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(6)いじめ入れ替わり
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いじめっこといじめられっこが入れ替わる話。続きます。
加賀 まつり いじめっこ。容姿端麗。性格難あり。
枇々木 なゆた いじめられっこ。デブ。
なゆた×まつりです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「お前キモいんだよ」
誰もいない神社の境内で、目の前のデブを蹴り上げる。
「ううっ」
「んだよ、その目は」
手に砂利を握りながら、こちらをじっと見つめてくるその瞳に苛立ちを覚え、その勢いで襟首を掴みあげて後ろに引きずり倒してやる。
そのまま数歩引きずった後、階段の手前までたどり着く。
「なあ、ここから落ちたらどうなると思う?」
「それは……」
ようやく顔色を変えたそいつを見て笑みが零れる。ああ、やっぱりこいつの不細工な顔が恐怖に歪むのを見るとスカッとするな。
「お前みたいに汚いやつ、ちょっとくらい壊れたっていいよなっ!」
「っ!」
どっ。
掴んだ襟首を放し、太った体を思い切り蹴って階段から落としてやる。が。
「な!」
がくんと視界が下がる。足を引っ張られたのだと気づいたときには遅く――。
「俺がいる……」
目が覚めて体を起こすと、隣に自分の体があった。
幽体離脱。そんな言葉が脳裏をよぎる。
「いてて」
痛む己の足をさする。動かせるところをみると、骨折はしていないようだ。
ん、いや、今は霊体だから動かせるのか? でも痛みはあるし、そもそも、幽霊には足がないんじゃ……。
ぼんやりとする頭を振って立ち上がる。
あれ、やけに体が重いな。
手をぐぱぐぱと動かしてみても違和感しかない。
「というか」
なんだか声も掠れいて……。手を見つめる。食パンを思い起こさせるふっくらとした肉付き。
「え……?」
「んん、あれ」
背後から聞こえる自分の声に振り返る。
待てよ、なんで、どうして俺が動くんだよ……。
恐る恐る自分の顔を触ってみる。
その手触りはとてもぷにぷにしていて。
「もしかして、加賀くん?」
自分の姿をしたそれの問いかけに、いよいよ吐き気がこみ上げる。
やめろ。よしてくれ。そんなまさか。
「もしかして、入れ替わった……?」
爽やかな声で紡がれた悪夢。
「お前は、枇々木なのか……?」
恐る恐る紡いだ声は聞いていてイラつく掠れ声で。
「すごい! 本当に加賀くんになってる……!」
目の前で枇々木が体をべたべたと触りはじめる。
「意味わかんないこと言ってんなよ、お前、キモいんだよ!」
考えることもそこそこに条件反射で殴ろうとする。が。
「痛っ!」
簡単に止められ、腕をねじりあげられる。
「キモいってことはないでしょ。だって今の僕、君だもの。かっこいいでしょ」
「痛い、放せっ!」
「ああ、力加減がわかんないや。ごめんね」
怖い。
本能的にひるんだ体が動かない。
どっ。
「うぐっ」
それを感じ取ったように枇々木が微笑み、腹を蹴る。
「でもさあ。こうなったからには、仕方がないよね?」
「待て……」
「てことで。これからは、とりあえずお互いを演じて過ごそう?」
整った顔を楽しそうに歪ませた後、背を向ける。
慌てて起き上がり追いかけたけれど、のろまな体で追いつくはずもなく……。
高校に入ってすぐ、俺、加賀 まつりは枇々木 なゆたを殴った。
理由なんて特にないけれど。あの醜い姿が目に入るだけでイラついた。だから殴った。それだけだった。
そうすると、もやもやとした気持ちが晴れた。だから、俺はそれから毎日のように枇々木を殴った。
その行為は咎められなかった。なにせ、枇々木は他の生徒からも嫌がらせを受けていた。教師でさえ彼のことを見捨て、嘲笑った。
それでも彼はしかるべき場所に訴えることもしなかった。ただ耐えた。不気味なほどに。
どんっ。
「痛っ!」
『はは。ほんとこいつサンドバッグみてー!』
『おいオレにも殴らせろって~!』
『でもさ~。こいつ最近、全然こざかしいマネしてこないじゃん』
『今更怯えちゃってカワイー』
「誰が怯えてッ」
だんっ。
びくっ。
すぐ側の壁を蹴られて体がすくむ。
『ホラホラそれ。カワイソウ』
下品に笑いあう声に耳を塞ぐ。
殴られ、蹴られ、罵られ。
それでも碌に抵抗できないこの体が憎かった。
いじめっ子たちから解放された頃には体中痣だらけで。
「く、くそ……」
あいつ、いつもこんないじめにあってたのか?
