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第8章 絆
第277話 甘い香り
しおりを挟む久しぶりに見る古い建物は、記憶にあるよりも一層寂れていた。
謁見を申し入れている事を伝えて、案内されるままに邸内に入る。
放ったらかしの寂しい外観と違い、邸内はよく管理されていた。
しかし、淀んだ空気はひんやりとして湿っぽく、しんと静まり返っている。
カツンカツンと自分の足音だけが、冷たく回廊に響いている。
案内された扉を叩き入室すると、ぷんと甘い香りが鼻をつき、わずかに眉を寄せた。
昔から、この香りは苦手だった。
足元に敷かれた、くすんだ(もともとは真っ赤であったであろう)敷物が伸びた先には、鮮やかな珠塗りの椅子が一つ。そこから色とりどりの布が広がっており、それがそこに座った者の纏う衣装なのだろう。
首より上は御簾が下がり、その者の表情は窺い知れない。手入れされた爪が光りを放ち、色とりどりの扇子をパタリパタリと弄んでいる。
その手は、歳を重ねた女性の華奢なものだ。
「急な来訪に快くお迎えいただき感謝いたします」
拳を握り、その場で腰を折って礼を取る。
パタリパタリと扇子を煽る音だけがやけに耳につく。
「ふん、皇帝からの伺いを退くほど妾は偉くないのでな。大手を振って喜んで見えるかえ?」
吐き捨てるような言葉は、心底忌々しそうで
相変わらずの口調に懐かしさまで感じる。
ゆっくり身体を起こすと、御簾の下縁に視線を固定する。
「して、戦を前にお忙しいはずの将軍が何用でしょうや?わざわざ惨めな女の末路を笑に来たわけでもあるまいなぁ」
嘲笑うようなその言葉に、冬隼は眉を寄せる。
この女相手に世間話をする気は毛頭なかったが、相手も同じと言うことらしい。
大変ありがたいことである。
時間もないしな。
口元が僅かに吊り上がりかけて、誤魔化すように口を開く。
「先日、母の廟を訪ねました」
唐突に、発した言葉にほんの一瞬だけ扇子をくゆらす彼女の手がピタリと止まり、すぐに思い出したかのように再度パタリパタリと耳障りな音を立て始める。
「おやまぁ孝行なご子息をお持ちで幸せな母上よ」
白々しいと、内心毒づきながら、表情を引き締める。
「母の墓にご親切に花をご用意いただきありがとうございます」
先程より浅く、簡単に頭を下げる。
脳裏に思い出されるのは、翠玉を連れて母の墓を詣でたあの日みた。色鮮やかな花々。
白や黄色、朱や桃色。
そして、紫
現皇帝の生母の墓である。一際鮮やかに飾り立てられているのは、当然と言えば当然で、なんの違和感もないのだ。
兄や、兄の妃達、自分も折々で花を供えるよう手配はしているのだが
「えぇ、現皇帝陛下の母君であれば、当然のこと。よくお分かりになった」
クツクツと喉を鳴らして笑い、だからどうしたと彼女は言うのだろう。
ゆっくり顔を上げて、御簾を一瞥すると薄く笑う。
「分かりますよ。わざわざ母の忌む花を知っておきながら、選んで供える者なんてすぐにピンときました。死してなお、嫌がらせをなさるそのお心に感心いたしました」
パタリと扇の動きが止まった。
ククッと御簾ごしに、彼女が喉を鳴らす音が響く。
「お察しがいいこと。しかし、よもやそんな事をいうためにわざわざお越しになったのかえ?」
気を取り直したかのように、再びパタリパタリと扇が動き出す。
冬隼は努めて表情を一切動かさなかった。
こうした化かし合いは、自分の本分ではない。
恐らく雪や泰誠みたいな性質の者達であれば、もっと見事な舌戦を繰り広げる事ができるのだろうが。
これだけ時間を稼げたのであれば、上等だろう。
「御冗談を、こちらの来訪の目的など、お分かりかと思いますが?」
冷たく言い放つ。
しかし御簾の向こうからは「はて」とため息混じりの声が返ってくる。
「妾には何のことやら。もう随分と外とは連絡をたっておるゆえ」
とことんまでしらばくれるつもりらしい。
予想の範囲内である。
一筋縄でいかないのは長年の付き合いで身をもって知っている。
ゆっくり息を吸う。
「ここ数日、我が宮を執拗に探ろうとするものに悩まされておりましてな。
昨晩、其の者の出所を探るため後をつけました」
パタンパタンと扇子の音が響く。
「どうやらその者はこちらの宮に戻ったようなのです」
パチン!とひときわ大きな音が鳴り、扇子が閉じられ、その音が部屋の中に大きく響いた。
「ほう、どうやってそれを突き止めた?
