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(21)幽霊になった先生
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3階から落ちて死んだ先生。幽霊になった彼の目の前に現れたのは除霊師と名乗る生徒。成仏するためにと、何故かデートする流れになって……。
ーーーーーーーーーーーーーーー
「危ない……!」
誰かが叫ぶ声。背中に走る衝撃。
「……!」
そして、言葉を発する暇もなく……。
ドッ。
「う。ううん……?」
ぼんやりとする視界。頭を振るい、身を起こす。
学校の敷地内。人気のないゴミ置き場。
「先生、大丈夫ですか?」
すぐ後ろを見ると、男子生徒が心配そうにこちらを見つめていた。
「あ……れ。私は、」
「覚えてないんですか? 先生、3階から落ちたんですよ」
「あ……」
そうだ。
あのとき私は、渡り廊下を歩いていて。
外から私の名前を呼ぶ声が聞こえて。
廊下の端に寄り、下を覗き込んで。
それで。
「幽霊になっちゃったみたいですね」
「は?」
幽霊?
いきなり出てきた単語に思わず顔をしかめる。
「先生、落ちた記憶はあるでしょ?」
「ん」
確かに、落ちた記憶はある。
あの時、何かが背にぶつかってきたような強い衝撃を受けた。
そして、気づいたときには手すりを超え、身が投げ出されて……。
「そこから無傷でここまで歩いてくるなんて、無理じゃないですか?」
「……」
確かに。あの時、助かる確率などなかった。死なないにしても、無事では済まない。
「いや、だが……。幽霊なんて、そんな馬鹿な話……」
頭を抱えながらふと、これは夢なのではないかと思い当たる。
死の瀬戸際で見る悪夢。
目の前の少年の胡散臭い微笑みは、まるでそれを物語っている。
「夢なんかじゃないですよ」
「え?」
心を読んだかのように自然に応える少年。それと目が合った瞬間、彼はにこりと微笑みを強くする。そして、おもむろに口を開くと。
「僕、実は除霊師なんです」
「は……?」
実に胡散臭い自己紹介を述べた。
「……。そんなもの、現実に存在しないだろ」
幾らかの沈黙の後、ため息交じりに気持ちを述べる。
「存在しない、ねえ?」
意味ありげに勿体つけて、少年はポケットから何かを取り出す。
「まあ、これ見てくださいよ」
チカッ。
少年の手に収まっていたそれが翻ると、陽を反射して光を発す。
「……鏡?」
こちらに向けられたそれは、何の変哲もない、女子が持ち歩いていそうな手鏡だった。
「よく見てくださいよ」
「よく見てって……」
鏡を覗き込む。そこに映るのは周りの景色。そう、何の変哲もない。ありふれたゴミ置き場の風景だ。でも。
あるはずのものが、ない。
「どういうことだ……?」
少年から鏡を横取り、あらゆる角度から覗き込む。
しかし、映るのは風景のみ。
そう。
「自分が映っていない……」
口に出してようやく、血の気の引くような恐怖に囚われる。
いや、もう血は通っていないんだろうか……。
「先生は成仏できなかったみたいですね」
恐怖に拍車をかけるような低い声で少年が呟く。
「な、なんで。いや、違う。これは私の夢で……」
「わかってるでしょ? これは夢なんかじゃない」
遠くで響く蝉の声。それはあまりにも現実味を帯びた煩わしさで。
「改めて聞きますけど。大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃ、ない……」
ざあ、と頬を撫でつけてゆく風は生暖かく。酷く口が乾き、手は痺れ。まるで金縛りにでもあったかのような心地だった。
「んー。いきなり死んだから、混乱しちゃったのかな? それとも、未練があるから、かな」
少年が幽霊になった要因を推測する。その口調は軽く、死人を目の前にしているような恐怖は感じられない。
むしろ、恐怖を感じているのは自分の方だ。
「成仏できないと、どうなるんだ?」
自分が幽霊に成り果てたなんて馬鹿な話、信じたくもなかったが。
「怪異と成り果て、討伐対象となります。ちなみに、二度とその魂が転生することはありません」
「……」
現実離れした言葉を、一言も間違えることなくすらすらと述べる少年の話は無視できなかった。
「とにかく、僕が先生を成仏させてみせますから、安心してください!」
信じていいものだろうか。
疑う心はあったのだが、如何せん暑すぎた。
暑くて、魂ごとどろどろと溶けてしまいそうな焦燥感。不安定なそれを、一人でどうすることもできずに。
気づけば促されるままに、少年と一緒に学校を抜け出していた。
「で、どうしてこんな街中に来ているんだ?」
学校を出て、歩くこと数十分。それなりに栄えた商店街に辿りつく。
「だ~か~ら。言ったじゃないですか。先生の未練をなくして、成仏してもらうんだって」
「それは言った」
だが、それがどうしてこんな商店街に。
「先生、彼女いないでしょ?」
「……まぁ」
「つまり、それが未練ってやつです」
「彼女作れってことか?」
「違います。僕とのデートで我慢してくださいってことです」
全くわからない理論に頭を抱える。
「先生くらいの年頃の男の未練って大体は女絡みなんですよね~。ま、これで八割方成仏してるんで、黙ってついてきてくださいよ」
