係ない。」

保奈美は,取り押さえられても,一生懸命,脱ごうとした。

「だめ!こんなところで,脱いだらだめ!いったい,何を考えているの!?」

「お母さんこそ,何を考えているの!?」
保奈美がまた人魚の言葉で言い返した。

海保菜は,またハッとした。最近,理解だけではなく、たまに一言程度言えるようにはなっていたが,こんなに達者に人魚の言葉を喋るのは,今日が初めてだった。一週間も海の中で過ごしたからかなと海保菜は,不思議に思っていた。一体,いつの間に,こんなに真似できるようになったのだろう…。

本人は,全く気付いていない様子だった。

「もう説明した。あなたを守りたい、海から。そして、私から…。」

「守らなくてもいい!」

「うーん、守らないといけない。愛しているから。」

「守っても,ダメだよ!」

「なんで?」

「もうだめだから…学校では,上手くやれないし,他の子供とは,仲良くなれないし…何も上手くやれない。向いていない。

お母さんと同じ生物じゃないかもしれないけど、人間でもない!」

「わかっているよ。「人間になれ」とは,言っていない。」

「言っている!」

「うーん、人間の自分も,人魚の自分も,どっちも,大事にしてと言っているの。どっちも,捨ててほしくない。保奈美は,人間じゃないのは,わかる。なれないのも,わかる。それを求めていない。でも、人魚にもなってほしくない…まだ。

選ぶなら,もうちょっと大きくなってからがいいと思う。後悔するよ、今選んでしまうと。」

「じゃ、どうしてしろって言うの!?忘れてというの!?考えないでというの!?もう海に来ないなんて,考えられない!」

「…そうだね。でも、しばらく頑張ってほしい。わかった?」

保奈美は,反応しなかった。
「わかっているね。じゃ、行こう。帰ろう。帰ったら,龍太にも,同じ話をするから。」

「私は,帰らない!

さっき,私を必死で止めたってことは,やっぱり,私には,何かができるってことだね。なろうと思えば,人魚になれるってことだね。」

海保菜は,黙り込んだ。娘と目を合わせようともしなかった。

「やっぱり…お母さんと同じじゃない。でも、近い。ということは、できるはずだ。余裕で,自分の体の運命ぐらいは,決められるはずだ。

それぐらいの力は,あるでしょう、私にも!?」
保奈美は,問いただそうとした。

「お願いだから、まだ選ばないで!まだ決めないで!」
海保菜が泣きそうな顔で言った。

「できるんだね…?」

「…できる。でも、やり方はわからないし,自分の力をコントロールできていないから,できない。でも,それでいい。」

「教えて。ちゃんと教えて!」

「教えない…捨ててほしくないの!」

「選んでほしいと言っているくせに,私に選ばせてくれないのね!おかしい!」

「選んでほしい。でも,大人になってから。今は,まだ選んでほしくない。今日は,もう帰ろうよ。暗くなるし…。」

「もう関わってくれないでしょう?もう接触しない方がいいでしょう?なら、一緒に帰らない方がいいんじゃないの?一緒に帰らない!」

「保奈美…。」
海保菜は,何か言いかけたが,言葉が見つからない。

しばらく黙って考えてから,言った。
「それでいいよ。私は,帰る。そして、あなたのためだから、頑張ってほしい。」

保奈美は,海保菜と目線を合わせようともしなかった。砂の上に項垂(うなだ)れて,座った。

海保菜は,むせび泣いている娘の傍をなかなか離れられなかった。
「まだ何でも話していいし、一緒にいるし…ただ,海に来るのは,しばらくやめようと言っているだけだよ。」

「もう話さない!もう金輪際(こんりんざい)話さない!」
保奈美は,涙で真っ赤に染まった顔で母親を睨んだ。また人魚の言葉で怒鳴った。

「保奈美、覚悟していないとダメなの。これ以上,変わる前に。言葉も,少しずつ真似できるようになってきたし…。」

「何も真似していないよ。」

「しているよ!知らないうちに。今日の会話の半分ぐらいをあなたは,人魚の言葉で話しているよ。

だめだよ。人魚になる覚悟がなければ,だめだ。」

保奈美は,ただ首を横に振るだけで,返事しなかった。全く,自覚がないようだ。

「分かった…話さなくていいよ。でも、ちゃんと家に帰ってきて。一緒に帰らなくても、あとでちゃんと自分で帰ってきて。」

保奈美から離れるのは,海保菜にとっては,とても辛かったが何とか、娘に背を向けて,家の方へ踏み出すことが出来た。娘が母親の気を引くために,海に飛び込み、逃げるんじゃないか少し心配したが,保奈美には,まだその勇気がないのは,知っていた。

海保菜は,何度も振り向いて,娘の様子を確認しながら、進んだ。娘のそばへ駆けつけて,謝り,仲直りしたかった。関係を元に戻して,前みたいに仲良くしたかった。でも、自分を戒めて,止めた。離れて,距離を置くことが保奈美のためになると確信していたからだ。

