ヒキアズ創作BL短編集

ヒキアズ

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(115)天才道化と優秀マジシャン

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 喋らない正体不明ピエロ×ライバル訳ありマジシャン。
 最初はサーカスでライバルしてる二人の話っぽい感じを醸し出してますが、ピエロの正体を暴く方がメインとなっております。サーカスあんま関係なくなります。
 最初は(一方的に)仲悪い関係、好きです!


小鳥遊 朔夜(たかなし さくや)『ミスタープティ・オルニス』:生粋のピエロ。その私生活は謎。人前では絶対に喋らないしメイクを落とさない。
烏丸 諫望(からすま いさみ)『マジシャンクロウ』:プライドが高く、老若男女からの人気を誇るオルニスをライバル視している。フェミニストなので、女性からの人気は絶大。
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 一羽のカラスが鳴き叫ぶ。
 もげそうなくらいに羽をバタつかせて。
 醜い声で鳴き叫ぶ。
 痛い。苦しい。どうして僕がこんな目に。
 赤い光が揺らめいた時、彼は一瞬の希望を見る。
 だけど、残念ながらその哀れなカラスは幸せにはなれない。
 だって。
 薄汚いそれは、完全な人間にはなれないのだから――。



 最悪だ。指を凝視しながら忌々しい気持ちを噛み殺す。
 僕はサーカス団員だ。それも、有名サーカス「白鳥座」の中で一番人気を争う、素晴らしいマジシャン『烏丸 諫望』だ。人々からは『マジシャンクロウ』の愛称で親しまれ、特に女性たちから絶大な人気を誇っている。
 その僕が、だ。
「まさか、初歩的なミスで手に傷をつけてしまうなんて……」
 端的に言うと、カードで人差し指を切ってしまったのだ。そのくらいの傷、と一般人は思うだろう。だが、マジシャンにとって指の感覚は絶対だ。痛みが生じてしまえば、途端に繊細な感覚は失われてしまう。
「とにかく、さっさと治すに限る……って、うわっ」
 音もなく目の前に現れたピエロにぎょっとする。
「コトリくん。君ね、いきなり現れるのやめてくれって言ってるだろう? 心臓に悪い」
「……!」
 大袈裟に驚いてみせた彼はオルニス。そのわざとらしい態度はいつ見てもイラつく。ニコニコとした道化化粧はいつ見ても腹が立つ。
 彼は生粋のピエロで、ショーでなくたって人を脅かし戯け驚かし笑い笑わせる。その期待を裏切らない彼の性格が人々を惹きつけ、彼は『ミスタープティ・オルニス(小鳥男)』の愛称で親しまれている。そう、白鳥座のトップを争う僕のライバルとして、だ。ああ、何が悲しくてこの僕が、こんな道化に人気を取られなくてはいけないのか。
「……! ……?」
「ああ、心配してくれたのかい。コトリくんは本当に優しい。でも大丈夫。このぐらいの傷、なんてことないさ」
 コミカルに僕の周りを動き回って人差し指を覗き込む彼に、営業スマイルを浮かべてみせる。ウザったい。ああウザったい。
「……!」
「絆創膏? ありがとう。貰っていくよ」
 どこからともなく取り出された絆創膏。それを心の中で舌打ちしながら、にこやかに受け取る。
 なんだこの花柄の絆創膏は。こんなダサいモンつけたら、絶対他の団員たちに冷やかされるだろうが……!
「……♪」
「あ、ちょっとコトリくん……?」
 とっとと逃げるために背を向けた僕を、ルンルン気分でがっちり引き留めた彼は、僕の指にその可愛らしい絆創膏を無理やり貼り付けてくれた。こいつ、ピエロのくせにやたら力が強い。ムカツク。
「……!」
「ああ……。ありがとう。うん」
 じゃーん、と愉快な効果音が聞こえてきそうなほど満足げに手を広げてから、絆創膏に向けてヒラヒラと手を動かす彼にげんなりする。やめてくれ。疲れが増す……。
「……?」
「え? いや。大丈夫。元気になったよ、ありがとう。それじゃあ僕はこれで。コトリくんも早く自室に戻りなね?」
 そうして貰わないと、僕のこめかみが爆発しかねないからね。


「さて。さっさと休もうそうしよう」
 彼と別れ、疲れがピークに達した僕は、自室前に置かれた段ボールを持ち上げ、部屋に入れる。
 段ボールいっぱいに入ったそれは、今日の公演で僕に宛てられたプレゼント。人気であることが目に見えて分かるので悪い気はしないのだが、選別は自分でしなければいけないのが少々面倒臭い。
「あ~。またこいつか……」
 プレゼントの中から可愛らしい箱を取り出し、ため息を吐く。その中身を見ると、やはり手作りケーキだった。何故わかったかって? そりゃ、この前も同じ箱で同じようなケーキが送られてきたからだ。そして、この前は、それを食べたせいで大変なことになったのだ……!
 いや、食中毒とかそういう類ではなくて……。
『今日の芸もサイコーでしたよ! オルニスさん! これはもう次期団長待った無しですね!』
『はは、やだな~、謙遜しないでくださいよ~!』
 廊下から聞こえてきたおもねり声に顔をしかめる。ドアが薄くて仕方がないな。ああイラつく。
 くしゃり。手の中で可愛い箱の持ち手が潰れる。
「ああ、そうだ。これ、コトリくんにもあげよう。うん、それがいい」
 彼の方が僕よりも人気があるというならば、こういうのを引き受けるのも彼であるべきだ。それに。
「あわよくば、彼の本性を暴けるかもしれないしな」


「コトリくん、ちょっといいかい?」
『ぴすぴす~!』
 彼の部屋のドアをノックすると、すかさずぬいぐるみの腹を押した音が聞こえてくる。
 これは、彼のポケットにいつも入っているウサギのぬいぐるみの音だ。
 声を出さない彼の意思表示の一つであり、恐らくこれは肯定の意味なのだろう。
「んじゃ、入るよ?」
 大して何も考えずにドアを開ける。と。
「うわっ……」
『カンカンカンカン!』
 飛び出た目。むき出しの歯。手に持ったシンバルを叩き続ける狂気の獣の姿が、すぐ目の前に現れる。
「猿の、オモチャか……」
 顔を上下に揺り、キシシシシシと気味の悪い声で鳴くそれも、彼の意思表示の道具の一つだ。
「ミスタープティ・オルニス、こういうのは僕には必要ないと、この前も……」
“びっくりした?”
 とんだエンターテイナークソピエロが、すかさず僕に向かってメモ帳に書かれた文字を見せる。
「だから、僕にこういうことをするなと言って」
 トントン。
「む」
 ふいに額を指で突かれ、押し黙る。突然触るな、汚らわしい。
「オルニス、君ね」
 言い募ろうとした僕に、オルニスが指をさす。それから彼は、自分の両頬に手を添え、きゅっと引き上げてみせる。
 あ~。
 こいつが僕の額を小突くときは「眉間に皺が寄ってるぞ、もっと笑え」と言いたい時らしい。
 少し、いや大分苛立ちを覚えたが、きっとこいつに何を言っても無駄だ。
「まぁいい。ええと。コトリくん、僕はね、君にプレゼントを持ってきたんだよ」
「……?」
「ほら、ケーキだよ。はい、お食べ」
「……??」
「なんだい僕が君にプレゼントしちゃおかしいか?」
 受け取ったプレゼントをじっと見つめて首を傾げ続けるオルニスに問いかけてやると、彼はあっさりこくりと頷く。
 普段捻くれてるくせに、こういうとこで正直なのが腹立たしいな……。
 彼の態度のお陰で痙攣しそうな表情筋を何とか緩やかに上げて、僕は優しい微笑みに努める。
「別に、深い意味はない。余ったから君にあげるだけさ」
「……?」
「ほら、疑ってるんなら僕も食べるよ。お茶を淹れてくれるかい」
「……」
 オルニスが渋々といった様子でお茶を淹れに立ったその隙に、僕は机の上にケーキを並べる。
 僕の方には市販のケーキっぽいのを。オルニスの方には手作りのケーキを、だ。
 さあオルニスは一体どんな醜態を晒してくれることやら。


『すまない二人とも。急に貴族のご令嬢がサーカスを見たいと言い出した。通常公演の後で悪いが、特別に貸し切りのショーを開催しようと思う』
「えっ」
 ケーキを食べ終え、紅茶を飲みながらオルニスの様子を観察していたところ、団長が来てそう告げた。
 それはマズイ。時間的に見ても、きっとショーの最中に効果が現れてしまう。
『勿論、引き受けてくれるな?』
『ぴすぴす~!』
「おい」
『流石オルニスくん。それじゃあさっそく頼むよ。ご令嬢がお待ちかねなんだ』
『ぴすぴす~!』
「ま、待て! おい、オルニス!」
『クロウくんも早く頼むよ? オルニスくんに白鳥座の主役を奪われたくないのならね』
「ぐ……」
 折角この僕があのアホピエロのためを思って引き止めてやったというのに……。
「もうどうなっても知らないからな……」


『ぴすぴす~!』
 オルニスの出番が終わり、会場が湧く。
 良かった。どうやらアレの効果はまだ現れなかったらしい。いや、仕組んだ僕が胸を撫で下ろすのもおかしな話だが、サーカスに穴を開けるわけにはいかないからな。
『それではお待ちかね。マジシャンクロウの登場です!』
 オルニスと入れ替わりでステージへ上がる。会場は貸し切りなので観客はいつもより圧倒的に少ない。とりあえずは目の前に座っているご令嬢に媚びておけばいいだろう。
「今晩は、可愛いお嬢さん。お近づきの印に、どうぞ」
『まあ……!』
 手のひらをくるりと回して薔薇の花を差し出してやると、案の定ご令嬢は嬉しそうにそれを受け取る。
「さて。それではまず手始めに、脱出マジックを御覧に入れましょう!」