「う~ん」
やっぱりよくわからない。
「これ、お守りです。これを身につけておくことによって霊力が増すので、先生の姿も一時的に一般人の目にも映るようになります。食べ物だって普通に食べれちゃいます」
「そりゃすごいけど……」
「ほら、見てください」
強引にお守りを握らされ、鏡を押し付けられる。
「あ」
鏡に自分の姿がしっかりと映っている。
本当にすごい代物なんだ、これ。
「ま、代々伝わるお宝ですから」
「え、そんなもの、私が持っといていいのか?」
「先生が持ってないと、先生を成仏させるためのデートが成立しないでしょう?」
さも可笑しそうに少年が笑う。
セミの鳴き声はやっぱり遠くからずっと聞こえる。
狂ったようなその声を聞いていると、こっちまでおかしくなりそうだ。
いや。もう十分おかしいことになっているんだったか。
「んじゃ、次は何します?」
購入した品々が入った袋を片手に、少年が問いかける。
「ありがとう。でも、もういい。大丈夫だ」
「大丈夫って。成仏できそうってことですか?」
「ああ。そうかも」
「楽しかったんですか?」
「ああ。久しぶりに人と出掛けたよ。こんなに楽しいことだったんだな」
辺りはすっかり夕日に包まれ、目に映るものすべてが赤く染まる。
服を見たり、美味しいものを食べ歩いたり、他愛のないおしゃべりをしたり。
そんな誰でもやってそうなことが、酷く楽しかった。
今までに一緒にいてくれる人がいなかったというのもそうだが、彼の隣は何故か心地よかった。
おかげで不安定だった心も、自分の現状を受け入れるまでに落ち着いた。
「これも。ありがとう」
少年の手にお守りを返す。
これで周りの人たちにはもう、自分の姿は見えないのか……。
「じゃあ、最後に」
「ん?」
手招きに応えて少年に一歩近づく。
「キス、させてください」
「は、はあ?」
耳元で紡がれた予想外の言葉に、詰めた距離の倍飛びのく。
「な、なにを言い出すんだ、君は!」
「いや、でも。キスしたら成仏できそうだなって」
「な、そんなわけ……」
ないと言いたかったのだが、少年の真面目な面持ちに心が揺らぐ。
どうやら、変な意味で言ってるとかじゃないらしい。
でも、いくら成仏するからってそう易々と……。しかも男子生徒とだなんて……。
「先生、自分で成仏できるって自信あるんですか?」
「なんだ、その恐ろしい類の自信は……」
ツッコんではみたものの、自信があるのかと言われれば、それは勿論ない。
「どうせ誰も見えないんだし、ね?」
「で、でも」
「先生も早く終わらせたいでしょう?」
「う、ううん」
確かにこのままぐずぐずしていて、妖怪になりました、じゃ面白いわけがない。
「わかった。それで成仏できるんなら」
「ありがとうございます」
なんで彼がお礼を言うんだろうか。
そんなことを考えている間に、少年の顔が近づいて、唇がくっつく。
「ん、んんっ……!」
……長い!
街ゆく人々のすぐ側で、こんなことをする日が来ようとは。
いくら見えてないといっても、恥ずかしいものは恥ずかしい。
「ん、」
離そうと彼の肩に手をつくが、思ったより力が強く、びくともしない。
ま、待て……。みんなが見てるから、早く、離れないと……。はなれ……。
……あれ? 見てる……??
自分の思考の矛盾に疑問を覚える。
見てるって、そんなわけない。だって、今の自分は姿が見えないはずで……。
快楽から自分を覚ますと、人々の視線が痛いほどに突き刺さっていることに気づく。
「え……?????」
慌てて辺りを見回すと、目が合った人片っ端から視線を逸らされる。
「な、おい、これ……。もしかして、見えて」
「あっは。今頃気づいたんですか、先生」
「は……?」
悪びれる様子もない少年の顔に、頭を思い切り殴られたような気持になる。
「お前、これは一体どういう……。私は……。お、終わりだ……。こんな街中で、生徒と、しかも、男と、白昼堂々と……、職務を放棄して……。う、うううう」
彼に解放され、支えを失った体はへなへなとその場に崩れ落ちる。
「ちょ、先生、こんなとこで泣かないでくださいよ……。とりあえずあっち行きましょ」
誰の、誰のせいだと思って……。
騒がしかった蝉も、いつの間にか大人しくなって。吹き抜ける風は昼間と打って変わって冷たく、全ての熱を冷ましていった。
「あはは。いやーだって先生、見事に騙されてくれるから」
人気のない場所まで引っ張ってくると、彼はあっさりと自分の悪事を明かす。
「やはり、幽霊というのは……」
「幽霊なんて見える訳ないじゃないですか」
「除霊師ってのも」
「僕はごく普通の高校生です。ちなみにこれはおばあちゃんに貰った交通安全守りです」
少年が自分の手のひらに収まったお守りを見せる。
確かに、どこにでもありそうなお守りだとは思ったが……。
「どうして、こんなことを……」
やはり訳が分からなかった。彼がここまで律儀に騙し抜いたこと。一体何の企みがあってのことか。私を貶めたいにしても、私と彼の接点などあっただろうか。彼のことは、今日初めて知った。担当クラスでもない。それが、どうして……。
「いや。どうしてってね。まさかキスまで許してくれるとか思わないしさ。少し調子に乗ったことは謝りますけど」
「少しって」
「でも。せっかくのチャンス、逃すわけないでしょ」
すっ。