帰ってすぐに龍太を呼び出した。

「お帰り。長いこと行っていたね。」

「保奈美がいたいとしつこく言うものだから。」

「僕も行きたかったなぁ…え?保奈美は?」
龍太は,姉がいないことに気づいて,尋ねた。

「ちょっと喧嘩しちゃったから…まあ,少ししたら帰ってくるだろう。」

「なんで,喧嘩したの?」

「あなたにも怒られるかもしれないけど…あなたと保奈美が私と一緒にいると,人魚のところが強くなって行く一方だ。このままだと,選べなくなるから。私みたいに,人魚になってしまうから。私と,少し距離を取った方がいいと思うの。選ぶなら,後悔しないように,大人になってから,選んで欲しいから。」

「僕は,もう言ったでしょう?奴隷になっても構わないって。」

海保菜は,首を横に振った。
「まだ決めさせる訳には,行かない。一度決めたら,後で気が変わっても,もうどうにもならないから。」

保奈美は,夜遅く帰宅した。寝室で,保奈美が帰ってくるのを起きて待っていた尚弥と海保菜は,玄関の開く音を聞いて,ほっとした。でも,会わずに,そっとしてあげた方がいいと思って,一階へ下りなかった。

龍太は,居間で保奈美を待っていた。
「保奈美,大丈夫?」

保奈美は,何も答えなかった。

「僕も,言われたよ。距離を取った方がいいって。海にも行かないでって。」

保奈美は,弟の横に座り,項垂れた。
「あの人…もう訳がわからない。仲良くなれたと思いきや,これだから…もう知らない!」

「僕も,よくわからないけど,やっぱり人間じゃないから,僕たちに対する気持ちも,人間の親とは,少し違うんじゃないかな?」

「お父さんは?何か言った?」

「お父さんは,お母さんから聞いていると思うけど,ノータッチだった。」

「龍太は,どう?従うつもり?」

「お母さんと距離を置くのは,そこまで言われたら,そうするしかないけど…行きたくなったら,海には,行くつもり。」

「じゃ,一緒に行こうよ!」

「さっき、行っていたでしょう?」

「うん,説得して,連れて行ってもらったけど,また行きたくなるから…。」

「海の奴隷になるとか言うのは,どう言うことだろう?言われた?」

「うん,言われたけど…わからない。」

「海から離れられなくなるかな?」

「そうじゃない?」

「保奈美は,まる一週間ずっと一緒にいたから,何か知ってるんじゃない?」

「色々話したけど,海の虜になるとは,どう言う意味なのか,はっきりとは教えてくれなかったよ。」

「そうか。」

「最近,一番驚いたのは,竜になれるって言ったことかな…。」

「え!?それ,聞いていない!竜って,どんな竜?」

「よく知らないよ。見せてくれた訳じゃないし。」

「やっぱり,謎だらけだね。いつまでも。」

「そうだね。」

「お母さんが教えてくれないなら,僕たちで色々調べよう。自分たちのことを知ろう。」

「…危ないかもしれないよ…お母さんが言うように。」

「二人なら,大丈夫だろう。約束の握手をしよう。」

保奈美は,久しぶりに無邪気に笑った。弟のこういう純粋で,可愛らしいところが好きだ。弟と握手をした。

数日後,二人が事前に打ち合わせをして決めた通り,両親が寝てから,家を出ようとした。

ところが,龍太が玄関を開けようとすると,保奈美の後ろに突然海保菜が現れた。
保奈美も,龍太も,びっくりして,飛び上がりそうになった。

「この夜中に,二人揃って一体どこに行くつもり?」
海保菜は,落ち着いた声で二人に訊いた。

尚弥も,すぐに海保菜の後を追って,階段を降りてきた。
「何事だ!?」

「…ごめんなさい。」
保奈美が何も説明せずに,頭を下げて,謝った。

「久しぶりに,少し話そう。」
海保菜が優しく二人を手招きして,言った。

「二人とも,何を考えているの!?この夜中に抜け出そうとして!?」
尚弥は,怒っていた。

「二人で海に行こうとしたのね?」
海保菜が二人の意図を見透かして,尋ねた。

二人とも,頷いた。

「海に!?この時間に!?」
尚弥は,驚いた。

「あんなにダメだと言ったのに?」
海保菜が言った。

「だって,教えてくれないから,自分たちで知るしかないんだ。」
龍太が言った。保奈美は,何も言わずに黙っていた。

「教えてくれないって,何を?何が知りたいの?」
海保菜が尋ねた。

二人とも,答えられずに,俯いた。

海保菜は,これを見て,妙に納得したようで,頷いた。
「だから,行って欲しくないの。」

尚弥も,子供たちも,海保菜の言っている意味がよくわからなくて,説明を求めるような顔をした。

「はっきりとした理由や目的がないのに,行きたくて,たまらないでしょう?もう,自分の意思じゃない…これ以上,そうなって欲しくないから,少し距離を取ろうと言っているの。
行けば行くほど,また行きたくなる。麻薬やタバコと同じだよ。距離を取らないと,虜になる。もうなりつつある。」
海保菜が真剣な顔で言った。