この昭嶺宮は後宮の中でも更に最奥。
後宮の者でも近づかないこの冷宮同然の場所に近づく者があればさぞ目立つであろうものを」
しばし時があり、感情を一切殺した、冷えた声が響いた。
「おっしゃる通り、正面から後宮に入ればそうでしょう。昭嶺宮は後宮の中でも最奥の宮しかし北側は城壁になっておりましたな?」
伺うように言うと、「ハン」とにわかに鼻で笑う気配がする。
「まさか、城壁をよじ登ったとでも?」
正気か?と嘲笑する声に首を小さく振る。
朽ちかけているとはいえかなり高い城壁だ、それを登るのは至難の技である。
「お忘れですか?私はこの後宮で幼い頃を過ごしました。」
「えぇ、よく存じておるとも、同じ頃私の息子たちもそうであった」
今までの中で一層皮肉めいた口調に、冬隼は眉を寄せる。
「この城壁は古い、私たちの子供時代にも子供1人通れるくらいの穴を見つけることは度々ございました。すぐに補修をされてしまいましたが、そんなものが今この城壁にあってもおかしくはございません」
幼い頃、度々そんな物を見つけては、お忍びで遊びに出るのも、楽しみの一つであったのだ。
あれだけ朽ちていた城壁であれば、探せば2.3カ所くらいはあるだろう。
「ではそのあるかも分からない穴からその者が出入りしたと?」
意外そうな声だが、先ほどに比べてどこか緊張が含まれ硬くなっているのを、なんとなく肌で感じた。
「その可能性は高いでしょう」
ゆっくり頷くと、初めて御簾の、恐らく彼女の顔があるであろう場所を睨みつける。
パチンパチンと扇子を開け閉めする音が響き渡る。
「しかしそやつの目的地はこの宮だったのであろうか?たまたま穴があったのがこの宮の城壁であっただけで、他の宮に向かった可能性もあろう。
いくら王弟君であろうと憶測だけで皇太后である妾を疑うとは、不敬にあたることをご存知か?」
パチンと扇子を閉じる音が一層高鳴る。
背後に控えていた衛士達が身動ぎする気配がする。
旗色が悪いとみて、程よく放り出すつもりらしい。
こちらに何の証拠もないと、タカを括っているのだろう。
流石の彼女も長年の隠居生活で、勘が鈍ったようだ。
「探りに出した者が」
声を張り上げる。
ピタリと、恐る恐る近づいてきていた衛士達の動きが止まったのを気配で感じた。
禁軍を束ねる大将である。こんな小物達の動きを止めることなど造作ない。
シンと鎮まりかえったのを測って、もう一度口を開く。今度は勤めて静かに
「戻って参らなかったのです。
捕獲されたか、消されたかどちらのようですが、彼女には特殊な虫がついております」
「虫、とな?」
剣呑な彼女の声に、冬隼は「はい」と頷く。
「虫がどこに彼女がいるのか教えてくれるのです。そして、虫はこちらの宮を指しております。
しかも彼女は生きていると伝えてきております」
そこまで言って、御簾の奥を睨み据える。
表情は見えないが、なんとなしに睨み合っているのは感じた。
「ふん、そのような世迷言、誰が信じるのか」
どうやら彼女は馬鹿馬鹿しいと、一蹴することにしたらしい。
苦し紛れに。
ハハッと笑いが漏れる。
「お気持ちはお察しいたします。しかしその虫に実績がある事も私は知っている。そして皇帝陛下も。今回皇帝陛下にお願いしたのは2つ。そして皇帝陛下の御璽を持ってこれをご承認いただきました。」
そう言って懐から書状を出して広げて、彼女にも見えるように高々とあげる。
「あなたへの謁見と、この宮の改です。」
「なん、だと!?」
急に気色ばんだ彼女はガタンと立ち上がる。弾みで御簾が落ちた。
随分と変わったな。
その姿を目にして、冬隼は目を細める。
見上げた顔は、昔は美しかったであろう中年の女。随分とシワが増え、目が落ち窪んだように思う。
致し方なかろう。先王崩御から10年、ただただこの最奥の冷宮で漂っていたのだ。
己が皇后に上り詰め、息子を皇太子に着かせるまで手にかけた皇子や貴妃達の亡霊に苛まれながら
これがその成れの果てか。
一瞥してクビにかけた笛を吹く。
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