星月夜の海

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海月

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「僕は,野球をもうやめようと思う。しっくり来なくなった。」
この間から野球をやり出した龍太が、練習試合から帰ってきて、急に言い出した。

海保菜と保奈美は,龍太が練習試合から帰ってきたら,すぐに話してみようと決めていたから、これを聞いて,驚いた。

尚弥は,特に驚いた様子は見せなかった。
海保菜は,保奈美の対応で手がいっぱいで,気づく余裕はなかったが,保奈美の様子が変わり始めた頃から,龍太も悩んでいる様子だった。その時まで,何でも隠さずに打ち明けて話し,一番親しい存在だった姉の保奈美だったのに,ある日,急に心を閉し,全く口をきかなくなった。龍太には,全くわけがわからなかった。何があったか訊いてみたい気持ちもあるが,母親と保奈美の様子から,訊いても教えてもらえないことは,わかっていた。二人とも,挙動不審だ。何があったのか,教えてもらえないなら,考えないように忙しくするしかない。そこで,野球を始めたのだけれど…。
「そうか…野球をやめて,何か違うことをするの?」

「絵を描きたい。」

「絵?どんな絵?」

「いろんな絵。」
龍太は,曖昧(あいまい)に答えてから,逃げるように,二階へ上がった。

海保菜が尚弥に,龍太について保奈美と話してきたことを説明した。
尚弥は,頷いた。
「それがいいと思う。話した方がいいと思う。彼も,この間から相当悩んでいるし,辛いと思うよ。」

「一緒に話に行く?」
海保菜が誘ってみた。

「僕がいたら,話しにくいだろう?」
尚弥は,どう考えても,自分の出番ではない気がした。

海保菜は,肯定も,否定もせずに,二階へ上がり始めた。

海保菜と保奈美が入って来ると,龍太は驚いて,顔を上げた。

「何をしているの?」
海保菜が尋ねた。

「絵を描いている…。」
海保菜と保奈美の最近の龍太に態度だと,龍太が不貞腐(ふてくされ)れたり拗(す)ねたりして話してくれなくても仕方ないのだが,そういう性格ではない。

「何の絵?見せて。」
海保菜が興味津々になって,色々質問し始めた。保奈美は,どのことを質問したら良いのか,見当がつかないので,母親に任せて,黙った。

龍太がちらっとまだ途中の絵を母親に見せた。船の絵だったが,波の描き方が非常に細かい。

「船?船が好きだったの?いつから?」

「…ずっと好きだよ。」

「そうなんだ。上手だね…本物は見たことがないのに,なんでここまで正確に描けるのだろう?」

「いつも本で見ているから。」

「そうか。好きなのは,船だけ?」

「うーん、船の景色も好きかな。」

「船の景色って,何?」
本当は,息子が波や海のことを言っているのは,海保菜にはわかっていたが,息子の口から聞きたかった。

「波とかかな…もう野球をやめて,これに専念する。」

「絵描き?」

「うん。」

「なんで,野球をやめるの?」

「…合わない。」

「何が合わない?」

「わからないけど,やってみて,僕には合わないと思った。」

「ふーむ。…水泳は?」

「水泳?」
龍太は,鉛筆を握っている手を止めて,母親を振り向いた。どうして,このタイミングで会話に水泳が出てきたのか,訳がわからない。

「興味ないの?」

「何の話?」

「水泳。」

「なぜに水泳なんだ…泳いだこともないのに。」

「この間,保奈美も一緒に三人で浜辺に行ったんじゃない?あの時は,泳いでみたいと思わなかった?」

「思ったけど,ダメだと言うから…。」

「あの時,変わったことは何もなかった?」

「変わったことって…?」

保奈美は,自分の出番だと思って,勇気を振り絞り,会話に割り込んだ。
「私は,あの時,手に発疹のようなものが出来たけど,龍太は何もなかった?」

龍太も,海保菜も,保奈美が突然会話に入り込み,質問したことに驚いた。

龍太は,少しドギマギしているように見えた。
「あの時は,何もなかったよ…。」
そう言いかけて,長い沈黙が続いた。

「…だけど,この間,また一人で行って来たんだけど,その時に,発疹というか,魚の鱗(うろこ)のようなものが出来たよ。すぐに消えたけど…。」
龍太が怖そうに保奈美と目を合わせて,言った。