「こんな体じゃ、抵抗できねぇじゃんかよ……」
でもあいつは確かに、どんだけ殴ってもびびったりしなかったな。隙をついて逃げられたこともあったっけ。……俺はびびって動けなかったってのに。
誰にも助けてもらえない。そんな状況がこんなに怖いものだったなんて。
震える手を握りしめる。が、そんなことをしても震えが止まるわけでもなく。
「はぁ、情けねえ」
入れ替わったその日、俺は自分の家に向かった。
枇々木に追いつくことはできなかったが、家族ならば、家族ならばどうにかしてくれるのではないかと思った。信じてくれるのではないかと思っていた。
しかし。
『あら、どちらさま?』
「えっと」
まつりのお友達かしら、と声をかける母親に、どこから話すべきか迷ってしまう。
「ええと……。だから、母さん、俺が……!」
「母さん。そいつ、俺のストーカー」
玄関のドアから青年は顔を出し、見下したような視線をこちらに向ける。
呆然としながらその顔を見ていると、彼はそれを見て更に冷たく微笑む。
そう、自分の皮を被った枇々木 なゆたがそこにいた。当たり前のようにそこにいたのだ。
違う……! そこはお前の場所じゃない。
「母さん、違う、俺だよ!」
『ひっ』
すがるように腕を掴まれた母が、小さく悲鳴を上げる。
「やめろ」
「いっ……!」
母にすがったその手はすぐに引きはがされて――。
「お互いのためだよ」
どんっ。
胸を押されてよろけた隙にドアが閉まる。
閉まる直前、そのわずかな隙間から覗く冷たい瞳は確かに俺を嘲笑っていて。
怖くなって何度も戸を叩く。あらん限りの声で母親に助けを求める。だけど。
『やめてちょうだい! 警察を呼ぶわよ』
嫌悪する母の声。それは紛れもなく今の自分に向けられているもので。
「そんな……」
あっけないものだった。自分の親に説明することもできなかった。そいつは偽物だって。言えもしなかった。そして、母さんだって入れ替わってることに気づきもしなかった。
自分の無力さを思い知った途端、心がすっかり冷え切ってしまった。これ以上母親を脅かしても意味のないことだと分かってしまった。
それからしばらく、生徒手帳に記載された住所を頼りに枇々木の家へと向かった。
その道のりはまるで、泥沼を歩くように重く、何もかもが夢であったのならばと思わざるを得なかった。
「最近どうかな?」
「どうもこうもねえよ、最悪だよ」
教室で塞ぎ込んでいるところに現れ、いけしゃあしゃあと宣う枇々木にありのまま気持ちをぶつける。
こっちが話しかけても無視するくせに……。
「顔に傷がついてるね」
こちらの怒りもどこ吹く風と、枇々木は殴られたばかりの頬を撫でる。
「っ!」
「あぁ、痛かった?ごめんね」
自分の顔で微笑まれても腹立たしいだけだ。
「お前、さっさと俺の体返せよ……!」
「返せって言われてもね。僕だってどうすればいいのかわかんないし」
「お前がやったんじゃねえのかよ」
「まさか。僕にそんな力あるわけないじゃん」
さらりと告げる彼だが、嘘をついている様子もない。
「じゃあいったい誰が」
「ほんと、不思議だよね。夢見てるみたいだ」
「随分な悪夢だな」
「そう? 僕はこのままでも構わないと思うけど」
「……ほんとにお前がやったんじゃないんだよな?」
うっとりとした表情の彼に疑問を抱く。そういえば入れ替わった直後もいやに切り替えが早かった。
「さあ。どうだろうか」
「お前!」
殴りかかった手はあっさりと止められる。
「君の体は綺麗だよね。真っ白で細くて。筋肉がなければ完璧なのに」
「は? お前の体の方が白いじゃねえか。デブってはいるけど。てか筋トレしろよ! 俺の体なんだから」
「そういう君は僕の体で筋トレしてるでしょ?」
シャツの裾を引っ張り出されたかと思うと、そこからいきなり手を突っ込まれる。
「うわっ」
身じろぐ俺に構わず枇々木が腹を撫でまわす。
「放せってば」
「ああ、ごめん。くすぐったかった?」
「お前、ほんとなんなんだよ。俺のこと家から追い出しやがって。何がストーカーだ。ふざけんな」
「あはは。ごめん。でもあの場で君がいくら説明したって、きっと君のお母さんも信じてくれなかったと思うよ。最悪、警察行きなんて僕の体でやってほしくなかったし」
「それは……」
確かにあの様子じゃあきっと信じてもらえなかったんだろうけど。
「でもだからって無視しなくてもいいだろうが」
「なんだ。もしかして傷ついちゃってた?」
「……」
「ごめん。だってさ、いきなり君が僕みたいな奴と親しく話し込んでたらみんなが怪しがるかなって」
「今はいいのかよ」
「だってもうとっくに下校時間過ぎてるよ」
「あ……」
そういえば教室にいた生徒たちもいつの間にやら消えていた。
「いっつも教室に残ってるみたいだけど……厄介な奴らに見つかったらまたいじめられちゃうよ?」
「……他人事みたいに」
「だって今は他人事でしょ」
「お前、調子に乗るなよ……?」
拳を握り、枇々木に突き出してやるが簡単に止められる。そのまま腕を引っ張られ――。
「もしかして、一人になるのが怖い?」
「は?」
耳元で心配そうに囁かれたので、思わず聞き返す。
「いや、前の僕もそうだったから。ほら僕一人暮らしだからさ。ただでさえ友達もいないのに帰っても一人なんて。味気ない人生だよね」
力なく笑う彼の表情が心に刺さる。最近、人と接する機会が減り、心に穴が開いたような気分だった。彼の言う通り寂しかったのかもしれない。
「ごめん。君は強いから大丈夫だと思ってた」
ふわり。
枇々木に抱きしめられる。
なんだよ、慰めてるつもりかよ。
自分の体に抱きしめられるのは何だか変な感じがしたが、その懐かしい香りが心地よく……。
ぎゅ。
「か、加賀君……?」
「え?」
動揺する彼の声で我に返る。
「えっと、悪い」
無意識に抱きしめ返していた手と、胸にすり寄せていた頬を離す。違うんだ。これはお気に入りのクッションを抱きかかえるみたいなそんな感じで……。
しばらくの沈黙。
「な、なんか言えよ」
「あ、うん。その、ごめん……」
彼が複雑な表情を浮かべる。俺ってあんな顔できるんだな。じゃなくて。
そりゃキモイよな。抱きしめられるならまだしも、自分にすり寄られてるなんて。顔が整ってると自負している俺ですら想像するとちょっと無理だ。
「と、とにかく、はやく戻る方法を見つけろ。俺もなんとか調べるから」