「お母さんがそう言うなら,この中で,海のことを一番よく知っているから,彼女言うことを聞きなさい。もう夜中に抜け出すような馬鹿なことをしないで。」
尚弥も,厳しく叱った。

保奈美も,龍太も,何も言えずに,立ちすくみ,床を見つめた。

尚弥は,話が終わっているつもりで,二階へ上がりかけた。海保菜も,ついていこうとしたが,子供の様子が気になり,止まった。
「海の声に逆らうのは,難しいのは,わかるけど…あなたたちのためだから,頑張って,全力で逆らって欲しい。」

「お母さん…。」
保奈美が何か言おうとしたが,言葉にならなかった。

「はい?」
海保菜は,しばらく待ったが,保奈美は,何も言わないから,諦めた。

「私だって,一緒にいたいよ。触れたいよ。でも,今は,我慢。」
海保菜がそう言ってから,また二階へ上がりかけた。

しかし,階段の途中で動けなくなり、苦しそうにしゃがんだ。

「お母さん,大丈夫!?どうした!?」
保奈美と龍太は,すぐに駆け付けた。

「大丈夫。近づかない方がいいよ。」
海保菜が子供たちを突き放すつもりで言った。

保奈美が母親に手を差し伸べたが,海保菜は,無視した。
「今は,触らない方がいい。お父さんを呼んできて。」
海保菜が指図した。

「どうした,急に!?大丈夫!?」
尚弥が龍太に呼ばれて,駆け付けて,尋ねた。

「明日から,しばらく帰っていい?調子が悪いみたい…。」

「いいけど,明日まで待てるの?今じゃなくてもいいの?」
尚弥は,手を海保菜の肩にかけて,支えた。

「お父さんなら,触っていいのに…私たちは,ダメなの?」
保奈美が母親に自分の疑問をぶつけた。

海保菜は,ムキになり,保奈美と龍太を見た。
「こうなりたい?なりたくなければ,私に近づかないこと!
お父さんは,こうなる心配はないから,大丈夫なの!あなたたちは,危ない。」

「海保菜,今から帰った方がいいんじゃない?動けないでしょう?」

「いや…朝まで待つわ。」

「本当に,大丈夫!?」
保奈美も,龍太も,心配そうに,訊いた。

「今回は,あまりすぐに戻って来れないかもしれないけど…大丈夫だよね?」
海保菜が子供たちの顔を真っ直ぐに見て,尋ねた。

「僕たちは,大丈夫だよ。」
龍太が答えた。

「うん,僕たちのことは,心配しなくていいから,体を大事にして。」
尚弥が海保菜を慰めようとした。

海保菜は,頷かなかった。
「何かがあれば,すぐに呼ぶんだよ。」
海保菜がまた保奈美と龍太に向かって言った。

尚弥が説得して,保奈美と龍太は,ようやく寝室に戻った。

尚弥は,海保菜と二人きりになってから,妻を抱きかかえて、言った。
「そろそろ,ここで暮らすのは,もうダメじゃないの?無理し過ぎだよ。諦めていいよ。どこか,あなたが無理しなくていいところで,みんなで暮らそうよ。」