またしても、あっけなく唇が奪われる。
じわっ。
「えっ、ちょ、な、泣いてるんですか!? そんなに嫌でしたっ!?」
「っ、お前が、死んだって言うから、そうなのかって、思って……。色々やり残したこととか考えて、どうでもいい人生だって思ってたけど、いざ死んだって言われると、まだやりたいこととかあって……。でも、こんなことして、ただで済むわけない……。終わりだ……。これじゃあ死んだも同じ……」
死んでいないと知った安堵と、これから先のことを考えた絶望とがごちゃ混ぜになって、情けなくも涙が頬を伝う。
それを拭った少年が、呆れたようにため息をつく。
「勝手に自分を殺さないでくださいよ」
「お前は私を殺したいんだろ?」
「まさか。ただ、僕は先生とデートしたかっただけなんですって。その……先生が、好きなので!」
「……」
「ああ~! その目は信じてませんね?! 僕の一世一代の告白を!」
「当たり前だろう。君が接点のない私を?」
「ん~。やっぱ覚えてないんですか? 先生、僕が新入生の頃、移動教室わかんないの助けてくれてですね」
「もっとマシな嘘をつけ」
飛躍した話に涙も枯れ、代わりに頭が痛くなる。
「これが嘘だったらいいんですけどね。でもほんとに。一目惚れっていうんですかね。とにかく、それからずっと見ていくうちに先生のこと、もっと好きになって……」
「……」
言われて記憶を辿ってみれば、新入生に教室を教えたことがあったかもしれない。
「でも、先生モテるから。中々声かける勇気がなくて」
モテると言われても、そこまでのことはないし。男からモテたことはないんだが。
「んで、ずっと見てたら、先生が死にそうになってるじゃないですか。だから僕がすかさず助けたんですよ」
「助けたって、お前が、か?」
「ええ。そこで初めて先生に触れて。その時、幽霊作戦思いついちゃって。後は知っての通り。でも僕、先生に嫌われてもいいから、どうしても1回くらい先生を独り占めしたかったんです」
色々ツッコミたいところはあるが、取っ散らかり過ぎた情報を丸ごと飲み込む。
「ええと……。それなら普通に告白してくれた方が……」
「先生、絶対断りますもん! ただでさえ女子生徒に「生徒と恋愛する気はない」って断ってるくせに」
「そ、それは」
確かにこの前はそう言って断った。というか、それすら見てたというのか?
「ね、先生、僕のこと、どうです?」
「どうって」
「僕とお付き合いしませんかってことです」
じれったいと言いたげに少年が一歩前へ踏み出す。
「そんなの駄目に決まって」
「キスまでしたんだから、付き合うくらいどうってことないですよ?」
「謎理論やめろ」
「でも、気持ち良かったでしょ?」
「は、はぁ!?」
「ふふ。先生、僕は諦めませんよ。もしここで先生が駄目だと言っても、僕は先生のこと、必ず落としてやりますよ」
「開き直るな、諦めろ……!」
「先生は、押せば落ちるかもしれないって今日のデートでわかりましたから、ね」
ちゅっ。
ずいと迫った少年を押し返す暇もなく唇がくっついて離れる。
「なっ。そういうことじゃなく! 私は働けなくなるんだぞ?! というかむしろ警察行きだろ! 私が君を好きになるなんて、そんな次元の話では」
「それなら、大丈夫です」
「は?」
翌日。
何も起きない。
その翌日も、いつもと変わらない。
そうして一週間が過ぎても、何も起こらず、とうとう一カ月が過ぎる。
「あの、私はここに勤めていていいのでしょうか」
流石に焦らされ過ぎて、いっそ殺してくれ状態に陥った私は、校長に話しかけられた折に不安を口にした。しかし、返ってきたのは。
「どうしたんだね。何か悩み事かね?」
「い、いえ……」
全く毒気のない言葉。それとなく探りを入れてみても、誰もあの日のことに触れようとしない。
というか、あの日職務放棄したことすらお咎めなし。記録も無し。ついでに皆の記憶ではしっかり夜まで働いていたことになっているようで。
「どうなってるんだ?」
「だから、大丈夫だって言ったじゃないですか。まだ気にしてたんですか?」
得体のしれない恐怖を感じた私は、仕方なく少年の元を訪ね、正直に問うた。
まだ気にしてたんですかって……、そりゃ気にするに決まっているだろうが!
「どうして君はそう、大丈夫だなんて言い切れるんだ」
「だってそりゃ。僕が魔法で皆の記憶を消しときましたから」
「……私は真面目に聞いているんだが?」
あっけらかんと言い放つ少年に、思わず殺意を抱いてしまう。
「怒らないでくださいってば。でもほら、考えてもみてください。先生、三階から落ちてどうして僕が助けられると思います?」
「それは……。どうしてだ?」
「鏡に先生の姿が映らないようにするのはどういう仕組みなんです?」
「それは……。手品か何かの……」
「僕、魔術師なんですよ」
にこりと笑って見せる少年はやっぱり胡散臭い。
「魔術師って……」
「信じられませんか?」
「当たり前……」
ぽんっ。
言い募ろうとしたが、目の前に花が現れ、押し黙る。
「手品師の間違いなんじゃないのか?」
「何でもいいですよ。とにかく、この件は安心してもらって大丈夫です。先生が死ぬことも、社会的に殺されることも、僕が阻止してあげましたからね」
「後者は明らかに君のせいだろう」
「手厳しいですね」
この少年の言う事はどれが嘘でどれが本当なんだ?