「うん、そうだね。君の体も悪くないかなって思ったんだけど……」
何か言いたげにこちらを見つめる。
「ああ、わかったから! これからは協力し合おう、な?」
「うん。わかったよ」
頷く枇々木にそっと安堵の息を漏らす。
大丈夫。こいつと協力さえできればきっと原因もわかる。……そうでなくちゃ、困る。
それからしばらく、色々と試してみたけれど元に戻ることはなく。
『加賀君、これ良かったら』
「わ。これ手作り? すごいね」
クラスの女子にお菓子を渡されている枇々木を遠くから見つめる。
『加賀君、甘いの大丈夫なの?』
「うん。好きだよ」
『あ、そうなんだ……』
好きだと言われた女子の頬が赤くなる。
『え~! じゃあ私もこれあげるよ』
他の女子もなんやらかんやら次々と枇々木に手持ちのお菓子をあげてゆく。
なんだよあれ。俺の時には誰も近づいてこなかったくせに。
『なんかさ、最近の加賀君良くない?』
『わかる。優しくなったっていうかー』
俺と同じく遠くから彼を見つめていた女子たちがきゃっきゃと騒ぎあう。
わかってる。前の俺がクラスメイトから距離を置かれてたことくらい。俺はとにかく愛想がなかった。他人を気遣って笑顔振りまくなんて真似ができなかった。
けどこうして見ると、様になるもんだな。
ぼんやり見つめていると、視線に気づいたのか彼がこちらを向く。
ばっ。
思わず顔を伏せる。なんだか今の自分がひどく惨めに思えて……。
『ひ~びきくん』
「っわ」
くだらない物思いにふけっていると、背中を思い切り叩かれる。
『暇ならオレたちと遊ぼうぜ~』
「な、誰が、放せ、」
話しかけてきたのは日ごろから枇々木をいじめている男子生徒だった。
ここ最近は“俺”が“枇々木”をいじめなくなったせいか頻繁に揶揄ってくるようになっていた。
「やめろっての!」
『暴れんなって』
抵抗も虚しく強引に腕を引っ張られ、人気のない廊下まで連れてこられる。
『ストレス溜まっちゃったからさ~。また殴らせてよ』
けたけた笑う彼らを見て自分の姿と重ねる。
あぁ、俺もちょっと前までこんなんだったんだな。
クラスメイトが次々と俺の腹に、拳や蹴りを入れてゆく。
「ぐぇ」
痛い。なんだよこの腹、ぷにぷにのくせに防御力ねえの。
暴言。暴力。そして耳障りな笑い声。何が楽しいんだ、これ。俺は、枇々木にこんなに辛い思いをさせていたのか。
床に思い切り頭を叩きつけられる。
「っ」
ああ。もういっそ、このままでもいいのかもしれないな。
あいつはあの姿の方がきっと上手くやれるだろう。
女子に囲まれていたその姿を思い浮かべる。
あいつが俺であることが世間的に正解ならば。
胸ぐらを掴まれ、窓まで引きずられる。
『泣いて謝れよ。そしたら許してやるからさあ』
「うっ」
上半身が窓の外にはみ出る。
ああ。このまま後ろに倒れれば――。
どっ。
『うげっ』『ぐえっ』『ぎゃっ』
暗い思考が頭をよぎった瞬間、悲鳴が聞こえ、腕を強く引っ張られる。
勢い余ってぶつかったそれはやっぱり懐かしいにおいがして。
「大丈夫?」
「……放せ」
心配そうにのぞき込む枇々木の腕を払う。
『おい、なにすんだよ加賀』
殴られたクラスメイトが枇々木に掴みかかる。
「なにって。君たちこそなにしてんのさ」
『う……』
枇々木の鋭く冷たい視線に彼らがたじろぐのがわかる。
『なんだよ。加賀がこいつで遊ばねーから、オレらがちょっと遊んでやっただけで、』
「そういうのもういいから。消えろ」
枇々木の瞳に殺意がこもる。
『ひっ』
元から俺に逆らえなかった軟弱グループが、そんな視線を浴びて怯えないわけがなく、そそくさと逃げてゆく。
「それで。なんでお前がここにいるんだよ」
「万が一にでも死なれたら困るからね」
そう呟くと、枇々木がこれ見よがしに開け放たれたままだった窓を閉める。
「……お前はこの体に戻りたいのか?」
「なぁに? 君は戻りたくないの?」
素直な言葉が心に刺さる。
「……お前が俺になれば完璧な俺ができる」
「うん」
「だったらお前は俺のまま生きた方が幸せなんじゃないか?」
俺だって戻りたくないわけじゃない。だけど、今の状況を見ていると、今更自分が戻ったとしても……。
枇々木の方を見つめる。俺の目から見ても、今の“俺”の方がいかにも好青年で――。
「別に。それって僕が幸せなんじゃなく、周りが気持ちいいだけじゃん」
彼は迷うことなくはっきりと告げた。
「でも、今のお前の方が絶対必要とされてるし……」
「加賀君ってばそんなこと考えてたの? 君がそんなに弱気になるなんて、僕は思いもしなかった」
「そんなの、俺だって……。あ~、この体が、うん、きっとこの体が不健康だから思考も自然とそうなって……」
しどろもどろに言い訳する俺に枇々木が笑う。
「今は君の評価が下がんないように愛想よく振る舞ってるけどさ、別に僕はみんなからモテたいわけじゃないもん」
「俺はてっきり、お前が俺の体を気に入って乗っ取りたいのかと」
「……まさか。僕だって元に戻りたいよ」
そのためにもお互い今の立場を守っていかないとね、と枇々木が微笑む。
ふと自分の腹を撫でてみる。痛い。きっと痣になるのだろう。
俺は、今まで散々嫌がらせをしてきたというのに。その分仕返しされたとしても文句を言えないだろうに。
「あ、あのさ、俺、今更だけどさ、」
「あぁ、謝らなくても大丈夫だよ。君がしたことが消える訳じゃないしね」
「……やっぱ、怒ってるんだろ?」
「いじめられて、今更自分のしたことに気づいた?」
「……ごめん」
「謝らないでよ」
しおらしく首を垂れる俺の頬を枇々木がつねる。
「痛っ、」
「あはは。ぷにぷにだ」
「お前の体だろうが!」
何が楽しいのかぷにぷにとほっぺをこねくり回した後、枇々木が自分の頬を撫でる。
「そう。でも今はこの体が僕のものなんだよねぇ」
「……枇々木?」
「僕が死んだら君も死ぬ。君が死んだら僕も死ぬ。それってなんだか素敵だね」
枇々木がうっとりと自分の手の甲に口付ける。
「どういう意味だ?」
「ふふ、君にはわかんないだろうね。でもそれでいいよ。とにかく、その体で死のうだなんて思わないでくれよ。僕に償いたいというのならばね」
「……」
「そんな顔しないでよ。君はただ解決策を探し出すまで僕として生きる、それだけのこと」
「うう……」
やだ、キモい。くすくす。
ふらふらと走る俺を追い越して、女子が次々に陰口を叩く。