 今回選んだマジックは、わかりやすく派手なものだ。
 手短に説明すると、まず、僕が箱の中に入る。箱には頑丈な鍵がかかる。次に、アシスタントのバニーガールが箱の中に話しかけ、僕がいることを確認した後、箱を剣で次々と刺してゆく。そして、ある程度剣を刺し終えた後、箱を開けるとそこに僕の姿はなく……。アシスタントが心配そうに僕の名を呼んだところで、僕は颯爽と客席から姿を現す、というものだ。
 僕としては箱に入った後、あらかじめ用意してある脱出口から抜け出して人目につかないように“ひとっ飛び”するだけ。簡単な作業だが、演出が派手な分、観客からのウケが良い。なにより、このマジックは他に真似できる奴がいないし、仕掛けを証明するのも不可能。僕の十八番という訳だ。
『は~い。マジシャンクロウが箱に入りましたね~! 居心地はどうですか~?』
「勿論、最悪だよ」
『うふふ。それじゃあ今からも~っと最悪な気分になってもらいましょ~! それじゃあ、そこのお嬢さんにお手伝いをしてもらおうかしら~!』
 アシスタントの手際よい進行を聞きながら、脱出口に手をかける。
 このマジックは、ある意味危険だが、小細工をしなくていいから助かる。まあ、マジックと呼べる代物なのかは考え物だが……。
「にしても暑いな……。というか、なんか、息が苦し……」
 口にしてから、体に籠る熱の正体に心当たって青ざめる。
「は、まさか、これ……!」
 恐らくこれは、箱の中が暑いせいじゃない。これはヤバい。非常にマズイ。この感じ、絶対アレだ……。あの……ケーキ……!
『ハイ、それではお嬢さん! 一思いにグサッとやっちゃってください!』
「ま、待て、やめろ……!」
 言っている間にも、どんどん汗が吹き出し、心臓がバクバクと音を立て続ける。待て待て、嘘だろ……? 息、苦し……。待て待て、マズイ。箱から出ようにも、手足が痺れて……、上手く動かない……! 脱出口が、開けられない……! あれ、これ、マジでヤバイ……? この前のより、ずっと強くて……。な、んか……。
『あの、本当に大丈夫なんですか?』
『大丈夫! マジシャンクロウはこれぐらいじゃあ死にません!』
 令嬢の不安な声を元気よく打ち消したアシスタントに、反論しようと口を開く。が、出たのは掠れた呻き声だけで――。
 いや、死ぬ……! 死ぬからやめろ! やめてくれ! 演出じゃない。演技じゃない。冗談じゃない!
 クソ! 何で僕に効果が出てるんだ! あのケーキ食べたのはアイツだろ? それなのに!
『それじゃあ。いきます!』
 もう、ダメだ。ヤバい。指一本動かせない……。体が、熱くて……。頭が……。意識が……。
「……!」
「へ?」
 突然、脱出口が開き、伸びてきた手に引っ張られる。僕の体は箱の下に真っ逆さま。間一髪、剣から逃れ、ステージ下のインチキゾーンに辿り着いたわけだが……。
 目の前に現れたのは、色鮮やかなピエロメイク。
「オル、ニス……」
 そう。僕はどういうわけか、今、オルニスに抱きかかえられているのだ。
「なんで……、んっ」
 問いかけた途端、オルニスの指先が僕の唇に触れる。静かにしろってことか。
「……♪」
「あ、おい。どこに……」

 眩しいほどのスポットライトと観客の視線を浴びつつ、オルニスにお姫様のように抱きかかえられたままの僕は、屈辱と熱を死ぬ気で捻じ伏せ、笑顔を保つ。
「みなさん、楽しんで頂けましたでしょうか!」
『なんと、マジシャンクロウはプティ・オルニスと共に、皆様の目の前に再び現れました! 私たちも予想外の展開で驚いています!』
「はは。今日は特別さ。それではこれで僕のマジックショーは終わり。引き続き白鳥座をお楽しみください!」
『ぴすぴす~』
 一旦、幕が降ろされたところで、胸を撫で下ろしつつオルニスの腕から逃れようと体を捻る。が。やはり力が入らない。
『クロウさん、今日は一体どうしちゃったんですか? オルニスさんと舞台に出てきた時は流石に焦りましたよ』
「あ~、はは。ごめんね。ちょっと体調が悪くって」
 アシスタントの子に謝りながら、先ほどの出来事をぼんやり思い出す。
 本来ならば、僕が”元の姿“に戻って観客席二階まで飛び、人間では有り得ない移動をするべきところだった。けれど、オルニスはどこからともなく取り出した煙幕やら花火やらをステージに投げ、僕を抱いたままステージに上がり……。煙が晴れた瞬間、クラッカーを打ち鳴らしてキメポーズをとってみせた。これではマジックが台無し。ただのド派手ななんちゃってヒーローショーだ。
 とはいえ、まあ、確かに時間もなかったし、僕の体も動かなかったから、オルニスの機転に助けられたのも事実。それに、どうせ貴族の道楽だ。不可能な脱出よりも、見てくれだけのどんちゃん騒ぎの方がご満足頂けたことだろう。
『ああ。だからいつもより顔が赤いんですね……。風邪、ですかね? って、アレ?』
「……」
「おい。オルニス?」
 アシスタントが僕の顔を覗き込んだ途端、オルニスはその子に背を向けて歩き出す。
『うつるといけないってことかしら。クロウさん、よく休んでくださいね~!』
 喋らないピエロの謎行動を自己解釈したアシスタントは、こちらの気も知らないで呑気に手を振り僕を見送る。まあ、彼女に助けを求めるというのはいくら何でも紳士の名折れだ。
「おい、こらオルニス。いきなり去ってはアシスタントの子に失礼だろ。せっかく心配してくれていたのに」
「……」
「何を怒っている、オルニス。お前は気分が悪いわけじゃないだろう?」
 なんせ、当たりを引いたのは僕だったのだから……!
「というか、そろそろ降ろしてくれ。そうじゃなきゃ……ッ!」
 唐突に視界が揺れ、オルニスの体にぶつかる。何の断りもなく横抱きから力任せに縦抱きにされては、腰を強く締め付けられては……!
「んッ……。オル、ニスっ……。ま、待て、う……」
「……?」
「ち、違……。これは、薬のせいで……。仕方なくて……、だから……」
「……」
「ぐっ、馬鹿……、腰、撫でるな……、冗談じゃなくて……、頼む、から、へ、部屋に」
「……♪」
 了解、という意思表示なのだろうか。オルニスがぴすぴすぬいぐるみを鳴らし、歩き出す。
 だが、その振動すらもがよろしくない。服が擦れる感覚に耐えながら、オルニスの肩に顔を伏せる。
 駄目だ、これ、どんどん熱に耐え切れなくなってくる……。頭が、おかしくなりそうだ……。


「ん……ッ」
 ベッドに降ろされただけだというのに、変な声が口から洩れる。
“大丈夫?”
 メモに書かれたその言葉を見て、大丈夫なわけがあるかと心の中で悪態を吐く。
 というか、ここ、部屋は部屋でもオルニスの部屋じゃないか。僕の部屋に連れてくもんだろ、普通。
「……?」
 返事がないことを心配に思ったのか、クソピエロが僕の顔を覗き込む。
 ああ、こんな醜態をこの男の前で晒すことになるなんて……。クソ、余計なことするんじゃなかった。
「ああ、もういいから。とにかく、今は、出てってくれ……、ッ?!」
 オルニスの指が頬を伝う汗を拭う。そこで初めて自分が汗だくになっていることに気づく。
 は、冗談じゃない。これ以上醜態を晒すわけには……。
「触、るな……ッ?!」
 オルニスの手を払おうとした途端、その腕を引っ張られて抱きとめられる。
「オル、ニス……?」
「……」
 無言のまま、オルニスの手に力が籠る。当然ながら、僕にその抱擁から抜け出す術はない。
「おい、オルニス、ふざけて、いるのか……? 人が、苦しんでるって、のに」
「……」
 オルニスの顔が見えないせいで、その僅かな表情の変化も伺えない。この男は、人の不幸を揶揄うような男じゃないと思っていたが……。
「オルニス、おい、放せって、言って……、は、あッ……!」
「……」
 今、変な声出た……。いや、だって仕方がないだろ。オルニスの手が当たって……。
「く、オルニス……。頼むから、少し外に、出てくれないか……?」
 色んなものを抑え込みつつ、オルニスにそれだけ告げる。が、オルニスはこちらをじっと見つめるだけで微動だにしない。
「おい、聞いているのか……? ん、こら、離せって……、は……。オル、ニス……」
「……ッ」
 あれ、コイツもなんか息荒い?
 オルニスの息を飲む音を聞き、このピエロにもそういう感情があったことに驚く。
 なんだ、やっぱりオルニスにも効果が出ているじゃないか。
 結局、どちらのケーキにも媚薬が混じっていただなんて……。
 前、何にも考えずに食べた後、僕は見事に一人で苦しんだ。そして、自分に過激なファンがいることを少し恐ろしく思うようになった。
 にも関わらず、また同じ過ちを犯してしまうとは……。これからは、食べ物に手を付けるのはやめよう……。
「って。こら、オルニス! 正気に戻れって……、ッわ!」
 オルニスがのしかかったせいで、抵抗する間もなくベッドに倒れ込む。ベッドが軋む音と二人の荒い息だけが部屋に響く。
 ちょっと待て、冗談じゃない……!
「おい、オルニス、退けって……、んう」
 無言で顔を撫で回されたせいで、変な声が漏れる。
 揶揄われているのだろうか。メイクのせいで表情はわからない。が、ピエロのやりそうなことではある。
「いい加減、何とか言え!」
「……」
 思いきり睨んでやると、オルニスがごくりと唾を飲み込む。自慢じゃないが、猫を被っていない時の僕の目つきと柄はかなり悪い。
 よし、いいぞ。コイツが怯えた隙に――。
『ミスタープティオルニス、いるかい?』
 コンコンというノックの後に、団長の声が聞こえてくる。
 助かった!
「団ちょ……んむッ?!」
 この異様な状況から脱却すべく声を出そうと口を開いたところで、すぐに塞がれる。
『ん? オルニスくん、いるのかい?』
 ドアの前で戸惑う団長を他所に、オルニスは僕の口を塞ぎ、身動きを封じたままだんまりを決め込む。
 ちょっと待て本当に! このままいくと冗談じゃ済まない! 揶揄うにも限度ってものがある! これ以上オルニスのおふざけが続けば、嫌いな相手にでも俺の体は反応してしまうというか……! それだけは避けたいというか……!
『ぴすぴす~』
 なんとかオルニスのポケットに手を入れ、ウサギのぬいぐるみを押す。
『おお、やっぱりいたのかい、オルニスくん!』
「チッ」
 あれ? 今コイツ、舌打ちしたか……?
『いやぁ、急なショーで悪かったね。労いも込めて打ち上げパーティーをやることになってね。オルニスくんもどうかな』
 何事もなかったかのように僕の手からぬいぐるみを攫い、ポケットに仕舞ったオルニスが、今度はメモ帳を取り出し、片手で器用に文字を書く。勿論、もう片方の手は僕の口を押さえつけたままだ。
『……そうか、残念だ』
 ドアの隙間に落としたメモを読み終えたらしい団長が、言葉通りがっかりとした声を出す。
『そういえばクロウくんの姿も見えないんだ。オルニスくん、知らないかい?』
「ッ……、ここに!」
 ここぞと全力でオルニスの手をずらし、指の隙間から叫ぶ。その瞬間、オルニスから冷たい視線を浴びたがこちとら死に物狂いだ。
『なんだ、クロウくんもここにいたのか。珍しいな』
「とりあえず、ドアを開けてください……!」
『おぉ。それじゃ、遠慮なく開けるぞ?』
 早くしてくれ……!
 そう祈った途端、ぶちりと音を立ててベストのボタンが飛ぶ。
「え……? な、オルニス、何して……。あ、ちょっと待っ……!」
『お~い。ドアが開かないのだが……? オルニスくん、鍵を開けておくれ!』
 ガチャガチャとドアノブを回す団長を他所に、オルニスがシャツのボタンまでもを引き千切り始める。
 馬鹿力が過ぎるだろ! ていうか、悪ふざけが過ぎる!
「おいオルニス、団長が、誤解、するって……!」
「……」
 高かったシャツの襟を掴むオルニスの手に手を添えると、渋々といった様子で起きたオルニスはメモを書き始める。
“すみません、今新しい芸の練習をしていて。まだ見られては困るので”
『なんと。そういえばさっきのも良かった。いきなりでびっくりしたが、そうか、君たちが一緒になって練習してたとは。仲が悪いもんだと思っていたが……』
“まさか、私たちとっても仲が良いんですよ。パーティーも後で伺います”
「おい、勝手に決めんな、むぐ……!」
『そうか。そういえばさっきも仲良く部屋でケーキを食べていたもんな。疑って悪かったよ。ああ、そうだ。ご令嬢も二人が特に良かったって喜んでたよ』
「ん……、おい、オルニス……!」
 団長の言葉の途中で、首筋にオルニスの舌が這う。それを小声で咎めるが、結果は更に所作が厭らしくなっただけだった。
「や、めろ……」
 にたりと笑う不気味な顔が近づく。そして、唇が重なったかと思うと、そのまま押し倒され、口の中を好き勝手にどんどん侵食されて……。
 あ、これ、駄目だ……。上手く、喋れない……。てか、体、力が抜けて、もう……。
『それじゃあ頑張ってくれ。新しい芸、楽しみにしているよ』
「っ……」
 団長が遠ざかってゆく足音を聞きながら、オルニスの手の動きを目で追う。
 太ももを撫でていたその手が、ついにベルトへと伸びる。
「い、嫌だ、オルニス、やめてくれッ……!」
「……」
 それを器用に外した手が、僕の叫びを受けてぴたりと止まる。
 瞑ってしまっていた目を恐る恐る開くと同時に、電池が切れたようにオルニスの体が倒れこんでくる。
 かと思うと、彼はがばりと立ち上がり、猫のように身軽にドアまで行くと、手を振った後、颯爽と姿を消す。
「は……? 訳、わかんないっての……」
 枕に顔を埋めながら、何とか息を整えようとする。が、彼の匂いが染み付いたそれのせいで、ますます先ほどの感覚を思い出して……。
 結局、薬の効果に抗えず、僕はそこで屈辱に塗れながらも処理をした。ベッドを汚さないよう細心の注意を払いながら。