空中に浮いたままの花をつまみ取り、隅々まで観察する。
「種も仕掛けもありゃしないでしょう?」
おどけた少年の仕草。
「……君はどれかというと、ペテン師だな」
「じゃあ大人しく騙されてくださいよ」
「冗談」
くすくすと笑う少年を前にして、あれこれ考えるのが馬鹿らしくなる。
もうこいつが何者でもいい。
「まあ、命の恩人ってことには変わりないからな……。礼は言っておこう」
「そうですね。僕も、えんえん泣いちゃう先生が見れて良かったですよ」
「な……」
「でも、お礼は言葉じゃなく、これでお願いしますよ」
ちゅ。
「あのな……」
「いいでしょ。どうせ僕が魔法でもみ消せちゃうんですから」
一度くっついたくらいじゃ足りないというように、彼の瞳に熱がこもる。
それが再び近づくと同時に、観念して目を瞑る。
蝉が鳴く。茹るように熱く、鬱陶しい日々はまだしばらく続きそうだ。
蝉が鳴く。まるで僕たちを祝福してくれているかのように。熱烈に。
何度口づけても足りない。
暑さのせいで互いの頬に汗が伝う。それでも、熱を帯びてゆく二人の体は離れない。
可愛いなあ。
ようやく手に入れた先生の体を抱きしめる。
抵抗しないんだ……。ほんと、可愛いなあ。
そうやって僕に身を委ねるなんて。ほんと、馬鹿だなあ。
ねえ先生。先生は一体誰に突き落とされたんだろうね。
どうしてそんな簡単な疑問も抱かないんだろうね。
ゆっくりと先生の頭を撫でてやる。
先生は熱に浮かされた瞳をこちらに向ける。
「好きです。ずっと僕の側にいてください」
先生の手に握られてくたくたになった花を、髪に差し込んでやる。
うん。似合うなあ。
一目惚れしたあの日、迷ったときに見つけた先生は、凛としていて。他人を寄せ付けない眉間の皺。組まれた腕。それでいて、細身の体。あれを屈服させることができたなら、どんなに達成感が得られるのだろうか。
そう思った瞬間、声をかけていた。
案の定、呆れられた挙句、怒られた。
人に厳しく。自分にも厳しく。
常に気を張っているその姿は、生き辛そうで。
だから、先生をくたくたにしてやりたくなった。
どうしようもなくなって、僕に縋りつくような。そんな先生が見たくて、自分の力を使った。
僕は普通じゃなかった。
生まれたときから法則を無視した力が使えた。
だから、僕はそれが人にバレないように心掛けた。
目立たないように生きた。
人と違うのが嫌で。孤立するのが嫌で。人に優しくした。例え間違っていようが、人の意見には同調しておいた。へらへらとその場しのぎで生きてきた。
そうすると、ぐんと生きやすかった。
だから、僕は笑って生きてきた。へらへらと。考えることをやめて。
でも。
先生は違った。
世間の波に逆らうように、自分の足でしっかりと立っていた。
耐えながら、歯を食いしばりながら、自分と戦っていた。
そんな人間は見たことがなかった。
そんなことをして何になるのか。
妙に気になった。
「自分の存在がしっかりしている先生が、眩しかったんですよね」
「ん?」
ぼそりと呟いた言葉に先生が反応する。
何でもありません、と笑いかけて、先生の髪を撫でる。
先生を屈服させたら満足すると思った。
思ったのに。
もっと欲しい。もっとこの人を愛していたい。もっとこの人に愛されたい。
「好きだなあ」
泣きたいくらいに目を細めながら、先生を抱きしめる。
「先生、僕を愛してください。僕は、先生が欲しくてたまらない」
一瞬目が合った後、何かを考えるように先生は目を逸らす。
そして。
「それじゃ、まずは君の名前を教えてくれないか」
「え……?」
一瞬の間。
そういえば、僕もまだ先生の名前を知らなかった。
「その反応。まさかとは思うが、君も私の名前を知らないんじゃないだろうな?」
「うっ」
「君は、本当に変な奴だな……。何者でもいいとは思ったが、名前くらいは教えてくれよ」
くつくつと笑う先生はやっぱり好きだ。泣いた顔も好きだけど。笑った顔も見ていたい。
「そうですね」
人の名前なんて、どうでもいいと思ってた。覚えても意味なんてないと思ってた。
他人に興味などなかった。先生のことだって、ほんと、泣かせたら満足すると思っていたのに。
先生の手を取って、手の甲に口づけを落とす。
「僕にも。先生の名前、教えてください」
これほどまで人間らしい欲を覚えたことなんてなかった。これほどまで放したくないと思ったものはなかった。
重なった手のひらに汗が滲みだす。
茹るように熱く、じれったいこの恋は、今まだ始まったばっかりだ。
ーーーーーーーーーーーーーーー
「危ない……!」
誰かが叫ぶ声。背中に走る衝撃。
「……!」
そして、言葉を発する暇もなく……。
ドッ。
「う。ううん……?」
ぼんやりとする視界。頭を振るい、身を起こす。
学校の敷地内。人気のないゴミ置き場。
「先生、大丈夫ですか?」
すぐ後ろを見ると、男子生徒が心配そうにこちらを見つめていた。
「あ……れ。私は、」
「覚えてないんですか? 先生、3階から落ちたんですよ」
「あ……」
そうだ。
あのとき私は、渡り廊下を歩いていて。
外から私の名前を呼ぶ声が聞こえて。
廊下の端に寄り、下を覗き込んで。
それで。
「幽霊になっちゃったみたいですね」
「は?」
幽霊?