ああ、駄目だ。足に力が入らない。
吐き気を抑えながら、俺は太陽が照り付けるグラウンドにしゃがみ込む。
体育の授業が、走ることが、こんなに苦しいだなんて。
やはり、少し無理をしすぎただろうか。
「枇々木くん。大丈夫?」
滲む視界に差し伸べられた手を素直に取る。
「先生、連れていってもいいですか?」
『あぁ頼む』
『えー優しいー!』
すっかり女子からの人気を獲得した枇々木を、肩を貸してもらうついでにぼんやりと見つめる。
「お前、今、王子様とか騒がれてんだぜ……」
「はは。好きでもない子に騒がれてもね」
「ふ……。お前、ほんとなんていうか、デブのくせにクールだよな」
「クールってかドライなだけだよ」
「ドライな奴が肩貸してくれるかよ」
「そりゃ君は特別だからね」
特別、か。そりゃ当たり前だろう。なにせ自分の体なんだから。
「他意はないにせよ、お前ってほんと怖いな」
「君に怖がられちゃ、僕だって悲しむけど?」
軽口を叩く枇々木から何となく目を逸らす。
天然たらしというのだろうか。今まで知らなかったが、彼はどうも言葉が直球すぎる。聞いてるこっちが恥ずかしくなるくらいで――。
「っとほら保健室着いたよ。あれ、先生いないや」
ベッドに着き、借りていた肩を離す。
「悪かった。もう、大丈夫だか……」
言い終わるより先に枇々木が俺の額を撫でる。
「どうせ僕の体で無理したんでしょ」
「う……ごめん」
このところ毎日のように無理なトレーニングを重ねていた。一人でいる時間が多すぎて、暇さえあれば体を苛め抜いていた。それに、もし一生この体で生きていかなければいけないとなると、ぞっとした。暴力に対抗する力が欲しかった。
だけど結局そんな独りよがりな思いが、こんな事態を引き起こしてしまうなんて。かっこ悪いにもほどがある。
「僕の顔で謝られてもねぇ。あ、やっぱりちょっと痩せてきたよね」
ひたと頬に手を添える。
「ん」
するすると撫でるその手が冷たくて心地よくて思わず目を閉じる。
「はー。やっぱ早く元に戻る方法を見つけよ」
「悪いが、体鍛えるのは止めないからな」
額に手を当て、ため息をつく枇々木に、お前のためでもあるんだぞ、と訴える。
「それはいいけど。いや、むしろ歓迎。鍛えてくれてありがとう」
勝手にしたことだったが、許可を得られてほっとする。
「お前は俺の体ちゃんと鍛えてるんだろうな?」
「もちろん。君が一生懸命やってるんだから僕もそれに応えなくっちゃあね」
「一人じゃ心配だから送るよ」
「いや、そんな大したことないって」
放課後、心配して見に来た枇々木の申し出に手を振り断るが。
「それに、僕も久々に自分の部屋を見たいからさ」
そう切なげに言われてしまうと、断れなかった。ホームシックになる気持ちはわかる。叶うことなら俺だって自分の部屋に帰りたいと思うから。
「なんだ。綺麗にしてるんだ」
「一応、人ん家だし。漁ったりもしてないから安心しろ」
鞄を下ろしながらきょろきょろと見回す枇々木に弁解しておく。
「ごめんね。僕だけこんなわがまま言って」
「別に、俺ん家は家族居るから入れないし」
どっかの誰かさんがストーカー扱いするし、とこれ見よがしの文句を付け足してやると、枇々木が困ったように笑う。
「うん。あれは酷かったね。ごめん」
「あっさり謝んなよな。調子狂う」
「ごはん、なんか作るよ。君、ろくに食べてないんだろう?」
ゴミ袋に入ったカップ麺の容器を見ながら枇々木が台所に立つ。
「それは……掃除はできたんだけど、料理はどうも、」
今まで何も考えずに生きてきたけれど、一人暮らしを強いられてようやく母親のしてきたことに気づいた。
「君のお母さん、すごいスピードで家事こなしてるもんね。手伝う隙も無いよ」
帰る途中にスーパーで買った野菜を刻みながら、彼が苦笑する。
「料理もすごくおいしくて。君のお父さんも優しくて面白い人だし、妹さんもすごく可愛い。僕はね、みんなでご飯を食べる度に、家族がいる幸せを分けてもらっているんだよ」
「お前の家族は……?」
「死んだよ。父さんは事故で。母さんはそれを追うようにして自殺したんだ」
「ごめん」
「いいんだ。もう随分昔のことだし。財産をたっぷり残してくれてたお陰で、お金には困ってないし」
だからそんなに太っちゃったんだけどね、と枇々木はこっちを指さしてへらりと笑う。
「枇々木……」
「ごめんね、本当なら加賀君の場所なのに。一人は寂しくない?」
「……俺にはお前がいるから大丈夫だよ」
「それ、素で言ってる?」
「茶化すなっての。今はお前が色々助けてくれるから、その……」
感謝してる、と呟く。過去の自分は彼に、救いどころか被害をもたらしただけだというのに――。
「やっぱり、俺は戻らなくてもいい。お前が幸せならそれで……」
「は~。なんでそんなこと言うかな」
枇々木が大げさにため息をつき、額に手をやり天井を仰ぐ。
「俺、思うんだよ。これってもしかして俺がお前に酷いことした罰なんじゃあないかって」
「そんな道徳的な話……」
笑い飛ばそうとした枇々木が俺を見て止まる。
「……」
「駄目だよ」
俯く俺の手を枇々木が優しく包み込む。
「そんなこと、僕はもう望んでない。君が笑ってくれなきゃ僕は幸せなんかになれないよ。……とにかく、絶対に戻ろう。もう一度真剣に方法を探すから、ね?」
「お前は、本当に優しいな」
「それは……どうだかね。僕は加賀君の方がよっぽど優しいと思うけど」
その慈しむような瞳が心地よくて。ああ、できることならばずっとこのままでいたいとさえ思ってしまう。けれど。
「わかった。戻れるように努力しよう。俺も弱気になり過ぎてた」
枇々木の手をやんわりと引きはがしながら笑って見せる。
枇々木は強い男だと思った。俺の体のままならば枇々木は幸せに暮らせるだろうに。それを望まないなんて。いや、そもそも自分をいじめていたいやつの体で過ごすなんて嫌か。……本当はこいつも俺のことが嫌いなんじゃないだろうか。ああ、俺は今まで考えもしなかった。
彼の方を見つめる。その微笑みすらもが本心なのかわからない。
どうしてその可能性に気づかなかったのだろうか。俺はいつだってそうだ。相手に合わせることをしないくせに、周りには求めてばかり。枇々木のことだって、何にも知らなかった。家族のことだって、枇々木の気持ちだって何一つわからないでいた。
なあ、枇々木。お前は、俺のことが嫌いなのか?