「そんなところ,存在しない…。」

「探せば,あるだろう。」

次の日,尚弥が早朝に海保菜を海まで送った。
「どうしたら良いのか,また一緒に考えよう。」

海保菜も,頷いた。

海保菜がいなくなって,一週間ぐらいが経とうとしている時だった。

保奈美は,急に食べ物を飲み込めなくなった。まるで,初めて海に行って,帰って来た時のようだった。ナプキンに吐き出すしかなかった。

「食欲がない。」
保奈美は,重々しい口調でそう言ってから,席を立った。

「保奈美…。」
尚弥が呼び止めようとしたが,保奈美は無視して,階段を上った。

階段を上ると,頭がクラクラし出し,しばらくしゃがんで,頭を手で押さえてから,ようやく立ち上がれた。

龍太は,お姉さんの異変に気づいていた。早く食べ終わって,保奈美の様子を見に行った。

保奈美は,素直に,弟の龍太に,ちょっとした光でも最近まぶしく感じること、階段を上ると頭がくらくらすること,食べられないことを話した。

「お母さんのところに行った方がいいと思う。」

「でも…体は変わっていないし,お母さんは,近づかないでと言っているから,なんか,嫌だなぁ…。」

龍太は,しばらく説得しようとしたのだが,無理だったから,放っておくことにした。

その夜のことだ。龍太は,夜中に目が覚めて,喉が渇いたので,水を飲みに一階へ下りた。

すると,驚くような光景が目の前にあった。
「保奈美、いったい何をしているの!?」

保奈美は,リビングの真ん中で跪いて,嘔吐(おうと)していた。姉の横に開封した塩の袋が置いてあって、流しの蛇口は流れっぱなしだった。

龍太は,すぐに蛇口をひねて、止めて,保奈美の隣で跪(ひざまず)いた。
「塩をそのまま食べていたの!?袋から!?」

保奈美は,答えなかった。黙ったまま,俯いた。

「どうして塩を食べていたの!?しかも、こんなにたくさん!?」
龍太がほとんど空になった塩の袋を手にして,また驚いた。

「無性に食べたくなったから…水と同じだ。ないと気が済まないの。食べないと苦しくなる。」

「いつから?」

「数日前から…まるで何かにとり憑かれているみたい。」

保奈美は,床の上で横になった。
「もう少し食べさせて。もう少しだけ。袋を渡して。」

「さっき吐いていたのに!?だめだよ!渡さないよ!」

「お願い!食べたい!食べないとダメだ…。」

「いかれている!」

「龍太も,食べてごらん。私たちの血は,同じだから,あなたも,いったん口にしてその味を知ったら,病み付きになるよ。」
保奈美が言った。

「塩なんか食べないよ、僕は。とりあえず,早くお母さんのところに行こう。連れて行くよ!」

「いずれ帰ってくるし…わざわざ私たちが行く必要は,ないでしょう?」

「いつ帰ってくるかわからないし、あなたは危ない。やばいよ。どんどんひどくなっている,この間から!早くお母さんに相談しないと!もうこれ以上,放っとけない,兄弟として。」

「分かっている…やばいのは分かっている!私が自分の異変に気づいていないとでも,思っているの!?気づいている!もう,とっくに,気づいている。」
保奈美は,動物のような猛々しくて,怖い目で龍太を見た。

「そして、目つきも,顔も…おかしい。」

「私の顔はどうした!?」

「動物みたいで怖いよ…早くお母さんのところに行かなくちゃ。」

「あなたは,どうして大丈夫なの?どうして私みたいになっていないの?」

「あなたより若いから?知らないよ,そんなこと!

立てる?」

保奈美は,立ち上がろうとしたが,すぐに足が崩れて,倒れた。
「無理みたい…でも,ちょっと待って。さっき吐いたところだから,立てないだけかもしれない。」

龍太は,手を差し出して,保奈美の体を支えてあげた。そしたら、立ち上がれた。

「あなたの手はどうした!?紙みたい!」

「ちょっと乾燥しているだけだよ。」

「いや、絶対違う!これは,大丈夫じゃない!」

一度立ち上がると,保奈美は,自力で体を支えられた。
「私は大丈夫。心配しないで。」
保奈美が弟の手を離して言った。

「大丈夫なんかじゃないよ。早くお母さんのところに行かなくちゃ。一緒に行くよ。きっと,助けてくれる。」

「お母さんには,何もできない!だから,近づかないでって私たちに言ったの!彼女にも,止められないから!

お母さんが言っていたの。ずっと,人間と人魚の間の存在ではいられないって。どんどん変わっていくって。

そして,本当にそう。私の体は,毎日少しずつ変わっているの。でも,何もできない。止められない。そして、彼女がいなくなってから,もっと速くなったの。ついていけないくらい速く変わっているの、私。本当にしんどい。あなたは,しんどくないの?」

「しんどいけど,あなたほどじゃない。一緒に来て。お母さんのところに行こう。」

保奈美は,また黙った。返事しなかった。

「保奈美、他に選択肢はないよ。もう,行こう。お母さんは,止められないかもしれない。でも,あなたを楽にさせることなら,できるはずだ。」

保奈美は,しぶしぶ頷いた。

二人で海岸まで歩いた。途中で,足が痛くなって,しんどくなった保奈美を龍太が支え、助けてあげた。海岸にようやく着くと,保奈美は,力が尽きて,砂の上で横たわり、呻いた。

「何?どうした!?」

「強い…強すぎる…痛い…。」

「早く,お母さんを呼ばなきゃ」

「呼んでも,来ないよ。ここから私たちの声が聞こえるか!?」

龍太は,保奈美を無視して、
「お母さん!」
と呼んでみた。
当然、返事はなかった。

「ほら、来ないでしょう!どこにいるかすらわからない人の名前を呼んで、どうするの!?聞こえるわけないのに…。」

しばらくすると,海保菜が波の中から現れた。すぐに子供たちの姿に気づいて、海岸まで泳いできた。

海保菜の姿を見ると,保奈美は,顔を隠すように俯(うつむ)いて,砂を見つめた。

「どうした!?なんでここにいるの!?」

「保奈美は,調子がおかしい。塩を食べたり,水を飲みすぎて吐いたりしている…だから、連れてきた。お母さんなら,何かできるかなと思って…。」
話すどころではない姉のために,龍太が代わりに事情を説明した。

「近づかないでって言ったけど,緊急事態だから,保奈美を助けてあげて。」
龍太が訴えるような目で母親を見た。

「保奈美、こっち見て。」
海保菜は,龍太の話を聞き終わって、心配そうに保奈美を見た。

保奈美は,母親と視線を合わせるのを嫌がり、顔も見せまいと俯いたままだった。

「どうして,もっと早く来なかったの?」
海保菜が保奈美の様子をちらっと見て,訊いた。

「だって,来ないでと言うから…。」

「そうだったね。私が悪いね。少し距離を置けば,こうなるのを防げると思っていた…。」
海保菜は,自分の体を海の中から引っ張り上げて、保奈美の顎を優しく手で持ち、上向かせた。