いきなり出てきた単語に思わず顔をしかめる。
「先生、落ちた記憶はあるでしょ?」
「ん」
確かに、落ちた記憶はある。
あの時、何かが背にぶつかってきたような強い衝撃を受けた。
そして、気づいたときには手すりを超え、身が投げ出されて……。
「そこから無傷でここまで歩いてくるなんて、無理じゃないですか?」
「……」
確かに。あの時、助かる確率などなかった。死なないにしても、無事では済まない。
「いや、だが……。幽霊なんて、そんな馬鹿な話……」
頭を抱えながらふと、これは夢なのではないかと思い当たる。
死の瀬戸際で見る悪夢。
目の前の少年の胡散臭い微笑みは、まるでそれを物語っている。
「夢なんかじゃないですよ」
「え?」
心を読んだかのように自然に応える少年。それと目が合った瞬間、彼はにこりと微笑みを強くする。そして、おもむろに口を開くと。
「僕、実は除霊師なんです」
「は……?」
実に胡散臭い自己紹介を述べた。
「……。そんなもの、現実に存在しないだろ」
幾らかの沈黙の後、ため息交じりに気持ちを述べる。
「存在しない、ねえ?」
意味ありげに勿体つけて、少年はポケットから何かを取り出す。
「まあ、これ見てくださいよ」
チカッ。
少年の手に収まっていたそれが翻ると、陽を反射して光を発す。
「……鏡?」
こちらに向けられたそれは、何の変哲もない、女子が持ち歩いていそうな手鏡だった。
「よく見てくださいよ」
「よく見てって……」
鏡を覗き込む。そこに映るのは周りの景色。そう、何の変哲もない。ありふれたゴミ置き場の風景だ。でも。
あるはずのものが、ない。
「どういうことだ……?」
少年から鏡を横取り、あらゆる角度から覗き込む。
しかし、映るのは風景のみ。
そう。
「自分が映っていない……」
口に出してようやく、血の気の引くような恐怖に囚われる。
いや、もう血は通っていないんだろうか……。
「先生は成仏できなかったみたいですね」
恐怖に拍車をかけるような低い声で少年が呟く。
「な、なんで。いや、違う。これは私の夢で……」
「わかってるでしょ? これは夢なんかじゃない」
遠くで響く蝉の声。それはあまりにも現実味を帯びた煩わしさで。
「改めて聞きますけど。大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃ、ない……」
ざあ、と頬を撫でつけてゆく風は生暖かく。酷く口が乾き、手は痺れ。まるで金縛りにでもあったかのような心地だった。
「んー。いきなり死んだから、混乱しちゃったのかな? それとも、未練があるから、かな」
少年が幽霊になった要因を推測する。その口調は軽く、死人を目の前にしているような恐怖は感じられない。
むしろ、恐怖を感じているのは自分の方だ。
「成仏できないと、どうなるんだ?」
自分が幽霊に成り果てたなんて馬鹿な話、信じたくもなかったが。
「怪異と成り果て、討伐対象となります。ちなみに、二度とその魂が転生することはありません」
「……」
現実離れした言葉を、一言も間違えることなくすらすらと述べる少年の話は無視できなかった。
「とにかく、僕が先生を成仏させてみせますから、安心してください!」
信じていいものだろうか。
疑う心はあったのだが、如何せん暑すぎた。
暑くて、魂ごとどろどろと溶けてしまいそうな焦燥感。不安定なそれを、一人でどうすることもできずに。
気づけば促されるままに、少年と一緒に学校を抜け出していた。
「で、どうしてこんな街中に来ているんだ?」
学校を出て、歩くこと数十分。それなりに栄えた商店街に辿りつく。
「だ~か~ら。言ったじゃないですか。先生の未練をなくして、成仏してもらうんだって」
「それは言った」
だが、それがどうしてこんな商店街に。
「先生、彼女いないでしょ?」
「……まぁ」
「つまり、それが未練ってやつです」
「彼女作れってことか?」
「違います。僕とのデートで我慢してくださいってことです」
全くわからない理論に頭を抱える。
「先生くらいの年頃の男の未練って大体は女絡みなんですよね~。ま、これで八割方成仏してるんで、黙ってついてきてくださいよ」
「う~ん」
やっぱりよくわからない。
「これ、お守りです。これを身につけておくことによって霊力が増すので、先生の姿も一時的に一般人の目にも映るようになります。食べ物だって普通に食べれちゃいます」
「そりゃすごいけど……」
「ほら、見てください」
強引にお守りを握らされ、鏡を押し付けられる。
「あ」
鏡に自分の姿がしっかりと映っている。
本当にすごい代物なんだ、これ。
「ま、代々伝わるお宝ですから」
「え、そんなもの、私が持っといていいのか?」
「先生が持ってないと、先生を成仏させるためのデートが成立しないでしょう?」
さも可笑しそうに少年が笑う。
セミの鳴き声はやっぱり遠くからずっと聞こえる。
狂ったようなその声を聞いていると、こっちまでおかしくなりそうだ。