 倉庫で道具の整備をしている途中、カサカサと紙が擦れる音がして振り返る。
「やあ、クロウ。少しお願いがあるんだが。聞いてくれるかな」
「……団長」
 白鳥座の団長は、オルニスに劣らず恰好が奇抜だ。
 幼児の落書きみたいな顔が描いてある紙袋を頭に被り、全身を黒いマントで覆い、手には手袋、足にはブーツ。とことん露出を嫌ったファッションで世間を気味悪がらせている。
 本人曰く「肌が弱いので紫外線対策をしている」らしいが、正直、見ているだけで暑そうだ。
「クロウ、あのピエロはお前に任せることにしたよ」
「え……。私に、ですか……?」
 いつもより硬い団長の声音に、冗談ではないことを知る。
「ああ。パッセルが適任だと思っていたが……。どうやら、君とオルニスは相性がよさそうだからね」
「誤解です!」
 叫びながら、やはりあの時のやり取りはバレていたのかと内心で舌を打つ。
「ま、どちらにせよ君に拒否権などないがね」
「……」
 紙袋をどれだけ睨もうが、当然ペンで描かれた表情が変わることはない。
「難しい相手だというのに、どうやら手早く済みそうじゃないか。長々と準備したのが馬鹿々々しい。さあ、クロウ。色でも仕掛けてとっととアイツの正体を暴いてこい」
「……仰せのままに」
 赤く光る指輪を押さえ、首を垂れる。
 どうせ、命令には逆らえない。どうせ、いつかは夢が覚める。そう言い聞かせて歯を食いしばる。やっぱり僕は人間になりきれない――。

「そうは言っても、だ」
 色仕掛けって。馬鹿だろ……。
 確かに僕は、女性からキャーキャー言われるほどのルックスは持ち合わせている。が、いくらあのピエロが変態だからと言って、男を相手にするわけがない。
「確かに、パッセルぐらい可愛げがあれば別かもしれないが……」
 この前の出来事は、オルニスも薬を飲んでいたからこそ起こった事故だ。
 それに、そんな手でアイツが自分の正体を易々と明かすわけがない。
「まあ、探りを入れるぐらいはしておくか……」



 サーカス休演日の早朝。団員用の食堂で彼が来るのをじっと待つ。
「ああ、今日はなんか嫌だな」
 コーヒーを片手に、ため息を吐く。窓の外を見ると、空はどんよりとした雲で覆いつくされていた。
 もう一度ため息を吐こうとしたそのとき――。
『ぴすぴす!』
 突然、ウサギのぬいぐるみが目の前に現れる。
「ああ、コトリくん。おはよう」
 元気に揺れるウサギを押し退け、それを操るオルニスを見る。
 あの忌々しい事故から数日経つが、オルニスはまるで何事もなかったかのように、いつも通りのウザ絡みをしてくる。
 最初の内は僕も気まずさを覚えていたが、あまりにもオルニスが普通で、意識する様子が微塵もない為、あの日の出来事はすっかり日常に埋没してしまった。
 まぁ、無かったことにしてくれるんなら有難い。こちらの過失を責められても困るだけだ。
 さて。それは兎も角、彼の正体を少しでも掴まなければ。
「コトリくん、今日は一体どこへお出かけするんだい?」
 席に着き、コーンフレークを貪る彼が僕の質問を受けて人差し指を口に当てる。
「秘密? そうかい。野暮なことを聞いたね」
 憎たらしく頷いた後、オルニスは再び熱心にスプーンを動かす。
 僕は、その様子を見てから興味が削がれましたと言わんばかりに新聞へと目を移す。
 ムカつく態度だ。だが、これで確定した。彼は今日、自宅へ帰る。
 僕を外出に誘って来ない点、ちゃんと朝食をとっている点からして間違いないだろう。
 真逆の時は、必ず僕を無理やり外へ連れ出し、食事と買い物に付き合わせるからわかりやすい。
 随分と前の休日、あまりにも毎度しつこいので先手を打って早朝に、オルニスにはっきりと「今日は一緒に出掛けない。絶対に、だ!」と宣言したことがあった。
 が、結果は“今日は家に帰るからついて来られちゃ困る”という紙切れを差し出されたのだった。その日も、今日と同じように彼はコーンフレークを食べていた。
 つまり、だ。今日は彼の正体を探るチャンスだ。
 上手く尾行すれば、彼の家がわかる。家に帰らない場合でも、僕に知られたくない何かしらがあるはずだ。
 そう思うと、この使命も少しは面白く思えてきた。
 さあ、この得体の知れないピエロの素顔を暴いてやろうじゃないか。



