9 / 77
1章
7 悔いていること
しおりを挟む
ゴトゴトと揺れる馬車の荷台で霜苓は、後方を睨みつける。腕の中では、乳を飲み終えた珠樹が、とろとろと寝入ったところだ。どうやら珠樹は馬車の揺れが心地よいらしい。夜間の移動でもぐずる事もなく、眠ってくれるのはとてもありがたかった。
「いい子ね」
桃のようにみずみずしくふっくらとした頬を撫でて、夜風で冷えないようにしっかりと布に包んで抱き込んで、また視線を、過ぎて行く景色に戻す。丁度、御者の席へ移動していた陵瑜が荷台へ戻って来た所だった。
「珠樹は眠ったか……霜苓、お前も休め……代わりに見張っておくから」
まだすこしばかり体の痛みの残る霜苓を気にしてくれているらしい。その上、霜苓がただぼんやり荷台から後方を眺めているわけではないという事に気付いている陵瑜の敏さに驚かされる。
蝕の郷の者達には朝も夜も関係ない。この暗闇の先のどこかを彼らが追ってきているかもしれないと考えると、眠ることなどできなかった。
小さく首を振って固辞すると、陵瑜は呆れたように息を付いて、どかりと霜苓の隣に腰かける。彼こそ昨晩は夜通し渡南に向けて走っていたわけだし、昼間は目覚めない霜苓の代わりに珠樹の面倒を見ていたのだから、眠った方がいいのでは?そう思って隣を窺うと、驚くことに彼は自身の膝に頬杖を着いたまますでに眠っていた。
いったいどの口が、代わりに見ているから……と言ったのだろうか。まったく頼りになるような、ならないような不思議な男だ。
呆れて、近くに丸めて固められているかけ布を引いてその大きな体にかけてやる。比較的温暖な気候の銀鉤国に近づいているとは言え、夜は冷えるし幌がついた荷台だとしても多少の風は受ける。
やれやれと、肩に布をかけたところで、不意に眠るその横顔に既視感をおぼえる。いったいどこで、眠る男の横顔など見ただろうか。父や兄や弟達とは、同じ家の中にいても互いに休息を取る姿を見せることは無かった。
あとは任務中だろうか……そう考えを巡らせて、そんな頃に男の寝顔を間近で見た衝撃的な出来事があった事を思い出す。
「……」
あの時の相手の男の顔は、今となっては、よく覚えていない、しっかり顔を見てはいるはずだが、あまりの事に直後はその事を意識的に考えないようにしていたためか、時と共にその記憶は薄れて行って、珠樹を身籠っていると知った時には「たしかあんな感じの顔……だったよな?」程度になってしまっていた。
顔については、整っていたように思うのだ。酒に酔った状態の頭でも「どうせこの先任務で不特定多数の好きでもない男に抱かれる事になるのならば、最初くらい自分で選んだ顔の良い男に抱かれてやろうではないか」と半ば自棄糞で思った事は覚えている。肝心な相手の顔と、どうしてそんな状況に陥ったのかは思い出せない自分の酩酊状態の記憶力が憎い。
やめようやめよう、もう済んだことだ……。
首を振って頭からあの時の記憶を振り払う。胡坐をかいた自身の膝ではそれがきっかけで生まれる事となった珠樹が、小さな口を少しだけ開けて気持ちよさそうに眠っている。
後悔をしているわけではない。今となっては珠樹の居ない生活は考えられない。ただ、もし相手の男の、人となりや生活をもう少し知る事が出来ていたのなら、珠樹をここまで危険に晒し、ゆく当てのない旅に連れ出す必要もなかったのかもしない。昼に陵瑜にあんな事を言ったものの、もし相手の男が珠樹を託すに値する男だったら……あの時相手の男を確認もせず、記憶から消した霜苓の罪は重い。この先、霜苓と共に居られない事態に堕ちいったとしても、珠樹は安全な場所で、父親の庇護のもと伸び伸びと暮らす事が出来たかもしれない。その可能性を霜苓は奪ってしまった事は申し訳ないと悔いているのだ。
「いい子ね」
桃のようにみずみずしくふっくらとした頬を撫でて、夜風で冷えないようにしっかりと布に包んで抱き込んで、また視線を、過ぎて行く景色に戻す。丁度、御者の席へ移動していた陵瑜が荷台へ戻って来た所だった。
「珠樹は眠ったか……霜苓、お前も休め……代わりに見張っておくから」
まだすこしばかり体の痛みの残る霜苓を気にしてくれているらしい。その上、霜苓がただぼんやり荷台から後方を眺めているわけではないという事に気付いている陵瑜の敏さに驚かされる。
蝕の郷の者達には朝も夜も関係ない。この暗闇の先のどこかを彼らが追ってきているかもしれないと考えると、眠ることなどできなかった。
小さく首を振って固辞すると、陵瑜は呆れたように息を付いて、どかりと霜苓の隣に腰かける。彼こそ昨晩は夜通し渡南に向けて走っていたわけだし、昼間は目覚めない霜苓の代わりに珠樹の面倒を見ていたのだから、眠った方がいいのでは?そう思って隣を窺うと、驚くことに彼は自身の膝に頬杖を着いたまますでに眠っていた。
いったいどの口が、代わりに見ているから……と言ったのだろうか。まったく頼りになるような、ならないような不思議な男だ。
呆れて、近くに丸めて固められているかけ布を引いてその大きな体にかけてやる。比較的温暖な気候の銀鉤国に近づいているとは言え、夜は冷えるし幌がついた荷台だとしても多少の風は受ける。
やれやれと、肩に布をかけたところで、不意に眠るその横顔に既視感をおぼえる。いったいどこで、眠る男の横顔など見ただろうか。父や兄や弟達とは、同じ家の中にいても互いに休息を取る姿を見せることは無かった。