いや。もう十分おかしいことになっているんだったか。
「んじゃ、次は何します?」
購入した品々が入った袋を片手に、少年が問いかける。
「ありがとう。でも、もういい。大丈夫だ」
「大丈夫って。成仏できそうってことですか?」
「ああ。そうかも」
「楽しかったんですか?」
「ああ。久しぶりに人と出掛けたよ。こんなに楽しいことだったんだな」
辺りはすっかり夕日に包まれ、目に映るものすべてが赤く染まる。
服を見たり、美味しいものを食べ歩いたり、他愛のないおしゃべりをしたり。
そんな誰でもやってそうなことが、酷く楽しかった。
今までに一緒にいてくれる人がいなかったというのもそうだが、彼の隣は何故か心地よかった。
おかげで不安定だった心も、自分の現状を受け入れるまでに落ち着いた。
「これも。ありがとう」
少年の手にお守りを返す。
これで周りの人たちにはもう、自分の姿は見えないのか……。
「じゃあ、最後に」
「ん?」
手招きに応えて少年に一歩近づく。
「キス、させてください」
「は、はあ?」
耳元で紡がれた予想外の言葉に、詰めた距離の倍飛びのく。
「な、なにを言い出すんだ、君は!」
「いや、でも。キスしたら成仏できそうだなって」
「な、そんなわけ……」
ないと言いたかったのだが、少年の真面目な面持ちに心が揺らぐ。
どうやら、変な意味で言ってるとかじゃないらしい。
でも、いくら成仏するからってそう易々と……。しかも男子生徒とだなんて……。
「先生、自分で成仏できるって自信あるんですか?」
「なんだ、その恐ろしい類の自信は……」
ツッコんではみたものの、自信があるのかと言われれば、それは勿論ない。
「どうせ誰も見えないんだし、ね?」
「で、でも」
「先生も早く終わらせたいでしょう?」
「う、ううん」
確かにこのままぐずぐずしていて、妖怪になりました、じゃ面白いわけがない。
「わかった。それで成仏できるんなら」
「ありがとうございます」
なんで彼がお礼を言うんだろうか。
そんなことを考えている間に、少年の顔が近づいて、唇がくっつく。
「ん、んんっ……!」
……長い!
街ゆく人々のすぐ側で、こんなことをする日が来ようとは。
いくら見えてないといっても、恥ずかしいものは恥ずかしい。
「ん、」
離そうと彼の肩に手をつくが、思ったより力が強く、びくともしない。
ま、待て……。みんなが見てるから、早く、離れないと……。はなれ……。
……あれ? 見てる……??
自分の思考の矛盾に疑問を覚える。
見てるって、そんなわけない。だって、今の自分は姿が見えないはずで……。
快楽から自分を覚ますと、人々の視線が痛いほどに突き刺さっていることに気づく。
「え……?????」
慌てて辺りを見回すと、目が合った人片っ端から視線を逸らされる。
「な、おい、これ……。もしかして、見えて」
「あっは。今頃気づいたんですか、先生」
「は……?」
悪びれる様子もない少年の顔に、頭を思い切り殴られたような気持になる。
「お前、これは一体どういう……。私は……。お、終わりだ……。こんな街中で、生徒と、しかも、男と、白昼堂々と……、職務を放棄して……。う、うううう」
彼に解放され、支えを失った体はへなへなとその場に崩れ落ちる。
「ちょ、先生、こんなとこで泣かないでくださいよ……。とりあえずあっち行きましょ」
誰の、誰のせいだと思って……。
騒がしかった蝉も、いつの間にか大人しくなって。吹き抜ける風は昼間と打って変わって冷たく、全ての熱を冷ましていった。
「あはは。いやーだって先生、見事に騙されてくれるから」
人気のない場所まで引っ張ってくると、彼はあっさりと自分の悪事を明かす。
「やはり、幽霊というのは……」
「幽霊なんて見える訳ないじゃないですか」
「除霊師ってのも」
「僕はごく普通の高校生です。ちなみにこれはおばあちゃんに貰った交通安全守りです」
少年が自分の手のひらに収まったお守りを見せる。
確かに、どこにでもありそうなお守りだとは思ったが……。
「どうして、こんなことを……」
やはり訳が分からなかった。彼がここまで律儀に騙し抜いたこと。一体何の企みがあってのことか。私を貶めたいにしても、私と彼の接点などあっただろうか。彼のことは、今日初めて知った。担当クラスでもない。それが、どうして……。
「いや。どうしてってね。まさかキスまで許してくれるとか思わないしさ。少し調子に乗ったことは謝りますけど」
「少しって」
「でも。せっかくのチャンス、逃すわけないでしょ」
すっ。
またしても、あっけなく唇が奪われる。
じわっ。
「えっ、ちょ、な、泣いてるんですか!? そんなに嫌でしたっ!?」
「っ、お前が、死んだって言うから、そうなのかって、思って……。色々やり残したこととか考えて、どうでもいい人生だって思ってたけど、いざ死んだって言われると、まだやりたいこととかあって……。でも、こんなことして、ただで済むわけない……。終わりだ……。これじゃあ死んだも同じ……」
