皇太子殿下は刺客に恋煩う

香月みまり

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1章

16 裏側③

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 天幕に入ると、真っ直ぐ寝台に向かい、気持ちよさそうに眠る身体を揺らさないようにゆっくりと下ろす。

 整えられた白い敷布の上に、彼女の黒髪が広がる様をみて、こくりと唾を飲んだ。

 腕から離れる熱を帯び、桃色に色づいた柔らかな白い肌と先程よりも少しだけ弱くなった甘い香り。
 寝台に横たえた娘を吸い寄せられるように見下ろして、しばしの間、陵瑜は言葉を失った。

 今までこれほどまでに、女に目を奪われた事があっただろうか。これも媚薬の香りがそうさせているのだろうか。

「水~」

 戸惑いながら自問する陵瑜の視線の先で、娘がころりと寝返りを打って、こちらに向けてひらひらと手をのばす。
 薄すく赤茶の瞳が開かれ、陵瑜を捉えた。

 寝台に横たえられた女を凝視する若い男なんて、警戒されるに決まっている。

「いや、違う、寝かせようとしただけで!!」

 慌てて身を翻して、卓から水差しを取り杯に入れて手渡してやると、そんな事は全く気に止めていないらしい彼女は豪快に顎を持ち上げて水を飲み干した。
 
 コクコクと動くその喉白い喉がまた艶やかで。陵瑜は慌てて視線を反らした。

 まるで10代の男子のような自身の反応に戸惑いながら、「こんなもの男なら誰でも心奪われるに決まっている……そうだ! 媚薬の残り香のせいもあるだろう!」と思いなおす事にすると、「全くこんな無防備な娘、本当に自分が保護しなければ、どうなっていたかわからないな」うんうんと頷いて、精神を落ち着けさせる。


 実際こんなに無防備な状態では、流石に訓練された女戦士でも男に囲まれたらどうにもできないだろう。

 しかし、彼女の郷の仲間たちは、若い娘を一人で野放しにして何をしているのだろうか。起きたらその辺りを本人にも説教して、彼女の同行者にも一言言ってやろうか……

 そんないらぬ事を考えていたら、視界の端でなにやらゴソゴソと動くので、まだ水が欲しいのかと視線を戻して……思わず目を剥いた。


「な!  ぬ!  何している⁉︎」

おもわず裏返った情けない声が出て、彼女の傍から思わず一歩下がる。

「暑い!」

 しかし、狼狽た陵瑜にはお構いなく、娘は次々と豪快に服を脱いでいく。
 時折床に放られた衣類からは、ゴトンやらガシャンやら布らしからぬ重たい音が響く。

 即座に衣類にしまわれた暗器の類だろうと理解に及ぶが、そんな大切なものを、全て手の届かない場所に投げてしまって大丈夫なのだろうか。

「お前な……」

「なんだ怖気付いたのか?」

 とうとう胸帯と下穿きだけとなってしまった彼女に視線を向けられずにいると、挑発するように鼻で笑われる。

 怖気づくというよりは、お前の行動が奇想天外すぎてついていけないのだ!と言い返してやりたいところだが、ちらりと彼女の顔を見れば、赤茶の瞳が陵瑜をじっと見つめている。