「触らないで!」
保奈美がしんどいくらいに高鳴り、激痛の走る胸を手で押さえて,叫んだ。

海保菜は,保奈美の顔を見て,ハッとした。娘の顎(あご)からすぐに手を離した。どう見ても,人間の表情ではなくなっていた。

「そんなに痛いの?」
海保菜は,怖い目で保奈美を見た。

保奈美は,また視線を逸らした。

龍太は,母親の戸惑っている様子を見て,心配そうに海保菜を見た。
「何かできる?助けられる?」

海保菜は,小さく頷いた。自分の出来ることは,果たして保奈美を助けることなのか,あるいは,傷付けることなのか,自分でもよくわからないのだ。
「龍太は?大丈夫?」

龍太は,また頷いた。

「保奈美、隠れる必要はないよ。」

保奈美は,それでも振り向かなかった。

「保奈美、私と一緒に来て。」

保奈美は,ついて行くどころか、振り向くつもりもなかった。

「保奈美、こっち見て。私を見て。」、海保菜が優しく話しかけた。

保奈美は,首を横に振った。海保菜が手を差し出して,保奈美の腕をつかんだ。

「触らないで!」
保奈美がまた叫んだ。

「どうしたの?どうして私の事が怖いの?本能がたとえどんなに発達しても,ほかの人魚を恐れることはないはずだ。」

「お母さんが怖くない。」

「なら、何?何が怖いの?」

「お母さんに言われた通り,海にも,お母さんにも近づかなかったのに,体がどんどん変わって,何もできないの!止められないの!そして、ここにいると,もっとしんどくなる。 お母さんが触れると,もっともっとしんどくなって,抑えられなくなる。」
保奈美は,なぜか海保菜が来てから,人魚の言葉でしか喋れなくなっていた。そして、自分が違う言葉を話していると初めて気づいた。自分で驚いて,自分の口を手で覆った。

「抑えなくていい。止めなくていい。自然なことなのに,どうして?」

「怖いから。」

「怖くてもいいよ。でも,逆らってはいけない。従え。」

「この間,逆らってと言ったのに!」

「それは,海から守れると思っていたから…馬鹿だった。あなたは,前から海のものだ。逆らえようがない。」

「本当に怖いよ。自分なのに,自分のことを手に負えなくなっている。気が狂いそう。意識も,まるで自分のものではないみたいだ。もうだめだ。」
保奈美は,変な言葉しか口から出なくて,泣きそうになっていた。訳が分からなかった。海保菜も,この点に気づいてはいたけれど,保奈美も,まさか気づいているとは,思っていなかったから,自分の驚きを隠した。

「だめじゃない。一緒に来て。助けられるよ。」

「もういやだ。これ以上、変わるのは,嫌だ…なんで!?」

「変わることしかできないよ。抵抗できないよ。」

保奈美は,喋るのが嫌になって,何も言わなくなった。

「私もあなたたちは,選べると思っていたけど、今のあなたを見ていると,選べないことがわかる。

海とは,戦えないよ。ちっぽけなあなたには,何もできないよ。この波は,あなたの体を支配している。自分ではない。体がこの波の力を借りて,変わろうとしているのなら、身を任せて,変わるしかない。」

保奈美は,首をまた横に振った。
「海には,絶対に入らない。」

「保奈美、そうしないと,苦しみから解放されることもない。この波と戦う気!?体を痛めてしまう。取り返しのつかないことになるよ。」

「守ろうとしている。」
保奈美は,自分の返答をなるべく短くしようとした。

「そう思うだろうけど、違うよ。守っていない。自分を苦しめているだけだ。」
海保菜は,少し必死になっていた。保奈美の言葉は,全部,自分がこの間,保奈美に発した言葉を連想させた。確かに,あのとき「あなたを守りたい」と海保菜が何度も言った。

海保菜は,混乱した。あの時の保奈美とは,あまりにも違うから。立場は,逆転している。今度,保奈美は,人魚になりたくないと言っている。そして、海保菜がなるように促している。この間とは,真逆だ。どうしてこうなったのだろう?

確かに,あれからは,保奈美と龍太とは,ほとんど口をきいていない。彼らの中でどんな変化が起きて,気持ちがどういう方向を向いているのか,わからない。後悔の気持ちが海保菜の心の底から,こみ上げてきた。海から守ろうとしたのは,虚(むな)しくて,馬鹿だった。間違っていた。守られるわけがないのに。海保菜は,子供を混乱させてしまった自分に辟易した。
「私がやりたかったら,あなたの体に触れるだけであなたの姿を変えられる。あなたを私のように、完全に人魚にすることも出来る。でも,あなたを変えるつもりもない。これまで,一度もしたことがないし,今もするつもりはない。海に無理やり入らせるつもりもない。あなたの意思じゃないとだめだから…」
海保菜が言った。

「でも、海は絶対に折れないから,あなたが屈して,身を委ねるしかないよ。」

保奈美は,また首を横に振った。

「どう足掻いても、運命から逃げられないよ。逃げようとすればするほど,苦しくなるだけだよ。身と心を引き裂くようなものだから。

私がこの間,「頑張って逆らって」と言ったけど,ここまできたら,もう逆らえない。
逆らうのを諦めて。諦めたら楽になるよ。体も心も。信じられないだろうけど、あきらめた方が,自分の主人になれるよ。抵抗すればするほど,海の囚人になる。

あなたの体は,海と一つになりたいと願っている。海も,あなたの体にそうなってほしい。私は,ただ,あなたに苦しまないでほしい。自分の体の願いと精神で闘おうとすれば、蝕(むしば)まれるよ。」

「保奈美、お母さんの言うことを聞いて。なんでこんなに頑固なの!?あほらしい!」
龍太が姉の聞く耳を持たない態度に呆れて,言った。

「龍太、これは,保奈美が決めることだから。」

「僕は,無理やりでも、平気。」
龍太は,そう言って,保奈美を海の中へ突き飛ばした。

気が付くと,保奈美は、また海の中から飛び出して,怖い顔で龍太を襲おうとしていた。海保菜は,体の深いところから力を出して,保奈美の腕を掴んで押さえつけた。

保奈美は,怖くなって、海保菜の顔を見つめた。
「いったい何の力、それ!?」
と狼狽(うろた)えた。

「あなたは,お母さんと一緒に行くしかない。反抗しても,無駄だよ。」
龍太がさらに姉を説得しようとした。

「龍太、ありがとう。もう大丈夫。」

「僕は,大丈夫だから,もう帰る。」

「いや、この夜中に帰らせるわけにはいかないから,あなたも一緒に来てよ。明日、帰ればいいから。」
海保菜が提案した。

海保菜が龍太と話している間,保奈美を押さえていた腕の力を緩めたから、保奈美は振り解いて,波の中から這い上がった。

「あなたも,相当強くなったね!」
海保菜は,感心した。

保奈美は,さらに海と距離を置いて,号泣した。

「保奈美、もう海に入った。体が触れちゃった。今さらどうもがいても…。」

「ごめんなさい。」
保奈美が俯いたまま,つぶやいた。

「なんで謝るの?謝ることは,ないよ。」

「体が変わっている。止められない。どう頑張っても,もっと,もっと変わるだけだ。お母さんと距離を置いても,ダメだ。」
保奈美は,目に涙を浮かべて,言った。開き直って,喋ることにした。変な言葉しか喋れなくても,母親には,通じているようだった。

「…保奈美、戦うと,体がだめになるよ。
私のせいだね…もういいよ。 私は、間違っていた。今,あなたが喋っている言葉は,あなたの言葉じゃない。私がこの間,喋った言葉だ。もう忘れて。」

「ごめんなさい。」
保奈美が泣き始めた。

「保奈美、こっち見て。なんで泣いているの?何が「ごめんなさい」なの?」

保奈美は目を逸らし、合わせなかった。
「コントロールできない。止められない…だから,お母さんに迷惑をかけてしまう。」

「保奈美、私を見て!ちゃんと,見て!」
保奈美には,自分の体が見えるように,海保菜が海の中から,這い上がり、保奈美と龍太のそばまで来た。

保奈美は,ちらっと見たが,またすぐに目を逸らした。海保菜は,これを見て,保奈美の頬を自分の手の中で抱いて、無理やり,自分の方を向かせた。優しく笑った。
「体が変わって,私に迷惑をかけているとでも思っているの?私があなたに止めてほしいとでも思っているの?

私を見て。ちゃんと見て。人間じゃない。そんなことを望むはずがない。あなたが私に似てきて、それで恨まれると思うの?そんなことは,ない。誇りに思うよ。私の自慢の娘だよ。

止めなくていい。止めてほしくない。自分を受け止めて,もっと,もっと変わってほしい。自然な過程なら、体が自然にそうなろうとしているのなら、逆らわないでほしい。戦わずに,身を任せてほしい。」
海保菜が保奈美の肩を優しく撫でた。

保奈美は,ただ,虚ろな目で海保菜を見つめ返した。
「なら,なんであんなことを…?」

「私は,間違っていた。ハーフだと思っていたけど,違う。少しずつ,人魚に変わっていく…人魚だ。人間のところもあるけど、それは,私が守るものじゃない。そこを守ろうとすると,逆に傷つけてしまう。体の自然な変化についていけなくなってしまう。それではだめだ。

だから、今,初めて言うの。もうあきらめて,人魚になれ。抵抗しても,しなくても,いずれなるし,もう人魚になっていいよ。もう頑張らなくていい。人魚でいいよ。その方があなたの体にしっくりくるのなら、逆らっちゃいけない。一緒に来て。そんなにいやなの?」

