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3章

70 飾り紐④

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 老婆の歩調に合わせ、彼女の背中を追って行く。ゆっくりではあるが、足腰は強いらしく歩行は安定している。彼女は、長屋を一つ回り込むと、石造の5段ほどの階段を上がり、そしてもう一段上の長屋に張り付くように作られた、小さな蔵のような場所へ霜苓を誘った。
 
 「ここは……」
 倉の中は、思ったよりも通気されており、外気とさほど変わらない温度であった。
 目の前にすぐに飛び込んできた大きな釜と、壁や天井から吊るされたり雑多に床に置かれた様々な形をした刃物を見るに、ここが武具を鋳造する工房である事は理解できた。
「私の作業場だ……とはいえ、もう随分と使っていないけれど……」
 入り口で、言葉を失ったまま室内を見渡している霜苓に、彼女は室内に唯一置かれている椅子のような丸太を指して座るよう勧めると、自身はその奥に造られた小上がりに、「よいしょ」と緩慢な動作で腰を下ろした。

「貴方は……鍛治部の所属だったのですか?」

 言われた通り丸太に腰を下ろす。すでにわずかに感じる呼吸から彼女が同郷の者である事は間違いなく、対する老婆も霜苓の呼吸でそれは察している。今更確認など必要は無いと単刀直入に問えば、老婆はゆっくりと首を横に振った。

「いぃや……寧院さ」

「寧院……」

 聞きたくも無かった、己が行くはずだったその部隊の名に、霜苓は思わず息を呑む。この目の前の老婆も、昔は郷の掟の犠牲者だったというのだ。

「郷にはまだあるのか……あんな残酷な役割……」
 霜苓の反応に彼女はそれだけで、全てを悟ったらしく、目を伏せ吐き捨てるように呟いた。

「貴方が何年前までいらしたのかはわかりませんが……郷の体系はさほど変わっていないかと……」

「なんと進歩のない。そのくせ能力の高さを維持することだけには長けたものだから困ったものだ」
 そう言った彼女が、一つ大きな息をつくと「こんな歳になって……まさか今さら同胞と話すことが有るなんてねぇ」と天井を見上げた。
 
「50年になるかねぇ、私が郷を抜けたのは……。当時24かそこらだった。18で初めて嫁いで3度つがいに死なれて……それで寧院に……」

 思わず視線を落とした霜苓の反応を見て、彼女は肩をすくめる。

「運が悪かったと思うしかない。寧院に送られる女はだいたい同じようなものだ。郷の掟、郷が決めた相手、全て郷の言うことにそうているのに、この仕打ち。寧院の女達は、みな郷の掟を恨んでいた。私もその1人さ……。あんた、良い年にみえるが、番はいなかったのか?」

 話の最後……ハッとしたように問われ、霜苓は首を振る。おそらくそれだけで、話は全てが通じたのだろう。老婆が息を飲み、皺のに埋もれかけた瞳を丸くする。

「なんだ、本当に同胞だったのかね……」

 

「隣国の軍属の男の妾として潜入中にね。銀鉤国から鍛治の見習いにきていた夫と知り合ったんだ。互いに惹かれ合いながら、しかし叶わぬものと思っていたが、彼がちょうど祖国に帰る時期と同じくして任務としてついていた夫だった男が死んだ」

 寧院から彼女に下された任務としては、それで終了だったのだろう。後は郷に戻り、また違う任務を割り振られるまで待機する事になる。すでに24を超えていたとなれば、次の仕事はさほど質の良いものでは無くなって来る事は分かりきっていた。
 
「任務の終了と共に、私は彼を追って銀鉤国に向かった。当然、追手に何度も追いつかれそうになりながらも、撹乱して、ここにたどり着いた。以来、この山を一歩も出ていない。ここは人里離れていて、人との関わりがない。郷に気づかれなかったのは、単にそうした環境だったからさ。ここで私は夫に教わりながら、鍛治師の真似事をしていた。その帯飾りは、お得意さんにどうしても高貴な方に差し上げる、仕込み用の武器が欲しいと頼まれて、渋々見様見真似で作ったからよく覚えているさ。後にも先にも郷の技術を使ったのは、あの一回きり。まさかそれが40年も経ってこんなことになろうとは」

 いつかこうなる事を恐れていたのだと息をついた彼女の言葉に、霜苓は申し訳無い気持ちで、眉を下げる。彼女にしてみれば、この帯飾りは、皇太后のもとで誰の目にも触れずにひっそりと仕舞われていて欲しかったものだったのだ。

「ひと目で分かりました。紐の編みは子供の仕事でしたから。この紐は皇太后陛下から下賜して頂きました。決して他に出すことは致しませんのでご安心下さい。ですが追われる身の私が持っているのがご不安ならば、お返ししてもいいと思っておます」