海保菜も,保奈美も,龍太の告白にびっくり仰天した。次の言葉がすぐには,出なかった。

「やっぱり,あなたには,水泳がいいと思う。」
海保菜がようやく沈黙を破った。

龍太は,話の辻褄が合わなくて,困惑した顔をした。

「今度,泳ぎに行こうか?もしよかったら…。」
海保菜がさらに言った。

「…なんで!?」

「きっと,水泳なら,しっくりくると思うんだ。あなたには。」

「…なんで?」
龍太には,母親の意図が、全くわからない。

「私は,水泳が得意なの。」

「…だから,何?僕も,上手じゃなきゃならないの?僕は,絵がいい。」
今日のお母さんは,お母さんらしくないと思った。訳のわからないことを次々と言うし,話にはついていけない。頭がおかしくなったのでは?と疑うほどだ。

「この波の中で,泳いでみたくないの?」

「…泳いでみたくても,泳げないよ。死んじゃう。荒い波の中は,無理。」

「あなたは,大丈夫…私の息子だから。」

「は?お母さんは,泳げるというの?こんなしけた海でも。」

「泳げる。人間じゃないから。」

「は!?」
龍太は,やっと海保菜と目を合わせた。

海保菜の顔は,真剣だった

「本気で言っているの?」

「うん、本気だよ。人魚だ。」

「は!?人魚じゃないでしょう!普通に,足もあるし。」

「本当はないの。これは借り物…。」

龍太は,目を逸らして,また絵を描き始めた。お母さんは,一体どうしたのだろう。久しぶりに話しかけてくれたと思いきや,とんでもない出鱈目な話題ではないか。困ったなぁ。対応出来ない。

「ちゃんと聞いて。本当だよ。」

「ありえない…。」

「そうか…見せたら,信じてくれる?」

「なんで,今,この話する!?本当に人魚だったら,もっと前に話した方がよかったんじゃないの?」

「保奈美には,この間,話したから。」

「なんで?いつ言った?」

「彼女の体が変わったから,言った。言わないといけなかった。」

「は!?」

「保奈美は,様子がおかしかったでしょう?2ヶ月前。」

「うーん,ずっと様子がおかしいよ。」

「パンが喉に詰まりそうになって食べられなくなったり,階段上がれなくなったり,大量の水を飲んだりしていたでしょう?」

「…なんで,今,僕に?」

「さっき,手に発疹が出来たことを話してくれたから。」

「どう関係ある?」

「人魚の遺伝を受け継いでいるとわかるようなことを何か言ってくれないと,話してはいけないことだけど,保奈美も,変わる前に,手に発疹が出来たから,話しても問題ないと判断した。」

「それって…つまり…。」

「お姉ちゃんには,早く話さなかったせいで、大きなショックを与えてしまって,傷つけてしまった。同じ過ちを繰り返したくない。」

「それは,早く言っても,ショックだよ。信じてないけど…。」

「なんで信じないの?」

「そんなこと,いきなり言われて,信じられるわけないんじゃないの?」

「一緒に,海に来てくれたら,証拠を見せるよ。」

「いや…。」

「信じたくないの?」

龍太には,どう答えたらいいのか,わからなかった。信じたいのか,信じたくないのか,自分でもよくわからなかった。

「本当だよ。保奈美に訊いてみて。証言してくれる。」

「じゃ、何?保奈美も,人魚だってこと?」

「ハーフ。あなたも。」

龍太は,ただ,首を横に振りながら、絵を描き続けた。

「ちゃんと話を聞いてよ。」
海保菜は,少しイライラして来て,言った。

「聞いているけど,僕は,人魚じゃない!」

「まだ変わっていないだけだよ…一緒に来て。見せるから。」

「見たくない。」

「じゃ,保奈美に訊いてみて。」
海保菜がずっと黙っている保奈美の方を指差しながら,言った。

「わかった。訊いてみる。

保奈美って,人魚?だから,僕と急に口をきかなくなったの?」

保奈美は,困った。まだ,自分を人魚だと言うのは,とても抵抗がある。しかし,完全に否定すると,嘘になるのは,わかっていた。今,自分に助けを求めている母親の期待も裏切ることになる。

海保菜は,娘の内面の葛藤には,すぐに気付いたが,静かに,彼女が答えるのを待つことにした。

「…なんで,私の話なんだよ!?

