後宮の棘

香月みまり

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第9章 使、命

第348話 彼女の怒る顔

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「大したことありません。大丈夫ですから」

そう言って歩き出してすぐに隆蒼は、自分の足に刺さった矢がただの矢ではないことに気づいた。


少し動かしただけで、傷口から、足先までがじわりと痺れて、そして熱を持ったように熱くなった。
以前にも同じような場所を負傷したことがあるが、こんな痛みではなかった。

毒矢か。

額を脂汗が流れて行く。

なかなかまずい状況だ。
そう思いながらも、一歩一歩、前に進む。

前をいく翠玉も、華南も時折気にするようにこちらを振り返る。

このままではダメだ。2人を巻き添えには出来ない。ここで止まって、自分は極力時間を稼ごうか、、、多分彼女達が出口に到達するくらいまではなんとか時間は稼げる。

頭の中で、手元に残っている装備を計算する。

少し足りないかもしれないが、最後は体当たりでもなんでもかましてやる。

はぁっと息を吐く。

少し視界がチカチカしてきた。
これはやはり毒だな。


ふと歪み気味の視界に、分岐が見えた。

この鍾乳洞は入り組んでいて、複数の分かれ道がある。先はどこにつながっているか分からないものもあり、翠玉の案内なくては、隆蒼と華南は脱出できない。

そんな迷子の恐れのある洞ゆえに、この洞には兵を配備することは出来なかったのだ


ふらりと、倒れ込むようにその分岐に腰を落とした。


「か、なん。」

息も苦しい。思いの外、声は出なかった。

「翠玉様を頼む、、、毒矢だったらしい、おれは、多分この先には進めない」

自嘲する。

足手まといは御免だ。
付き合いの長い彼女なら、自分の言わんとしている事は理解してくれるだろう。


あぁ華南には申し訳無いことをする。
仲間を見捨てる決断をさせてしまう事になるのだ。

「このっ馬鹿!!早く言いなさい」

しかし、予想に反して、彼女は怒った。

そして彼女は自分の髪紐を解くと、素早くしゃがみ込んで、鎧をかき分けると、膝上をきつく縛り上げる。

キツくしばったにもかかわらず、ギュッと締まる感覚はわずかだった。

痛みがないのが救いだ。

そう思いながら、自分の目の前に屈む女の顔を見る。

こんな時でもやっぱり綺麗だ。

長い睫毛に、形のいい瞳、そしてふっくらとした唇。

最後にこれだけ至近距離で見られたのだから、悔いはないだろう。

そう思ったのに、次の瞬間、華南は容赦なく刺さった矢を抜き取って、傷口にその焦がれた、形の良い唇をつけたのだ。

一瞬、夢から覚めたように意識が戻った。


「馬鹿お前やめろ!」

口で吸えば、彼女の口内も毒に犯される。
種類も分からないのにそんな事をするべきではない。

慌てて止めようとしたが、すでに遅く、彼女はペッと血の塊を吐いた。そして


「ちゃんと濯ぐわよ、あんたは自分の心配してな!」

いつもの調子で隆蒼を叱ると、もう一度口を傷につけた。

「もう少し頑張んなさい、そこに岩の凹凸があるわ、あんたのでかい体でも隠せると思うわ」

もう一度血の塊を吐いて、水で濯いで吐き出すと、彼女は少し先にある岩の出っぱりを指した。


自分がここに身を隠さないかぎり、彼女達は離れないつもりらしい。

全く。軍から離れすぎたせいか、彼女は軍人の判断がまるでできていない。


仕方なく、気怠い身体を動かして、彼女に引っ張られながら、岩陰に身を落ち着けた。


「すぐに迎えにくる。いい子で待ってなさい!」


いつもの調子で冗談めかしていう彼女に手を伸ばして、その頬に触れた。

暖かい。まだ手に感覚が残っていて良かった。


「好きだ、、、お前を幸せにしてやりたいとずっと思っていた」

驚いたように華南が目を見開く。

あぁ、やっと言えた。こんな時だったのが不甲斐ないが、そうでなければ言えなかっただろう。


「こんな時にしか言えなかったの!?馬鹿じゃないあんた!!」

すぐに華南の怒る声が耳に響いた。でもこの声は知ってる。涙を耐えている時の声だ。


ジャリジャリと石を踏み締める音が近づいて、翠玉様が戻ってきたのを、感じたのだろう。華南が身体を離した。


ドスンと手元に、翠玉様が武具を収納した一式を投げてよこした。


「使いなさい。必ずあなたの手で返してよね」

「なりません」

警護対象の上官の武器を借り受けるなどあっていいはずがない。
これは彼女を守るために殿下が彼女に持たせたもので、、、




「華南いくわよ」

自分の言葉など聞こえてないような顔をして、翠玉様は離れて行った。


「はい」

足元に座っていた華南が立ち上がろうとする。


最後に彼女の顔を見納めようと、怠い頭を持ち上げた次の瞬間。

彼女の顔が思いの外近くにあって

そしてグッと乱暴に引き寄せられ

ふわりと、少しだけ血の臭いがして、唇に柔らかいものが触れた。


靄のかかっていた頭の中が、一瞬だけ鮮明になった気がした。

ぼんやりとそれでも驚いていると、華南は唇を離して素早い動作で立ち上がる。

「死んだら容赦しないからね」

口調はやはり怒っていて、きつい顔でこちらを睨み

「翠玉様、まいりましょう」

振り返る事なく分岐の先に行ってしまった。


2人の姿が、見えなくなると、またしてもぼんやりとした靄が頭の中を埋め尽くし始めた。

視界がゆらゆらと揺れ出して、あぁいよいよ来たかと、覚悟を決める。

最後に、いい思いが出来たのだ悔いはない。

歪む視界を見ないように目を閉じた。

まぶたの裏に映るのは、怒っている華南の顔だ。

最後まで怒っているのがいかにも彼女らしい。


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