 オルニスのマジックにトリックはない。あれは本物の魔法なのだ、と団長から聞いたことがあった。
 普通の人間ならば、その言葉を信じるはずがないだろう。だけど、僕はそれを信じざるを得なかった。
「しかし、お人好しな魔法使いだ」
 オルニスを尾行すること数分。公園で転んだ子どもに駆け寄る彼にため息を吐く。
 ついさっきも道に迷った子どもを助けたばかりだというのに、彼はまた飽きもせず見知らぬ子どもの世話を焼いている。
 突然現れたピエロに、男の子はもっと泣き声を大きくする。
 彼は、外出するときでも決してそのメイクを落とさない。隣を歩く度に「何で服はまともなものを着れるのに、メイクは落とせないんだ! 恥ずかしいからやめてくれ!」といくら喚いても無駄だった。
 不審者であることは一目瞭然。のはずなのだが……。
 男の子は、オルニスの手から出された花に気をとられる。その隙に、彼はもう片方の手で鞄から消毒液と絆創膏を出し、手早く傷を手当てする。その速度は尋常じゃない。
『えっと……。治療、あり、がと……。って、え、うわ!』
 男の子がお礼を言った瞬間、差し出された花が棒つきキャンディに変わる。
『すごい……!』
 男の子が喜んで受け取った真っ赤なキャンディは、まるでルビーのように輝いていた。
 どうにも気分が悪くなって、それから目を逸らし、辺りをふらつくことにする。
 どうせオルニスは、もう少しあの男の子をあやしているだろう。少しぐらい目を離しても大丈夫なはず。
 言い聞かせるようにして心の中でそう呟き、そのまま歩いていると墓地に辿り着く。
「薄気味悪いな……」
 気分転換するつもりが、余計に気分を悪くしたかもしれない。
 そう思った瞬間、木に止まったカラスと目が合う。
「ッ……」
 その剣呑な視線を受けて、無意識に後ずさる。
 それを合図に、カアカアとカラスたちは威嚇するように鳴き立てる。
「何だよ、人間様に向かって」
 呟いた途端、一層鳴き声が酷くなり、羽を広げた数匹が襲いかかってくる。
「っ、やめろ!」
 獰猛な爪を躱し、腕で払いながら走る。
 遠くの空で雷が鳴った。かと思うと、ぽつぽつ雨が降ってきて。それは見る間に土砂降りへと変わる。
「クソ!」
 雨が降るのもお構いなしに、カラスたちは走る僕を嘲笑うかのようにガアガアと追い立てる。
 ズボンの裾に泥が跳ねる。歯を食いしばると、いい気味だと鳴いたカラスが僕の頭を突き始める。
「やめろやめろやめろッ!」
 腕を振り回してカラスを払っても、黒い羽が散らばるだけで、すぐに他のカラスが揶揄い混じりに腕を突いてくる。
 鋭い爪やくちばしが皮膚に食い込む度に悲鳴を上げる。それでも僕は許されない。容赦のない暴言が、ガリガリと心を壊してゆく。
「やめろ、お前らに何がわかる!?」
 思わず耳を塞いで駆けるが、視界が羽に遮られているせいでぬかるみに足を取られる。
「ッう」
 地面に思い切り体を打ち、顔を歪める。跳ねた泥が服や顔を汚したのも不快で仕方がない。
 が、その間にもカラスたちの攻撃は止まず。お陰で全身傷だらけだ。
 こんなことをしている場合じゃあないのに。
「言いたい放題言いやがって、お前らなんか焼き鳥に……」
『ガアガア!』
 その一言に腹を立てたカラスたちが、狙い澄まして指輪を突き始める。
「クソ、やめろ……! これだけは……!」
 左の中指に嵌まっているそれを庇うように蹲るが、カラスたちの猛攻は止まらない。痛みに怯んだ隙に左手が引きずり出され、そのまま――。
『ピューイッ』
 突然、口笛が聞こえ、カラスたちがそちらに気を向ける。そして。
「散れ!」
『パンッ!』
『ガアガア!』
 人間の声と破裂音が響き、それに驚いたカラスたちは一気に飛び去っていく。
 あれは、誰だろうか……。
 雨に濡れるのも厭わず、見知らぬ青年がこちらに向かってくる。手に持っているのは、パーティー用のクラッカーだろうか。そんなものをどうして持っているのだろうか。
 変な青年だ。
 ああ、でも。出来れば構ってほしくない。
 だって、今の自分はあまりにも惨めで格好悪い。雨に濡れ、泥に塗れ、傷だらけで。それでいて……。
「っぐわ!」
「こら。暴れない」
 青年は、逃げようとした僕を抱きかかえて嗜める。
「ぐ……」
「う~ん。子猫か何か別の動物が襲われてるのかと思ったけど、まさか同じカラスとはね」
 その言葉にハッとして、僕は黒い羽をじたばたと動かす。だけども、彼の手から少しも逃げられない。……だって、僕は今、正真正銘非力なカラスなのだから――。
「綺麗な指輪。あ、もしかしてこれ、君の?」
 青年が僕に尋ねるようにして、拾った指輪を目の前に持ってくる。
「ぐっ……」
 何か言おうと思ったが、この汚く煩い声を自分でも聞きたくなかった。代わりに、くちばしで素早く指輪を奪い取る。
「ああ、これのせいで皆と喧嘩しちゃったのかな? ごめんごめん。私に君の宝物を奪うつもりはないよ」
「……」
「大丈夫。私は君の味方さ。ただ、君を手当てしたいだけ。ほら、こんなに傷だらけになってる。辛いだろう? 大丈夫。ね?」
「ぐ……」
 青年はよほど愛鳥家らしい。傷ついた己の手も気にせず、僕の羽を辛抱強く撫でる。
 その優しい手つきに、勝手に瞼が閉じ始める。
 誰だか知らないけれども、今はこの青年に全てを委ねて良い気がした。
 そう思うほどに、僕は身も心も傷ついていた。



 本当は僕に名前などない。『烏丸 諫望』なんて、適当につけただけのお飾り。
 何せちょっと前まで僕は、それこそ先に追い払われた彼らと変わらない野生のカラスだったのだから。
 それなのに。
 脳裏に赤々しい指輪が蘇り、血の気が引く。それは、全てを偽るための力。
 勝手に押し付けられた呪いだ。
 だけど、僕はそれを手放せない。僕はそれから逃れることも出来ずに、人間として生きている。
 だから、僕はカラスたちから馬鹿にされる。裏切り者だと罵られる。
 しょうがないじゃないか。だって、それでも僕は――。



 目を覚ますと、どこかの部屋のベッドの上に寝かされていた。……勿論、姿はカラスのままだ。
 羽を広げてみると、ご丁寧に手当てが施されていた。どうも青年は本当に愛鳥家らしい。
 指輪もすぐ目の前に置かれていたので、取り敢えず息を吐く。
 ここは青年の家なのだろうか……。
 ベッドから降りて、とてとてと部屋の中を歩き回る。
「あ、カラスくん。もう起きたのかい?」
 寝室を抜けてリビングに辿り着くと、青年がソファに座りながらサンドイッチを食べていた。
「君もこれ、食べられるかな?」
 そう言って青年はパンを千切り、僕の目の前に置いた。
「ぐ……」
 床に置かれた物、しかも人の食べかけを食べるのには抵抗があったけれど……空腹には勝てなかった。
 まぁ、そうは言っても今更だ。人間に慣れてしまったからといって、昔ゴミを漁っていた事実が変わる訳でもない。
「君は本当に行儀がいいね、カラスくん」
 パンを突いている隙に、そっと背中を撫でられる。抵抗しても良かったが、その柔らかい声音に免じて大人しく啄むことに集中する。
「お水も持ってくる。待ってて」
 ちょんちょんと僕の頭を指で軽く突いてから、青年は台所へと向かう。
 それを見送りながら改めて部屋を見渡すと、ショーケースに入れられたぬいぐるみたちと目が合った。
 不気味だな……。
 どこか虚ろな目をしたぬいぐるみたちは、どう見ても趣味が悪い。そういえば、よく似たぬいぐるみを見たことがある。こんな変わったコレクション、まるで――。
「それにしてもこの指輪、綺麗だね」
「……があ!」
 青年の声に振り向いた瞬間、赤い宝石がチカリと光る。
「わっ」
 赤。それが目に入った途端、忌々しい記憶が蘇る。
 ――痛い、体が、千切れる、怖い、苦しい――
「があ! があ!」
「カラスくん! 落ち着いて!」
 青年の温もりに触れて我に返り、動きを止める。
 どうやら、パニックに陥り襲い掛かってきた僕を、慌てて抱きしめ宥めたらしい。
 僕を抱いた青年の手には、痛々しい傷跡が増えていた。ついでに、服は零れた水でびしょびしょになっていた。
「大丈夫? ごめんね。君の指輪、持ってきてあげようと思って……。余計なお世話だったかな。お水、もう一度注いでくるね」
 ああ、やってしまった。濡れたままの床を見つめて項垂れる。
 どうかしている。
 濡れていない床に置かれた指輪を見てから、すぐに目を逸らす。
 時々自分がわからなくなる。仲間だったカラスに罵られながら、必死に人間のフリをする毎日。そのストレスが極限まで達してしまうと、今みたいにパニックに陥ってしまうのだ。
 人間の時は薬で対処できるが、カラスの姿になってしまえば難しい。だから、極力この指輪を外さないよう心掛けていたのだが……。
「お待たせ。さあ、お飲み。きっと元気も出るはずだ。なんせこれは水道水じゃない。お高い天然水だからね」
 穏やかな口調でおどけてみせた青年を申し訳なく見つめる。
「ごめんね、気に障ったかな」
「ぐ……」
 そうじゃない、と言いたかったが、出るのはしゃがれた鳴き声だけだ。仕方がないので、お皿に注がれた水を突く。
「まだしばらく、傷が癒えるまでここに居な、ね」
 床を拭き終えた青年が微笑む。その整った顔立ちを向けられては居心地が悪い。
「私はシャワーを浴びてくるから。大人しく待っていてね」
「……」
 しばらく水を啜り、青年が風呂に入った音を聞いてから、指輪を咥えて窓から飛び立つ。
 ペットとして飼われるのなんて御免だ。僕はそんなにお上品じゃない。いくら趣味の悪い青年でも、カラスなんてすぐに飽きて捨てるだろう。
「ああ、今日は最悪だ」
 オルニスを見失った場所まで飛んで人間に戻ったが、そこにはもう誰もいなかった。
 こうして、僕の貴重な休日はオルニスの正体を暴く手がかりも探せないまま無駄に終わったのだった。



「ハイ、これクロウの分ね。これ、差し入れだってさ」
 ショー直前の控室。差し出された色鮮やかなマカロンに首を振る。
「パッセル、君が食べてくれ」
「え~。駄目だよ。ちゃんと皆で分けてって言われたんだもん」
 頬を膨らませて可愛い瞳でこちらを睨む少年は、涼宮 芽衣。愛称はパッセル。サーカスでは綱渡りや空中ブランコを担当する可愛いスズメだ。たくさんのフリルがあしらわれた衣装とあざとい猫耳カチューシャの組み合わせは、見る者を和ませ、特定の層を狂わせる。
「わかったよ。受け取ろう」
 手袋を外して手を差し出すと、パッセルは愛らしい笑顔を見せる。
「よし、次はオルニスだ!」
 マカロンの入った箱を抱えて、パッセルはオルニスの傍へ駆け寄る。
 僕はそれを横目で見ながら、毒々しいほどに赤いマカロンを齧る。
 よりにもよって赤とは、最悪な気分だ。
 美味しいはずのそれを咀嚼も程々に飲み込み、持参した水で口を潤す。
 なんだか最近、菓子に良い思い出がないな。
「あ、オルニス待って! 食べるときは手袋外さなきゃいけないんだよォ!」
 一人苦笑していると、パッセルが突然大声を出し、オルニスを叱る。
「……」
 叱られたオルニスは肩を竦めて、それから渋々といった様子で手袋を外してマカロンを受け取る。
「あれ、オルニス怪我してるの?」
「怪我……?」
「……!」
 パッセルの言葉に、あのピエロでも怪我をするのかと興味本位で近づく。が、覗き込んだ途端、オルニスは素早くマカロンを口に放り、手袋をはめる。
「おいおい、コトリくん?」
 そそくさと立ち上がり、控室を出ていくオルニスに首を傾げる。
「なんだよ、アレ」
「ん~。どうしたんだろうね。何かね、手の甲に引っかき傷みたいなのがあったの。ボクらの手は商売道具だから怪我しちゃダメなのにぃ!」
「手の甲に引っかき傷……」
 口に出してから、自分が何に引っかかっているのか思い当たる。
 頭を過ったのは、哀れなカラスを助けた青年。
「そんなわけ、ないよな……」
 ぽつりと吐いた呟きは、ゆっくりと心に不安を募らせる。
「そんなわけ……」
「どうしたの? クロウ」
「いや、なんでもない」
 不審そうな顔をしたパッセルに首を振り、オルニスを追いかける。
 どうしてだか心の中で否定する程、青年とオルニスが重なってゆく。
「コトリくん!」
「!」
 振り向いたオルニスの表情が微かに揺れた。見間違いだと笑われればすぐに納得してしまうほど微かな変化。だけど、それに気づいてしまう自分が、まるで彼に執着しているようで憎い。
「君、手を怪我しているんだって? らしくないね、どうしたんだい?」
「……」
「ほら、前に手当てしてもらっただろう? お返しがしたくて。僕はあれのお陰で絆創膏を持ち歩くようになったんだ。さ、手を出して?」
「……」
 野良猫を相手するときのように、優しく微笑み、ゆっくりとオルニスの手を取る。が。
『ぴすぴす!』
「んむ?!」
 勢いよく鳴らされたぬいぐるみの口が、僕の口に押し付けられる。
「なにす……、あ、おい、オルニス!」
 ぬいぐるみを退けようと腕を振ったところで視界が遮られる。手品で使う白い布を頭から被されたのだ。
 それを剥がした時には、もう既にオルニスの姿はなく……。
“お気遣いありがとう。だけど、絆創膏なら持ってるから、ご心配なく”
 落ちていたメモを拾い上げ、握りつぶす。どうやら、よっぽど見られたくないらしい。
 それから、何度かちょっかいを掛けてみたが、全て余所余所しく距離を取られて惨敗。
 そうなればもう、こちらも意地だ。
「本当は、こんな手を使いたくなかったけど……」