お母さんは,本当に,人魚なんだよ。おじいちゃんも,おばあちゃんも,家族は皆,そう。だから会ったことがないの。」

「保奈美も,その出鱈目なことを言うの!?」

「出鱈目じゃないって!本当だって!」

「じゃ,何?保奈美も,人魚になったの?人魚なの?」

保奈美は、とても難しい顔をして,弟を見た。海保菜がまた静かに見守ることにした。

「…なった…怖かったよ…」
保奈美が長い間を置いてから,ようやく囁くような小さな声で言った。

龍太は,これを聞いて,絶句した。まだ否定したい心境だったが,保奈美の表情を見る限り,お母さんの言うことは,嘘ではないらしい。

海保菜は,保奈美には,これ以上対応するのは、難しいと判断して,また間に入った。

「じゃ、今夜,暗くなってから,海に行こう…保奈美も,行く?」
海保菜が保奈美の目を覗き込んで,保奈美を誘ってみた。

「いや、私は…まだそんな…。」

「じゃなくて…ただ、一緒に来て欲しいだけ。いて欲しいだけ。」

保奈美は,本当は,断りたかったが,断る理由が思いつかないから,協力するしかなかった。

その夜、ご飯を食べ終わってから、三人で出発した。尚弥も誘ってみたが,「自分の出番じゃない。」と断られた。

「まだ信じていないの?」
海保菜が龍太に尋ねた。

「真剣じゃなかったら,ここまでしないと思うけど、まだ信じられないね…。」

浜に着いたら,保奈美は,緊張した顔で龍太を見た。
「大丈夫?」
優しい声で訊いた。

「大丈夫だよ。」

「じゃ,ここで,二人で待っていて。すぐ戻って来る。」
海保菜が指示した。保奈美は,頷いた。龍太は,無反応だった。

岩の上に登り、海に飛び込もうとしたら、龍太が怖くなって,止めようとした。
「やめて,お母さん!怪我したら,どうするの!?」

海保菜は,振り向いて優しく笑った。
「危なくない。」
息子の頬に手を当てて,言った。

「人間じゃないから,危なくない。」
そう言ってから,波の中へ飛び込んだ。

龍太は,パニックになった。
「どうしよう!?本当に,飛び込んじゃった!」

「何もしなくていい。ここで待っていれば,いい。大丈夫だから。」
保奈美は,冷静だった。

「大丈夫じゃない!」

「まだ信じていないね、少しも…。」
保奈美が心配そうに呟いた。

海保菜は,すぐに戻ってきた。黙ったまま,息子の目をまっすぐに見た。

「嘘でしょう…!」
龍太は,開いた口が塞がらない。

「嘘じゃない…見えるでしょう?」
保奈美が必死で,言った。

「見える…。」

「怖い?」
海保菜は,近づかずに,慎重に訊いてみた。

龍太は,すぐに返事しなかった。

「怖いか?って。」
保奈美が海保菜の言ったことを繰り返した。

「…わからない。」
龍太が正直に答えた。

そして,初めて海を真正面から見て,呟いた。
「やっぱり,これが好きだったのかな,僕…船じゃなくて…。」

「波の強さが好きでしょう?船は,海の心のままに弄ばれるよ。その力も好きでしょう?どんなに丈夫な船でも,一瞬で潰したり,転覆させたりする波の強さがいいでしょう?」
海保菜が考え深くて,小さい声で息子に問いかけた。

龍太が振り向いてみて,海保菜が自分のすぐ後ろまで来ていることを確かめた。母親と初めて目が合った。

保奈美は,波と距離を置いて,もっと後ろの方から見ることにした。

「どうした?怖い?」
海保菜が訊いた。

「怖いというか…驚いた。」

海保菜は,頷いた。
「保奈美ほどびびっていないね。叫んでいないし、逃げていないし。」

「それは,痛かったから…!」
保奈美が自分を庇(かば)って,言った。

「そうだったね…体もしんどかったね。

やっぱり,早く見せてよかった?話してよかった?」

「…わからない。」
龍太は,目を逸らして,言った。

「今,何を考えているの?」
海保菜が手を息子の肩にかけてみた。

「…触らないで。」

「怖いか…やっぱり…?」
海保菜は,すぐに手を引っ込めた。

「お姉ちゃんは,怖くないか!?」
龍太が後ろの方に立って,黙って見ている保奈美に訊いた。

「…最初は,怖かった。凄く怖かった。今は,もう怖くない。」
保奈美が海保菜の直ぐ傍まで行き,母親の肩に手をかけて、もう片方の手で手を掴(つか)んだ。

「怖くてもいいよ。」
海保菜が言った。

「触ってみて。怖くないよ。」
保奈美は,龍太を促した。

「いや…。」

「触ってみて。怖くない。」
保奈美がとても真剣な顔で言った。

「なんで,触らないといけないの?」

「なんで,お母さんの手が怖いの?」
保奈美は,弟を必死で説得しようとした。

「別に,怖くない…触りたくないだけ。」

「触って。」
保奈美の口調が命令に変わった。

龍太は,恐る恐る手を伸ばし,母親の手に触れた。

「ごめんね、気持ち悪くて。」
海保菜が謝った。

「いや…別に,気持ち悪くないよ…。」

「いいよ。正直に,思っていることを言っていいよ。この子は,いっぱい言ったよ。」

「ごめんなさい。」
保奈美が久しぶりに謝った。

「もういい、保奈美。昔のことだから。」
海保菜は,笑った。
「とりあえず,これで信じてもらえたかな?」

龍太は、頷いた。

「なら、見せた甲斐はあった。

じゃ、ちょっと訊いていいかな?ここに座っていて,どうなの?しんどくならない?」

「…しんどくないよ。」

「でも、何か感じる?やっぱり。」

「胸が…ちょっと痛いかな…。」

海保菜は,頷いた。
「やっぱり,感じるんだね、海の力。」

龍太は,答えなかった。ただ,黒い波をぼんやりと眺め続けた。

海は,波が高くて,荒かった。星は出ていなかったが、満月に近い月が夜空に浮かび,水面に反射していた。龍太は,激しい勢いで岩にぶち当たり,弾けるしけた海の波にすぐに釘つげになった。

