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008 ワニ
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湖の水は透き通っているのに、俺たちはワニに気づかなかった。
それはおそらく、ワニが湖底に潜んでいたからだ。
どれだけ綺麗とはいえ、底の方は水草も相まって殆ど見えない。
いや、今はそんなことどうでもいい。
問題は彼我の速力差だ。
あまり知られていないが、ワニは水中のほうが速い。
時速数十キロで泳ぐと言われている。
人で喩えるなら50m走の世界記録保持者と同程度の速度だ。
一方、人間は水中になるとスピードが大幅に低下する。
プロの水泳選手ですら時速8kmほどしか出せない。
俺たちのような素人ならその半分も辛いだろう。
にもかかわらず、俺たちは陸から離れていた。
泳げる程度には深い場所まで進んでいたのだ。
ワニとの距離は約10メートルしかない。
どう考えても逃げ切るのは不可能だった。
(奇跡を信じて戦うか?)
いや、無理だ。
鉈は貫頭衣を脱いだ際に置いてきた。
戦うなら素手だ。
運が良ければワニの鼻っ柱に一発ぶち込めるだろう。
だが、それでワニが怯んで逃げ出す可能性はゼロ。
0.000000000001%すらない。完全な0%だ。
(こうなったら……)
俺はチラりと伊織を見る。
彼女は顔を真っ青にして震えていた。
「伊織ぃいいいいいいいいいい!」
俺は大声で叫んで伊織をハッとさせる。
「逃げろ伊織!」
「雅人君!?」
「俺が盾になる! その間に逃げろ!」
それが俺の答えだった。
「何言ってるの雅人君、ダメだよ!」
「議論している場合じゃねぇだろ! 早く逃げろ!」
俺は伊織の顔に水を掛けた」
「そんな……」
伊織は涙を流しつつもじわじわ陸に向かっていく。
俺を盾にしたくないという気持ちと、俺の想いを無駄にしたくないという気持ちがせめぎ合っているのだろう。
「もっと早く逃げろ! 馬鹿野郎!」
「ごめん、雅人君……。ごめん……!」
伊織は涙を拭い、全力で陸を目指す。
覚悟を決めたようだ。
「一人でもしっかり生き抜けよ。不安だろうけど頑張れよ」
伊織は何も答えなかった。
何か言ったのかもしれないが聞こえていない。
「さぁ来い! ワニ!」
俺はワニを睨む。
ワニは周囲に目もくれず俺に向かってきた。
いよいよ距離が縮まり、ワニが大きな口を開けた。
その瞬間――。
「グォオオオオオオオ!」
何者かが横からワニを襲った。
天に届きそうなほどの高い水しぶきが上がる。
水面が大きく揺れ、すぐ傍にいた俺は吹き飛んだ。
「なんだ!?」
水しぶきが止む。
すると、そこには巨大なカバがいた。
「グォオオ!」
カバが怒りの咆哮を上げながらワニを咬んでいる。
「ワニだけじゃなくカバまでいやがったのか」
カバは草食動物だが好戦的な生き物だ。
咬む力がとてつもなくて、縄張り意識が非常に強い。
戦闘力はワニを凌駕していた。
「雅人君! 今の内に逃げて!」
伊織の声で我に返る。
俺は頷き、慌てて陸に向かった。
「はい、これ!」
陸に上がると伊織が貫頭衣を渡してきた。
俺は直ちに着て、鉈も受け取る。
「離脱だ!」
俺たちは大慌てで湖から離れた。
◇
「平和そうな雰囲気に反してヤベー湖だったな」
「本当にね……。一時はどうなるかと思ったよ」