「…身を任せたら,私は,どうなる?」

「体は,変わる。」

「それだけじゃないでしょう!ちゃんと言って!」
保奈美が乱暴に海保菜の肩を掴んで,揺さぶった。

「落ち着きなさい!」
と海保菜が厳しく言っても,保奈美は,放さなかったので、海保菜は,体の中の深いところから湧き出る強い力で,保奈美を突き飛ばした。

保奈美も、龍太も,絶句した。
母親の華奢な人魚の体をどう見ても,その強さが潜んでいるとは,とても信じられなかった。

海保菜は,二人の顔を冷静に見て,しんみりと話した。
「私は,人魚だから,何でも知っていると思うだろうけど、人魚だからこそ,知らないことがたくさんあるのよ。私は,あなたみたいに人間として生まれて,少しずつ,今の姿に変わってきたわけじゃないの。生まれた時から,これだ。

だから,あなたを今,見ていても,どうなるかわからない…強いて言えば、今は,まだ人間のところの方が優勢だと思うけど,人魚が勝るようになる。人魚により近づく。人間の姿でも,人魚の姿でも、海を求めるようになる。」

「さっき,私に使った力は?」

「何も変な力は,使ってない。突き飛ばしただけだ。」

保奈美は,怖そうに海保菜を見つめ返した。

「今,怖そうに私を見ているけど,あなたの目は,もう私の目と同じだ。人間の目じゃない…私の言葉もよくわかるようになって来たし…最近まで,人間だと思っていたのに…信じられない。」

保奈美は,急に顔を上げた。
「そう、なんで!?私は,なんでこの言葉しか喋れなくなったの!?怖いよ!」

「え!?違いがわかるようになったの!?」

「え?」

「本当は,ずっと違うの。私は,人魚だとわかってから,ずっと,この言葉で喋っているし,あなたたちも,少しずつ真似できるようになってきた…人魚みたいに。でも,こんなに流暢(りゅうちょう)に話すのは,今日が初めてだ…。龍太も,そのうち,こうなるのか…。」
海保菜が感心して言った。

「真似しているつもりはなかったよ。」

「僕も,真似していないよ!」

「龍太には,まだわからないかもしれないけど,かなり真似しているよ。
でも,それでいいよ。ためらわなくていい。わかるから,遠慮せずにどんどん喋って。他のどの言葉よりわかるよ。」

「でも、おかしい…今日まで聞いたこともない言葉をどうやって…?」
龍太が追及した。

「本能だ。人間の言葉とは,違うんだ。そして、本当は,大分前から聞いている。」

「でも、勉強したことがないし…!」

「勉強しなくていい。人間が言う「魔法」というものだよ…お伽話のような魔法ではないけど、あなたたちは,魔法の世界のものだよ。誇りに思って。」

龍太は,これを聞いて,嬉しそうだったが,保奈美は、俯くだけで,何も言わなかった。

「恥ずかしいことじゃない。人間には,見せてはいけないけど…自分にも,私にも,見せたらいいよ…嬉しいよ。」

「本当?」
保奈美がとても小さい声で訊いた。
「もうあきらめていい?もうお母さんと距離を置かなくていい?」

「いいよ。あなたをその気持ちにさせたなんて…人魚失格だ。母親失格だ。
あなたの中にあるものは,呪いじゃない。賜物だよ。呪いに感じることもあるだろうけど,憎まずに,捨てずに,大事にしてほしい。」

保奈美は,頷いた。海保菜は,手を差し出した。
「二人とも,おいで。私たちは,同じだ。私の今の姿に成長するようにできているんだ。今なら,わかる。そして、助けたい。一緒に来て。

ここがあなたたちの居場所よ。ここなら,野生のところと戦わなくていいよ。思い切って,野生になってもいい。怖い気持ちもあるだろうけど、本当は,自由になりたいでしょう?私も同じだから,わかるよ。今はまだ怖いけど,本当はその自分も知って,楽しみたいでしょう?私もそう。コントロールできているだけだ。そして、一緒に来てくれたら助けられるよ。

恐怖を捨てて,海に飛び込むんだ。もう良い子じゃなくていいよ。もう頑張らなくていいの。ありのままでいいよ。今の私みたいに。これがあなただから。これがあなたの本当の姿だから。」
海保菜が両手を差し伸べて,それぞれ保奈美と龍太の胸にあてた。
「これがあなただよ。心の鍵だよ。 恐れないで。逃げないで。受け止めて。深く知って。」

「やめて!痛い!」
保奈美が叫んだ。

「うーん、あなたこそ,戦うのをやめて。自分の魂を自由にして。心は,叫んでいるでしょう?自分の心の声を聞いて!聞こえないの?感じないの?私を自由にして!と叫んでいるの。 自由にしてあげて。」

「…したい。」
保奈美が小さくつぶやいた。

「もう,海に入って,保奈美!何をためらっている!?」
龍太が呆れて,言った。

「この力は,あなただよ。あなたを変えているのは,私じゃない。あなただ。変えようとしているのも,止めようとしているのも,あなただ。だから,苦しいんだ。食い違っているから。そして、それは,あなたにもわかるはずだ。自分を変えているのは自分だって。外の力じゃなくて,自分の中の力だって。波と潮風と星空は,全部,あなたの中にあるんだよ。そういった手に取れないものを相手に戦っても,無理だ。本当は,戦いたくないはずだ。怖いから,仕方なく戦っているだけだ。