「入りたかったら,入っていいよ。」
海保菜が息子の様子をしばらく観察してから言った。

「え?危ないでしょう?」

「いや,別に。」

龍太は,慎重に波の中へと入って行った。泳げないから,それ以上は,進まなかったが。

「本当にいいの!?」
保奈美は,焦って,言った。

「問題ないよ。」
海保菜が冷静に答えて、娘を安心させた。
「でも,あなたは、やめといて。」

「私は,嫌だ。」
保奈美がすぐに言った。

「知っているよ。」
海保菜はうなずいて,言った。

龍太は,しばらく海に浸かってから,戻って来た。

「もう、いいの?」
海保菜が訊いた。

「…泳げないから。」

海保菜は,申し訳なさそうに頷いたが、すぐに帰るつもりではないようだった。

三人がしばらく沈黙になった。海保菜は,息子をジーっと観察していたが,何も言わない。沈黙をようやく破ったのは、保奈美だった。

「龍太,急に口をきかなくなって,本当にごめんなさい!」
保奈美がいきなり謝った。

「別にいいよ。」

「いや,良くないの!でも,私は本当におかしくなっていたの。今は,ようやく少し落ち着いた…。」

「大丈夫だよ,謝らなくても。びっくりしたでしょう?僕も,今びっくりしているように。」
龍太は,少しも怒っていないようだ。

「…変わらないね。」
海保菜が久しぶりに口を開けた。

「変わらないって?…変わると思っていた?」
龍太が目を丸くして,尋ねた。

海保菜は,それ以上,何も言わなかった。何かを深く考えている様子だった。

「…でも,泳いでみたいなぁ…お母さん,教えてよ。その体なら,すごく速く泳げるでしょう?」
龍太が頼んだ。

海保菜は,首を横に振った。
「出来ない。」

「なんで!?」
保奈美も,龍太も納得がいかない。

「人魚だとわかるまで,そんなことが出来ない。約束させられたの,力のある人に。今見せただけでも,もしかして,その約束を破ったかもしれない。

もう,帰ろう。ここは,危ない。」
海保菜は,息子の手に発疹が出来たと言う話を聞いて,人魚だと言う証拠を得られたと思っていた。でも,人魚なら,海に触れると,体は変わるはずだ。変わらないと言うことは,早合点したと言うことかもしれないと恐れていた。子供は人魚ではないのに,正体をバラして,体を見せたことを知られたら,龍太は危ない。浜辺でも,見られている可能性はあるし,早く離れた方がいいと判断した。

これまで,村長夫妻の命令は,わかりやすいと思っていた。「人魚だとわかるまで,話してはいけない。」という言葉には,絶対に一つしか,解釈はないと思っていた。しかし,今は,もうわからない。何を持って,人魚だと判断したら,いいのだろう?その兆候が見られたら?体が変わったら?どういう尺度を使えばいいのだろう?よく,わからなかった。

帰ってから,海保菜が保奈美にお礼を言った。
「今日は,ありがとう。いてくれて,助かった。」

「いえいえ,私は,何もしていない。」

「そんなことない。龍太も助かったと思うよ。保奈美がいてくれて。」

「龍太は…大丈夫かな?さっきのお母さんの態度で傷ついていないかな?」

「保奈美は,気にしなくていいよ。私が考えることだから。おやすみ。」

「なんか、寝れそうにない…。」

「どうした?」

「いろいろ思い出しちゃったというか…。」

「まだ辛いね…なのに、つき合わせちゃって,ごめんね。悪かった。」

「いや、もう大丈夫だけど。」

「強がらなくていいよ。ちゃんと,わかっているから。ちゃんと見ているよ。

前より,ずっと受け止めているし,大分落ち着いてきた…でも、まだ葛藤がある…。

そして、体も…まだしんどいね?激しい変化じゃないから,ほとんど気づかないかもしれないけど…。早く楽にさせてあげたい気持ちもあるけど,それがあなたのためになるかどうかわからない…ごめんね,無力で。」
海保菜が娘の全てを見透かしている口ぶりで言った。

「…そんなにしんどくないよ。」
保奈美は,虚(きょ)をつかれて,誤魔化(ごまか)そうとした。

「そうだね…前に比べて,へっちゃらだろうね…こっちから見て,まだ可哀想だけど…。」

「心配しなくていいよ。」
保奈美が努力して,笑って見せた。

「そう言われても心配するよ。あなたと龍太の心配をするのが仕事だからね。」

「龍太には,ほとんど何も言えなかった。慰められなかった。」

「充分だったよ。」

「もうちょっと力になれると思っていたのに…悔しい。」

「まあ、まだ怖いからね。でも、本当に充分だったよ。」

「もう怖くない!」
保奈美が必死で海保菜の手を掴んで,体にしがみついた。
「怖くない!信じて!」

「知っている。私の事がもう怖くないのは,知っているよ。

保奈美がまだ怖いのは,自分だね…。」

保奈美は,母親の鋭い指摘には、何も言い返せなかった。

海保菜は,娘をしっかり抱きしめ返した。
「ありがとう。おやすみ。」

保奈美は,一人になってから,考えた。
海保菜がさっき言った言葉がとてもショックだった。やっぱり,体が常に少しずつ何か違うものに変わって行っているという感覚は,気のせいではなかった。そして,海保菜の「早く楽にさせてあげたい気持ちもある。」という言葉の意味も気になった。「楽にさせる」とは,どういうことなのだろう?そして,それが出来るのに,保奈美のためになるかどうかわからないから,しないというその後の言葉の意味も気になった。気になるなら,母親に訊けばよかったが,何故か訊くのが怖かった。知らない方がいいかもしれないと思った。