「私を抱くのだろう?早く来い」

 まるで今から剣の稽古でもしようというようなノリで「さぁかかってこい」と言われ、陵瑜は大きなため息をつく。

「いつ、俺がそんな事を……」

「なんだ、意気地のない。婚約者なら今日死んだから後が面倒ということもないぞ?」

 そして更に陵瑜の目を剥かせる発言が飛び出した。

「は? 今日⁉︎ それで……自棄になっているのか⁉︎」

「あぁ、正確には夫か……祝言だけあげただけのな」

 もう何も理解ができない。
 新種の生き物でも見ているようだ。
 言葉も発せずにいる陵瑜に彼女は自嘲ぎみに微笑んで肩をすくめている。
 
「だからと言って……悲しみを他の男で慰めるのはいい方法ではないぞ。夫がどう思うか考えてみろ……」

 陵瑜だったらば、妻が自身の死んだ日に自棄を起こして他の男に抱かれるなんて絶対に嫌だ。たいがいの男はそうであろう。そう思って、諭すように静かに問いかけたのだが……

 「悲しみ? 柵がどう思うか?」

 わけがわからないと首を傾ける彼女は、すぐに「あぁ」と鼻で笑った。

「そういえば下の世の者達は人の死をいちいち悲しまねばならぬから大変だな。人はいずれ死ぬものだ。寂しいとは思うが、また違う魂になって近くに戻ってくるのだろう?」

 まるでそれが当然だという様子に、彼女の郷では、そう教えられるのだと陵瑜は愕然とした思いで理解した。   
 
 おそらく、そうでなければ影というものは、まともな精神を保って生きてはいけないのだろう。それは違うと、安易に否定したい気持ちを飲みこむ。

「では……お前は夫を亡くして寂しいのだろう?」

 彼女の言葉を使って問うてみれば、しかし釈然としないように眉を寄せられる。

「寂しい……柵に関してはあまりないな。もともと決められた相手と言うだけでまともに顔を併せて話す事もなかったから。まぁ面倒にはなったと思う」

「決められた……か……番の制度だな。聞いてはいたが、まだ残っている所もあるのだな……それで、面倒とは?」

「言えない」

 きっぱりと拒絶され首を振られる。そこは禁忌の粋に踏み込むことになるらしい。

 どうやら、夫が死んだことと、彼女がいずれ男達の慰みものになる運命と自棄になる事は繋がっているのだろう。それだけで、陵瑜にはなんとなく見当がついた。

 おそらく、夫を亡くした未亡人の女にはそうした役割が割り当てられるのだろう。似たような話は、過去の歴史を学ぶ上で聞いた事がある。

 まだ若く、美しいこんな娘が……

 そう思うと、随分と気の毒に思えてきた。

 戦は終わり、彼女達影の者たちも数日中にはここを去ることになるだろう。郷に戻った彼女に待ち受ける運命が、彼女の言うようなものなのであれば、自棄にもなり、行きずりの男に「自分で選んだ、こいつの方がまだマシだ」と思う気持ちもなんとなしに理解できてしまった。

 額に当てていた手を、彼女のむき出しの肩に落とす。

 「お前は……俺に抱かれたいのか?」

 本当にそれで良いのか? 後悔はしないのか? と念を押すように見つめた赤茶の瞳が、真っ直ぐ陵瑜を見つめる。

 燭台の光を受け、飴玉のように輝くその瞳は、やはり吸い寄せられるような不思議な輝きだと思う。

「どうせなら最初はお前のような色男の方がいい。それに、どうせ誰かの言いなりで肌を重ねる事になるのならば、最初くらい自分で決めた男と寝てもいいだろう?」

 自嘲ぎみに微笑んだその表情が、先程までの飄々としたものとはわずかに違う悲しげな色を宿しているような気がして。胸の奥が軋む。

「なんとも、悲しい理由だな……」

「仕方があるまい。そういうものなのだ」

「……そうか」

 唇を噛む。どうにかしてやれないだろうかと考えるものの、彼らの郷の事は陵瑜の手の届かぬ事であり、下手に手を出せば彼女の命も陵瑜の周辺の命も脅かされるような危険をはらむ。

 たった一時の情に流されるべきではない。

 冷静な己が自らに警告する。できる範囲で手を差し伸べてやる、それが今のお前にできることだと。

 肩においたままの手を、下に滑らせる。白い肌の柔らかさと、火照った熱が手の平を熱くする。見上げて来た彼女に、眉を下げ、努めて柔らかく微笑む。悲痛な顔をしていては、彼女に申し訳ない。

「ならば遠慮なくお前の最初をいただこうか。言っておくが、俺は女だからと言って誰彼構わず抱くような男ではない。お前が美しく魅力的だから抱きたいと思った。名を、なんという?」

「霜苓だ……」

 そう言って自身の膝に「霜」と「苓」の字をなぞった彼女に「きれいな名だな」と告げると、ようやく彼女は初めて目元をわずかに下げて「ありがとう」と微笑んだ。

 思わずその唇に己のものを重ねた。触れるだけの軽いものだが、性急すぎただろうか。

 少し不安になってすぐに離れて彼女の様子を伺うと……。

「これが口付けというものなのか」

 きょとんとした表情で見返され、胸が締め付けられるような感覚を覚える。

 触れられる事には抵抗は無いらしいが……あまりにも初心だ。

 せめてこの娘のこれから待ち受ける過酷な人生の中で、一時の良い思い出になってくれたらいい。

 願うようにもう一度、今度は彼女の頬を撫でて顎を持ち上げ、ゆっくりと唇を重ねた。

 
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