その簡単な問いかけすらできなくて。後悔してももう遅いというのに。
「は? 入れ替わった原因がわかったかも?」
「うん。確信は持てないんだけど」
あれからしばらく、変に意識して枇々木と距離を置いていたのだが。
ついに戻れるときが来てしまったのだろうか。
「ここまできて焦らすなよ」
心にもないことを言って笑って見せる。俺にはもう、そうすることしかできない。たとえ元に戻って、そのまま距離を置かれたとしても。悲しがる資格なんてないし……。
「……女の子が笑ってたんだよ」
「女の子?」
何のことかわからずそのまま聞き返す。
「うん。僕らが落ちる前に、確かにこっちを見てて」
「いなかったぞ、そんなの」
暴力行為の手前、周りに人がいないかちゃんと確認したが女の子なんて見ていない。
「……やっぱり」
なんだ。勘違いか。枇々木の呟きにほっとしかけるが。
「探しに行こう」
「え、見間違いだったんだろ?」
はっきりとした意志を感じる枇々木の瞳。それを戸惑いながら見つめ返す。
「ううん。きっといたんだ」
「だとしても、今行って、いるわけないだろ」
確かにあの場所しか手掛かりがない以上、行くしかないのだろうけれど――。
「いや、多分……いる」
「なんでわかんだよ」
どうしてそんな確信めいたことが言えるのか。
「僕のこと、信用できない?」
苦笑しながら差し出される枇々木の手。
「……しょうがねえな」
それをぶっきらぼうに引っ手繰る。
もしも、もしもこれで戻れたのならば。きっとこの芽生え始めた感情にしっかり蓋をしよう、と決意しながら。
「ほら、やっぱりいたよ」
境内に着き、離された手を名残惜しく思っていると枇々木が静かに言った。
「は? いないじゃん」
慌てて辺りを見回すが、目に映るのは人気のない寂れた神社。猫一匹すらいないのだが……。
「幽霊だよ」
虚空を見据えたままに枇々木が呟いた。
「僕さ、昔からよく見えてたんだ。だから周りから気味悪がられて。いじめられるようになったんだよ」
幽霊なんてそんなまさか、と言いたかったが、どうも嘘をついているようには見えない。
「君はそんな理由でいじめてたわけじゃないみたいだけど」
まぁ、近頃はほぼ外見のせいなんだけどね、と自嘲気味に枇々木が笑う。
「やっぱり信じないよね」
「……いや、俺はお前を信じるよ」
自分でもびっくりするくらい素直な返事だった。案の定枇々木も少し驚いて、少し笑った。
「みんなが君みたいに信じてくれたらよかったのに」
『そしたらお兄ちゃんは幸せなの?』
「ん?」
頭に響くように女の子の声が聞こえて、思わず振り返る。
『ここだよ』
ふわり。
見上げると、白いスカートを靡かせた幼女が枇々木の隣に現れる。
「なっ――!?」
突然現れた不思議な存在に思わず尻餅をつく。
「大丈夫?」
差し伸べられた手を取りながら、女の子と枇々木の顔を行ったり来たりと見つめる。
「お、お前、なんで平気なんだよ……」
「だから、僕はそういうのが見えるんだって」
「なんで俺まで見えんだよ!」
『お兄ちゃんには特別。見えるように私が力を使ったの』
「な、なんだよそれ」
『……やっぱりお兄ちゃんも信じないの?』
舌足らずな言葉とは裏腹に仄暗い狂気を交えた瞳とかち合う。
「……いや。信じる」
返事をした後、俺は無意識に枇々木を盗み見る。その横顔は、相変わらず整った俺の顔だ。だいたい、体が入れ替わるとかいう不思議なことが起こってる時点で普通じゃないし。それに、今の俺は枇々木を信じている。
「加賀君?」
不思議そうに見つめ返されると、視線がかち合う前に逸らしてしまう。日に日に酷くなる胸の痛み。その女々しさを断ち切るように首を振り、女の子に向き直る。
「お前、悪い霊とかじゃないよな?」
『それはお兄ちゃん次第だよ』
にこりと微笑む女の子はやはり人間のそれとは違う独特の気を纏っている。
「でも、こいつが入れ替わった原因なんだろ……?」
女の子から目を逸らし、枇々木に問いかける。
女の子が笑ってたとか言い出した時には、それと入れ替わった原因とがどう関係してるのか結びつかなかったけれど。
「うん。そうだよ、ね?」
枇々木が女の子に問いかけると、女の子はにこりと笑う。
「待て、本当に悪い霊じゃないのか?」
「僕は悪い子じゃないと思うけど」
何の根拠があってか枇々木が女の子を見て言う。
「じゃあ、なんで俺たちを入れ替えたんだよ」
『それは』
至極真っ当な疑問をぶつけると、女の子が枇々木の方を見る。それを受けて枇々木はゆったりと口を開き――。
「僕が思っちゃったんだよね。君に絶望してもらいたいってさ」
こちらを真っすぐに向き、はっきりと復讐の意を告げた。
ああ。なんだ。やっぱり俺のことを恨んでるんじゃないか。
「前にこの神社に来た時、この子が犬に追いかけられてて――」
助けたお礼に願いを叶えてくれたのだろうと、枇々木が説明する。
しかし、その話も喋る声も曖昧にしか耳に届かない。
心のどこかで思っていた。愛だの恋だのの感情を抜きにしても彼とはこれから先仲良くできるんじゃないだろうかと。困難を乗り越えて、和解できるのではないかと。