 次のサーカス休演日の朝。己の手から指輪をそっと抜く。
 今朝のオルニスもこの前と同じく、僕を無視してコーンフレークを貪っていた。つまり、家に帰ること間違いなしだ。
「絶対に尻尾を掴んでやる……!」
 息巻いてから、苦笑する。まさか自分からこの姿に戻る日が来るなんて思わなかった。
 でも、仕方がない。彼の正体を知る者はいない。とにかく彼は謎に包まれている。
 サーカスを出るオルニスをこっそりとつける。彼は、やはりピエロメイクを落とさずに、オシャレなコートに身を包んでいた。
 その姿は異様なはずなのに、街の人々は不審がる様子もなく、軽く挨拶をしてすれ違う。
 この街の住人は皆、麻痺している。このピエロに慣れ過ぎている。
 こんなに得体の知れない男だというのに……。
 心の中で呟いてから、改めて彼の異様なカリスマ性に歯噛みする。
 オルニスは本物のピエロだ。
 最初こそ、皆がその素顔を知りたがったが、彼があまりにも普段から自然なピエロを演じるものだから……。彼は、いつしか人間ではない……おとぎ話に出てくる登場人物のような……、そんな誰もが知っているのに証明できない存在として、意識せずとも認識されるようになっていた。
 だけど、彼は人間だ。……僕とは違う。
 あの青年の姿を思い浮かべる。僕のこの姿にも勝るほどの顔立ち。あれでショーをすれば、きっとすぐに人気は奪い取られる。
 あれがあのピエロだとは到底思えないが、背丈は確かにオルニスと同じくらいだったかもしれない。ピエロの割に高い身長。だからか、オルニスは常に猫背だ。
 でも……。
 この前のことを思い出す。ベッドの上で僕にのしかかったオルニスは、僕よりちゃんと筋肉がついていた。身長も、もしかしたらあっちの方が少し高かったかもしれない。
 もっとも、首に掛かる熱い吐息のせいで、よく観察できなかったが……。
 ……って、違う違う。
 余計なことまで思い出しそうになったところで、ぶんぶんと頭を振り指輪を咥える。その拍子に黒い羽が抜け落ちる。
 この姿ならば、彼を尾行することも難しくはない。



 やはりそうか。
 オルニスが足を止めたのを見て息を飲む。着いた先は、この前の青年の家。街外れにぽつんと佇む新しい家はどこか近寄り難い雰囲気を醸し出している。
 家に入ったオルニスを追いかけて窓際からそっと覗くが、彼はリビングに鞄を置いた後、ドアの向こうへと消えてしまった。
 着替えているのだろうか……。
 しばらく待ったが、彼が姿を現す気配はない。
 少し迷ってから、指輪を地面に置いて、くちばしで赤い宝石を突く。
 途端に、姿がカラスから人間へと変わる。
「網戸、開けて……、んで、もっかいカラスに戻るっと」
 人間の姿で小窓の網戸を開けて、カラスに戻ってそこを潜り抜ける。不法侵入もお手の物という訳だ。
 カラスの姿でトテトテと室内を歩き、奥の部屋、オルニスが消えていった方からシャワーの音が聞こえることに気づく。
 どうやら風呂に入っているらしい。そうなればチャンスだ。
 風呂場の音に耳をそばだてながら、再び人間の姿へ戻る。
 色仕掛けとかいう無茶振りで聞き出すより、勝手に漁った方が絶対に成果があるはずだ。
「よし。やるか」
 小さく意気込んでから部屋を見渡すと、やはり不気味なぬいぐるみたちと目が合う。
 すぐにそれらから目を逸らし、取り敢えずは本棚を漁る。
「あ、これなんかいいかも」
 分厚いアルバムを取り出して、そこに貼られた写真に見入る。
「へえ。こいつも人間なんだな……」
 そこには、赤子の頃から現在に至るまでの彼の成長の記録が綴られていた。
 赤い髪を揺らした少年が無邪気に微笑む写真を見て、首を捻る。
「これは、本当にオルニスなのか……?」
 オルニスの瞳はいつも無だ。彼がいくらお道化て笑おうとも、その瞳の奥は真っ黒だった。
 それに気づいているのは、不本意ながら僕ぐらいなのだろう。周りの人間たちは、皆オルニスの雰囲気に飲み込まれて、愉快なピエロの面に騙される。
 そして、あの青年もそうだった。優しく微笑んではいたが、その瞳の奥はまるで空っぽだった。
 僕が彼に唯一人間味を感じたのは、薬を盛られたあの時ぐらいだ。
「や、思い出さなくともいいんだが……って、あ?」
 ふいに、一枚の写真が零れ落ちる。
「なんで、コイツが……」
 拾い上げてから、その写真に写る青年の姿に目を伏せる。
 そこに写っていたのは、白衣を着た人間たち。研究員たちの集合写真だろう。
 虚ろな目をした男女数人の中で、赤毛の青年は無理に笑っていた。
 わかっていたくせに。
 写真を見た途端、こんなにも酷く裏切られた気持ちになるなんて。
「馬鹿げてる……」
 とりあえず、その写真をアルバムに挟み、棚に戻そうとしたその時――。
 ガタッ。
「!」
 シャワーが止み、浴室のドアが開かれる。その音に、急いでアルバムを棚に戻そうとする。が、続けてぺたぺたという足音が近づいてくるのを聞いて、慌てて指輪を引き抜く。
 ドスッ。
「誰かいるのか?!」
 アルバムが床に落ちた音に気づいた青年が、バスローブ姿でリビングに駆け込んでくる。
「ぐ……」
「なんだ、カラスくんか。そっか、窓が開いてたみたいだね」
「ぐぅ……」
 濡れたままの赤い髪の毛から水が滴り落ちる。その整った顔立ちはやはりピエロの時と上手く結びつかない。
 これ以上の長居は危険だと、急いで窓から飛び出そうとする。が、慌てた拍子に指輪を落としてしまう。
「ぐあ……」
 床に転がったそれを拾おうと追いかけるが、指輪は青年の足元まで転がり、先に拾い上げられる。
「やっぱり。君はこの前のカラスくんだね?」
「があ……!」
 取り返そうと飛びかかるが、躱されて、逆に捕まえられる。
「ぎゃ!」
「こらこら、暴れなさんな。ほら、これ返したげるから、ね?」
「ぐ」
 目の前に指輪を差し出され、面食らいつつもぱくりと咥える。
「よしよし、いい子だね」
「ぐ!」
 頭を撫でられたところで身を捩るが、青年の腕はびくともしない。
「まぁまぁ、待ちなよ。ほら、見てごらん。外は雨だ」
「ぐ……」
 外がよく見えるように、青年が僕を窓に向ける。
 そこで初めて雨が降り出していたことに気づく。それも、みるみる内に激しくなっていく。
「ね、せっかく来たんだから雨宿りしていきなよ」
「……」
 とうとう土砂降りになった外を見て迷っている内に、窓が閉められる。
「ね?」
 ざあざあと地面を打つ雨の音が、小さな体に響く。
 ああ、聞いているだけで心が騒つく。あの時の轟音が、冷たさが。脳裏に蘇って……。
「ほら、カラスくん。一緒にお茶でもしよう」
 優しい声音で囁いた青年は、僕の頭をそっと撫でる。風呂から上がったばかりの手はとても暖かく心地よい。その手にはやはり引っかき傷が残っていた。
「じゃあ、ちょっと待ってて。着替えてくるから」
 ちょんちょんと二回額を突かれたとき、やっぱり、こいつがオルニスなんだと実感する。
 逃げるなら今がチャンスだと思ったが、外の様子に逃げる気が失せる。
「お待たせ、カラスくん。クッキー持ってきたよ。よかったら食べて」
 ラフな服に着替えた青年が、クッキーを床に置く。その流れで、床に落ちたアルバムを拾い、首を捻る。
「アルバム、なんで落ちたんだろう」
 カラスくんに動かせるわけないもんね、と問う青年にそっぽを向く。
「それにしても、懐かしいなぁ」
 ページをめくる音にハッとして、青年の肩に乗る。
「わ、カラスくんも見たいの?」
 見たくない。もしオルニスがあの研究所と関わりがあるとするのなら、あちら側だったというのならば、知りたくない。
 けれど知りたい。この男が本当は何者なのか。
 僕は知らなければいけない。
「私はね、今が楽しいんだ」
 だからこんなアルバム本当は捨てたいんだ、と青年は笑う。
「カラスくん。君は、私の好きな人に似ているよ」
「……」
「私は、愚かだった。私は無責任だった。私の過去は捨てられない。だけど、私は今が楽しくて仕方がない。偽りの今が続けばどれだけ幸せだろうかと考える」
「……」
「でも、きっともうすぐ終わりだ。籠の中の鳥は再び捕らえられる。どれだけ自分を偽ろうが私の罪は消えないんだね」
 目を細めて微笑んだ彼が、僕の頬を優しく撫でる。
 彼は、きっと心の中で泣いているのだろう。それを誰にも悟られないように笑い、人を笑わせる。生粋のピエロだ。
 ふいに窓の外が光ったと同時に、地を揺るがす程の雷が落ちる。
「ぐ、ぐわ……!」
「雷が怖いの?」
 びっくりして肩から落ちそうになった僕を抱き寄せ、彼は心配そうに覗き込む。
 雛の頃、すぐ近くの木に雷が落ちたことがあった。不幸にもその木に巣を作っていた仲間は、当然死んだ。一歩間違えば僕が死んでいたかもしれない。そんな恐怖を嵐に耐えながら味わったのだから、トラウマになっても仕方ないだろう。もっとも、いつまでも引き摺っているのは仲間の内でも僕ぐらいだったけれど――。
「大丈夫。怖くないよ、カラスくん。私がついてるから大丈夫」
 穏やかな声でそう呟いた彼が、僕の額に口付ける。
 本当に変な奴だ。普通の人間ならば、カラスなんて不衛生だ、と触れたくもないはずだ。
「ぐぅ」
 いつまでも経っても弱虫で、人間に憧れていた僕も異端。力を持っている癖に、道化の道を選んだ彼も異端。
 案外僕らはお似合いなのかもしれない。
 結局、それから雨が止むまで、僕は彼と同じ時間を過ごした。彼の隣は案外心地よくて、体に響く雷の音もいつもみたいに怖くはなかった。



「最近なんだか天気が悪いね~」
 ショー終了後、片付けをしながらパッセルが外を見て呟く。
 うんざりした気持ちで空を見る。すると、タイミングよく空が光り、数秒遅れて雷が鳴る。
「……ッ」
「うわ~。ショーの最中に鳴らなくてよかった~。手元が狂っちゃいそう……」
『はは、雷が怖いなんて子どもかよ!』
「え~?! ボク子どもじゃないもん~!」
『わはは!』
 パッセルを揶揄い笑う団員達に気まずさを覚え、片づけを切り上げる。
 確かに、ショーの最中でなくてよかった。人間でいる時ぐらいは完璧でありたい。
「と言ったものの……、ッ!」
 再び鳴り響く雷の音に首を竦める。いつ鳴るのかわからないところも忌々しい。
「取りあえず、さっさと部屋に……、ッ」
 廊下を急いで曲がると、オルニスの姿があった。こちらに気づいたオルニスは、呑気にぬいぐるみをぴすぴす鳴らす。勿論、僕はそれを丸々無視して通り過ぎようとする。が。
「コトリくん、悪いけど急いでいるんだ。通してくれないか……?」
『ぴす』
 首を横に振ったオルニスが、俊敏な動きで僕の行く手を阻む。
「コトリくん、僕は疲れているんだ。頼むから……、ヒッ!」
 ピシャッ!
 空が激しく光ってから、間髪入れずに凄まじい轟音が響く。それは昔聞いた音と違わぬ落雷音で、心臓が縮み上がる。
「は、僕、い、きてる……?」
 ドクドクと激しく鼓動を刻む胸を押さえながら、荒い呼吸を繰り返す。どうやら生きているらしい。
『ぴすぴす』
 まぬけな音がして我に返ると、すぐ近くにオルニスの顔があった。というか、僕がオルニスにしがみついていた。
「あ、えっと。これは、違くて……」
 慌てて身を離し、だらだらと汗を掻く。愛想笑いを保とうと力を入れる程、笑顔が引きつってゆく。
「……?」
「いや、ホント、何でもな……、うっ」
 不思議そうにこちらを見たオルニスに言い訳をするが、再び雷が落ち、言葉が途切れる。
「……」
 黙したままのオルニスが僕を抱き寄せ、頭を軽く撫でる。
「は……?」
 そして、そのままオルニスの唇が近づき――。
「んむ、な、にすんだ!」
 一拍置いてから、ぬいぐるみの口を押し当てられた。それを慌てて剥がすと、オルニスはにこりと笑って再び頭を撫でる。
「おい、こら! 子ども扱いすんな!」
 誰かに見られたらどうするんだ、と叫ぶ前に、嫌な気配を感じて視線を横に流す。
『そろそろ餌としての機能を果たせそうだな』
 窓近くの木に留まったそれと目が合い、背筋が凍る。鮮やかな色した可愛い小鳥。それが悪魔のような声で脳内に語り掛ける。
 咄嗟にオルニスから離れるが、今更意味はないのだろう。
 できれば巻き込まれたくなかったけれど……。僕に餌の役割が果たせるとは思えないけど……。どうせ、抗えない。なるようにしかならない。所詮、僕は彼らの道具なのだから。



「やあ、コトリくん。楽しんでるかい?」
“君は全然楽しくなさそう”
 豪華客船に揺られながら、ピエロが差し出したメモを見る。
「そんなことはないよ。こんな場に呼ばれるなんて、光栄なことじゃないか」
 金持ちたちが過ごす優雅なひと時に呼ばれた団員たちは、一通り芸をした後、各自自由時間を楽しんでいた。
 だけど、オルニスが言った通り、僕には楽しめるだけの余裕がない。団長が何か仕掛けてくるならば、今日に違いないのだ。
「っわ」
『キャー! 助けてッ!』
 考えている内に船が大きく揺れ、子どもの悲鳴が上がる。そして、すぐに母親らしき人間がその子の名を呼び、必死に叫ぶ。
 どうやら、子どもが海に投げ出されてしまったらしい。だが、周りの大人たちはそれを見ているだけ。冷めた目をしている人間が大半を占めるところを見るに、そのほとんどが“こちら側”なのだろう。
「オルニス……」
 彼の方に目をやると、意外にも冷めた目で溺れる子どもを見つめていた。
 彼のことだから、てっきり真っ先に助けると思ったのに……。
 何だか裏切られたような気持になりながら、団長を見る。すると、海を指さし“お前が行け”と合図された。
 どうして僕が……。
 そう思いつつも、飛び込もうとしている母親を押しのけ、海へ飛び込む。どうせ他の大人たちはあの子を助けない。だったらもう、僕が行くしかないじゃないか……。
 どぶり、と海に入り、その冷たさに息を詰める。水を切って子どもに手を伸ばす。
『助けてッ、助けて!』
 もう大丈夫だ、と子どもを抱きしめた瞬間、その肌が泥に変わる。
「え……?」
 泥人形に変わり果てた子どもに母親が悲鳴を上げる。そして、母親自身の体も泥に溶けて海に落ちる。
『助けて、助けてよ……、ボクとママを助けてよ……』『ああ、坊や……。可哀想な坊や……。成功したと思ったのに……』『ボクたちは失敗作……。お前だけが、人間になって生きている……』『許せない……』『許せないよ……』
 これは、何だ……?
 自問してから、泥に鳥の羽が混じっていることに気づく。
 そうか。これは、失敗した僕のお仲間か……。中途半端に人間の形をしたもんだから、こんな茶番に利用されたのだろう。
 泥たちが呪いを口にしながら、僕の足を海底へと引っ張る。
 藻掻きながら、僕も利用されている一人だということを思い出し、腹の底が冷える。
 オルニスを釣るための餌に僕は相応しくない。子ども好きのオルニスがこの子に引っかからなかったんだ。僕に引っかかるわけがない。
 水を蹴っても手で押しても、体は沈む一方で。焦るほど口に水が入り、いよいよ息が続かなくなる。
 ああ、これが空だったら自由に飛べるのに……!
 そう思った瞬間、水が激しく揺れる。がむしゃらにバタつかせた手が強く掴まれ、引き寄せられる。
「っは!」
 誘導されるまま海面から顔を出し、咳き込む。そんな僕を心配そうに間近で見つめた瞳には、さっきまでの冷たさがない。
「もう大丈夫だよ、カラスくん」
 静かにそう呟いたオルニスの顔は、落ちかけたメイクでドロドロだった。そのメイクの下にある青年の顔には見覚えがあった。その優しい声音には聞き覚えがあった。
「僕の正体、バレてたのか……」
「その指輪、可愛い雨宿りカラスくんとお揃いだったからね。気づいちゃった。……ごめんね」
 何に対しての謝罪だろうか。呟いた後、オルニスは僕の足についた泥に触れる。その瞬間、泥は跡形もなくボロボロと海に溶けてゆく。
「てっきり、君はこの人たちのことも助けるんだろうと……」
「ごめん。でも、その人たちはもう助からないから……」
「……わかってたんだね」
「私を捕えるための罠だったんだろう?」
「わかってるんなら、どうして逃げないんだよ……。どうして、僕を助けるんだ……」
「どうして、か。それは、私が聞きたいぐらいだ」
 オルニスの顔がくしゃりと歪む。そんな顔をさせたい訳じゃないのに。
『ああ、小鳥遊 朔夜。君を捕えるために、我々がどんなに苦労したことか……!』
 船上から降ってきた団長の声と共に、蔦が伸びてきて体に絡みつく。
『だが、それも今日でお終いだ!』
「ッ」
 海から引き揚げられた体が、船板に叩きつけられる。そして、団長が腕を振り上げた途端、オルニスに向かって魔法弾が放たれる。
「危ない!」
 叫んだのと同時に、オルニスは蔦を溶かし、魔法弾を軽快に躱す。そして、他の攻撃も難なく躱して何事もなかったかのようにケロリと佇む。
『なるほど君は捕まらない訳だよ。でも』
「うわっ……、放せ……!」
 蔦に引っ張られて、宙に浮く。じたばたと藻掻いたが、手足を拘束されてはどうにもならない。
『君はこの子がお気に入りのようだからねぇ』
「彼は仕事上の仲間に過ぎない。どうしようと、私は一向に構わない」
 冷たい声だった。落ちかけたメイクから覗く瞳はまるで感情を宿していない。この場にいる全ての者を威圧するような彼の存在感に全身が震え上がって動けなくなる。
 彼は一体何だ? 彼が僕を気に入る? まさか。僕は彼を妬み疎んだ。仲良くはしていない。それに、今の彼は僕なんか見ていない。見ているはずがないくらいに力を感じる。
「君は、一体……」
 問おうとした瞬間――。
「ッあああ!」
 体中に電気が走る。が、それも一瞬のこと。気づくと僕は、オルニスの腕の中にいた。
「馬鹿、は、なせ……」
 どうして僕を助けるんだ……。構わないんじゃなかったのか……?
『はは。やはり思った通り。はったりをかけるなんて、よっぽど大切らしい。あれよこれよと可愛い子をぶつけても全くもって反応なし。人に興味など持たぬ君が。まさかクロウをねぇ。いやあ、じっくりと罠を張った甲斐があった』
「……本当に。私一人のために大掛かりなことで」
 忌々しく呟いたオルニスに同情する。彼はここで新しい自分として生まれ変わろうとしたに違いない。それなのに、罠だったなんて……。
『だが、いくらクロウを大切にしようが、彼は君を裏切るよ。さあクロウ、カラスに戻りたくなければやれ』
 そうだ、僕は。もうカラスに戻りたくない……。人間でいたい……。だから。
「ごめん、オルニス」
「カラス、くん……」
 オルニスの腕に麻酔を打つ。途端に、彼の体が力を失う。
 その瞳には、どういうわけか安堵のようなものが浮かんでいた。



 小鳥遊 朔夜は、研究所の職員だった。
 とある金持ちの道楽で建てられたその研究所では、日々「賢者の石」を精製するために優秀な研究員たちが身をやつして研究に取り組んでいた。
 非現実的な研究に世間は彼らを白い目で見ていたが、ある時、ついに賢者の石が完成した。
 その知らせを受けた金持ちの息子は「鳥を人間に変えることができるか」と聞いた。
 なんでも、飼っているカナリアの寿命が短いことを嘆いて「人間にしたい」らしい。
 幼気な息子の願いを叶えるべく、親馬鹿な金持ちは研究員に実験を命じた。
 そこで、たくさんの鳥たちが犠牲になった。
 そして、たくさんの研究員たちが心身に異常を来して死んでいった。賢者の石を使いこなせなかったのだ。
 鳥も人間も実験動物。研究のために己や動物を犠牲にすることは至極当然だと思っていたが、小鳥遊は死んでゆく鳥たちを見ている内に、虚しさを感じるようになっていた。
 しかし。
 小鳥遊はついに成功した。一羽のカラスを人間に変えたのだ。
 それを見て喜んだ息子は、さっそくカナリアにもやってほしいと小鳥遊に頼んだ。
 まだ確実なものではないとわかっていたが、小鳥遊はそれを受けた。
 早く終わらせたかったのだ。この悪夢を。
 その結果、彼は失敗した。
 カナリアは、形こそ人間になれたものの、人間の肌に当たる部分がびっちりと羽毛で覆われたままだった。
 息子はその姿を「気持ち悪い」と言って怒った。小鳥遊に「元に戻せ」と癇癪を起した。
 小鳥遊は、とうとう全てが嫌になり、研究所を抜け出した。
 そして、彼は顔を派手なメイクで隠し、力を使って人々を楽しませるピエロへと変わった。
 しかし数年後、町を転々と歩き回り、日銭を稼ぐピエロの話が金持ちの息子に伝わって……。
 息子は、ピエロが本当に小鳥遊なのか確かめるため、未だ成功しない実験の唯一の成功例を逃さないため、サーカス団を作り、ピエロを引き入れた。白鳥座は、オルニスをおびき寄せるための罠だったのだ。



 小鳥は捕まった。籠の中に入っているのが本当だから。これは仕方のないことだ。仕方のないこと。僕は自分の意思じゃ生きられない、ただの操り人形で……。きっと、だから彼はあのとき安堵の表情を浮かべたのだろう。僕が人間として生きるためには、従う他ないのを知っていたから……。
「神様……」
 カラスの頃は、よくこうやって人間の真似して神に願ってた。
 僕は、人間の暮らしに憧れていた。町に来る旅芸人たちを見ていると全く退屈しなかった。彼らは多彩な技術で人々を笑顔にさせた。その中でもひと際僕を惹きつけたのは、歌だった。
 人間の声は面白い。個体によって全く声が違うから、同じ歌でも人によって印象が大分違うのだ。それに、があがあと同じ音を繰り返すだけのカラスと違い、人間はたくさんの音を組み合わせて、複雑で美しい旋律を作るのだ。
 僕は願った。人間になりたいと。人間になって、歌ってみたいと。
 だから、ラッキーだと思った。研究所に連れて行かれたときは、流石に怖かったけど。もしも人間になれる可能性があるのならば、賭けてみてもいいなんて思ってしまった。
 あの恐ろしい研究はトラウマだ。賢者の石を使われた瞬間の赤い光とあの耐えがたい痛みが結びついて、今でも赤い色は苦手だ。
 だけど、人間になれたときは、本当に嬉しかった。陳腐な言い回しだが、世界が輝いて見えたんだ。
 でも。とても呑気に歌を歌えるような状況じゃないことを悟った。
 目の前にいた赤髪の青年は、静かに「ごめん」と呟いた。
 それから、彼が逃げ出した後も、僕は唯一の成功個体として丁重に扱われた。
 一通り検査が済んだ後、僕はオルニスの反応を見るためにとサーカスへ入れられた。
 しかし、彼らの予想を反し、オルニスは僕に何の反応も示さなかった。僕は当たり前だと思った。だって、あのとき彼は「ごめん」と謝ったきり、すぐに視線を逸らし、僕を見ようとしなかったのだから。
 でも、お陰で僕は舞台装置としてサーカスごっこをすることができた。
 オルニスを泳がせるために作られたサーカスは、初めて僕が人間らしく生きれた場所で、僕は本気でサーカスのトップを狙ってさえいた。
 儚い夢だと知っていたはずなのに。


「クロウ。君に仕事だよ」
「……今更、何です?」
 白鳥座が無期限休演となり、研究施設に戻された僕に、金持ちの息子……パッセルが微笑みかける。
「小鳥遊が言うことを聞かなくてね。悪いけど、君を使わないといけないみたい。来てくれるよね?」
「……」
 僕なんかとっくに恨まれてる。彼は僕を助けてくれたのに。それを裏切った。これで僕にまだ情があるとしたらとんだ阿呆だ。
 僕に利用価値などない。あったのだとしても、とうに失っている、と言ってやりたかった。
 でもそれ以上に、彼が今どうしているのか、どうしても見たかった。


 久々に見た彼は、見るからにやつれていた。趣味の悪い化粧もすっかりと取れ、地下牢で憔悴しきっていた。
「オルニス……」
「やぁ、カラスくんか」
 ぼくに気づいたオルニスがにこりと笑う。本当はそんな気力もない癖に。
「メイクがないと、不気味でなくていいね。そんなにイケメンなら、素顔で売り出せば良かったのに、馬鹿だなぁ。僕より人気取れたろうに。声だって、僕の掠れた声よりも、ずうっと綺麗じゃないか。なんでいつも喋んないんだよ、勿体ない」
「クロウ」
 ぺらぺらと喋る僕を、彼が優しく呼ぶ。どうしてだか、涙が零れ落ちる。
「……ごめん。僕が弱いばっかりに、アンタを、こんな目に、」
「君は優しいんだね、カラスくん。でも、これは私が研究熱に浮かされて、恐ろしい実験の片棒を担いだせいだ。君は私を恨むべきなんだ。同情なんかしてはいけないよ」
「でも、僕は……!」
 人間になったことを後悔していない、と叫ぼうとした瞬間、パッセルと団長……紙袋男が現れる。
「さぁて、小鳥遊。遊びの時間は終わりだ。クロウを傷つけたくなければ、僕のカナリアを完璧な人間にしろ!」
「う、わっ……!」
 パッセルが地面に手を翳した途端、蔦が僕に向かって生え、体を締め付け始める。
「オルニス、聞かなくて、いい……。アンタは、自由に、生きるべきだ……!」
「チッ。カラスが調子に乗るな!」
「っぐ……」
 パッセルの言葉に呼応した蔦が更に体を締め付ける。これでは結局、同情されるのは僕じゃないか……。
「やめろ!」
「小鳥遊ぃ。どうすればやめてもらえるか、わかってるよねぇ?」
「わかってる。けど、それは駄目だ」
 静かにそれだけ答えると、オルニスはシャツの下からペンダントを取り出し、握りしめる。その赤い石には見覚えがある。僕の指輪についているのと同じ『賢者の石』だ。
 オルニスが呪文のようなものを短く吐いたと同時に、強風が吹き荒れる。
「チッ、抵抗する気か、小鳥遊!」
 オルニスの起こした風が蝋燭を消し、辺りに暗闇をもたらす。
「カラスくん!」
 その隙を突いて、オルニスが鉄格子を魔術で砕き、僕の蔦を切り刻む。
「どうするつもりだ」
「飛ぶ」
 僕をキャッチしたオルニスが、淡々と答える。
「魔術を使って飛ぶってことか? 賢者の石って便利だな」
「違うよ」
 不敵に微笑んだオルニスの背中から、いきなり真っ白な羽が生える。
「え……? その羽、何だよ……」
「正真正銘、鳥の羽。私の体の一部だよ」
「は……?」
 天使のようなその姿に言葉を失っている僕を抱えて、オルニスは宙に舞う。パッセルと紙袋男をかいくぐり、研究員たちをなぎ倒し。ついに僕らは外へ出た。
「もう、訳わかんないんだけど……。コトリくんは、本当に鳥だった、とか……?」
「いいや。実験の代償だよ。まあ、なんていうかさ。君を人間に変えた代わりに、私にも羽が生えるようになっちゃって……」
「は……?」
「中々、完璧にはいかないもんだよね。君も賢者の石で作った指輪をはめていないと人間の姿を維持できない。私も、自分の意思で畳めるとはいえ、羽が生えてしまった。そして彼も……あのカナリアはもっと不完全だった」
「やっぱり、団長……あの紙袋の男がパッセルのカナリアなんだね?」
「うん。人間のエゴで姿を変えて……彼にも君にも申し訳ないよ」
「僕は元から人間になりたかったから。恨んではないよ」
「え?」
 酷く暗い表情で呟くオルニスに、つい口が滑る。でもこれは気休めなんかじゃない。本心だ。
「まぁ、カラスが人間になりたいだなんておかしいよな」
「いや、そうじゃなくて。そうか、だから君は成功したのかもしれないな……。もしかしたら、カナリアの彼も……。少しは人間になる意思があったのかも……。そうじゃなきゃ、その……。もっと酷いはずだから……」
 失敗した実験動物の末路は知っていた。彼らは動物の形さえ留めていなかった。
「カラスくん、君は逃げるんだ。ここにいてはいけない。人間の姿のままでいいならば、このまま自由におなり」
 地面に僕を降ろしたオルニスが、再び一人で飛ぼうと羽を広げる。
 僕は、慌ててその手を掴み、問う。
「君は? どうするの?」
「私は、この手で責任を取る」
 オルニスが拳を握り、前を向く。死をも覚悟している顔だ。
「駄目だよ、君も一緒に……」

「いいや。二人とも逃がさないよ」
 背後から聞こえた声に振り返る。そこにはパッセルと、彼を抱えた袋男の姿があった。その背中にはやはり羽があり、肌も羽毛で覆われていた。
「蔦よ、カラスを縛れ」
「ぐっ」
 パッセルが指を弾き、蔦を操る。あっという間にそれに巻かれた僕は、己の不甲斐なさに唇を噛む。
「カラスくん!」
「おっと小鳥遊、そこを動くとカラスが死ぬよ?」
「オルニス……ごめん、僕はまた、お前の足を引っ張って……」
「小鳥遊、わかるよな。もう一度やるんだ。今度こそヴィヴァーチェを人間にするんだ」
『……』
 ヴィヴァーチェと呼ばれたカナリアが静かにパッセルを見つめる。だが、その表情にはどこか影がある。
「随分とカナリアにご執心だね。でも、カナリアくんは冷めちゃったんじゃないかな?」
「あんまり馬鹿にするなよ? コイツを殺してしまいかねん」
 ぐ、とナイフが肌に食い込んだところで、オルニスが両手を挙げる。
「……わかったよ。君の望みを叶えよう」
「オルニス……」
「心配しないで。それに、これをやるのはパッセルだ」
 そう言って、オルニスが賢者の石をパッセルに放る。
「賢者の石の力は、恐らく使用者と被験体の気持ちの強さに比例する。カラスくんが人間になったとき、私は実験の成功を願っていた。そして、カラスくんも人間になりたがっていた。けれど、カナリアくんのとき、私は完全に実験に疑問を抱いてしまっていた」
「それは、本当なのか……?」
「仮説でしかないけれど。でも、カラスくんのとき、私がもっと熱を上げて実験に挑んでいたら、指輪の力に頼らなくとも完全な人間になれてたんじゃないかって、思うんだよ……」
 ごめんね、と謝るオルニスに首を振る。カナリアのように半端でない分マシだ。
「だから。やるなら君たちで、だ。私は石を貸すことしかできない」
「なんだよ……。そんな簡単なことだったのか……。ああ、ヴィヴァーチェ。これでやっとお前を人間にしてやれる」
 パッセルがカナリアの紙袋を取る。現れたのは、鳥の頭。何か理由があるのだろうと思っていたけれど、顔がそのまま鳥なのも中々に不気味だ。
「さあおいで、ヴィヴァーチェ」
『……』
 優しく微笑んだパッセルがカナリアの手を取る。パッセルの目にもう僕らは映っていない。
「カラスくん、今のうちに」
 蔦を解いたオルニスが僕の手を引く。そして、オルニスは翼を広げ、ぐんと高く飛ぶ。
「あれは、多分失敗する」
 オルニスがぼそりと呟いた言葉にそっと頷く。
「あ、アアアアア! 小鳥遊ぃイイイ!!!」
 直後、赤い光と共に、パッセルの濁った奇声が響き渡る。
 眼下にはおぞましい化け物が二つ。研究所で死んでいった仲間たちのような失敗作。
「嘘を教えた、ってわけじゃないんだよな?」
「うん。二人の気持ちが強ければ成功してたはずだよ。あれは、カナリアくんが本気じゃなかった。彼は人間になることを望んじゃいなかったんだ。……もしかすると、彼は最初から乗り気じゃなかったのかもね」
「……止めなくて、いいのか?」
「きっと、彼がどうにかするよ。ほら」
 カナリア色の化け物がパッセルの顔をつけた化け物を食う。そして、どこかへ飛んで行く。
「大丈夫、なのか……?」
「うん。カナリアくんの目、すごく落ち着いてた」
 カナリアもパッセルのことを慕っていたはずだ。なら、どうして彼は人間になることを拒んだのだろう。
 考えている間に、爆発音が響く。ハッとして顔を上げると、研究所の辺りから煙が立ち上っていた。
「まさか……」
「主人の罪を、清算したんだね」
 そうか。彼はそれが正しいと判断したのか……。だったら、僕は……? たくさんの犠牲の上に成り立っている今の僕は……。
「オルニス、僕はどうすればいいんだろう」
 情けない問いが口を衝く。カナリアとパッセルの事情は僕にはわからない。でも、彼らは終わらせた。だったら、僕は……。
「戻りたいの?」
 オルニスの優しい声に首を振る。
「……戻りたくない。でも、僕は存在しちゃいけない気がする」
「残念だけど、私には戻せないよ。石もないし、君を元に戻す気持ちもない。私は、君に居て欲しいよ。世界が君を否定しても、私は君が人間であることを肯定する。だから……。お願いだから、傍に居て」
 ゆっくりと地面に降り立ち、僕たちは見つめ合う。どうしてもオルニスの腕から抜け出す気が起こらない。
「……君は、羽が付いたままでいいの?」
「いいよ。寧ろ便利だし。ねえ、クロウ。私はもう随分と前から君が好きだ。それこそ、ファンに紛れて媚薬入りのケーキを送る程にね」
「……え? は? ん?」
 真剣な面持ちで告げられた言葉の意味を理解するのに、数十秒かかった。
「ごめんね。こういう気持ちは初めてで……。研究ばっかりしていた人生だったから……。確かめようと思って……」
「確かめるって……。普通の人間はそんな過激な方法、取らないと思うけど……」
 人間の求愛行動を完全に理解している訳ではないが、それが正常でないことぐらいわかる。
「うん。そうだね。まあ私、普通じゃないからね」
「じゃあ、あの時、君に振る舞ったケーキにも媚薬が入ってるとわかってて君は……」
 自ら媚薬を食べたということだろうか。中々の変態ぶりだ。
「や、あれは君の裏をかいて、市販のケーキに媚薬を入れてただけ。手作りの方には入ってなかったんだよね」
「え、じゃあ、どうして……」
 記憶を辿り、明らかにオルニスにもそういう効果が表れていたことに疑問を抱く。
「ああ。それはさ、素で興奮してただけ」
 なるほど。大した変態ぶりだ。
「……あのさ、もしかしてだけど、僕がカラスだってこと知らなかったわけ?」
「だって、ねえ。途中まで本当に気づかなかったよ。サーカスごっこにも、君の指輪にも。実験が成功したときは、後ろめたくて碌に君の顔を見れなかったわけだし……。でも、今更この気持ちを消せるわけでもないし。正体があのカラスくんだと知った今でも、私は君が愛おしい。厚かましいとは思うけど、どうにも止められないんだ。おかしいだろう?」
「……や、でも。僕は雌じゃないんだけど?」
「種族が違う時点で、性別なんて意味をなさないと思わない?」
「いや、今の僕は人間……」
「私だって、びっくりしてるよ。男が好きだったのかってね。でも、ライバル視されてる内に、どうしても君の事が目について……。人知れず健気に練習してるとこなんか見たら、なんか綺麗だな、可愛いな、愛おしいなって……」
「ちょっと待ってくれ。百歩譲って綺麗は許すが、可愛いはないだろ。やっぱり君は変だ。変わってる」
「そうかも。君の方がよっぽど人間らしいかもね」
「やめろよ、そんな顔するな。僕が悪者みたいじゃないか」
 困ったように微笑んだオルニスに首を振る。そして、人間らしさとは何だろうかと考える。
「ねえ、クロウ。私と一緒に旅をしないか?」
「は?」
 またしても突拍子もないオルニスの言葉に、理解が遅れる。
「旅芸人として世界を回るんだ。私たちは不幸になっちゃいけない。私たちまで、あの研究の犠牲者になってはいけない。あの研究の意味を取り違えちゃいけない。結果がどうあれ、涼宮だってカナリアくんとの幸せを願ってやったことなんだ。そう思うから、私は彼らを否定できない」
「そんな理由付けは狡い」
「うん。私もそう思うよ。私は加害者だしね。だから、君に決めて欲しい。君は一人でどこにでも行ける。でも、私の手を取ってくれるというのならば、私は全力で君に尽くすことを誓う。勿論、変なことはしない……と思う」
「信用できないな」
「うん。私もそう思う」
「ふは。馬鹿だな、アンタ。カラスなんかに惚れちゃってさ。本当に……」
「クロウ……」
 突然、目の奥がぐっと熱くなり、涙が零れ落ちる。人間は感情の昂りで涙を流すから厄介だ。けど、これは一体なんの涙なのだろう。
「パッセルはさ、どうだったのかな。カナリアのこと、そういう意味で好きだったのかな」
「わからない。でも、それは今気にすることじゃないよ」
 そう言われたって、考えてしまう。彼らが幸せになれる道はなかったのかと。
 優しく目元を拭ったオルニスが僕を引き寄せる。そして微笑んでから、赤子をあやすように頭を撫で始める。
 空を見上げると、晴れやかな青空が広がっていた。
 僕はそこで初めて歌を口ずさんでみる。昔、カラスだった頃によく聞いた子守唄だ。
 記憶を頼りにゆっくりと確かめるように歌い上げると、オルニスが拍手をしてくれた。
「綺麗な歌だね。これ以上惚れさせないでほしいんだけどな……」
「臭いセリフだ」
「いや、本気で。これがお別れの挨拶だなんて、あまりにも意地悪だよ、カラスくん……。置いていかれるのがより一層辛くなる……」
 しょんぼりと首を垂れるオルニスの姿に思わず吹き出してしまう。
「別にこれ、お別れの挨拶じゃないよ。ただ、今なら歌えるような気がして……。僕さ、歌を歌うのが夢だったんだ。それで、君に褒められたら、もっと人前で歌いたくなった」
「……ええと?」
「君の素敵なプロポーズを受けるって言ってるんだ。しっかりしてくれよ、オルニス」
 額を二回突いてやると、オルニスの顔が真っ赤に染まる。
「あ、えと、その……」
 ぴすぴす! とオルニスのぬいぐるみが元気よく鳴く。そのぬいぐるみを押しのけて、オルニスに口づける。
「僕だって、こういう気持ちは初めてだ。だから、君と歩みたい。歌を歌って手品をして。みんなを笑わせたいし、自分も幸せな気持ちでいたい。……彼らの分まで」
「クロウ……」
「さ、そうと決まれば遠くへ行こう。どこまでも飛んで、僕らを知らない人たちに笑顔を届けに行こうじゃないか」
「……うん!」
 羽を生やした人間と、指輪を咥えたカラスが仲良く空を飛ぶ。完全な人間でなくとも幸せになれることを証明するために――。
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