死んでいないと知った安堵と、これから先のことを考えた絶望とがごちゃ混ぜになって、情けなくも涙が頬を伝う。
それを拭った少年が、呆れたようにため息をつく。
「勝手に自分を殺さないでくださいよ」
「お前は私を殺したいんだろ?」
「まさか。ただ、僕は先生とデートしたかっただけなんですって。その……先生が、好きなので!」
「……」
「ああ~! その目は信じてませんね?! 僕の一世一代の告白を!」
「当たり前だろう。君が接点のない私を?」
「ん~。やっぱ覚えてないんですか? 先生、僕が新入生の頃、移動教室わかんないの助けてくれてですね」
「もっとマシな嘘をつけ」
飛躍した話に涙も枯れ、代わりに頭が痛くなる。
「これが嘘だったらいいんですけどね。でもほんとに。一目惚れっていうんですかね。とにかく、それからずっと見ていくうちに先生のこと、もっと好きになって……」
「……」
言われて記憶を辿ってみれば、新入生に教室を教えたことがあったかもしれない。
「でも、先生モテるから。中々声かける勇気がなくて」
モテると言われても、そこまでのことはないし。男からモテたことはないんだが。
「んで、ずっと見てたら、先生が死にそうになってるじゃないですか。だから僕がすかさず助けたんですよ」
「助けたって、お前が、か?」
「ええ。そこで初めて先生に触れて。その時、幽霊作戦思いついちゃって。後は知っての通り。でも僕、先生に嫌われてもいいから、どうしても1回くらい先生を独り占めしたかったんです」
色々ツッコミたいところはあるが、取っ散らかり過ぎた情報を丸ごと飲み込む。
「ええと……。それなら普通に告白してくれた方が……」
「先生、絶対断りますもん! ただでさえ女子生徒に「生徒と恋愛する気はない」って断ってるくせに」
「そ、それは」
確かにこの前はそう言って断った。というか、それすら見てたというのか?
「ね、先生、僕のこと、どうです?」
「どうって」
「僕とお付き合いしませんかってことです」
じれったいと言いたげに少年が一歩前へ踏み出す。
「そんなの駄目に決まって」
「キスまでしたんだから、付き合うくらいどうってことないですよ?」
「謎理論やめろ」
「でも、気持ち良かったでしょ?」
「は、はぁ!?」
「ふふ。先生、僕は諦めませんよ。もしここで先生が駄目だと言っても、僕は先生のこと、必ず落としてやりますよ」
「開き直るな、諦めろ……!」
「先生は、押せば落ちるかもしれないって今日のデートでわかりましたから、ね」
ちゅっ。
ずいと迫った少年を押し返す暇もなく唇がくっついて離れる。
「なっ。そういうことじゃなく! 私は働けなくなるんだぞ?! というかむしろ警察行きだろ! 私が君を好きになるなんて、そんな次元の話では」
「それなら、大丈夫です」
「は?」
翌日。
何も起きない。
その翌日も、いつもと変わらない。
そうして一週間が過ぎても、何も起こらず、とうとう一カ月が過ぎる。
「あの、私はここに勤めていていいのでしょうか」
流石に焦らされ過ぎて、いっそ殺してくれ状態に陥った私は、校長に話しかけられた折に不安を口にした。しかし、返ってきたのは。
「どうしたんだね。何か悩み事かね?」
「い、いえ……」
全く毒気のない言葉。それとなく探りを入れてみても、誰もあの日のことに触れようとしない。
というか、あの日職務放棄したことすらお咎めなし。記録も無し。ついでに皆の記憶ではしっかり夜まで働いていたことになっているようで。
「どうなってるんだ?」
「だから、大丈夫だって言ったじゃないですか。まだ気にしてたんですか?」
得体のしれない恐怖を感じた私は、仕方なく少年の元を訪ね、正直に問うた。
まだ気にしてたんですかって……、そりゃ気にするに決まっているだろうが!
「どうして君はそう、大丈夫だなんて言い切れるんだ」
「だってそりゃ。僕が魔法で皆の記憶を消しときましたから」
「……私は真面目に聞いているんだが?」
あっけらかんと言い放つ少年に、思わず殺意を抱いてしまう。
「怒らないでくださいってば。でもほら、考えてもみてください。先生、三階から落ちてどうして僕が助けられると思います?」
「それは……。どうしてだ?」
「鏡に先生の姿が映らないようにするのはどういう仕組みなんです?」
「それは……。手品か何かの……」
「僕、魔術師なんですよ」
にこりと笑って見せる少年はやっぱり胡散臭い。
「魔術師って……」
「信じられませんか?」
「当たり前……」
ぽんっ。
言い募ろうとしたが、目の前に花が現れ、押し黙る。
「手品師の間違いなんじゃないのか?」
「何でもいいですよ。とにかく、この件は安心してもらって大丈夫です。先生が死ぬことも、社会的に殺されることも、僕が阻止してあげましたからね」
「後者は明らかに君のせいだろう」
「手厳しいですね」
この少年の言う事はどれが嘘でどれが本当なんだ?
空中に浮いたままの花をつまみ取り、隅々まで観察する。
「種も仕掛けもありゃしないでしょう?」
おどけた少年の仕草。
「……君はどれかというと、ペテン師だな」
「じゃあ大人しく騙されてくださいよ」
「冗談」
くすくすと笑う少年を前にして、あれこれ考えるのが馬鹿らしくなる。
もうこいつが何者でもいい。
「まあ、命の恩人ってことには変わりないからな……。礼は言っておこう」
「そうですね。僕も、えんえん泣いちゃう先生が見れて良かったですよ」
「な……」
「でも、お礼は言葉じゃなく、これでお願いしますよ」
ちゅ。
「あのな……」
「いいでしょ。どうせ僕が魔法でもみ消せちゃうんですから」
一度くっついたくらいじゃ足りないというように、彼の瞳に熱がこもる。
それが再び近づくと同時に、観念して目を瞑る。
蝉が鳴く。茹るように熱く、鬱陶しい日々はまだしばらく続きそうだ。
蝉が鳴く。まるで僕たちを祝福してくれているかのように。熱烈に。
何度口づけても足りない。
暑さのせいで互いの頬に汗が伝う。それでも、熱を帯びてゆく二人の体は離れない。
可愛いなあ。
ようやく手に入れた先生の体を抱きしめる。
抵抗しないんだ……。ほんと、可愛いなあ。
そうやって僕に身を委ねるなんて。ほんと、馬鹿だなあ。
ねえ先生。先生は一体誰に突き落とされたんだろうね。
どうしてそんな簡単な疑問も抱かないんだろうね。
ゆっくりと先生の頭を撫でてやる。
先生は熱に浮かされた瞳をこちらに向ける。
「好きです。ずっと僕の側にいてください」
先生の手に握られてくたくたになった花を、髪に差し込んでやる。
うん。似合うなあ。
一目惚れしたあの日、迷ったときに見つけた先生は、凛としていて。他人を寄せ付けない眉間の皺。組まれた腕。それでいて、細身の体。あれを屈服させることができたなら、どんなに達成感が得られるのだろうか。
そう思った瞬間、声をかけていた。
案の定、呆れられた挙句、怒られた。
人に厳しく。自分にも厳しく。
常に気を張っているその姿は、生き辛そうで。
だから、先生をくたくたにしてやりたくなった。
どうしようもなくなって、僕に縋りつくような。そんな先生が見たくて、自分の力を使った。
僕は普通じゃなかった。
生まれたときから法則を無視した力が使えた。
だから、僕はそれが人にバレないように心掛けた。
目立たないように生きた。
人と違うのが嫌で。孤立するのが嫌で。人に優しくした。例え間違っていようが、人の意見には同調しておいた。へらへらとその場しのぎで生きてきた。
そうすると、ぐんと生きやすかった。
だから、僕は笑って生きてきた。へらへらと。考えることをやめて。
でも。
先生は違った。
世間の波に逆らうように、自分の足でしっかりと立っていた。
耐えながら、歯を食いしばりながら、自分と戦っていた。
そんな人間は見たことがなかった。
そんなことをして何になるのか。
妙に気になった。
「自分の存在がしっかりしている先生が、眩しかったんですよね」
「ん?」
ぼそりと呟いた言葉に先生が反応する。
何でもありません、と笑いかけて、先生の髪を撫でる。
先生を屈服させたら満足すると思った。
思ったのに。
もっと欲しい。もっとこの人を愛していたい。もっとこの人に愛されたい。
「好きだなあ」
泣きたいくらいに目を細めながら、先生を抱きしめる。
「先生、僕を愛してください。僕は、先生が欲しくてたまらない」
一瞬目が合った後、何かを考えるように先生は目を逸らす。
そして。
「それじゃ、まずは君の名前を教えてくれないか」
「え……?」
一瞬の間。
そういえば、僕もまだ先生の名前を知らなかった。
「その反応。まさかとは思うが、君も私の名前を知らないんじゃないだろうな?」
「うっ」
「君は、本当に変な奴だな……。何者でもいいとは思ったが、名前くらいは教えてくれよ」
くつくつと笑う先生はやっぱり好きだ。泣いた顔も好きだけど。笑った顔も見ていたい。
「そうですね」
人の名前なんて、どうでもいいと思ってた。覚えても意味なんてないと思ってた。
他人に興味などなかった。先生のことだって、ほんと、泣かせたら満足すると思っていたのに。
先生の手を取って、手の甲に口づけを落とす。
「僕にも。先生の名前、教えてください」
これほどまで人間らしい欲を覚えたことなんてなかった。これほどまで放したくないと思ったものはなかった。
重なった手のひらに汗が滲みだす。
茹るように熱く、じれったいこの恋は、今まだ始まったばっかりだ。
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