でも、それは勝手な思い込みだった。俺はこんなにも枇々木のことが好きなのに。いや、そんな想いこそが勝手だ。酷いことをしておいて何が好きだ。俺はただ枇々木から憎まれているだけじゃないか。だったら。
「気分悪い?」
「……お前さ、俺のこと恨んでるんだったら、さっさとこいつに『俺を殺せ』って願えばいいじゃん」
『私を便利屋扱いしないでよ』
ぷんすかと怒った口調で言う幽霊を無視して意地悪く笑って見せる。
「入れ替わるなんて生ぬるいことして馬鹿みたいに馴れ合ってさあ」
「加賀君?」
「枇々木、俺はお前が嫌いだ」
真っすぐに枇々木を見据えて嘘をつく。
「なあ、枇々木。お前もそうだろう? 俺のことが大嫌いだろ? 憎くてたまらないんだろ? だったら……」
「加賀君ってさ、ほんと馬鹿だよね」
「は?」
「僕のことが嫌い? それってホント?」
「……当たり前だろ」
「その言葉、後悔するよ」
ワントーン低めのその声に蹴落とされるも踏みとどまる。
「ね、お嬢ちゃん、すごく勝手なお願いだってわかってるんだけどさ。元に戻してほしいんだ」
『本当元に戻っていいの? 幸せになれると思うの? 今のままがいいんじゃないの?』
「確かに、今のままの方が僕にとっては都合がいいことが多い」
「……」
「でもね。このままじゃ、本当のことも伝えられないんだ。やっぱりね、正しい姿であるべき未来をいかなきゃいけないって気づいたんだ。たとえそれが僕にとって思い通りにならなくても」
『一応聞くけど、そっちのお兄ちゃんも、いいの?』
「俺は……どっちでも。このままだろうと元に戻ろうと、これ以上こいつに関わるつもりはねえよ」
そう。これ以上一緒にいることはできない。自分が嫌われていると知りながら相手を想うことがどんなに辛いことか。これ以上好きになってしまうのは、怖い。
『そう……。わかったわ』
少女が神妙に頷き手招きをする。少女に近づき、一体どんな術式が行われるのかと息を飲んでいると――。
『それじゃあキスをして』
「え?」「は?」
満面の笑みで少女が言った。
「本気で言ってんのか、それ」
幽霊の悪質な冗談に付き合っている気分ではないんだが。
『冗談じゃないもん! お互いの魂を入れ替えるには口と口とで繋がらなきゃいけないの!』
「ん? じゃあそれって最初に入れ替わった時も……?」
『もちろん。お兄ちゃんたちぶちゅっとやってたよ』
まあ、その後すぐに頭ぶつけて気を失ってたから覚えてないのも無理ないかもね、と少女が笑う。
「俺のファーストキスが……」
「なんだ、加賀君って童貞どころかキスもしたことなかったんだ。意外」
「どっ、何でお前が知って……! じゃなく、えっとだな! そういうの全部面倒くさかったんだよ!」
今まで告白されても面倒くさいからと全部断っていたし、愛だの恋だのに興味などなかった。それなのに……。
『じゃあ一回も二回も変わんないって』
さっさとやっちゃって! と女の子が急かす。
「そんなこと、できるわけ!」
「加賀君、これも戻るためだと思って……。お願い」
「っ……、わかったよ」
ここで駄々をこねてもかっこ悪いだけだ。それよりもさくっと終わらせて、全部忘れよう。それに、最後の思い出にぴったりじゃないか。
「加賀君、目、瞑って」
「お、おう」
むに。
唇が触れ合う。
ああ、これで終わるんだ。この恋も。いや、未練がましく思うのはやめよう。
そう思い、一秒でも早く唇を離そうとしたとき。
「ちょっと待て、んんっ!」
舌が音を立てながら絡み合う。
なんだよ、これ……。溢れてくる涙で視界が霞む。抵抗しようとするけれど、快楽に溺れた脳が体を麻痺させてゆく。
「ん、んんんっ」
ぐちゃぐちゃに乱された口内から唾液が溢れるのも拭えないままに、体が茹ってゆくのを感じる。
「ん……、ぷは!」
一瞬意識が飛んだ後、唇が離される。
そして、余韻の覚めぬままぼんやりと瞳を開くと……。
「ほんと、君はわかってないなぁ」
枇々木の腕に、抱き締められていた。
「あ……」
体の違和に気づき、枇々木の顔を見ると、元の姿に戻っていて……。
「よかった。ちゃんと戻れたみたい」
「ああ……。って、わ、悪い!」
慌てて枇々木の腕を引き剥がそうとするが、上手く力が出ない。
というか、相手の力が勝っていて――。
「はは。君が僕の体を鍛えてくれたのと、僕が君の体を鍛えてなかったお陰だ」
「お前、嘘ついてたのかよ!」
「その方が都合よかったんだ」
「なるほどな」
「ごめん。君には悪いと思ったけど」
「ん。遠慮はいらねえ」
目を瞑って顔を突き出す。
「?」
「やるんだろ?」
「えっと、何を?」
「あ? 俺に復讐。殴るつもりじゃねえのかよ」
そのために俺の体弱らせてたんだろ、と悪態をつく。
「あ~」
「お前の気が済むまでやれよ」
「……それじゃあ」
ちゅ。
「は?」
音を立てて離れてゆく唇に思わず目を開ける。
「あのね、君ってば全然気づいてないみたいだけどさ、僕は……」
呆然としているところに手を取られる。そして。
「まつりのことが好きだよ」
「な」
手の甲に口づけを落とされた後、告白された。告白された……??
「入れ替わった時、最初は本当にいじめてやろうって思ってたんだよ? でもね、あまりにもまつりが、か弱過ぎて。いつの間にか復讐心よりも庇護欲の方が上回って。それで……」
「それも嘘か?」
「……僕を疑う?」
「だって、お前は俺のこと、嫌いで」
「誰もそんなこと言ってない。君ってばほんと……意外と女々しいよね」
「女々しいって……この流れで信じる方がおかしいだろ。俺はお前に酷いことしてきたのに」
「どうしても信じないんだ」
「……それは」
「じゃあ信じてくれるまで君を離さない」
「んっ」
宣言した瞬間、再び唇が重なり合う。
「んんんっ、っは、ん……」
抵抗しようとじたばたしても、簡単に押さえつけられて意味をなさない。次第に深く絡み合うその甘さに耐え切れなくなって、腰砕けになる。
「ごめん。だけど、この気持ち、止められるものじゃないから」
真剣でいて少しの欲情を含んだその瞳にどきりとして目を逸らす。
「お前、ほん、とに……」
「だから、そう言ってるじゃないか」
「……いじめられて好きになるとか、ドMかよ」
精一杯皮肉ってやるが、へたりこまないよう枇々木にしがみつくのがやっとでは、どうも格好がつかない。
「別にいじめられたから好きってわけじゃないし。それに僕、どちらかというと逆だけどね」
髪をなで、掻き上げられたかと思うと、あからさまなリップ音を立てた口づけが落とされる。
「ん、……逆?」
「君をいじめたくなるくらい好きってこと」
サドじみたその発言も、痩せて洗練された容姿で言われると中々、サマになっていてムカつく。
「こんな僕だけど、まつりを想うことを許してほしい」
「お前さ、痩せてから女子がキャーキャー言い出したの知らねえの?」
「知ってる。めちゃくちゃ感謝してる」
「しかも、いじめてきたやつらお前がボコってから、ちょっかい出してこないし」
「それもめちゃくちゃ感謝してる」
「その外見でお前の性格に戻ったら、今の俺より人気出るのは明らかだ」
「それは買いかぶり過ぎだと思うけど。……それで、返事は?」
「う……」
ずいと寄られて、つい言葉が濁る。
「返事くらいは欲しいんだけどな」
「お前、本気で……?」
「好きだよ。君が、まつりが好き。大好き」
「ま、待て、そんな何回も言うな。ていうか名前で呼ぶな」
「名前も呼ぶし、何回でも言うよ。だって、この気持ちはもう抑えられないから。僕は君が欲しい。ねえ、許してほしいんだ。君を想うことだけでも、許してほしいんだよ、まつり」
真っすぐに向けられた視線から逃れようとする気持ちをぐっとこらえる。
「……俺の方が!」
「?」
「俺の方が、お前に許してもらう立場だろ……。枇々木、お前を他の奴らに取られたくないよ」
「それって……」
「だー! わかんねえけど! 多分お前のこと……」
「うん」
「す……」
「す?」
「ええと」
ちゅ。
視線を泳がす俺の額に諭すようなキスを枇々木が落とす。
「で、なんて?」
「お前なあ。あーもう、どうせ、お前のこと好きだよ!」
「愛してる?」
「愛してる!」
自棄になって叫ぶ俺の頬を引き寄せた枇々木が、嬉しそうに微笑んで。もう何度目かわからない口づけを交わした。
「お前さ、たまにでいいからウチに来いよ」
「え?」
「俺もお前んち遊びに行くからさ。だから、寂しいときは、その」
「慰めてくれるの?」
「そういう意味じゃないからな」
「はは。まつりってばエッチだね」
「お前がにやにやしてるから言ったんだろ」
「可愛い」
「んっ」
「ねえ、まつり。実は僕も君の体鍛えてたんだよ」
「は? どこがだよ。筋肉落ちまくってんじゃねえか」
「ふふ。いい感じに仕上がってるはずだよ。中々大変だったんだから」
そう言いながら、枇々木が俺の腹をつつと撫でる。
「ん?」
腹筋はどう見たって落ちているんだが。
『お兄ちゃんたち、そろそろ私の存在を思い出してほしいんだけど』
「うわっ!」「は~。いいとこだったんだけどな」
二人の間に、突然にゅっと現れた少女に肝を冷やす。……そういえば、完全に忘れてた。
『あのねえ、ここ一応神聖で可愛い私の神社なんだけど』
「私の?」
『そう』
聞き返すと、少女がすっと目を瞑って。
ぶわり。
大量の桜の花びらが少女を覆い、一瞬姿が見えなくなる。
「何……?」
桜が晴れて、その姿が見えるようになったときには、そこに少女の姿がなく。
代わりにそこに立っていたのは立派な尻尾を楽しそうに揺らした狐だった。
『縁結び、専門外だったけど上手くいって良かったよ』
目を細め、それだけ言い残した狐は、こんこんこんと笑いながら社に消えていく。
「幽霊じゃなかったのかよ……」
「うん。どうやら守り神様だったみたいだね。ふふ。まつりってば狐につままれたような顔してる」
「うるさいな……!」
それから、二人で手を合わてお礼を言って。どちらからともなく手をつないだ。
「ね、今から僕のウチに来ない?」
「なんだよ、さっそく寂しくなったのかよ」
「うん。まあそういうこと」
にっこりと意味ありげに笑う枇々木に首をかしげる。
その後、その意味を知って少しだけ枇々木を恨んだのだが、それはまた別の話。
加賀 まつり いじめっこ。容姿端麗。性格難あり。
枇々木 なゆた いじめられっこ。デブ。
なゆた×まつりです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「お前キモいんだよ」
誰もいない神社の境内で、目の前のデブを蹴り上げる。
「ううっ」
「んだよ、その目は」
手に砂利を握りながら、こちらをじっと見つめてくるその瞳に苛立ちを覚え、その勢いで襟首を掴みあげて後ろに引きずり倒してやる。
そのまま数歩引きずった後、階段の手前までたどり着く。
「なあ、ここから落ちたらどうなると思う?」
「それは……」
ようやく顔色を変えたそいつを見て笑みが零れる。ああ、やっぱりこいつの不細工な顔が恐怖に歪むのを見るとスカッとするな。
「お前みたいに汚いやつ、ちょっとくらい壊れたっていいよなっ!」
「っ!」
どっ。
掴んだ襟首を放し、太った体を思い切り蹴って階段から落としてやる。が。
「な!」
がくんと視界が下がる。足を引っ張られたのだと気づいたときには遅く――。
「俺がいる……」
目が覚めて体を起こすと、隣に自分の体があった。
幽体離脱。そんな言葉が脳裏をよぎる。
「いてて」
痛む己の足をさする。動かせるところをみると、骨折はしていないようだ。
ん、いや、今は霊体だから動かせるのか? でも痛みはあるし、そもそも、幽霊には足がないんじゃ……。
ぼんやりとする頭を振って立ち上がる。
あれ、やけに体が重いな。
手をぐぱぐぱと動かしてみても違和感しかない。
「というか」