湖の離脱に成功した俺たちは、さらなる東を目指していた。
呼吸を整えながら森の中を歩く。
「雅人君、身を挺して私のことを守ってくれたね」
「まぁ水浴びを提案したのは俺だしな」
「私だって賛同したよ」
そこで間を取ってから伊織は笑みを浮かべた。
「守ってくれてありがとう」
「お、おう、もちろん」
ニヤける俺。
「あと、盾にしてごめんね」
「それは俺の言ったことだから気にしないでいいよ」
「私は気にする。なんか自分が卑怯に感じるもん」
俺は「ふっ」と笑った。
「あの場面で最悪だったのは二人とも死ぬことだ。で、カバがいなければ間違いなくどちらかは死んでいた。そのどちらかが俺だっただけのこと。伊織は卑怯でも何でもないよ」
「雅人君って、優しいね」
「なんたって苗字にカタカナが入っているからな」
場の空気を和ませるべく冗談を言う。
伊織は「あはは」と笑った。
「よーし、川に着いたらたくさん釣るぞー!」
「おー……と言いたいが、川に着いたら一旦戻ろう」
「え、釣りはしないの? 釣り竿を自作して」
「その予定だったが、川辺での作業は控えたい。さっきの湖でもそうだったが、この島には予想だにしない猛獣が潜んでいる。だから釣り竿の製作は落ち着いて作業のできる小屋で行いたいんだ」
「なるほど! たしかにそのほうがいいと思う!」
「釣った魚を持ち帰るための土器も必要だしな!」
「あ、土器のこと忘れてた!」
「実は俺もだ」
二人して笑う。
ちなみに、伊織の土器は無事に完成していた。
形も綺麗だから問題なく使えるだろう。
「なんにせよまずは川を見つけることだな」
「本当にあるのかな? そこそこ進んだよね」
俺は「だな」と頷いた。
「もう少し進んで見つからなかったら戻ろう。遠すぎる川に用はない」
伊織が元気よく「分かった!」と了承する。
しかし、このやり取りは必要なかった。
「噂をすれば出てきたぜ」
川に辿り着いたのだ。
これといって特徴のない、田舎の山にありそうな川である。
湖と同じくここの水も綺麗で、そのまま飲めそうなくらいだ。
深さはそれほどだが、流速が強めなので油断はできない。
歩いて横断するのは避けたほうがいいだろう。
「本当に川があったんだねー!」
「湖の一件の後だからか一入の達成感があるな」
伊織は「分かる!」と笑いながら同意した。
「じゃ、川の場所も確認したし帰るか」
川辺までやってきたところで踵を返す。
「待って! 雅人君!」
そんな俺を伊織が止めた。
「あそこ! 小屋があるよ!」
伊織が川の上流を指す。
多少の氾濫なら凌げそうな位置に小屋が建っていた。
それはおそらく、ワニが湖底に潜んでいたからだ。
どれだけ綺麗とはいえ、底の方は水草も相まって殆ど見えない。
いや、今はそんなことどうでもいい。
問題は彼我の速力差だ。
あまり知られていないが、ワニは水中のほうが速い。
時速数十キロで泳ぐと言われている。
人で喩えるなら50m走の世界記録保持者と同程度の速度だ。
一方、人間は水中になるとスピードが大幅に低下する。
プロの水泳選手ですら時速8kmほどしか出せない。
俺たちのような素人ならその半分も辛いだろう。
にもかかわらず、俺たちは陸から離れていた。
泳げる程度には深い場所まで進んでいたのだ。
ワニとの距離は約10メートルしかない。
どう考えても逃げ切るのは不可能だった。
(奇跡を信じて戦うか?)