あとは任務中だろうか……そう考えを巡らせて、そんな頃に男の寝顔を間近で見た衝撃的な出来事があった事を思い出す。
「……」
あの時の相手の男の顔は、今となっては、よく覚えていない、しっかり顔を見てはいるはずだが、あまりの事に直後はその事を意識的に考えないようにしていたためか、時と共にその記憶は薄れて行って、珠樹を身籠っていると知った時には「たしかあんな感じの顔……だったよな?」程度になってしまっていた。
顔については、整っていたように思うのだ。酒に酔った状態の頭でも「どうせこの先任務で不特定多数の好きでもない男に抱かれる事になるのならば、最初くらい自分で選んだ顔の良い男に抱かれてやろうではないか」と半ば自棄糞で思った事は覚えている。肝心な相手の顔と、どうしてそんな状況に陥ったのかは思い出せない自分の酩酊状態の記憶力が憎い。
やめようやめよう、もう済んだことだ……。
首を振って頭からあの時の記憶を振り払う。胡坐をかいた自身の膝ではそれがきっかけで生まれる事となった珠樹が、小さな口を少しだけ開けて気持ちよさそうに眠っている。
後悔をしているわけではない。今となっては珠樹の居ない生活は考えられない。ただ、もし相手の男の、人となりや生活をもう少し知る事が出来ていたのなら、珠樹をここまで危険に晒し、ゆく当てのない旅に連れ出す必要もなかったのかもしない。昼に陵瑜にあんな事を言ったものの、もし相手の男が珠樹を託すに値する男だったら……あの時相手の男を確認もせず、記憶から消した霜苓の罪は重い。この先、霜苓と共に居られない事態に堕ちいったとしても、珠樹は安全な場所で、父親の庇護のもと伸び伸びと暮らす事が出来たかもしれない。その可能性を霜苓は奪ってしまった事は申し訳ないと悔いているのだ。
3
お気に入りに追加
195
あなたにおすすめの小説

【完】夫に売られて、売られた先の旦那様に溺愛されています。
112
恋愛
夫に売られた。他所に女を作り、売人から受け取った銀貨の入った小袋を懐に入れて、出ていった。呆気ない別れだった。
ローズ・クローは、元々公爵令嬢だった。夫、だった人物は男爵の三男。到底釣合うはずがなく、手に手を取って家を出た。いわゆる駆け落ち婚だった。
ローズは夫を信じ切っていた。金が尽き、宝石を差し出しても、夫は自分を愛していると信じて疑わなかった。
※完結しました。ありがとうございました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
敗戦して嫁ぎましたが、存在を忘れ去られてしまったので自給自足で頑張ります!
桗梛葉 (たなは)
恋愛
タイトルを変更しました。
※※※※※※※※※※※※※
魔族 vs 人間。
冷戦を経ながらくすぶり続けた長い戦いは、人間側の敗戦に近い状況で、ついに終止符が打たれた。
名ばかりの王族リュシェラは、和平の証として、魔王イヴァシグスに第7王妃として嫁ぐ事になる。だけど、嫁いだ夫には魔人の妻との間に、すでに皇子も皇女も何人も居るのだ。
人間のリュシェラが、ここで王妃として求められる事は何もない。和平とは名ばかりの、敗戦国の隷妃として、リュシェラはただ静かに命が潰えていくのを待つばかり……なんて、殊勝な性格でもなく、与えられた宮でのんびり自給自足の生活を楽しんでいく。
そんなリュシェラには、実は誰にも言えない秘密があった。
※※※※※※※※※※※※※
短編は難しいな…と痛感したので、慣れた文字数、文体で書いてみました。
お付き合い頂けたら嬉しいです!
皇帝は虐げられた身代わり妃の瞳に溺れる
えくれあ
恋愛
丞相の娘として生まれながら、蔡 重華は生まれ持った髪の色によりそれを認められず使用人のような扱いを受けて育った。
一方、母違いの妹である蔡 鈴麗は父親の愛情を一身に受け、何不自由なく育った。そんな鈴麗は、破格の待遇での皇帝への輿入れが決まる。
しかし、わがまま放題で育った鈴麗は輿入れ当日、後先を考えることなく逃げ出してしまった。困った父は、こんな時だけ重華を娘扱いし、鈴麗が見つかるまで身代わりを務めるように命じる。
皇帝である李 晧月は、後宮の妃嬪たちに全く興味を示さないことで有名だ。きっと重華にも興味は示さず、身代わりだと気づかれることなくやり過ごせると思っていたのだが……
後宮の棘
香月みまり
キャラ文芸
蔑ろにされ婚期をのがした25歳皇女がついに輿入り!相手は敵国の禁軍将軍。冷めた姫vs堅物男のチグハグな夫婦は帝国内の騒乱に巻き込まれていく。
☆完結しました☆
スピンオフ「孤児が皇后陛下と呼ばれるまで」の進捗と合わせて番外編を不定期に公開していきます。
第13回ファンタジー大賞特別賞受賞!
ありがとうございました!!
公主の嫁入り
マチバリ
キャラ文芸
宗国の公主である雪花は、後宮の最奥にある月花宮で息をひそめて生きていた。母の身分が低かったことを理由に他の妃たちから冷遇されていたからだ。
17歳になったある日、皇帝となった兄の命により龍の血を継ぐという道士の元へ降嫁する事が決まる。政略結婚の道具として役に立ちたいと願いつつも怯えていた雪花だったが、顔を合わせた道士の焔蓮は優しい人で……ぎこちなくも心を通わせ、夫婦となっていく二人の物語。
中華習作かつ色々ふんわりなファンタジー設定です。

アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる