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(82)きよししらゆき
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誠也はノエルに恋をする。が、ノエルの幼馴染である紗人が黙っているはずがなく、誠也は事あるごとに睨まれてしまう。そんな中、ノエルが何者かによる虐めを受けて――。
横入りイケメン×幼馴染営業不憫。政略結婚擬きを強いられる不憫な受けが好きです。
木吉 誠也(きよし せいや):みんなに好かれるイケメン。ノエルに恋をした。
白雪 紗人(しらゆき すずと):ノエルの幼馴染。家のためにノエルと仲良くしなければいけない。
柊 ノエル(ひいらぎ のえる):みんなが見惚れる可愛い系男子。誠也の好意はまんざらでもない。
三田 黒須(みた くろす):誠也の親友。ノエルをいじめた犯人捜しに貢献するが……。
名前の由来はクリスマス。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
僕は恋をした。
彼が通った後はまるで、洋梨のように瑞々しい風が吹く。彼が喋る声はまるで、カナリヤのように美しい。彼が微笑む顔はまるで、天使のように可愛らしい。
彼に出会った瞬間、僕の人生は意味を成した。
世界が輝いて見えた。
でも。
世界が色づいてゆく中で一人だけ。灰色のまま、僕を嘲笑った。
*
「誠也さぁ、お前最近マジで顔がだらしないぞ?」
「ん~?」
前の席に座る三田が、呆れた顔をして僕を見つめる。
「イケメンが台無し」
「どうも」
「褒めてねぇよ。で、ノエル姫とはどうなの?」
「どうって?」
「だから、どこまで行ったんだって」
「どこまでも何も。僕は彼と友達でもないよ」
「はぁ? こんだけ周りに認められてて、まだそんなこと言ってんのかよ」
「認められてる、かなぁ?」
にへらと表情筋を緩めた僕を見て、三田が明らかに嫌そうな顔をする。
僕こと木吉 誠也は、ごく普通の男子高校生だ。まあ、クラスの中でイケメンとして女子からちやほやされる位置にはいるのだが、僕にとっては意味のないことだ。何故なら、僕が好きなのは男だから。
「まあホントすげーよお前。フツー、同性愛なんて毛嫌いされて当然なのにさ。あんまりにもノエル姫と木吉王子がお似合いなもんで、クラスのみんながお前の恋を応援し出すとか。マジであり得ない」
「はは。ほんと有り難いよ」
目の前の席に座るこの少年は三田 黒須。彼はクラスの中でもお調子者で、小柄でチャラい割に何かと女子にモテる男だ。その人懐っこい性格から、あっという間に僕と親友になったのだ。
「でも、気を付けた方がいいぞ」
「えっ? って、うわ!」
どっ。背中にいきなり衝撃が走り、前のめる。
「邪魔なんだけど」
「あ、ごめん白雪……」
何事かと思えば、どうやら白雪の肘が僕の背中に当たったらしい。
「邪魔って、こっちは座ってるだけだし。明らかに狙ってぶつけてんだろ」
「チッ」
三田の非難に舌打ちをした白雪は、明らかに嫌悪の表情を浮かべる。が。
「あっ。紗人、おっはよ~!」
「ああ。おはよう、ノエル」
教室に彼が入った瞬間、辺りの空気がざわりと揺れる。洋梨でカナリヤで天使な彼、柊 ノエルは一瞬にしてクラス中の視線をかっさらう。朝一の単語テスト未勉強組も、部活の朝練で既に体力を削ぎ落されてしまった者も、非難に対して舌打ちをした白雪でさえも、焦りやら疲れやら嫌悪やらをコロリと放ってにこやかな笑顔を作る。
僕の想い人であるノエルは、クラス中から愛されていた。当たり前だ。こんなに可愛い天使が愛されない訳がない。ただ、白雪に関してはそれが行き過ぎているように思えた。
白雪 紗人は、ノエルのことが好きらしい。幼馴染らしく、ノエルの最初の挨拶はいつも彼に向けられていた。彼もそれを誇りに思っているらしい。でも。
「叶うわけないのにね。だってノエル姫はさ、誠也のことが好きなんだもんね」
「や、それはまだわかんないっていうか……」
三田の嫌味に慌てて取り繕うような返答をしたが、やはり白雪からギロリと睨まれた。
彼らの絆は確かに割って入れないほど、確固たるものだった。
初めのうちは、クラス中が彼らの噂でも持ち切りだった。あの二人は付き合っているのではないかという噂さえ流れた。でも。
そこにするりと入ってしまったのが僕だった。
事の発端は何てことない。木に登ったままに降りれなくなったノエルを僕が助けた。それだけだ。どうやらノエルが猫を助けようと木に登ったが、猫は勝手に下りて、ノエルだけが残ってしまったらしい。僕としては、ノエルを助けるのも猫を助けるような善意でやっただけなのだが。
白雪としては僕が下心ありきでやったと思っているらしい。
でも、ノエルにとって僕は正義のヒーローに見えたらしく……。
そこからノエルは僕に懐き、よく話をするようになっていった。
そして、僕もいつしかノエルの可愛さにすっかり絆されてしまい……。
気づいたら、ノエルに惚れこんでいた。
それはまるで、童話の一編みたいに綺麗で道徳的な、運命的な恋だなぁと思った。
そうしてノエルと仲良くするうちに、周りも僕らを認めるようになっていった。みんなから見ても、僕たちは王子様とお姫様に相応しいらしい。みんなの応援が素直に嬉しかった。
だけど。もちろん例外はいる。
「いわば魔女だよな」
「え?」
悪い顔をした三田が声を潜めて僕に告げた。
「叶わないってわかってんのに邪魔するなんてさ、まるでおとぎ話の魔女みたいじゃね?」
そう。勿論白雪が僕らを認めるわけがなかった。彼は、ことあるごとに僕に嫌がらせをしてきた。気のせいだと思いたかったのだが、三田曰く、悪意の塊だと。
「あの、木吉くん……、お、おはよっ!」
「あ、うん。おはよう、柊……!」
一生懸命大きな声を出して挨拶をするノエルにきゅんとしていると、案の定白雪の鋭い視線が突き刺さる。
ああ、僕は彼に許される日が来るのだろうか……。
いつからだろうか、ノエルの身辺に異変が起こったのは。
最初は気がつかなかった。でも、怯えるノエルを白雪が甲斐甲斐しく宥める様子を何度か見て、事態を把握した。
どうやら、ノエルは虐めにあっているらしい。物を盗られたり、机や靴箱にゴミを入れられたり、ノートに暴言を書かれたり。誰がやっているのかはわからないらしいが、それは明らかに一昔前の陰湿な虐めだった。
「なあ。あれ、止めなくていいのか?」
「え?」
胸を痛めていると、三田はノエルの背中を擦る白雪を指さし、顔をしかめて呟いた。
「絶対アイツがやってるぞ」
「まさか」
咄嗟に否定をしてみたが、絶対にないとは言い切れなかった。
「だってさ。こんなことして得してんのって、アイツしかいないだろ?」
「それは……。でも、だからって決めつけるわけには」
「じゃあさ、オレたちで確かめてやろうぜ?」
三田の提案に、僕は首を振ることができなかった。クラスメイトを疑うのは気が引けたが、白雪は確かに怪しすぎるのだ。
放課後。辺りがすっかり暗くなった時刻。三田に促されるままに、僕は誰もいない靴箱に身を潜めていた。
「本当に来るのかよ……」
「しっ。ほら、誰か来たぞ!」
三田の言葉に口を噤む。指し示された方向には確かに人影があった。
でも。まさか。そんなことをする生徒がこの学校にいる訳……。
「今、柊の靴箱に何か入れたぞ……!」
三田の小声に、目を凝らす。彼が言った通り、その人影は確かにノエルの靴箱に手を伸ばしていた。
「おい、観念しろ!」
「っ……!」
現行犯逮捕よろしく、三田が高らかに犯人に向かって叫び、懐中電灯の光を当てる。
「白雪……、お前……」
暗闇の中、照らし出されたその人物は三田の憶測通り、ノエルを愛しているはずの白雪だった。
「お前がやったんだな?」
「は? そんなわけ……」
「じゃあ、お前の手に持ってるモンは何なんだよ?」
「これは……、っ!」
三田が捻り上げた白雪の手から画鋲が落ちる。
「それ……」
「いや、違う。これは俺じゃなくて……!」
「言い訳は男らしくないぜ?」
「ぐ……」
三田に睨まれた白雪の顔が苦痛に歪む。三田は確かに小柄だが、力は決して弱くはない。握力測定では、僕より上だったはず。
てか、白雪の腕、折れそうじゃね……?
細白いその腕を見ている内に、不安がせり上がる。
「おい三田。あんまり暴力的なのは……!」
「っ……」
「あ、おい! 待て!」
見かねた僕が三田の腕を掴んだ瞬間、白雪が全力で抵抗して三田の腕を振り払い、逃げ出す。
「チッ、逃げられたか。ったく、誠也は甘すぎるぞ?」
「でも……」
「いいか? アイツを放っておけば、どうせまた柊は嫌な思いをするんだぞ?」
「でもさ。これで懲りて、白雪も流石にやめてくれるかもしれないし……」
「お前は白雪の恐ろしさがわかってない。アイツはそんな甘いもんじゃないぞ?」
妙に深長な顔でそう告げる三田を見て、その時の僕は大袈裟だと思った。でも、僕はすぐに己の甘さを自覚した。
悪い魔女が簡単に改心するはずがなかったのだ。
『教室、すぐ来い。白雪がやってる!』
翌日。三田からメッセージが届き、帰宅途中だった僕は急いで教室に戻った。
「白雪、どうしてお前はこんなことをするんだ?!」
「っ!」
三田の怒鳴る声に慌てて教室に入ると、ハサミとズタズタになったノエルのジャージを手に持った白雪が青い顔をして立っていた。
「お前、マジでこんなことやってんの……?」
「これは……」
「言い訳はできねえぞ? ばっちり現行犯なんだからな」
どうやらマジらしい。裁縫用の一回り大きいハサミが、ごとりと音を立てて床に落ちる。
「紗人……?」
「ノエル……? どうして、ここに……?」
目を丸くした白雪の見つめる先、僕のすぐ後ろには、いつの間にかノエルが立ち尽くしていた。
「オレが呼んだんだよ。柊にも知ってもらわないとだろ? コイツの本性をさ」
「まさか……。ねえ、嘘でしょ? 紗人がやってたっていうの……? そんなまさかだよね……?」
「ノエル、これは、違くて……」
「オレはばっちり見てた。コイツが柊のジャージを引き裂くとこ。誠也もわかったろ。こいつがどんだけ嫌な奴か」
白雪の手は、よく見ると震えていた。どうして彼がこんなことをするのか、僕には全くわからなかった。
「何でなんだよ、白雪……。お前は柊のこと、大事にしてたんじゃないのかよ……」
「俺は……ッ!」
三人に見つめられた白雪は、悲痛な声を上げて、押し黙った。その瞳は、真っすぐノエルを見て、何かを訴えている様子だったが、当のノエルはすぐに白雪から目を逸らし、怒りを表した。
信じて欲しかったんだろうな……。
自分で罪を犯しておいて、信じるも何もないのだが。どうしてだか、僕には彼が悪い魔女には見えなかった。
「大切に決まってる……。でも、ノエルが最近、そいつとばっか居るから……」
「だから柊の気を引くために、嫌がらせをしてみせたと?」
「違う、俺は、せめてノエルが虐められてるのを慰めるぐらいはって……。犯人を捕まえるぐらいはって……。だから、俺は、本当にやってな――」
「そんな嘘が通じるとでも? お前さ、自分が慰める役につきたかっただけじゃん? そのために柊に嫌がらせするとか、歪んでんじゃねーの?」
「ノエル、お前は信じてくれるよな? そうだ、木吉くん、君なら……」
「……」
「僕は……」
「やめろ。見苦しいぞ白雪。オレが見たって言ってんだよ。その事実は覆せない」
「っ……」
三田の指摘、ノエルの無視、そして僕の憐れむ視線を受けた白雪は、唇を噛みしめて、僕らの目の前から消えた。
「これで安心したら駄目だ。きっとアイツは執拗に柊を狙ってくるぞ」
「そんなまさか……」
三田の真剣な声音に、ノエルの声が震える。
そんなまさか。僕も心の中でノエルと同じ言葉を呟いたが、流石に白雪を信じる気にはなれなかった。そして。
やはり三田の予想通り、悪い魔女は暴れることをやめなかった。
「あ、あああああああ!」
「柊!」
地面に蹲るノエルを抱き起す。その顔は、爛れて炎症を起こしていた。
「おい、誠也! 上だ!」
隣で叫ぶ三田が指さした方向を見る。
そこには、白雪がいた。二階の窓からこちらを覗き込んだ彼と、目が合った途端、怒りが込み上げて。
「お前がやったのか、白雪!」
僕の言葉に、一瞬顔をくしゃくしゃにして、白雪はその場から姿を消した。
「アイツ、柊に薬品をぶっかけやがった! とにかくオレは人を呼んで来る! お前は柊を見ててやれ!」
「痛い、痛いよ、あああ……」
許せなかった。こんなにか弱い天使を、平気で傷つけてしまう白雪が。
「大丈夫だからな。すぐに先生が来てくれるからな」
無力な自分に歯噛みする。どうしてもっと早くアイツにキツく言えなかったのだろう。どうして……。
「僕は、アイツのこと、嫌いじゃなかったのにな……」
口の中で呟いてから己の不謹慎さに幻滅する。どんなに憎まれていようが、僕はアイツが眩しかった。ただ一途で清いほどのその想いを羨ましくも思っていた。
それだから、僕にはどうして彼がこんなことをしたのか、本当にわからなかった。
*
「柊、ごめん。僕がもっと注意してればよかったんだけど……」
「大丈夫だよ、木吉くん。キミのせいじゃないんだから」
「でも、僕はまたお前を守れなかった……」
「そんなことない。ボクは木吉くんが側に居てくれたから、怖くなかったんだよ?」
……良い雰囲気だな。
病室の前で二人の会話を盗み聞きしながら、ぼんやりと佇む。
少し前までは当たり前のようにノエルの隣は俺の居場所だった。だけど、高校になって、それは当たり前じゃなくなった。
木吉 誠也。彼は、俺が長年を費やして築き上げてきたノエルの信頼を、たった数日で手にした。
ノエルは元から、木吉のようなタイプが好きだった。明るくて、他人を思いやれる、常に人の中心にいるような出来た人間。まさに俺とは正反対。それが憧れか恋愛感情かは俺にはわからないけれど、とにかくノエルは木吉に懐いた。冗談じゃない。
俺はノエルにとっての一番でなくてはいけない。そうじゃなければ、俺の生きている意味などないのだから。
それなのに。
これはどういうことだ? 何故、俺が犯人扱いされなければいけない?
ノエルの痛みに苦しむ声が頭から離れない。
あの時、俺は確かに理科室にいた。でも、俺はノエルを傷つけるような真似はしていない。
「くそ……」
ただでさえ木吉の出現に頭を抱えていたというのに……。
「いや。悔やんでいる暇はない」
今こそしっかりと己の無実を訴えるべきだ。幸い、邪魔者はまだいない。大丈夫。きっとノエルは信じてくれる。だから――。
「ノエル。話があるんだ……」
「あ、紗人……」
病室に踏み込んだ途端、ノエルが怯えた顔をこちらに向ける。
「白雪……。お前、よくもここに来れたもんだな!」
正義に燃えた木吉が、俺をノエルに近づけまいと掴みかかってくる。
「違うんだ、聞いてくれ……。俺はやってない! 手紙が机に置いてあって、理科室で待ってろって、書いてあったから……! 行かないとノエルにもっと酷いことをするって書いてあったから……!」
「嘘ならもっとマシなモンにしろよ」
「!」
音もなく後ろに立った三田が、俺に向かって冷ややかに笑った。その自信たっぷりな笑みに、嫌な予感が過る。
「そんな手紙、どこにあるんだよ」
「え……?」
まさか。
鞄の中を漁る。が、ない。証拠に、と確かに持ってきたはずなのに。その紙切れは鞄をひっくり返してみてもどこにも見当たらなかった。
「そんな証拠、最初っから無いんだろ?」
やられた。
三田の笑顔に確信する。コイツはこれを見越して、俺の気づかない内に紙切れを盗んだのだろう。確かに、早退の申し出と病院の場所を聞き出すために、いったん教室に鞄を置いたまま動いてしまった。恐らくあの時……。
「白雪、これ以上嘘を重ねても無駄だ。もういい加減諦めた方がいい」
「俺は……」
木吉の憐れみを含んだ台詞に、ノエルの方を見る。
「紗人。今はキミと話したくないよ……」
「っ……」
誰が本当の悪なのかは明白だった。でも、木吉は勿論のこと、ノエルさえもがそれに気づいてくれなかった。
どうして……。俺は、こんなにも人生をノエルに捧げてきたというのに。
耐え切れなくなって踵を返す。すれ違いざま、勝ち誇ったような顔をした三田に嫌気が差す。どうして。コイツは一体何が目的だ。
『きゃっ』
「あ、すみません……!」
病室を出た途端、女性と衝突した。その顔を見たとき、俺は青くなった顔を更に青くした。
『貴方もしかして何時ぞやの……。ああ! やっぱりそうだわ! あの薄汚い白雪財閥の養子じゃない! まだウチの子に取り憑いているなんて。なんてはしたないドブネズミなのかしら!』
「……」
ヒステリックに叫んだその人は、柊財閥社長夫人。つまりはノエルの母親だった。
『奥様、病院ですので……』
『うるさい! こいつはね、孤児の分際でウチの子に悪影響を与えてっ、害虫なのよ、ドブネズミなのよ!』
付き人の制止を振り払い、社長夫人は俺に向かって叫び散らす。ああ、やっぱり駄目じゃないか。俺には最初っから無理だってわかってたのに。
『今回のことも貴方がやったのね?! もうやめて頂戴! もう沢山だわ! もうこれ以上ウチの子に関わらないで頂戴!』
ばち。
容赦のない張り手が俺の頬を襲った。悔しいが、当然の報いなのだろう。
ああ。俺は本当に役立たずだ。
*
『今回のことも貴方がやったのね?! もうやめて頂戴! もう沢山だわ! もうこれ以上ウチの子に関わらないで頂戴!』
ばち。
病室前の剣幕を聞き、何事かと覗いた瞬間、おばさんの張り手が白雪を襲った。
本気で振り抜かれたそれは、白雪の頬をすぐに赤く染め上げた。
「な……」
止めなくては。そう思った瞬間、白雪が何事もなかったかのように、おばさんにぺこりとお辞儀してその場を去った。
何だったんだ……?
『あら。恥ずかしい所を見られちゃったわね。貴方はノエルのお友達? ふふ、ノエルが好きそうなタイプだわ』
「えっと……」
『ああ、ワタシはノエルの母親よ。そう怯えないで? あのドブネズミは特別なの。特別ワタシたちに危害を加えるんだもの。貴方にもわかるでしょう? あれがあの卑しい生まれのネズミだって』
「ええ。わかりますよ。ノエルくんはアイツにたくさん酷いことをされたんです」
『ああ! やっぱり! 可哀想なノエル!』
三田の言葉に、ノエルの母親がよろめいて、ノエルの元へと駆け寄る。
「お母様。もう大丈夫ですから。ボクはもう紗人のことを信じない。お母様の言っていたことは正しかったんだ……」
『ああ! やっとわかってくれたのねノエル!』
抱き合う親子から目を逸らし、窓の外を見る。
いつの間にか降り出した雨に目を凝らしていると、傘も差さずにとぼとぼと歩く人影を見つける。
あ。あれ、白雪だ……。
ずぶ濡れになっているのに、彼は歩みを止め、こちらを仰いだ。
一瞬どきりとした。
遠く離れていて見えないはずなのに、その吸い込まれそうな黒い瞳と目が合ったような気がして。
いや、流石に気のせいだ。
再び地面に視線を落とし、去ってゆく白雪に安堵する。
白雪に情を掛ける必要はないのだ。
痛々しくに咲いた瞳を思い出し、首を振る。
ああ。ノエルが太陽ならば、彼は月だろうな。なんて。
『白雪くんが?』
『え、それってやばくない?』
『ね、怖いよね』
教室の至る所で噂された彼は、ただじっと座っていた。ただ無表情に。時を過ごすのを止めてしまったかのように。微動だにせず息を潜めていた。
『そうじゃないかと思ってたわ』
『なんか最初から怖かったし』
『普通じゃないよね』
聞こえてるだろうに、やはり白雪は全く反応しない。
堪り兼ねた僕は、話をしているグループに声を掛けようとした。が。それを察してか、彼は教室から姿を消した。
白雪は今、心の奥で笑っているのだろうか。それとも悲しんでいるのだろうか。それとも怒っているのだろうか。
予測のできないそれに、居てもたってもいられなくなり、気づいたら僕は、憎むべき白雪に興味を持ち、追いかけていた。
自分でも彼に深入りするべきではないとは思うのだが、どうしても知りたくなった。彼の、白雪の本当の気持ちが。あの痛々しい瞳の訳を。
廃校舎の銅像の影。そこを覗き込むと、白雪はいた。
「白雪?」
「っひ!」
コンクリートに腰かけた白雪に声を掛けた瞬間。白雪は裏返った声を出し、肩を震わせた。
「こんなとこで何してんだよ」
「っ。来るな……」
膝に顔を埋めて丸まった白雪の声は普段より低く、威嚇されているのがわかった。
「ごめん。驚かせるつもりはなかったんだけどさ。その、白雪の話も聞いてみないといけないよなって思ってさ……」
「別に、お前に話すことなんて、ない」
「まあまあ、そう言わずに……え?」
ぱたり。
白雪の足元に落ちた水滴が地面に染み込む。
「白雪……?」
「な、なんでもな……」
早まる鼓動を抑えつつ、白雪の腕を掴みあげ、無理やり顔を覗き込む。
ぼろ。
白雪の真っ黒い瞳に溜まっていた水が、大粒の涙となって地面に落ちた。
「っ……」
「お前、泣いてたのか……?」
そう問いかけた途端、白雪の顔は赤く染まり、目線はぐるぐると宙を彷徨った。
後悔、屈辱、怒り、悲しみ、不安。色んな感情がくるくるとその瞳に映り、いつもの無愛想とかけ離れた色味を見せる。
「見るなっ、放せっ!」
ぐいと腕を思いっきり振られるが、白雪を掴む腕は離さない。離すもんか。だって。これ、すごく綺麗で。ずっと見ていたくなる……。
「くそ!」
じたばたと暴れる白雪を力でねじ伏せ、顔を近づける。
「何だよ、そんなに俺のこと追い込みたいのかよ! そうだよ、どうせ女々しく泣いてるよ! くそ、ほんと、馬鹿みた……」
ちゅ。
「は?」
「え?」
唇に当たる感触と、大きく見開かれた黒い瞳に気づき、我に返る。
吸い込まれるように白雪の瞼に口づけを落としていた。
「えっと、ごめん……」
謝ってはみたものの、白雪の瞳から目が離せない。
「ちょ、意味がわかんな……、っ!」
「ごめん」
気づいたら、今度は涙に濡れた白雪の頬に自分の唇を押しつけていた。
「は、マジで、何して……」
「ご、ごめんっ。でも、何か、おいしそうで……」
しどろもどろに説明してはみたが、自分でも何故そうしたのかわからない以上、変な答えしか出てこない。
「何なんだよ! お前までそうやって、俺のこと揶揄うのか?! クソったれ!」
「ま、待って、そ、そういうわけじゃ――」
「触るな!」
ばきっ。
がむしゃらに振るわれた白雪の拳が、見事に僕の頬に当たった。
「あ……」
「いてて……」
尻餅をつき、頬を押さえたまま白雪を見つめる。白雪は、可哀想なほどに青い顔をしていた。僕なんかよりも、白雪の方がよっぽど痛みを堪えているような顔をしていた。だから。
「白雪……」
手を伸ばした。その青ざめた頬を優しく撫でてやりたかった。だけど。
「っ……」
白雪は逃げた。僕の目の前からあっという間に姿を消した。
僕は確信した。彼は悪い人間じゃないと。だって、悪い人間があんなに美しい訳がない。
「木吉くんっ……!」
「わ。柊?」
教室に入るなりノエルに抱きつかれた僕は、困惑しながら辺りを見回す。
「やっぱり本当だったんだね……?」
「え、何?」
ノエルが心配そうに呟いた言葉の意味がわからずに、どうするべきか視線を彷徨わせていると。
「白雪が誠也を殴ったの見た、って子がいたらしいぞ」
「は……?」
ノエルの傍にいた三田が、いつもより真面目な声でそう告げた。
「ボク、心配になっちゃって……。木吉くんのそのほっぺ、やっぱり紗人にやられたんだよね……?」
「あ、いや、これは……」
『まさか白雪がノエル姫に嫌がらせしてた犯人だったとはな』
『やっぱさあ、嫉妬したんだろうね』
『焦ってたんじゃない? 木吉くんにノエル姫取られてからさ』
『でもさ、好きな奴相手に嫌がらせとか』
『素知らぬ顔で慰めて好感度上げようって作戦だったんだろ?』
『フツーに怖いよね』
『てか、木吉カワイソー』
『まさか殴るとはね~』
こちらを遠巻きに見つめたクラスメイト達がコソコソと噂する。その様子に僕の胃はずきりと痛む。
どうして……。
「木吉くん。ボクのせいで、ゴメンね……?」
「いや、柊が謝ることじゃないし」
「そうだよ、悪いのはアイツなんだからさ」
「いや。だから、これは」
「誠也に嫉妬した白雪の仕業だろ?」
どうやらノエルは完全に責任を感じてるみたいだし、三田は白雪が悪だと決めつけ、憎んでいるらしかった。でも。違う。白雪は悪くない。少なくとも、この怪我は完全に僕のせいだ。
「そうじゃなくて。さっきのはアレなんだよ。何ていうか、つまり、僕が白雪にキ――」
ドンッ。
音がした方を見ると、白雪がドアを思い切りその拳で叩いていた。
「あ、白雪……」
静まり返った教室で、白雪は僕を真っすぐ睨んだ。
ああ、そうだよな……。キスしたなんて、言っちゃ駄目だよな……。
そのまま静かに去る白雪を見つめながら、己の失態に頭を抱える。
焦り過ぎた。白雪の無実を晴らしたかったのに。逆に印象を悪くしてしまうなんて。
「感じ悪……」
「いや、ほんとに、これは僕が悪かったんだよ……」
「木吉くん、優しすぎ」
三田とノエルの言葉に己の無力さを感じる。駄目だ。今なにを言っても僕は偽善者になってしまう。
そもそも、自分自身どうしてあんなことをしたのかわからないようでは、上手く説明ができない。
ごめん。白雪……。
今更になって心の中で詫びを入れる。
再びざわつき始めた教室は、いつもよりずっと居心地が悪かった。
*
最悪だ。
教室の前で様子見をしていた俺は、木吉の失言に焦った。だから。気付いたら体が動いていた。
ドアを思いきり殴った途端に、クラスメイト全員の視線が俺に突き刺さる。
でも、木吉に俺が泣いていたことをバラされるより、キスが云々という話をされるよりもずっとマシだ。
「あ、白雪……」
俺に睨まれた木吉は、途端に顔を歪めて申し訳なさそうに呟いた。甘っチョロい奴め。
木吉から目を逸らし、踵を返す。本当はもう少し木吉のことを牽制していたかったが、俺はクラスメイト達の視線に耐え切れなかった。ノエルの鋭い視線に耐え切ることなどできなかった。所詮、俺はただの弱虫だった。
「ああ。俺はこれからどうすればいいんだろうか……」
誰もいない図書室の片隅で、宛もなく呟いてみる。
白雪財閥はその実、経営不振を極めていた。だから、順風満帆な大財閥である柊家に媚びを売ろうと考えた。それに利用されたのが俺。孤児の中でも一際顔が整っているからという理由で引き取られた齢十三の俺は、柊 ノエルと仲良くするためだけに生かされた。
政略結婚ごっこ。その役目は女に与えるべきではないかと何度も疑問に思った。が、どうやら俺の前に引き取られた女の子に全く興味を示さなかったらしい。そして、成果を得られなかった女の子は、“謎の事故死”を遂げたらしい。
その話を聞いたとき、俺もいずれそうやって殺されるのだろうと思った。
俺を引き取った白雪社長はどうにも狂っていた。彼は、ノエルがゲイなのだと主張した。だからこそ、俺が選ばれたっていうわけだ。正直、ノエルがそうであるのかどうかはわからない。まあ、確かに女よりも男に懐くことが多いと感じたが。だからと言って、俺がノエルのタイプかといえばそうではない。
でも、俺は足掻いた。自分の存在意義のために。いい線まで行った。それなのに。
全てをかっさらっていった木吉が羨ましかった。
「白雪姫さん。もしかして、また一人で泣いてるのかなァ?」
嫌な声が聞こえた。ドアの方を見ると、三田が楽しそうに笑ってこちらを見ていた。
「やはりお前が仕組んでいたのか」
「え~? どれのことォ? ノエル姫に嫌がらせしたことォ? 皆に噂を流したことォ? 白雪姫に罪を被せてあげたことォ?」
「お前は何を企んでいる?」
「オレはただ、白雪姫が好きなだけ。好きな子ほど虐めたくなっちゃうんだよねェ。それ以外の理由なんていらないだろ?」
「気色の悪い冗談はやめろ」
「な~んだ。本気にしてないんだ。そうか。それならそうだね。本気だってわかってもらおうかなッ!」
「っ」
思い切り突き飛ばされて、本棚にぶつかる。そのまま覆い被さってきた三田を退かそうとするが、思いの外力が強く、上手くいかない。
「そうだ。さっきキスされてたよね。消毒しなきゃ、ね?」
「やめろ!」
三田の舌が頬に触れるより前に、何とかもがいて三田から距離を取る。
「いてて。どうせアンタは今更何もできないんだからさァ。オレのモノになったっていいだろ?」
「俺はお前のことが嫌いだ。ノエルにあんな嫌がらせまでして、許せるはずがない」
「それはさァ、アンタがあまりにもノエル姫のことを構うから嫉妬しちゃってさァ」
「茶番は止めろ。お前の目的はそんな可愛いものじゃあないはずだ」
「はて。何のことやら」
そう言って肩を竦めた三田の目は、当然俺に好意を寄せているようには見えない。
「恍けなくていい。俺は知ってるんだよ。柊家が衰退に追いやった三田家の末路を」
「……なァんだ。アンタにはバレてるんだ? オレのこと。は~。もう少し茶番で誤魔化してやろうと思ったのにさァ」
さっきまで愉快そうに笑っていた三田が、ひと際ドスの利いた声ではっきりとした敵意をこちらに向ける。
三田の行動に疑問を覚えた俺は、彼について徹底的に調べた。結果、三田が柊家に恨みを抱いているであろうことがわかったのだ。
「三田家の人々は貧困に耐え切れず、自ら命を絶った。そう、ただ一人、まだ幼かった息子を残して」
「それがオレだって言いたいのか?」
「年齢、そして名前も一致している。誤魔化しようがないはずだ」
「は。白雪姫は操られるだけのお人形さんだとばかり思っていたんだがなァ。まさかきっちり調べてあるとはねェ」
「特待制度まで使ってお前がこの金持ちだらけの学園に入ったのは、ノエルで柊家に恨みを晴らすためなんだろう?」
「あァそうさ。オレは決めたんだ。オレの家を陥れといて、のうのうと生きている柊家の、大事な大事なノエル姫。それを地獄に引きずり込んでやるってな!」
三田の瞳に灯る怒りは、紛れもなく本物だった。でも、本当の家族がいない俺には、何故彼がそこまでの熱量が保てるのかわからなかった。
「そんな復讐に意味はないはずだ」
「うるさいな。アンタこそ憎むべきじゃないのか? 白雪を、柊を」
「俺は……」
「やっぱり、アンタは甘いなァ。でも、これはオレたちだけの問題じゃあない。柊はさ、滅びるべきなんだよ。分かるだろ?」
三田が差し出した数枚の写真を促されるまま見つめる。
それは、端的に言うとノエルの父の悪事の証拠。黒い事象に裏付けられた繁栄。それを警察に届ければ、あっという間に柊財閥は泡と化すことだろう。
「悪事は止まない。被害者は増える。だからこそオレは復讐を誓った。意味がないように思えるか?」
驚いた。彼は怨恨だけで動いているわけではないらしい。圧に逆らえないまま言いなりになっている俺とは大違いだ。でも。
「それは。だけど。だったら、ノエルに嫌がらせをする必要などないだろう?」
ノエルが傷つく姿を黙って見ているのは違う気がした。友達ごっことはいえ、情が全く湧かなかったわけでもない。
「いいや。あるねぇ。あのお坊ちゃんには人間不信に陥ってもらわないと」
「……だから、まずは手始めにノエルと一番近しく見える俺の信用を失わせたわけだ」
「ご名答。んでもって、次は誠也だ。ベタベタに懐いたところでさァ、ズタズタに引き裂いてやるんだよ。最高だろう?」
「ノエルの精神を病ませて跡を継がせない算段なのか?」
「ま、そうだね。危険な芽は摘み取るに限る。後はまァ、お察しの通り。ただの私情による復讐ってわけだ。だってさ、許せないでしょ。オレは不幸になってんのに、腑抜けた顔して周りに守られてるノエル姫。あァ、吐き気がするね!」
「でも、ノエルに罪はない」
「馬鹿だねェ。あの坊ちゃんはアンタのことなんて当の昔に嫌ってるよ。だからさ、アンタもオレに協力してくれよ。二人で柊を滅ぼそうぜ?」
写真に写るノエルの父と同じぐらい悪い顔をした三田が、俺に向かって微笑む。
「俺は……」
「まァ、アンタが協力しようがしまいが、オレは一人でもやり遂げる。逆に言うと、アンタには何もできない。アンタは生きるのが下手過ぎるわけだ」
「……」
言い返せない自分が情けなかった。俺に何ができるのだろうか。俺はどうすれば正解なのだろうか。わからない。俺は所詮人形だから。行く先に道がないとしても、俺にはもう進む方向が変えられない。
「あの、お父様……」
珍しく自ら扉を叩き、入った書斎は、相変わらず緊張感に包まれていた。
言わなくては。三田がノエルを、柊家を壊そうとしていることを。でも。
言ったとして、信じてもらえるだろうか。
『おい。お前、また柊の奥方から非難されたぞ。お前は何のために柊の子と学ばせてるかわかっているのか? 信頼は築けたのか? 色仕掛けでもなんでもやれと言っているだろうが愚図』
義父の容赦ない声音に息が苦しくなる。最初の頃は、怒鳴られ、殴られるのが当たり前だった。そのせいで、今でもこの男と対面すると、勝手に体が震え出すのだ。
「ですが、奥方様は俺が孤児だったことが気に入らないらしく……」
『この際あの女はいいんだ。あれは近いうち死ぬ。頭がおかしいって専ら噂だ。近々ヒステリーで自殺でもするんじゃないか? お前はただ、ノエル坊に気に入られるだけでいい。そうしてゆくゆく支援してもらえるようになれば、お前を引き取った価値がある。分かるだろう? お前は頭も悪くない。容姿も。跡取りとしてはまあ合格だ。だが、血が繋がっていないのは世間体が悪い。だからこそ後ろ盾を今の内に用意しておかねばならん』
「あの、ですが……」
『黙れ。お前はただ人形であればいいのだと言っただろ。役に立たないのなら、今すぐ捨てる』
取りつく島もなく、男は一方的に俺を脅すと、部屋から俺を追い出した。
この調子では信じてもらえるはずがない。それに、ノエルの信用をすっかり失ってしまったと知れたら、きっと宣言通りに捨てられてしまうのだろう。
俺は一体どうすればいいんだ。
考えたって、わからなかった。
俺は誰からも信用されていない。だから、何を言っても無駄だ。
だけど、このまま何もしなければ、三田の思惑通りに事が進み、柊家は衰退し、それと共に白雪家も衰退の一途をたどるのだろう。そうなれば、俺は結局用無しだ。きっと殺されるか捨てられるかになるのだろう。
だったら。
もういっそのこと。
ふらつく足で、橋の手すりを乗り越える。
熱い。色々なことが頭を駆け巡って、もうとっくに脳が煮えていた。
ああ。冷たいだろうな。気持ちがいいだろうな。
目の前に広がる川の深さに心が惹かれる。
もう何でもいい。俺を助けてくれ。俺を殺してくれ。
神様。
引き寄せられるように、俺は川へと身を投げた。夜の冷たい風が、とても気持ち良かった。
ざぱ……。
「……き」
んん……。
熱い。どうして。水の中なら、きっと冷たくて気持ちがいいはずなのに。
「きろ……」
耳元でうるさく響くその声に眉を顰める。
やめろ。俺はもう目を開けたくない。頼むから、夢であってくれ。
「白雪!」
頼むから、俺を助けないでくれ。
「おい。起きろって、白雪!」
「うる、さい……」
渋々目を開けた俺を抱きかかえ、耳元で叫ぶ木吉から目を逸らす。
「お前、何やってんだよ……! 心配しただろうが!」
「……ど、して、木吉が……」
「夜にここ走るの日課なんだよ。んで、白雪がいたから様子見てたら、いきなり飛び降りるから……。ほんと、焦った」
岸に俺を降ろした木吉は、安堵の息を漏らしながら俺を抱きすくめて、肩に顔を埋めた。
「は。大袈裟……」
「お前さ、死ぬ気だったの?」
木吉の腕から抜け出そうと藻掻いたが、静かな問いに力を失う。
ああ。そうか。俺は死ねなかったんだな。
「……まさか。ちょっと足を滑らせただけだよ。助けてくれてサンキュ」
ありったけの笑顔を浮かべて、もう大丈夫だからと木吉の腕からゆっくりと逃れる。
ああ。失敗したな。そもそも、こんな方法じゃ死ねないか。水死なんて現実的じゃない。
やっぱり簡単で確実なのは首吊りだろうか。
これまで幾度となく死について考えてきた。でも、結局行動に至れなかった。でも。もう俺には後がない。
「白雪さ、なんかあった?」
「いや。何もない。ただ、ぼうっとしていただけだ。悪かった。もう大丈夫だから……」
そう言って立ち上がろうとしたのだが、どうにも足がおぼつかない。
「わ、危ない。てかさ、熱あるでしょ。コレ」
再び膝をつきそうになった俺を軽々と支えた木吉が、俺の首に手を当ててそう言った。
「触るな。君には関係ない」
「あるよ。心配だもん」
「君は他に心配すべきことがあるんじゃないのか?」
「ん? なんのこと?」
コイツならば。信じてくれるのだろうか。
そんなわけない。俺は散々コイツに冷たい態度を取ってきた。
でも。もしかしたら。
救ってくれるかもしれない。生涯でたった一人の親友を。
「……木吉、柊家が、危ないんだ……」
「は?」
閊える喉を自らの手で押さえつけながら、何とか声を絞り出す。
「三田が、柊家を恨んでて、当主の罪を世間に公表するって……。ノエルを人間不信に陥れるつもりだって……。でも、ノエルに罪はない……。だから……」
「待ってくれよ。三田が? 柊を?」
「……嘘じゃない、信じてくれ……、俺じゃ、もう、どうしようもないんだ、お前だけが頼りなんだ、どうか、ノエルを救ってやってくれ……。だから……」
「信じるよ」
「え?」
顔を上げると、歪みのない綺麗な瞳がこちらを見ていた。
今、信じるって、言ったのか……?
「三田がそんなこと考えてたなんて知らなかった。けど、お前が言うんだからそうなんだろ」
「……ほんとに信じてる?」
「僕、白雪の中でそんなに信用ない?」
「俺の信用がないんだろ?」
「白雪は正直だから。あのゴタゴタもお前がやったんじゃないんだろ? あ、じゃあそれの犯人も三田だったのか」
「な、なんで……」
「違った?」
「違って、ないけど……。普通は三田の方を信じる。お前らは、友達だし……」
「確かに友達だけど。でも、白雪を酷い目に遭わせたんならもう友達じゃないかな」
「え?」
「僕はやっぱり思いの外、白雪のことが好きみたいだ」
「はは……。どこまでが嘘だ?」
「もしかして信じてない?」
「お前が俺を信じるメリットがない」
「じゃ、これで信じてくれるかな」
「……な」
躊躇いもなく落とされた口づけ。それは、どうにもふざけているようには見えない。
「僕は許さないよ。君が死ぬなんて。考えただけで、気が狂いそうになった。だから、僕は君が好きだ。ねえ、行くとこないならウチにおいでよ。紗人」
「っ……」
甘く囁かれた救済と己の名前に、体がぐらりと熱くなる。
名字で呼ばれるのが嫌いだった。俺は人形なのだと嫌でも思い知らされるから。だから、唯一名前で呼んでくれたノエルが唯一の居場所な気がしていた。でも。
ノエルに呼ばれるのと、明らかに違う。こんなに、気恥ずかしいものだっただろうか。
「ね、紗人。一緒に行こう。僕が君を守ってあげる」
差し出された手をじっと見つめる。ああ。この手を取れば、俺は救われるのだろうか。死ななくても、いいのだろうか。でも。
「いや、俺なら大丈夫だ。それよりも、お前はノエルの心配をしろ」
俺は彼に何も与えられない。俺に価値などない。彼が俺を背負うのは間違っている。彼の隣に立つのはノエルであるべきだ。俺が掴んでいい手ではない。
「ねえ。紗人は自由になっていいんだよ?」
「え?」
ふいに伸びてきた手が、頬を優しく撫でる。ああ、罪だ。こんなのは罪だ。
「君はもっと自分を大切にするべきだ。誰かのために生きるなんて、もうやめた方がいい」
「っわ!」
突然の浮遊感に声を上げると、木吉は気障ったらしく笑った。足をかけられ、バランスを崩したところをひょいと抱えられたのだ。
「な、なんのマネだ!」
「力づくでも僕は君を攫う」
「やめろ! 俺はお前に助けて貰わなくたって平気だ!」
「あのさ。君は今、自ら死を選んでしまうほど辛いんだろ? そんなの、僕だって辛くなる」
「……っ。同情か?」
「そんなんじゃないよ」
「チッ。お前は、その甘さが命取りなんだよッ!」
体を捻って木吉の腕から逃れる。そして拳を木吉に向かって思い切り叩き込む。が。
「ぐあ……」
木吉の頰に手が届くより前に、木吉の拳が俺の腹にめり込んでいた。
「ごめんね。でも、逃げるのはよくないよ」
薄れゆく意識の中で、俺は後悔した。俺はつくづく役に立たない人形だ。
俺は一体なんのために生きていたのだろうか。
『孤児の分際で』『役立たずの人形め』『ボクはもう紗人を信じられないよ』『白雪くんってやっぱり怖いよね』
夢の中でぐるぐると回る声は、どれもが俺を責め立てるものだった。
『復讐をしろ』
悪魔が囁く言葉に、少しだけ心が揺れ動く。だけど。
ああ。俺はそれなら、死んでしまいたい。
どうせ幸せなんて掴めない。所詮は人形。人間として生きるだけでも俺には難しい。
このまま目覚めなければどんなにいいだろう。それなのに。
『紗人。一緒に行こう。僕が君を守ってあげる』
ああ。どうしてそんなことを言うんだ。どうして俺なんかにそんな言葉をかけるんだ。やめてくれ。ただでさえ、愛されたことがないのだから。そういうのにはめっぽう弱いんだ。ああ。取り消してくれ。俺は、そうでなくちゃ、もう一人では死ねない。
「俺は――」
「あ、起きた?」
「は?」
目を覚ますと、木吉がすぐ隣に横たわっていた。
ここ、どこだ……?
やけにふかふかな広いベッドに手をついて起き上がる。見渡してみても、随分と広い部屋であることがわかる。
「ここは僕の寝室。まだ熱下がってないから、ちゃんと寝なきゃね?」
木吉の、寝室……?
混乱する俺の頬に、木吉の手が触れる。
「あ……れ。俺……」
触れられて初めて自分が泣いていたことに気づき、赤面する。
「あ、それに、服……。俺、びしょ濡れになったはず……」
「大丈夫。僕一人でやったから。安心して?」
「一人でって……?」
「僕が紗人を風呂に入れて着替えさせたって意味。流石に疲れた。けど、可愛かった」
「な……」
いつの間にそんなことまで……。
「というか、ここ、本当に木吉の家なのか……?」
「なんで?」
「いや、だって。部屋、広すぎるし……。物が全部、高そうだし……。俺は勿論のこと、ノエルの部屋より、なんか……」
「うん。だって僕の家、柊家よりも資産あるもん」
「は?」
何でもないような顔でケロリと告げた木吉の顔をまじまじと見つめる。
「はは。知らなくて当然。だって隠してるもん。木吉って名字も実は偽物。本当は――」
「嘘だ……」
柊が日本一の資産家なのだとしたら、彼が告げた名は世界一を誇る資産家だ。
「驚いた? 本当は誰にも打ち明ける気なかったんだけど。紗人は特別」
「えと……。ほんとに、木吉は……」
「この際なんだから、名前で呼んでよ。お互いに嘘の名字なんていらないでしょ?」
悪戯に笑った彼は、やはり俺の知るお人好しだった。
「誠也ってのは本当の名前なわけ?」
「うん。だから遠慮なく呼んで?」
「……誠也」
「なあに? 紗人」
「ノエルの件はどうなった?」
「は~。全く色気がないね。うん。お父様に言っといたよ。じきに柊家は潰れる」
「え……? それじゃ、意味ないだろ?! ノエルは、どうなるんだよ!」
「罪はいずれ裁かれる。柊家の衰退は仕方のないことだ。でもね、僕だってノエルは助けようと思ったんだよ? 僕の家で面倒を看ても良かったんだ。それなのに。彼は言ったんだよ。自分も責任を負うって。三田に踊らされていたことが悔しかったんだろうね。君にもいずれ謝りに行くって言ってたよ。三田は目的が達成されて、今頃虚無になってるんじゃないかな」
「それじゃあ、白雪家は……」
「潰れるね。紗人を権力の為だけに振り回したんだ。報いが足りないぐらいだよ」
「そうか。じゃあ、俺はもうお役御免ってわけか……」
「ねえ、紗人はこれからどうしたいの?」
「俺は……。どうにか就職でもして生きていくか……」
死ぬかのどちらかだな、と心の中で呟いてから、虚しくなる。これから俺は、何を目標に生きて行けばいいのだろうか。
「紗人。もしよかったら、僕のために生きてくれないかな」
「どういう意味だ?」
「無粋だなぁ」
「は?」
俺の手を取った誠也が不敵に微笑む。俺は、その強い意志を秘めた瞳から目が離せなかった。
「君が欲しい。紗人」
どうしてその抱擁から逃れることができるだろうか。ああ、狡い男だ。こんなに甘い誘いを断れるわけがない。
「俺でいいなら、好きにしろ」
目の前できらきらと輝くその瞳に笑みが零れる。灰色だった俺の世界は、いつの間にか彼によって彩られていたらしい。
横入りイケメン×幼馴染営業不憫。政略結婚擬きを強いられる不憫な受けが好きです。
木吉 誠也(きよし せいや):みんなに好かれるイケメン。ノエルに恋をした。
白雪 紗人(しらゆき すずと):ノエルの幼馴染。家のためにノエルと仲良くしなければいけない。
柊 ノエル(ひいらぎ のえる):みんなが見惚れる可愛い系男子。誠也の好意はまんざらでもない。
三田 黒須(みた くろす):誠也の親友。ノエルをいじめた犯人捜しに貢献するが……。
名前の由来はクリスマス。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
僕は恋をした。
彼が通った後はまるで、洋梨のように瑞々しい風が吹く。彼が喋る声はまるで、カナリヤのように美しい。彼が微笑む顔はまるで、天使のように可愛らしい。
彼に出会った瞬間、僕の人生は意味を成した。
世界が輝いて見えた。
でも。
世界が色づいてゆく中で一人だけ。灰色のまま、僕を嘲笑った。
*
「誠也さぁ、お前最近マジで顔がだらしないぞ?」
「ん~?」
前の席に座る三田が、呆れた顔をして僕を見つめる。
「イケメンが台無し」
「どうも」
「褒めてねぇよ。で、ノエル姫とはどうなの?」
「どうって?」
「だから、どこまで行ったんだって」
「どこまでも何も。僕は彼と友達でもないよ」
「はぁ? こんだけ周りに認められてて、まだそんなこと言ってんのかよ」
「認められてる、かなぁ?」
にへらと表情筋を緩めた僕を見て、三田が明らかに嫌そうな顔をする。
僕こと木吉 誠也は、ごく普通の男子高校生だ。まあ、クラスの中でイケメンとして女子からちやほやされる位置にはいるのだが、僕にとっては意味のないことだ。何故なら、僕が好きなのは男だから。
「まあホントすげーよお前。フツー、同性愛なんて毛嫌いされて当然なのにさ。あんまりにもノエル姫と木吉王子がお似合いなもんで、クラスのみんながお前の恋を応援し出すとか。マジであり得ない」
「はは。ほんと有り難いよ」
目の前の席に座るこの少年は三田 黒須。彼はクラスの中でもお調子者で、小柄でチャラい割に何かと女子にモテる男だ。その人懐っこい性格から、あっという間に僕と親友になったのだ。
「でも、気を付けた方がいいぞ」
「えっ? って、うわ!」
どっ。背中にいきなり衝撃が走り、前のめる。
「邪魔なんだけど」
「あ、ごめん白雪……」
何事かと思えば、どうやら白雪の肘が僕の背中に当たったらしい。
「邪魔って、こっちは座ってるだけだし。明らかに狙ってぶつけてんだろ」
「チッ」
三田の非難に舌打ちをした白雪は、明らかに嫌悪の表情を浮かべる。が。
「あっ。紗人、おっはよ~!」
「ああ。おはよう、ノエル」
教室に彼が入った瞬間、辺りの空気がざわりと揺れる。洋梨でカナリヤで天使な彼、柊 ノエルは一瞬にしてクラス中の視線をかっさらう。朝一の単語テスト未勉強組も、部活の朝練で既に体力を削ぎ落されてしまった者も、非難に対して舌打ちをした白雪でさえも、焦りやら疲れやら嫌悪やらをコロリと放ってにこやかな笑顔を作る。
僕の想い人であるノエルは、クラス中から愛されていた。当たり前だ。こんなに可愛い天使が愛されない訳がない。ただ、白雪に関してはそれが行き過ぎているように思えた。
白雪 紗人は、ノエルのことが好きらしい。幼馴染らしく、ノエルの最初の挨拶はいつも彼に向けられていた。彼もそれを誇りに思っているらしい。でも。
「叶うわけないのにね。だってノエル姫はさ、誠也のことが好きなんだもんね」
「や、それはまだわかんないっていうか……」
三田の嫌味に慌てて取り繕うような返答をしたが、やはり白雪からギロリと睨まれた。
彼らの絆は確かに割って入れないほど、確固たるものだった。
初めのうちは、クラス中が彼らの噂でも持ち切りだった。あの二人は付き合っているのではないかという噂さえ流れた。でも。
そこにするりと入ってしまったのが僕だった。
事の発端は何てことない。木に登ったままに降りれなくなったノエルを僕が助けた。それだけだ。どうやらノエルが猫を助けようと木に登ったが、猫は勝手に下りて、ノエルだけが残ってしまったらしい。僕としては、ノエルを助けるのも猫を助けるような善意でやっただけなのだが。
白雪としては僕が下心ありきでやったと思っているらしい。
でも、ノエルにとって僕は正義のヒーローに見えたらしく……。
そこからノエルは僕に懐き、よく話をするようになっていった。
そして、僕もいつしかノエルの可愛さにすっかり絆されてしまい……。
気づいたら、ノエルに惚れこんでいた。
それはまるで、童話の一編みたいに綺麗で道徳的な、運命的な恋だなぁと思った。
そうしてノエルと仲良くするうちに、周りも僕らを認めるようになっていった。みんなから見ても、僕たちは王子様とお姫様に相応しいらしい。みんなの応援が素直に嬉しかった。
だけど。もちろん例外はいる。
「いわば魔女だよな」
「え?」
悪い顔をした三田が声を潜めて僕に告げた。
「叶わないってわかってんのに邪魔するなんてさ、まるでおとぎ話の魔女みたいじゃね?」
そう。勿論白雪が僕らを認めるわけがなかった。彼は、ことあるごとに僕に嫌がらせをしてきた。気のせいだと思いたかったのだが、三田曰く、悪意の塊だと。
「あの、木吉くん……、お、おはよっ!」
「あ、うん。おはよう、柊……!」
一生懸命大きな声を出して挨拶をするノエルにきゅんとしていると、案の定白雪の鋭い視線が突き刺さる。
ああ、僕は彼に許される日が来るのだろうか……。
いつからだろうか、ノエルの身辺に異変が起こったのは。
最初は気がつかなかった。でも、怯えるノエルを白雪が甲斐甲斐しく宥める様子を何度か見て、事態を把握した。
どうやら、ノエルは虐めにあっているらしい。物を盗られたり、机や靴箱にゴミを入れられたり、ノートに暴言を書かれたり。誰がやっているのかはわからないらしいが、それは明らかに一昔前の陰湿な虐めだった。
「なあ。あれ、止めなくていいのか?」
「え?」
胸を痛めていると、三田はノエルの背中を擦る白雪を指さし、顔をしかめて呟いた。
「絶対アイツがやってるぞ」
「まさか」
咄嗟に否定をしてみたが、絶対にないとは言い切れなかった。
「だってさ。こんなことして得してんのって、アイツしかいないだろ?」
「それは……。でも、だからって決めつけるわけには」
「じゃあさ、オレたちで確かめてやろうぜ?」
三田の提案に、僕は首を振ることができなかった。クラスメイトを疑うのは気が引けたが、白雪は確かに怪しすぎるのだ。
放課後。辺りがすっかり暗くなった時刻。三田に促されるままに、僕は誰もいない靴箱に身を潜めていた。
「本当に来るのかよ……」
「しっ。ほら、誰か来たぞ!」
三田の言葉に口を噤む。指し示された方向には確かに人影があった。
でも。まさか。そんなことをする生徒がこの学校にいる訳……。
「今、柊の靴箱に何か入れたぞ……!」
三田の小声に、目を凝らす。彼が言った通り、その人影は確かにノエルの靴箱に手を伸ばしていた。
「おい、観念しろ!」
「っ……!」
現行犯逮捕よろしく、三田が高らかに犯人に向かって叫び、懐中電灯の光を当てる。
「白雪……、お前……」
暗闇の中、照らし出されたその人物は三田の憶測通り、ノエルを愛しているはずの白雪だった。
「お前がやったんだな?」
「は? そんなわけ……」
「じゃあ、お前の手に持ってるモンは何なんだよ?」
「これは……、っ!」
三田が捻り上げた白雪の手から画鋲が落ちる。
「それ……」
「いや、違う。これは俺じゃなくて……!」
「言い訳は男らしくないぜ?」
「ぐ……」
三田に睨まれた白雪の顔が苦痛に歪む。三田は確かに小柄だが、力は決して弱くはない。握力測定では、僕より上だったはず。
てか、白雪の腕、折れそうじゃね……?
細白いその腕を見ている内に、不安がせり上がる。
「おい三田。あんまり暴力的なのは……!」
「っ……」
「あ、おい! 待て!」
見かねた僕が三田の腕を掴んだ瞬間、白雪が全力で抵抗して三田の腕を振り払い、逃げ出す。
「チッ、逃げられたか。ったく、誠也は甘すぎるぞ?」
「でも……」
「いいか? アイツを放っておけば、どうせまた柊は嫌な思いをするんだぞ?」
「でもさ。これで懲りて、白雪も流石にやめてくれるかもしれないし……」
「お前は白雪の恐ろしさがわかってない。アイツはそんな甘いもんじゃないぞ?」
妙に深長な顔でそう告げる三田を見て、その時の僕は大袈裟だと思った。でも、僕はすぐに己の甘さを自覚した。
悪い魔女が簡単に改心するはずがなかったのだ。
『教室、すぐ来い。白雪がやってる!』
翌日。三田からメッセージが届き、帰宅途中だった僕は急いで教室に戻った。
「白雪、どうしてお前はこんなことをするんだ?!」
「っ!」
三田の怒鳴る声に慌てて教室に入ると、ハサミとズタズタになったノエルのジャージを手に持った白雪が青い顔をして立っていた。
「お前、マジでこんなことやってんの……?」
「これは……」
「言い訳はできねえぞ? ばっちり現行犯なんだからな」
どうやらマジらしい。裁縫用の一回り大きいハサミが、ごとりと音を立てて床に落ちる。
「紗人……?」
「ノエル……? どうして、ここに……?」
目を丸くした白雪の見つめる先、僕のすぐ後ろには、いつの間にかノエルが立ち尽くしていた。
「オレが呼んだんだよ。柊にも知ってもらわないとだろ? コイツの本性をさ」
「まさか……。ねえ、嘘でしょ? 紗人がやってたっていうの……? そんなまさかだよね……?」
「ノエル、これは、違くて……」
「オレはばっちり見てた。コイツが柊のジャージを引き裂くとこ。誠也もわかったろ。こいつがどんだけ嫌な奴か」
白雪の手は、よく見ると震えていた。どうして彼がこんなことをするのか、僕には全くわからなかった。
「何でなんだよ、白雪……。お前は柊のこと、大事にしてたんじゃないのかよ……」
「俺は……ッ!」
三人に見つめられた白雪は、悲痛な声を上げて、押し黙った。その瞳は、真っすぐノエルを見て、何かを訴えている様子だったが、当のノエルはすぐに白雪から目を逸らし、怒りを表した。
信じて欲しかったんだろうな……。
自分で罪を犯しておいて、信じるも何もないのだが。どうしてだか、僕には彼が悪い魔女には見えなかった。
「大切に決まってる……。でも、ノエルが最近、そいつとばっか居るから……」
「だから柊の気を引くために、嫌がらせをしてみせたと?」
「違う、俺は、せめてノエルが虐められてるのを慰めるぐらいはって……。犯人を捕まえるぐらいはって……。だから、俺は、本当にやってな――」
「そんな嘘が通じるとでも? お前さ、自分が慰める役につきたかっただけじゃん? そのために柊に嫌がらせするとか、歪んでんじゃねーの?」
「ノエル、お前は信じてくれるよな? そうだ、木吉くん、君なら……」
「……」
「僕は……」
「やめろ。見苦しいぞ白雪。オレが見たって言ってんだよ。その事実は覆せない」
「っ……」
三田の指摘、ノエルの無視、そして僕の憐れむ視線を受けた白雪は、唇を噛みしめて、僕らの目の前から消えた。
「これで安心したら駄目だ。きっとアイツは執拗に柊を狙ってくるぞ」
「そんなまさか……」
三田の真剣な声音に、ノエルの声が震える。
そんなまさか。僕も心の中でノエルと同じ言葉を呟いたが、流石に白雪を信じる気にはなれなかった。そして。
やはり三田の予想通り、悪い魔女は暴れることをやめなかった。
「あ、あああああああ!」
「柊!」
地面に蹲るノエルを抱き起す。その顔は、爛れて炎症を起こしていた。
「おい、誠也! 上だ!」
隣で叫ぶ三田が指さした方向を見る。
そこには、白雪がいた。二階の窓からこちらを覗き込んだ彼と、目が合った途端、怒りが込み上げて。
「お前がやったのか、白雪!」
僕の言葉に、一瞬顔をくしゃくしゃにして、白雪はその場から姿を消した。
「アイツ、柊に薬品をぶっかけやがった! とにかくオレは人を呼んで来る! お前は柊を見ててやれ!」
「痛い、痛いよ、あああ……」
許せなかった。こんなにか弱い天使を、平気で傷つけてしまう白雪が。
「大丈夫だからな。すぐに先生が来てくれるからな」
無力な自分に歯噛みする。どうしてもっと早くアイツにキツく言えなかったのだろう。どうして……。
「僕は、アイツのこと、嫌いじゃなかったのにな……」
口の中で呟いてから己の不謹慎さに幻滅する。どんなに憎まれていようが、僕はアイツが眩しかった。ただ一途で清いほどのその想いを羨ましくも思っていた。
それだから、僕にはどうして彼がこんなことをしたのか、本当にわからなかった。
*
「柊、ごめん。僕がもっと注意してればよかったんだけど……」
「大丈夫だよ、木吉くん。キミのせいじゃないんだから」
「でも、僕はまたお前を守れなかった……」
「そんなことない。ボクは木吉くんが側に居てくれたから、怖くなかったんだよ?」
……良い雰囲気だな。
病室の前で二人の会話を盗み聞きしながら、ぼんやりと佇む。
少し前までは当たり前のようにノエルの隣は俺の居場所だった。だけど、高校になって、それは当たり前じゃなくなった。
木吉 誠也。彼は、俺が長年を費やして築き上げてきたノエルの信頼を、たった数日で手にした。
ノエルは元から、木吉のようなタイプが好きだった。明るくて、他人を思いやれる、常に人の中心にいるような出来た人間。まさに俺とは正反対。それが憧れか恋愛感情かは俺にはわからないけれど、とにかくノエルは木吉に懐いた。冗談じゃない。
俺はノエルにとっての一番でなくてはいけない。そうじゃなければ、俺の生きている意味などないのだから。
それなのに。
これはどういうことだ? 何故、俺が犯人扱いされなければいけない?
ノエルの痛みに苦しむ声が頭から離れない。
あの時、俺は確かに理科室にいた。でも、俺はノエルを傷つけるような真似はしていない。
「くそ……」
ただでさえ木吉の出現に頭を抱えていたというのに……。
「いや。悔やんでいる暇はない」
今こそしっかりと己の無実を訴えるべきだ。幸い、邪魔者はまだいない。大丈夫。きっとノエルは信じてくれる。だから――。
「ノエル。話があるんだ……」
「あ、紗人……」
病室に踏み込んだ途端、ノエルが怯えた顔をこちらに向ける。
「白雪……。お前、よくもここに来れたもんだな!」
正義に燃えた木吉が、俺をノエルに近づけまいと掴みかかってくる。
「違うんだ、聞いてくれ……。俺はやってない! 手紙が机に置いてあって、理科室で待ってろって、書いてあったから……! 行かないとノエルにもっと酷いことをするって書いてあったから……!」
「嘘ならもっとマシなモンにしろよ」
「!」
音もなく後ろに立った三田が、俺に向かって冷ややかに笑った。その自信たっぷりな笑みに、嫌な予感が過る。
「そんな手紙、どこにあるんだよ」
「え……?」
まさか。
鞄の中を漁る。が、ない。証拠に、と確かに持ってきたはずなのに。その紙切れは鞄をひっくり返してみてもどこにも見当たらなかった。
「そんな証拠、最初っから無いんだろ?」
やられた。
三田の笑顔に確信する。コイツはこれを見越して、俺の気づかない内に紙切れを盗んだのだろう。確かに、早退の申し出と病院の場所を聞き出すために、いったん教室に鞄を置いたまま動いてしまった。恐らくあの時……。
「白雪、これ以上嘘を重ねても無駄だ。もういい加減諦めた方がいい」
「俺は……」
木吉の憐れみを含んだ台詞に、ノエルの方を見る。
「紗人。今はキミと話したくないよ……」
「っ……」
誰が本当の悪なのかは明白だった。でも、木吉は勿論のこと、ノエルさえもがそれに気づいてくれなかった。
どうして……。俺は、こんなにも人生をノエルに捧げてきたというのに。
耐え切れなくなって踵を返す。すれ違いざま、勝ち誇ったような顔をした三田に嫌気が差す。どうして。コイツは一体何が目的だ。
『きゃっ』
「あ、すみません……!」
病室を出た途端、女性と衝突した。その顔を見たとき、俺は青くなった顔を更に青くした。
『貴方もしかして何時ぞやの……。ああ! やっぱりそうだわ! あの薄汚い白雪財閥の養子じゃない! まだウチの子に取り憑いているなんて。なんてはしたないドブネズミなのかしら!』
「……」
ヒステリックに叫んだその人は、柊財閥社長夫人。つまりはノエルの母親だった。
『奥様、病院ですので……』
『うるさい! こいつはね、孤児の分際でウチの子に悪影響を与えてっ、害虫なのよ、ドブネズミなのよ!』
付き人の制止を振り払い、社長夫人は俺に向かって叫び散らす。ああ、やっぱり駄目じゃないか。俺には最初っから無理だってわかってたのに。
『今回のことも貴方がやったのね?! もうやめて頂戴! もう沢山だわ! もうこれ以上ウチの子に関わらないで頂戴!』
ばち。
容赦のない張り手が俺の頬を襲った。悔しいが、当然の報いなのだろう。
ああ。俺は本当に役立たずだ。
*
『今回のことも貴方がやったのね?! もうやめて頂戴! もう沢山だわ! もうこれ以上ウチの子に関わらないで頂戴!』
ばち。
病室前の剣幕を聞き、何事かと覗いた瞬間、おばさんの張り手が白雪を襲った。
本気で振り抜かれたそれは、白雪の頬をすぐに赤く染め上げた。
「な……」
止めなくては。そう思った瞬間、白雪が何事もなかったかのように、おばさんにぺこりとお辞儀してその場を去った。
何だったんだ……?
『あら。恥ずかしい所を見られちゃったわね。貴方はノエルのお友達? ふふ、ノエルが好きそうなタイプだわ』
「えっと……」
『ああ、ワタシはノエルの母親よ。そう怯えないで? あのドブネズミは特別なの。特別ワタシたちに危害を加えるんだもの。貴方にもわかるでしょう? あれがあの卑しい生まれのネズミだって』
「ええ。わかりますよ。ノエルくんはアイツにたくさん酷いことをされたんです」
『ああ! やっぱり! 可哀想なノエル!』
三田の言葉に、ノエルの母親がよろめいて、ノエルの元へと駆け寄る。
「お母様。もう大丈夫ですから。ボクはもう紗人のことを信じない。お母様の言っていたことは正しかったんだ……」
『ああ! やっとわかってくれたのねノエル!』
抱き合う親子から目を逸らし、窓の外を見る。
いつの間にか降り出した雨に目を凝らしていると、傘も差さずにとぼとぼと歩く人影を見つける。
あ。あれ、白雪だ……。
ずぶ濡れになっているのに、彼は歩みを止め、こちらを仰いだ。
一瞬どきりとした。
遠く離れていて見えないはずなのに、その吸い込まれそうな黒い瞳と目が合ったような気がして。
いや、流石に気のせいだ。
再び地面に視線を落とし、去ってゆく白雪に安堵する。
白雪に情を掛ける必要はないのだ。
痛々しくに咲いた瞳を思い出し、首を振る。
ああ。ノエルが太陽ならば、彼は月だろうな。なんて。
『白雪くんが?』
『え、それってやばくない?』
『ね、怖いよね』
教室の至る所で噂された彼は、ただじっと座っていた。ただ無表情に。時を過ごすのを止めてしまったかのように。微動だにせず息を潜めていた。
『そうじゃないかと思ってたわ』
『なんか最初から怖かったし』
『普通じゃないよね』
聞こえてるだろうに、やはり白雪は全く反応しない。
堪り兼ねた僕は、話をしているグループに声を掛けようとした。が。それを察してか、彼は教室から姿を消した。
白雪は今、心の奥で笑っているのだろうか。それとも悲しんでいるのだろうか。それとも怒っているのだろうか。
予測のできないそれに、居てもたってもいられなくなり、気づいたら僕は、憎むべき白雪に興味を持ち、追いかけていた。
自分でも彼に深入りするべきではないとは思うのだが、どうしても知りたくなった。彼の、白雪の本当の気持ちが。あの痛々しい瞳の訳を。
廃校舎の銅像の影。そこを覗き込むと、白雪はいた。
「白雪?」
「っひ!」
コンクリートに腰かけた白雪に声を掛けた瞬間。白雪は裏返った声を出し、肩を震わせた。
「こんなとこで何してんだよ」
「っ。来るな……」
膝に顔を埋めて丸まった白雪の声は普段より低く、威嚇されているのがわかった。
「ごめん。驚かせるつもりはなかったんだけどさ。その、白雪の話も聞いてみないといけないよなって思ってさ……」
「別に、お前に話すことなんて、ない」
「まあまあ、そう言わずに……え?」
ぱたり。
白雪の足元に落ちた水滴が地面に染み込む。
「白雪……?」
「な、なんでもな……」
早まる鼓動を抑えつつ、白雪の腕を掴みあげ、無理やり顔を覗き込む。
ぼろ。
白雪の真っ黒い瞳に溜まっていた水が、大粒の涙となって地面に落ちた。
「っ……」
「お前、泣いてたのか……?」
そう問いかけた途端、白雪の顔は赤く染まり、目線はぐるぐると宙を彷徨った。
後悔、屈辱、怒り、悲しみ、不安。色んな感情がくるくるとその瞳に映り、いつもの無愛想とかけ離れた色味を見せる。
「見るなっ、放せっ!」
ぐいと腕を思いっきり振られるが、白雪を掴む腕は離さない。離すもんか。だって。これ、すごく綺麗で。ずっと見ていたくなる……。
「くそ!」
じたばたと暴れる白雪を力でねじ伏せ、顔を近づける。
「何だよ、そんなに俺のこと追い込みたいのかよ! そうだよ、どうせ女々しく泣いてるよ! くそ、ほんと、馬鹿みた……」
ちゅ。
「は?」
「え?」
唇に当たる感触と、大きく見開かれた黒い瞳に気づき、我に返る。
吸い込まれるように白雪の瞼に口づけを落としていた。
「えっと、ごめん……」
謝ってはみたものの、白雪の瞳から目が離せない。
「ちょ、意味がわかんな……、っ!」
「ごめん」
気づいたら、今度は涙に濡れた白雪の頬に自分の唇を押しつけていた。
「は、マジで、何して……」
「ご、ごめんっ。でも、何か、おいしそうで……」
しどろもどろに説明してはみたが、自分でも何故そうしたのかわからない以上、変な答えしか出てこない。
「何なんだよ! お前までそうやって、俺のこと揶揄うのか?! クソったれ!」
「ま、待って、そ、そういうわけじゃ――」
「触るな!」
ばきっ。
がむしゃらに振るわれた白雪の拳が、見事に僕の頬に当たった。
「あ……」
「いてて……」
尻餅をつき、頬を押さえたまま白雪を見つめる。白雪は、可哀想なほどに青い顔をしていた。僕なんかよりも、白雪の方がよっぽど痛みを堪えているような顔をしていた。だから。
「白雪……」
手を伸ばした。その青ざめた頬を優しく撫でてやりたかった。だけど。
「っ……」
白雪は逃げた。僕の目の前からあっという間に姿を消した。
僕は確信した。彼は悪い人間じゃないと。だって、悪い人間があんなに美しい訳がない。
「木吉くんっ……!」
「わ。柊?」
教室に入るなりノエルに抱きつかれた僕は、困惑しながら辺りを見回す。
「やっぱり本当だったんだね……?」
「え、何?」
ノエルが心配そうに呟いた言葉の意味がわからずに、どうするべきか視線を彷徨わせていると。
「白雪が誠也を殴ったの見た、って子がいたらしいぞ」
「は……?」
ノエルの傍にいた三田が、いつもより真面目な声でそう告げた。
「ボク、心配になっちゃって……。木吉くんのそのほっぺ、やっぱり紗人にやられたんだよね……?」
「あ、いや、これは……」
『まさか白雪がノエル姫に嫌がらせしてた犯人だったとはな』
『やっぱさあ、嫉妬したんだろうね』
『焦ってたんじゃない? 木吉くんにノエル姫取られてからさ』
『でもさ、好きな奴相手に嫌がらせとか』
『素知らぬ顔で慰めて好感度上げようって作戦だったんだろ?』
『フツーに怖いよね』
『てか、木吉カワイソー』
『まさか殴るとはね~』
こちらを遠巻きに見つめたクラスメイト達がコソコソと噂する。その様子に僕の胃はずきりと痛む。
どうして……。
「木吉くん。ボクのせいで、ゴメンね……?」
「いや、柊が謝ることじゃないし」
「そうだよ、悪いのはアイツなんだからさ」
「いや。だから、これは」
「誠也に嫉妬した白雪の仕業だろ?」
どうやらノエルは完全に責任を感じてるみたいだし、三田は白雪が悪だと決めつけ、憎んでいるらしかった。でも。違う。白雪は悪くない。少なくとも、この怪我は完全に僕のせいだ。
「そうじゃなくて。さっきのはアレなんだよ。何ていうか、つまり、僕が白雪にキ――」
ドンッ。
音がした方を見ると、白雪がドアを思い切りその拳で叩いていた。
「あ、白雪……」
静まり返った教室で、白雪は僕を真っすぐ睨んだ。
ああ、そうだよな……。キスしたなんて、言っちゃ駄目だよな……。
そのまま静かに去る白雪を見つめながら、己の失態に頭を抱える。
焦り過ぎた。白雪の無実を晴らしたかったのに。逆に印象を悪くしてしまうなんて。
「感じ悪……」
「いや、ほんとに、これは僕が悪かったんだよ……」
「木吉くん、優しすぎ」
三田とノエルの言葉に己の無力さを感じる。駄目だ。今なにを言っても僕は偽善者になってしまう。
そもそも、自分自身どうしてあんなことをしたのかわからないようでは、上手く説明ができない。
ごめん。白雪……。
今更になって心の中で詫びを入れる。
再びざわつき始めた教室は、いつもよりずっと居心地が悪かった。
*
最悪だ。
教室の前で様子見をしていた俺は、木吉の失言に焦った。だから。気付いたら体が動いていた。
ドアを思いきり殴った途端に、クラスメイト全員の視線が俺に突き刺さる。
でも、木吉に俺が泣いていたことをバラされるより、キスが云々という話をされるよりもずっとマシだ。
「あ、白雪……」
俺に睨まれた木吉は、途端に顔を歪めて申し訳なさそうに呟いた。甘っチョロい奴め。
木吉から目を逸らし、踵を返す。本当はもう少し木吉のことを牽制していたかったが、俺はクラスメイト達の視線に耐え切れなかった。ノエルの鋭い視線に耐え切ることなどできなかった。所詮、俺はただの弱虫だった。
「ああ。俺はこれからどうすればいいんだろうか……」
誰もいない図書室の片隅で、宛もなく呟いてみる。
白雪財閥はその実、経営不振を極めていた。だから、順風満帆な大財閥である柊家に媚びを売ろうと考えた。それに利用されたのが俺。孤児の中でも一際顔が整っているからという理由で引き取られた齢十三の俺は、柊 ノエルと仲良くするためだけに生かされた。
政略結婚ごっこ。その役目は女に与えるべきではないかと何度も疑問に思った。が、どうやら俺の前に引き取られた女の子に全く興味を示さなかったらしい。そして、成果を得られなかった女の子は、“謎の事故死”を遂げたらしい。
その話を聞いたとき、俺もいずれそうやって殺されるのだろうと思った。
俺を引き取った白雪社長はどうにも狂っていた。彼は、ノエルがゲイなのだと主張した。だからこそ、俺が選ばれたっていうわけだ。正直、ノエルがそうであるのかどうかはわからない。まあ、確かに女よりも男に懐くことが多いと感じたが。だからと言って、俺がノエルのタイプかといえばそうではない。
でも、俺は足掻いた。自分の存在意義のために。いい線まで行った。それなのに。
全てをかっさらっていった木吉が羨ましかった。
「白雪姫さん。もしかして、また一人で泣いてるのかなァ?」
嫌な声が聞こえた。ドアの方を見ると、三田が楽しそうに笑ってこちらを見ていた。
「やはりお前が仕組んでいたのか」
「え~? どれのことォ? ノエル姫に嫌がらせしたことォ? 皆に噂を流したことォ? 白雪姫に罪を被せてあげたことォ?」
「お前は何を企んでいる?」
「オレはただ、白雪姫が好きなだけ。好きな子ほど虐めたくなっちゃうんだよねェ。それ以外の理由なんていらないだろ?」
「気色の悪い冗談はやめろ」
「な~んだ。本気にしてないんだ。そうか。それならそうだね。本気だってわかってもらおうかなッ!」
「っ」
思い切り突き飛ばされて、本棚にぶつかる。そのまま覆い被さってきた三田を退かそうとするが、思いの外力が強く、上手くいかない。
「そうだ。さっきキスされてたよね。消毒しなきゃ、ね?」
「やめろ!」
三田の舌が頬に触れるより前に、何とかもがいて三田から距離を取る。
「いてて。どうせアンタは今更何もできないんだからさァ。オレのモノになったっていいだろ?」
「俺はお前のことが嫌いだ。ノエルにあんな嫌がらせまでして、許せるはずがない」
「それはさァ、アンタがあまりにもノエル姫のことを構うから嫉妬しちゃってさァ」
「茶番は止めろ。お前の目的はそんな可愛いものじゃあないはずだ」
「はて。何のことやら」
そう言って肩を竦めた三田の目は、当然俺に好意を寄せているようには見えない。
「恍けなくていい。俺は知ってるんだよ。柊家が衰退に追いやった三田家の末路を」
「……なァんだ。アンタにはバレてるんだ? オレのこと。は~。もう少し茶番で誤魔化してやろうと思ったのにさァ」
さっきまで愉快そうに笑っていた三田が、ひと際ドスの利いた声ではっきりとした敵意をこちらに向ける。
三田の行動に疑問を覚えた俺は、彼について徹底的に調べた。結果、三田が柊家に恨みを抱いているであろうことがわかったのだ。
「三田家の人々は貧困に耐え切れず、自ら命を絶った。そう、ただ一人、まだ幼かった息子を残して」
「それがオレだって言いたいのか?」
「年齢、そして名前も一致している。誤魔化しようがないはずだ」
「は。白雪姫は操られるだけのお人形さんだとばかり思っていたんだがなァ。まさかきっちり調べてあるとはねェ」
「特待制度まで使ってお前がこの金持ちだらけの学園に入ったのは、ノエルで柊家に恨みを晴らすためなんだろう?」
「あァそうさ。オレは決めたんだ。オレの家を陥れといて、のうのうと生きている柊家の、大事な大事なノエル姫。それを地獄に引きずり込んでやるってな!」
三田の瞳に灯る怒りは、紛れもなく本物だった。でも、本当の家族がいない俺には、何故彼がそこまでの熱量が保てるのかわからなかった。
「そんな復讐に意味はないはずだ」
「うるさいな。アンタこそ憎むべきじゃないのか? 白雪を、柊を」
「俺は……」
「やっぱり、アンタは甘いなァ。でも、これはオレたちだけの問題じゃあない。柊はさ、滅びるべきなんだよ。分かるだろ?」
三田が差し出した数枚の写真を促されるまま見つめる。
それは、端的に言うとノエルの父の悪事の証拠。黒い事象に裏付けられた繁栄。それを警察に届ければ、あっという間に柊財閥は泡と化すことだろう。
「悪事は止まない。被害者は増える。だからこそオレは復讐を誓った。意味がないように思えるか?」
驚いた。彼は怨恨だけで動いているわけではないらしい。圧に逆らえないまま言いなりになっている俺とは大違いだ。でも。
「それは。だけど。だったら、ノエルに嫌がらせをする必要などないだろう?」
ノエルが傷つく姿を黙って見ているのは違う気がした。友達ごっことはいえ、情が全く湧かなかったわけでもない。
「いいや。あるねぇ。あのお坊ちゃんには人間不信に陥ってもらわないと」
「……だから、まずは手始めにノエルと一番近しく見える俺の信用を失わせたわけだ」
「ご名答。んでもって、次は誠也だ。ベタベタに懐いたところでさァ、ズタズタに引き裂いてやるんだよ。最高だろう?」
「ノエルの精神を病ませて跡を継がせない算段なのか?」
「ま、そうだね。危険な芽は摘み取るに限る。後はまァ、お察しの通り。ただの私情による復讐ってわけだ。だってさ、許せないでしょ。オレは不幸になってんのに、腑抜けた顔して周りに守られてるノエル姫。あァ、吐き気がするね!」
「でも、ノエルに罪はない」
「馬鹿だねェ。あの坊ちゃんはアンタのことなんて当の昔に嫌ってるよ。だからさ、アンタもオレに協力してくれよ。二人で柊を滅ぼそうぜ?」
写真に写るノエルの父と同じぐらい悪い顔をした三田が、俺に向かって微笑む。
「俺は……」
「まァ、アンタが協力しようがしまいが、オレは一人でもやり遂げる。逆に言うと、アンタには何もできない。アンタは生きるのが下手過ぎるわけだ」
「……」
言い返せない自分が情けなかった。俺に何ができるのだろうか。俺はどうすれば正解なのだろうか。わからない。俺は所詮人形だから。行く先に道がないとしても、俺にはもう進む方向が変えられない。
「あの、お父様……」
珍しく自ら扉を叩き、入った書斎は、相変わらず緊張感に包まれていた。
言わなくては。三田がノエルを、柊家を壊そうとしていることを。でも。
言ったとして、信じてもらえるだろうか。
『おい。お前、また柊の奥方から非難されたぞ。お前は何のために柊の子と学ばせてるかわかっているのか? 信頼は築けたのか? 色仕掛けでもなんでもやれと言っているだろうが愚図』
義父の容赦ない声音に息が苦しくなる。最初の頃は、怒鳴られ、殴られるのが当たり前だった。そのせいで、今でもこの男と対面すると、勝手に体が震え出すのだ。
「ですが、奥方様は俺が孤児だったことが気に入らないらしく……」
『この際あの女はいいんだ。あれは近いうち死ぬ。頭がおかしいって専ら噂だ。近々ヒステリーで自殺でもするんじゃないか? お前はただ、ノエル坊に気に入られるだけでいい。そうしてゆくゆく支援してもらえるようになれば、お前を引き取った価値がある。分かるだろう? お前は頭も悪くない。容姿も。跡取りとしてはまあ合格だ。だが、血が繋がっていないのは世間体が悪い。だからこそ後ろ盾を今の内に用意しておかねばならん』
「あの、ですが……」
『黙れ。お前はただ人形であればいいのだと言っただろ。役に立たないのなら、今すぐ捨てる』
取りつく島もなく、男は一方的に俺を脅すと、部屋から俺を追い出した。
この調子では信じてもらえるはずがない。それに、ノエルの信用をすっかり失ってしまったと知れたら、きっと宣言通りに捨てられてしまうのだろう。
俺は一体どうすればいいんだ。
考えたって、わからなかった。
俺は誰からも信用されていない。だから、何を言っても無駄だ。
だけど、このまま何もしなければ、三田の思惑通りに事が進み、柊家は衰退し、それと共に白雪家も衰退の一途をたどるのだろう。そうなれば、俺は結局用無しだ。きっと殺されるか捨てられるかになるのだろう。
だったら。
もういっそのこと。
ふらつく足で、橋の手すりを乗り越える。
熱い。色々なことが頭を駆け巡って、もうとっくに脳が煮えていた。
ああ。冷たいだろうな。気持ちがいいだろうな。
目の前に広がる川の深さに心が惹かれる。
もう何でもいい。俺を助けてくれ。俺を殺してくれ。
神様。
引き寄せられるように、俺は川へと身を投げた。夜の冷たい風が、とても気持ち良かった。
ざぱ……。
「……き」
んん……。
熱い。どうして。水の中なら、きっと冷たくて気持ちがいいはずなのに。
「きろ……」
耳元でうるさく響くその声に眉を顰める。
やめろ。俺はもう目を開けたくない。頼むから、夢であってくれ。
「白雪!」
頼むから、俺を助けないでくれ。
「おい。起きろって、白雪!」
「うる、さい……」
渋々目を開けた俺を抱きかかえ、耳元で叫ぶ木吉から目を逸らす。
「お前、何やってんだよ……! 心配しただろうが!」
「……ど、して、木吉が……」
「夜にここ走るの日課なんだよ。んで、白雪がいたから様子見てたら、いきなり飛び降りるから……。ほんと、焦った」
岸に俺を降ろした木吉は、安堵の息を漏らしながら俺を抱きすくめて、肩に顔を埋めた。
「は。大袈裟……」
「お前さ、死ぬ気だったの?」
木吉の腕から抜け出そうと藻掻いたが、静かな問いに力を失う。
ああ。そうか。俺は死ねなかったんだな。
「……まさか。ちょっと足を滑らせただけだよ。助けてくれてサンキュ」
ありったけの笑顔を浮かべて、もう大丈夫だからと木吉の腕からゆっくりと逃れる。
ああ。失敗したな。そもそも、こんな方法じゃ死ねないか。水死なんて現実的じゃない。
やっぱり簡単で確実なのは首吊りだろうか。
これまで幾度となく死について考えてきた。でも、結局行動に至れなかった。でも。もう俺には後がない。
「白雪さ、なんかあった?」
「いや。何もない。ただ、ぼうっとしていただけだ。悪かった。もう大丈夫だから……」
そう言って立ち上がろうとしたのだが、どうにも足がおぼつかない。
「わ、危ない。てかさ、熱あるでしょ。コレ」
再び膝をつきそうになった俺を軽々と支えた木吉が、俺の首に手を当ててそう言った。
「触るな。君には関係ない」
「あるよ。心配だもん」
「君は他に心配すべきことがあるんじゃないのか?」
「ん? なんのこと?」
コイツならば。信じてくれるのだろうか。
そんなわけない。俺は散々コイツに冷たい態度を取ってきた。
でも。もしかしたら。
救ってくれるかもしれない。生涯でたった一人の親友を。
「……木吉、柊家が、危ないんだ……」
「は?」
閊える喉を自らの手で押さえつけながら、何とか声を絞り出す。
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「待ってくれよ。三田が? 柊を?」
「……嘘じゃない、信じてくれ……、俺じゃ、もう、どうしようもないんだ、お前だけが頼りなんだ、どうか、ノエルを救ってやってくれ……。だから……」
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「え?」
顔を上げると、歪みのない綺麗な瞳がこちらを見ていた。
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「三田がそんなこと考えてたなんて知らなかった。けど、お前が言うんだからそうなんだろ」
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「白雪は正直だから。あのゴタゴタもお前がやったんじゃないんだろ? あ、じゃあそれの犯人も三田だったのか」
「な、なんで……」
「違った?」
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「え?」
「僕はやっぱり思いの外、白雪のことが好きみたいだ」
「はは……。どこまでが嘘だ?」
「もしかして信じてない?」
「お前が俺を信じるメリットがない」
「じゃ、これで信じてくれるかな」
「……な」
躊躇いもなく落とされた口づけ。それは、どうにもふざけているようには見えない。
「僕は許さないよ。君が死ぬなんて。考えただけで、気が狂いそうになった。だから、僕は君が好きだ。ねえ、行くとこないならウチにおいでよ。紗人」
「っ……」
甘く囁かれた救済と己の名前に、体がぐらりと熱くなる。
名字で呼ばれるのが嫌いだった。俺は人形なのだと嫌でも思い知らされるから。だから、唯一名前で呼んでくれたノエルが唯一の居場所な気がしていた。でも。
ノエルに呼ばれるのと、明らかに違う。こんなに、気恥ずかしいものだっただろうか。
「ね、紗人。一緒に行こう。僕が君を守ってあげる」
差し出された手をじっと見つめる。ああ。この手を取れば、俺は救われるのだろうか。死ななくても、いいのだろうか。でも。
「いや、俺なら大丈夫だ。それよりも、お前はノエルの心配をしろ」
俺は彼に何も与えられない。俺に価値などない。彼が俺を背負うのは間違っている。彼の隣に立つのはノエルであるべきだ。俺が掴んでいい手ではない。
「ねえ。紗人は自由になっていいんだよ?」
「え?」
ふいに伸びてきた手が、頬を優しく撫でる。ああ、罪だ。こんなのは罪だ。
「君はもっと自分を大切にするべきだ。誰かのために生きるなんて、もうやめた方がいい」
「っわ!」
突然の浮遊感に声を上げると、木吉は気障ったらしく笑った。足をかけられ、バランスを崩したところをひょいと抱えられたのだ。
「な、なんのマネだ!」
「力づくでも僕は君を攫う」
「やめろ! 俺はお前に助けて貰わなくたって平気だ!」
「あのさ。君は今、自ら死を選んでしまうほど辛いんだろ? そんなの、僕だって辛くなる」
「……っ。同情か?」
「そんなんじゃないよ」
「チッ。お前は、その甘さが命取りなんだよッ!」
体を捻って木吉の腕から逃れる。そして拳を木吉に向かって思い切り叩き込む。が。
「ぐあ……」
木吉の頰に手が届くより前に、木吉の拳が俺の腹にめり込んでいた。
「ごめんね。でも、逃げるのはよくないよ」
薄れゆく意識の中で、俺は後悔した。俺はつくづく役に立たない人形だ。
俺は一体なんのために生きていたのだろうか。
『孤児の分際で』『役立たずの人形め』『ボクはもう紗人を信じられないよ』『白雪くんってやっぱり怖いよね』
夢の中でぐるぐると回る声は、どれもが俺を責め立てるものだった。
『復讐をしろ』
悪魔が囁く言葉に、少しだけ心が揺れ動く。だけど。
ああ。俺はそれなら、死んでしまいたい。
どうせ幸せなんて掴めない。所詮は人形。人間として生きるだけでも俺には難しい。
このまま目覚めなければどんなにいいだろう。それなのに。
『紗人。一緒に行こう。僕が君を守ってあげる』
ああ。どうしてそんなことを言うんだ。どうして俺なんかにそんな言葉をかけるんだ。やめてくれ。ただでさえ、愛されたことがないのだから。そういうのにはめっぽう弱いんだ。ああ。取り消してくれ。俺は、そうでなくちゃ、もう一人では死ねない。
「俺は――」
「あ、起きた?」
「は?」
目を覚ますと、木吉がすぐ隣に横たわっていた。
ここ、どこだ……?
やけにふかふかな広いベッドに手をついて起き上がる。見渡してみても、随分と広い部屋であることがわかる。
「ここは僕の寝室。まだ熱下がってないから、ちゃんと寝なきゃね?」
木吉の、寝室……?
混乱する俺の頬に、木吉の手が触れる。
「あ……れ。俺……」
触れられて初めて自分が泣いていたことに気づき、赤面する。
「あ、それに、服……。俺、びしょ濡れになったはず……」
「大丈夫。僕一人でやったから。安心して?」
「一人でって……?」
「僕が紗人を風呂に入れて着替えさせたって意味。流石に疲れた。けど、可愛かった」
「な……」
いつの間にそんなことまで……。
「というか、ここ、本当に木吉の家なのか……?」
「なんで?」
「いや、だって。部屋、広すぎるし……。物が全部、高そうだし……。俺は勿論のこと、ノエルの部屋より、なんか……」
「うん。だって僕の家、柊家よりも資産あるもん」
「は?」
何でもないような顔でケロリと告げた木吉の顔をまじまじと見つめる。
「はは。知らなくて当然。だって隠してるもん。木吉って名字も実は偽物。本当は――」
「嘘だ……」
柊が日本一の資産家なのだとしたら、彼が告げた名は世界一を誇る資産家だ。
「驚いた? 本当は誰にも打ち明ける気なかったんだけど。紗人は特別」
「えと……。ほんとに、木吉は……」
「この際なんだから、名前で呼んでよ。お互いに嘘の名字なんていらないでしょ?」
悪戯に笑った彼は、やはり俺の知るお人好しだった。
「誠也ってのは本当の名前なわけ?」
「うん。だから遠慮なく呼んで?」
「……誠也」
「なあに? 紗人」
「ノエルの件はどうなった?」
「は~。全く色気がないね。うん。お父様に言っといたよ。じきに柊家は潰れる」
「え……? それじゃ、意味ないだろ?! ノエルは、どうなるんだよ!」
「罪はいずれ裁かれる。柊家の衰退は仕方のないことだ。でもね、僕だってノエルは助けようと思ったんだよ? 僕の家で面倒を看ても良かったんだ。それなのに。彼は言ったんだよ。自分も責任を負うって。三田に踊らされていたことが悔しかったんだろうね。君にもいずれ謝りに行くって言ってたよ。三田は目的が達成されて、今頃虚無になってるんじゃないかな」
「それじゃあ、白雪家は……」
「潰れるね。紗人を権力の為だけに振り回したんだ。報いが足りないぐらいだよ」
「そうか。じゃあ、俺はもうお役御免ってわけか……」
「ねえ、紗人はこれからどうしたいの?」
「俺は……。どうにか就職でもして生きていくか……」
死ぬかのどちらかだな、と心の中で呟いてから、虚しくなる。これから俺は、何を目標に生きて行けばいいのだろうか。
「紗人。もしよかったら、僕のために生きてくれないかな」
「どういう意味だ?」
「無粋だなぁ」
「は?」
俺の手を取った誠也が不敵に微笑む。俺は、その強い意志を秘めた瞳から目が離せなかった。
「君が欲しい。紗人」
どうしてその抱擁から逃れることができるだろうか。ああ、狡い男だ。こんなに甘い誘いを断れるわけがない。
「俺でいいなら、好きにしろ」
目の前できらきらと輝くその瞳に笑みが零れる。灰色だった俺の世界は、いつの間にか彼によって彩られていたらしい。
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過労が祟った菖(あやめ)は、風邪をひいてしまった。症状の中で咳が最もひどく、夜も寝苦しくて起きてしまうほど。
それなのに、元々がリモートワークだったこともあってか、休むことはせず、ベッドの上でパソコンを叩いていた。それに怒った同居人の楓(かえで)はその日一日有給を取り、菖を監視する。咳が止まらない菖にホットレモンを作ったり、背中をさすったりと献身的な世話のお陰で一度長い眠りにつくことができた。
しかし、1時間ほどで目を覚ましてしまう。それは水分をたくさんとったことによる尿意なのだが、咳のせいでなかなか言うことが出来ず、限界に近づいていき…?
体育倉庫で不良に犯された学級委員の話
煉瓦
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以前撮られたレイプ動画を材料に脅迫された学級委員が、授業中に体育倉庫で不良に犯される話です。最終的に、動画の削除を条件に学級委員は不良の恋人になることを了承します。
※受けが痛がったりして結構可哀想な感じなので、御注意ください。
少年野球で知り合ってやけに懐いてきた後輩のあえぎ声が頭から離れない
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
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少年野球で知り合い、やたら懐いてきた後輩がいた。
ある日、彼にちょっとしたイタズラをした。何気なく出したちょっかいだった。
だがそのときに発せられたあえぎ声が頭から離れなくなり、俺の行為はどんどんエスカレートしていく。
エレベーターで一緒になった男の子がやけにモジモジしているので
こじらせた処女
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大学生になり、一人暮らしを始めた荒井は、今日も今日とて買い物を済ませて、下宿先のエレベーターを待っていた。そこに偶然居合わせた中学生になりたての男の子。やけにソワソワしていて、我慢しているというのは明白だった。
とてつもなく短いエレベーターの移動時間に繰り広げられる、激しいおしっこダンス。果たして彼は間に合うのだろうか…
怒られるのが怖くて体調不良を言えない大人
こじらせた処女
BL
幼少期、風邪を引いて学校を休むと母親に怒られていた経験から、体調不良を誰かに伝えることが苦手になってしまった佐倉憂(さくらうい)。
しんどいことを訴えると仕事に行けないとヒステリックを起こされ怒られていたため、次第に我慢して学校に行くようになった。
「風邪をひくことは悪いこと」
社会人になって1人暮らしを始めてもその認識は治らないまま。多少の熱や頭痛があっても怒られることを危惧して出勤している。
とある日、いつものように会社に行って業務をこなしていた時。午前では無視できていただるけが無視できないものになっていた。
それでも、自己管理がなっていない、日頃ちゃんと体調管理が出来てない、そう怒られるのが怖くて、言えずにいると…?
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