いや、無理だ。
鉈は貫頭衣を脱いだ際に置いてきた。
戦うなら素手だ。
運が良ければワニの鼻っ柱に一発ぶち込めるだろう。
だが、それでワニが怯んで逃げ出す可能性はゼロ。
0.000000000001%すらない。完全な0%だ。
(こうなったら……)
俺はチラりと伊織を見る。
彼女は顔を真っ青にして震えていた。
「伊織ぃいいいいいいいいいい!」
俺は大声で叫んで伊織をハッとさせる。
「逃げろ伊織!」
「雅人君!?」
「俺が盾になる! その間に逃げろ!」
それが俺の答えだった。
「何言ってるの雅人君、ダメだよ!」
「議論している場合じゃねぇだろ! 早く逃げろ!」
俺は伊織の顔に水を掛けた」
「そんな……」
伊織は涙を流しつつもじわじわ陸に向かっていく。
俺を盾にしたくないという気持ちと、俺の想いを無駄にしたくないという気持ちがせめぎ合っているのだろう。
「もっと早く逃げろ! 馬鹿野郎!」
「ごめん、雅人君……。ごめん……!」
伊織は涙を拭い、全力で陸を目指す。
覚悟を決めたようだ。
「一人でもしっかり生き抜けよ。不安だろうけど頑張れよ」
伊織は何も答えなかった。
何か言ったのかもしれないが聞こえていない。
「さぁ来い! ワニ!」
俺はワニを睨む。
ワニは周囲に目もくれず俺に向かってきた。
いよいよ距離が縮まり、ワニが大きな口を開けた。
その瞬間――。
「グォオオオオオオオ!」
何者かが横からワニを襲った。
天に届きそうなほどの高い水しぶきが上がる。
水面が大きく揺れ、すぐ傍にいた俺は吹き飛んだ。
「なんだ!?」
水しぶきが止む。
すると、そこには巨大なカバがいた。
「グォオオ!」
カバが怒りの咆哮を上げながらワニを咬んでいる。
「ワニだけじゃなくカバまでいやがったのか」
カバは草食動物だが好戦的な生き物だ。
咬む力がとてつもなくて、縄張り意識が非常に強い。
戦闘力はワニを凌駕していた。
「雅人君! 今の内に逃げて!」
伊織の声で我に返る。
俺は頷き、慌てて陸に向かった。
「はい、これ!」
陸に上がると伊織が貫頭衣を渡してきた。
俺は直ちに着て、鉈も受け取る。
「離脱だ!」
俺たちは大慌てで湖から離れた。
◇
「平和そうな雰囲気に反してヤベー湖だったな」
「本当にね……。一時はどうなるかと思ったよ」
湖の離脱に成功した俺たちは、さらなる東を目指していた。
呼吸を整えながら森の中を歩く。
「雅人君、身を挺して私のことを守ってくれたね」
「まぁ水浴びを提案したのは俺だしな」
「私だって賛同したよ」
そこで間を取ってから伊織は笑みを浮かべた。
「守ってくれてありがとう」
「お、おう、もちろん」
ニヤける俺。
「あと、盾にしてごめんね」
「それは俺の言ったことだから気にしないでいいよ」
「私は気にする。なんか自分が卑怯に感じるもん」
俺は「ふっ」と笑った。
「あの場面で最悪だったのは二人とも死ぬことだ。で、カバがいなければ間違いなくどちらかは死んでいた。そのどちらかが俺だっただけのこと。伊織は卑怯でも何でもないよ」
「雅人君って、優しいね」
「なんたって苗字にカタカナが入っているからな」
場の空気を和ませるべく冗談を言う。
伊織は「あはは」と笑った。
「よーし、川に着いたらたくさん釣るぞー!」
「おー……と言いたいが、川に着いたら一旦戻ろう」
「え、釣りはしないの? 釣り竿を自作して」
「その予定だったが、川辺での作業は控えたい。さっきの湖でもそうだったが、この島には予想だにしない猛獣が潜んでいる。だから釣り竿の製作は落ち着いて作業のできる小屋で行いたいんだ」
「なるほど! たしかにそのほうがいいと思う!」
「釣った魚を持ち帰るための土器も必要だしな!」
「あ、土器のこと忘れてた!」
「実は俺もだ」
二人して笑う。
ちなみに、伊織の土器は無事に完成していた。
形も綺麗だから問題なく使えるだろう。
「なんにせよまずは川を見つけることだな」
「本当にあるのかな? そこそこ進んだよね」
俺は「だな」と頷いた。
「もう少し進んで見つからなかったら戻ろう。遠すぎる川に用はない」
伊織が元気よく「分かった!」と了承する。
しかし、このやり取りは必要なかった。
「噂をすれば出てきたぜ」
川に辿り着いたのだ。
これといって特徴のない、田舎の山にありそうな川である。
湖と同じくここの水も綺麗で、そのまま飲めそうなくらいだ。
深さはそれほどだが、流速が強めなので油断はできない。
歩いて横断するのは避けたほうがいいだろう。
「本当に川があったんだねー!」
「湖の一件の後だからか一入の達成感があるな」
伊織は「分かる!」と笑いながら同意した。
「じゃ、川の場所も確認したし帰るか」
川辺までやってきたところで踵を返す。
「待って! 雅人君!」
そんな俺を伊織が止めた。
「あそこ! 小屋があるよ!」
伊織が川の上流を指す。
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