 懐から、静かにそれを取り出し、彼女の前まで持っていくと、皺だらけの手の上に、ゆっくりと乗せてやる。

 老婆の瞳が、また大きく見開かれ、枯れ枝のように細い指が、その感触を思い出すかのように、紐の表面を撫でる。

「鎖が随分と古くなっているな……少し調整が必要だ。しばらく預かってもいいか」

「良いのですか!?」

 だったそれだけ触れただけで、状態が分かる事にも驚きながら、しかしこれは封じておきたいと言われる事を予想していた霜苓は、彼女の申し出に思わず問い返す。
 対して老婆は、パチパチと瞬いて……。
「良いもなにも商品として一度は客に売ったものだ。調整をするところまでがこちらの仕事だ。それに今更郷が私の所在に気づいたとて、こんなお迎えの近い老いぼれに何ができる。もう郷に私を知るものはいないだろう。兄弟も2人しか残っていなかったしな」

「たしかに……」

 郷ではすでに彼女を積極的に追うことはしていないだろう。任務に出る時にも一度目を通す逃亡者の一覧で彼女らしい者を見た記憶はない。最も月日が経ちすぎて、容貌が変わり、郷の記録と彼女が繋がらないだけなのかもしれないが……。
 ここまで歳を重ねれば、もう安泰なのかもしれないな……そんな事を考えて、そこではたりと霜苓は、当初の目的を思い出す。

「っ……実は、帯飾りは口実で……あなたにお伺いしたいことがあってまいりました」

「この老いぼれに分かることならば」
 帯飾りを、手近な箱を引き寄せて丁寧にしまう彼女が静かに呟くのを確認して、霜苓は居住まいを正して、彼女の瞳をしっかり見据える。

「呼吸の消し方について、知っていることはないでしょうか」
「呼吸の、消し方?」

 胸の音が、彼女にまで聞こえているのではないかと思うほど五月蝿い。手立てが得られるのか……はたまた、掴みかけた手がかりを失うのか……
 これにかけて来たのだ。

「あなたの呼吸は、郷の者がいると断定して十分意識せねば気づかないほどに、郷の呼吸の気配が微弱になっている。何か呼吸を消す方法があるのでしょうか?」
 

「呼吸が微弱……そうなのか?」

「お気づきでは……ない?」

 ゆっくりと首を振られ、霜苓は自分の身体から力が抜けるのを、寸でのところで踏みとどまる。
 そんな霜苓の心を老婆は具に感じ取ってくれたのだろう。霜苓の手を皺だらけの手で慰めるように包む。

「郷の人間に会ったのは実に50年ぶりでね。ずっとここから出ず、家族とだけ過ごしていたからね。特別な事は何もしていないさ……おそらく郷を離れて長い時を経て、抜けていったのではないだろうかね。なるほど、たしかにあなたの立場は、すぐにでも呼吸を消したいだろうね」
 理解できる事だと頷き、役に立て無い事を詫びる彼女に首を振って、その小さい手を握る。

「ひと月ほど前、同じように郷を抜けた同胞に出会いました。彼は、呼吸を消したり、こちらに気づかせるようにわざと呼吸を感じさせたりしていました。なにか方策があるのかと思って」

「まだ他にも郷を抜けたものがいるのかね………」
 驚いて声を上げる彼女に、肩をすくめて見せる。逃亡者は漏れなく処分される。それが幼い頃から何度も言い聞かせられた事だ。すでに2人も出会った事が奇跡なのかもしれない。

「彼の場合は、死した者として郷で扱われてたので、郷から追われる事はないのですが……それを聞き出すことが出来ぬ間に姿を消してしまったので」

「なるほど、それで私に望みを持っていたわけだ……すまないが、私には何も教えてやることができない」

「いえ……話を聞けただけでも十分です……」

 きゅうっと、霜苓の手を握る彼女の手に力がこもる。柔らかいが、所々固い蛸と、皮膚のざらつきが触れる、職人の手だ。

「皇太子には産まれたばかりの赤子がいると聞いているから。あんたが必死な理由はよく分かる。私にも似たような時期はあった。知りたい事を教えてやることは出来ないが、あんたが子どもと自分と亭主を守るために必要なものの整備や製作はしてやれる。何かあれば使いを寄越しな。今は息子とその嫁……孫が中心になってここを切り盛りしているが、私だってまだ口くらいは出せる。あんたが困らない程度の暗器の作り方くらいは伝授できる」
 必死に霜苓を見上げる、皺に埋もれた榛の瞳はわずかに湿っていて……彼女が本当に霜苓を案じて、何かをしてやりたいと思っている事が伝わって来る。

「私の名は湖祝こしゅくというんだ。右軍の将から、監察方の連中の使う武具まで広く網羅している。あんたのために最上の武器を献上しよう」

 
 
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