でも、心の奥底を探れば、怖くない自分もいるはずだ。自由になりたい自分もいるはずだ。 自分の魂が何を求めているか、あなたには,一番わかっているはずだ。怖くて,自分をごまかしているだけで、本当は,あなたも変わることを求めている。もう我慢しなくていいよ。大丈夫。体と魂を一つにしてみて。

もう人間の芝居は,しなくていいよ。もう演じられないでしょう?無理して,演じなくてもいい。諦めてもいい。人間とは,さらばだ。今のあなたの中身は,違うでしょう?見せて。」
保奈美は,海保菜の言葉を全部聞いて,一瞬だけためらってから,表情が決意に変わった。一瞬にして,人間の顔の跡が表情から消えた。海保菜の手をようやく握り返した。海保菜に飛びついて,ギュッと抱きしめた。体と体が触れると,涙が出るくらい,胸が痛かったが、体は変わらなかった。

「そうだよ。私を信頼していいよ。母親だし、人魚だ。 あなたがいま一番必要としている存在だ。 これからは,自分が何に変わろうとしているのか,ちゃんと見せるよ。 これまで十分見せなくて,怖い思いを沢山させて,ごめんね。

人魚を自分の中から出していいよ。もう抑えなくていい。隠さなくていい。私に見せていいよ。大丈夫。」

保奈美は,また頷いたが,海保菜を離そうとは,しなかった。赤ちゃんの動物みたいに恥らずに,母親の体にしがみついて、離さなかった。依存するしかない状態になっていた。

「離さなくていいよ。」
海保菜が娘の頭を愛おしく撫でた。
「でも、ここは危ない。さっきから,ずっと見られるところにいる。潜らないと。大丈夫。体は,変わらなくても,きっと息できるから。今のあなたなら。
龍太も,もう大丈夫だね?」

「うん!」
とっくに海に入り,すでに人魚に変わっていた龍太が明るく答えた。

海保菜は,保奈美が少し焦るのを感じ取って、安心させた。
「あなたは,体が変わらないように抑えられているみたいだけど、もう体なんか関係ない。誰が見てもパッとわかるように、顔に表れている。この海のものだと。」

海保菜は,ゆっくりと潜って、海の底へと泳いで行った。

「まだ一生懸命戦っているんだね?なんで?」
海保菜が海の底に着いてから,保奈美に訊いた。

「奴隷になるのが怖い。」

「それは,私の言い方が悪かった。人魚は,海の奴隷じゃない。海の子供だ。親子のような関係だ。束縛されたりするけど,守ってもらえる。そう言う互恵関係だ。」

「まだそれには,なりたくない。」

「そうだね。まだ早いね。まだならなくていい。体だけだよ,変わらないといけないのは。そして,体だって,完全に人魚のものになってしまうまで,まだ時間はある。今変わっても,まだ人間に戻れる。ここまで抑えられていると,まだ余裕で戻れる。」

「それは,確か?」

「嘘をついて,どうする?」

保奈美は,頷いた。
「わかった。」

海保菜は,保奈美の横で跪き、手を肩にかけた。龍太も,姉の肩に手をかけた。
「保奈美,頑張れ!」
龍太が励ました。

「今だ。変われ。身を任せられないなら,痛みに耐えて。」

保奈美は,泣きそうになりながら,頷いた。すると、激痛が全身を走った。歯を食いしばった。

「そう,その調子で頑張れ。」
海保菜が保奈美の手を強く握った。

保奈美は,頷いて、服を全部脱いだ。

海保菜は,驚いた。
「脱ぐの?もう恥ずかしくないの?」

「もう,それどころじゃない。」
保奈美がつぶやいた。体の緊張を解きほぐし、柔らかくした。すると,すぐに激痛が体中を走り、悲鳴を上げた。

「ずっと抑えていたからね…痛いけど、大丈夫。あなたは,強いよ。痛みに従う限り、死ぬことはないわ。あなたの血の中には,この痛みに耐える力はあるが,痛みと一つになる力もあるよ。その力をうまく使って,自分の体を自分で変えてみて。それができたら、痛くないよ。」

「できない。」

「なら,耐えて。」

保奈美は,頷いた。しばらくは,泣いたり,叫んだりしたが,体が出来上がったら,痛みがおさまり、楽になった。

「よく頑張った。お疲れ様。」
海保菜も,龍太も,保奈美を強く抱きしめた。

「保奈美が死ななくて,よかった。」
龍太が言った。

「え?」
保奈美が驚いて,言った。

海保菜は,無言だった。表情は,驚いていなかった。

「お母さん,さっき,私は危なかった?」保奈美が海保菜に尋ねた。

「…かなり心配したよ。」
海保菜が少し間を置いてから,答えた。
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