海保菜が次の日になってから,尚弥に報告した。そして,尚弥に一つお願いをしてみた。

「龍太が私に泳ぎを教えてとお願いしたけど,私が教えるわけにはいかないから,あなたに教えてあげて欲しいの。」

尚弥は,海保菜がいつも言う「約束」の内容がよくわからない,どうして海保菜が息子に泳ぎを教えられないと言っているのかも,いまいちわからない。
「なんで,僕が?人魚でしょう?あなたの方が適任じゃない?」

「だから,私が教えてはいけないって。だから,あなたに教えて欲しいの。」

「よくわからないけど,わかった。教えてみるよ。」

尚弥は,息子を海岸に連れて行ったのだが,泳ぐことには,関心がなさそうで,ただ暗い顔をして,海をぼんやりと眺めた。

「さあ,泳いでみるか?」

龍太は,反応しなかった。

「せっかく来たし,泳いでみよう。楽しいよ。僕も久しぶりだ。」
尚弥は,無理やり盛り上げようとした。

龍太は,何も言わない。

「本当は,入ってみたいだろう?」

「なんで,お母さんが教えない?人魚のくせに。」

「僕にも,よくわからない…でも,それは,気にしなくていいから,海に入ろうよ。」

真夏の太陽がジリジリと光,水面に反射する。湿度が高く,空気がじめじめしている。潮風が頬に当たる時だけ,暑さから一時的に解放されるが,なかなか耐え難い厳しい暑さだった。まるで,サウナのようだった。空も,太陽のギラギラした光が映る海も,眩しくて,龍太が目を細めた。

「よし、行くぞ!」
尚弥は,自分が入ったら龍太もついてくるだろうと思い,一人で海に向かって,走り出した。

龍太は,仕方なく,ついていき,足が浸かるくらいの深さの海水に包まれてみた。海は,猛暑の外気温とは打って変わって,冷たくて,清々しく感じた。

「どう?」
尚弥が訊いた。息子の表情は,決して気持ち悪そうなものではなかったが,気になった。

「冷たくて,気持ちいいよ。」

「気持ちいいね!じゃ,今から泳ぐから,見といて!」
尚弥が沖の方へ短い距離泳いでから,またすぐに戻ってきた。

「どう?龍太もできそう?やってみて?」

龍太は,一歩も動かなかった。

「やってみて。きっと出来る。」

龍太は,怪訝そうな顔をした。

「やってみて。ここから,見ているから。溺れそうになったら,助けるから。」

龍太は,小さく溜め息をついてから,父親の泳ぎ方を真似してみた。でも、うまくいかなくて,体がすぐに沈みかけた。

尚弥は,これを見て,すぐに息子の腕を掴(つか)んで,助けた。
「もう一回やってみて。」

龍太は,もう一回やってみたけれど,結果は同じだった。

「もう一回。」

龍太は、首を横に振った。

「そうだね…。」
尚弥は,しばらく黙って考えた。

「僕を真似しようとしているから,ダメなのかもしれない。僕を真似しなくていいから…適当に泳いでみて。」
尚弥が閃いたことを言った。

龍太は,うなずいて,もう一回泳いでみた。

最初は,前と全く一緒で,体が波の中へ沈みかけ,飲み込まれそうになったのだが,途中から,足をくっつけてみたら,悠々と泳げるようになった。
「ほら、なかなか上手じゃないの!」

龍太は,体が疲れて,岸に戻ってきて,座った。

「上手に泳ぐね、お母さんみたいに!もう一回,泳いでみて。」

龍太が首を横に振った。

「疲れた?」

「疲れたし…もう嫌だ。なんで,ここに連れて来た?変な泳ぎ方しかできないと僕に見せるため?」

「違うよ…今日は,もうこの辺にして帰ろう。」

「龍太,泳げたんだって!?」
海保菜は,尚弥の報告を聞いてから,龍太に話しかけてみた。

「うん。」

「楽しかった?」

「普通だった。」

海保菜は,龍太のあまり気が乗らない反応を見て,それ以上,何も言わなかった。

尚弥は,海保菜の体が変わらないから,息子と距離を置くと言う態度が気に食わない。二人きりになってから,報告を続けた。
「あれは,やっぱり,あなたの息子だよ。すごく速いし,足じゃなくて,まるで尻尾があるかのように泳いでいたよ。」

海保菜は,優しく笑った。
「そうなの?」

「今度,見に来てあげて。」

「いや,それは…。」

「いいだろう?見るのは,あなたの約束には,触れないだろう?」

「そうだね。」
海保菜が少しためらってから言った。本当は,息子の泳ぎが見てみたくて,たまらなかった。

「じゃ、行かせてもらうわ。楽しみ!」
海保菜は,顔を月みたいに照らして,言った。

次,泳ぎに行くときは,海保菜も一緒に行った。

「この辺から,見ているね。」
海保菜は,海から充分離れたところに座ら込み,言った。

「お母さんも,泳いだらいいのに。」
龍太が嫌味っぽく呟いた。

海保菜は,悲しそうな表情をしたが,何も言わなかった。

龍太には,母親の態度の変化の訳がわからなかった。せっかく人魚だと打ち明けてくれたのに,自分は体が変わらないのを見ると,その途端に冷たくなり,もう海の話はしてくれないし,人魚の姿も見せてくれない。酷(ひど)すぎると思った。自分には,全くコントロールしょうがないことだけを取り上げられ,子供として認めないと言われているような気分だった。

不貞腐れた顔で考え事に耽る龍太は,尚弥に背中を突かれて,泳ぐように促された。

「認めて欲しいだろう?なら,見せて。」
尚弥が海保菜には,聞こえないような小さな声で呟き、息子にはっぱをかけた。

龍太は,すぐに泳ぎ出した。

海保菜は,満面の笑顔で遠くから,息子の泳ぐ姿を見た。足があるのに,人魚と全く同じように泳いでいるのは,不思議で,たまらなかった。

しかし,海保菜の笑顔がすぐにしかめ面に変わった。例の約束について,また考え始めた。今,目の前で泳いでいる息子の姿は,どう見ても,人間には,見えない。人魚にも,見えないのだけれど,一体,何を持って,「人魚だ。」あるいは,「人間だ。」と判断したらいいのだろう。

保奈美は,体が変わるから「人魚」で,龍太は,変わらないから,「人間」だと果たして言い切れるのだろうか。言い切れないと思った。

龍太は,人魚と人間のハーフだ。保奈美だって,そうだ。保奈美だって,海保菜のような生粋な人魚ではない。海保菜だって,体はともかく,心の奥底を探れば,人魚らしくないところも混在しているはずだ。その自分には,息子や娘が人魚なのか,人間なのか,決める権利は,果たしてあるのか。ないと思った。それは,息子や娘自身が決めることだ。

息子は,この間海に入らせたら,体は変わらなかったから,人魚ではなく,人間だと決めつけてしまったら,自分の血を引いていることを否定することになる。保奈美だって,体は変わるから,人魚だと決めつけてしまったら,人間のところを否定することになる。それは,間違いだと海保菜が思った。

息子も,娘も,人魚でもあり,人間でもある。そのどちらか,一つに分類しようとすると,規定し,拘束(こうそく)することになるし,自分も否定することになる。

息子は,確かに,自分の遺伝を受け継いでいる。体は,関係ない。体にこだわるのは,間違っている。心の方が大事だ。彼の心を見なくちゃ。

海保菜は,とても大きな決断をした。

「尚弥!龍太!」
海保菜が呼んだ。

尚弥と龍太が振り向いた。

「私も,泳ぐ!」
海保菜が潮風に吹かれ,乱れた髪に半分隠れた顔を月のように照らして,言った。

「約束は?」

「約束は,もういい!」
海保菜が反抗心を剥き出しにした顔で,言った。

尚弥は,妻のこの顔を初めて見た。やっぱり,妻には,まだまだ自分の知らないところがたくさんあると思った。

海保菜が波のすぐ手前まで来て,龍太に頭を下げて,涙目で謝った。
「私は,間違っていた。ごめんなさい。あなたは,やっぱり,私の息子だ。」

「いいよ。」
龍太が笑みを浮かべて,言った。
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