なんだか声も掠れいて……。手を見つめる。食パンを思い起こさせるふっくらとした肉付き。
「え……?」
「んん、あれ」
背後から聞こえる自分の声に振り返る。
待てよ、なんで、どうして俺が動くんだよ……。
恐る恐る自分の顔を触ってみる。
その手触りはとてもぷにぷにしていて。
「もしかして、加賀くん?」
自分の姿をしたそれの問いかけに、いよいよ吐き気がこみ上げる。
やめろ。よしてくれ。そんなまさか。
「もしかして、入れ替わった……?」
爽やかな声で紡がれた悪夢。
「お前は、枇々木なのか……?」
恐る恐る紡いだ声は聞いていてイラつく掠れ声で。
「すごい! 本当に加賀くんになってる……!」
目の前で枇々木が体をべたべたと触りはじめる。
「意味わかんないこと言ってんなよ、お前、キモいんだよ!」
考えることもそこそこに条件反射で殴ろうとする。が。
「痛っ!」
簡単に止められ、腕をねじりあげられる。
「キモいってことはないでしょ。だって今の僕、君だもの。かっこいいでしょ」
「痛い、放せっ!」
「ああ、力加減がわかんないや。ごめんね」
怖い。
本能的にひるんだ体が動かない。
どっ。
「うぐっ」
それを感じ取ったように枇々木が微笑み、腹を蹴る。
「でもさあ。こうなったからには、仕方がないよね?」
「待て……」
「てことで。これからは、とりあえずお互いを演じて過ごそう?」
整った顔を楽しそうに歪ませた後、背を向ける。
慌てて起き上がり追いかけたけれど、のろまな体で追いつくはずもなく……。
高校に入ってすぐ、俺、加賀 まつりは枇々木 なゆたを殴った。
理由なんて特にないけれど。あの醜い姿が目に入るだけでイラついた。だから殴った。それだけだった。
そうすると、もやもやとした気持ちが晴れた。だから、俺はそれから毎日のように枇々木を殴った。
その行為は咎められなかった。なにせ、枇々木は他の生徒からも嫌がらせを受けていた。教師でさえ彼のことを見捨て、嘲笑った。
それでも彼はしかるべき場所に訴えることもしなかった。ただ耐えた。不気味なほどに。
どんっ。
「痛っ!」
『はは。ほんとこいつサンドバッグみてー!』
『おいオレにも殴らせろって~!』
『でもさ~。こいつ最近、全然こざかしいマネしてこないじゃん』
『今更怯えちゃってカワイー』
「誰が怯えてッ」
だんっ。
びくっ。
すぐ側の壁を蹴られて体がすくむ。
『ホラホラそれ。カワイソウ』
下品に笑いあう声に耳を塞ぐ。
殴られ、蹴られ、罵られ。
それでも碌に抵抗できないこの体が憎かった。
いじめっ子たちから解放された頃には体中痣だらけで。
「く、くそ……」
あいつ、いつもこんないじめにあってたのか?
「こんな体じゃ、抵抗できねぇじゃんかよ……」
でもあいつは確かに、どんだけ殴ってもびびったりしなかったな。隙をついて逃げられたこともあったっけ。……俺はびびって動けなかったってのに。
誰にも助けてもらえない。そんな状況がこんなに怖いものだったなんて。
震える手を握りしめる。が、そんなことをしても震えが止まるわけでもなく。
「はぁ、情けねえ」
入れ替わったその日、俺は自分の家に向かった。
枇々木に追いつくことはできなかったが、家族ならば、家族ならばどうにかしてくれるのではないかと思った。信じてくれるのではないかと思っていた。
しかし。
『あら、どちらさま?』
「えっと」
まつりのお友達かしら、と声をかける母親に、どこから話すべきか迷ってしまう。
「ええと……。だから、母さん、俺が……!」
「母さん。そいつ、俺のストーカー」
玄関のドアから青年は顔を出し、見下したような視線をこちらに向ける。
呆然としながらその顔を見ていると、彼はそれを見て更に冷たく微笑む。
そう、自分の皮を被った枇々木 なゆたがそこにいた。当たり前のようにそこにいたのだ。
違う……! そこはお前の場所じゃない。
「母さん、違う、俺だよ!」
『ひっ』
すがるように腕を掴まれた母が、小さく悲鳴を上げる。
「やめろ」
「いっ……!」
母にすがったその手はすぐに引きはがされて――。
「お互いのためだよ」
どんっ。
胸を押されてよろけた隙にドアが閉まる。
閉まる直前、そのわずかな隙間から覗く冷たい瞳は確かに俺を嘲笑っていて。
怖くなって何度も戸を叩く。あらん限りの声で母親に助けを求める。だけど。
『やめてちょうだい! 警察を呼ぶわよ』
嫌悪する母の声。それは紛れもなく今の自分に向けられているもので。
「そんな……」
あっけないものだった。自分の親に説明することもできなかった。そいつは偽物だって。言えもしなかった。そして、母さんだって入れ替わってることに気づきもしなかった。
自分の無力さを思い知った途端、心がすっかり冷え切ってしまった。これ以上母親を脅かしても意味のないことだと分かってしまった。
それからしばらく、生徒手帳に記載された住所を頼りに枇々木の家へと向かった。
その道のりはまるで、泥沼を歩くように重く、何もかもが夢であったのならばと思わざるを得なかった。
「最近どうかな?」
「どうもこうもねえよ、最悪だよ」
教室で塞ぎ込んでいるところに現れ、いけしゃあしゃあと宣う枇々木にありのまま気持ちをぶつける。
こっちが話しかけても無視するくせに……。
「顔に傷がついてるね」
こちらの怒りもどこ吹く風と、枇々木は殴られたばかりの頬を撫でる。
「っ!」
「あぁ、痛かった?ごめんね」
自分の顔で微笑まれても腹立たしいだけだ。
「お前、さっさと俺の体返せよ……!」
「返せって言われてもね。僕だってどうすればいいのかわかんないし」
「お前がやったんじゃねえのかよ」
「まさか。僕にそんな力あるわけないじゃん」
さらりと告げる彼だが、嘘をついている様子もない。
「じゃあいったい誰が」
「ほんと、不思議だよね。夢見てるみたいだ」
「随分な悪夢だな」
「そう? 僕はこのままでも構わないと思うけど」
「……ほんとにお前がやったんじゃないんだよな?」
うっとりとした表情の彼に疑問を抱く。そういえば入れ替わった直後もいやに切り替えが早かった。
「さあ。どうだろうか」
「お前!」
殴りかかった手はあっさりと止められる。
「君の体は綺麗だよね。真っ白で細くて。筋肉がなければ完璧なのに」
「は? お前の体の方が白いじゃねえか。デブってはいるけど。てか筋トレしろよ! 俺の体なんだから」
「そういう君は僕の体で筋トレしてるでしょ?」
シャツの裾を引っ張り出されたかと思うと、そこからいきなり手を突っ込まれる。
「うわっ」
身じろぐ俺に構わず枇々木が腹を撫でまわす。
「放せってば」
「ああ、ごめん。くすぐったかった?」
「お前、ほんとなんなんだよ。俺のこと家から追い出しやがって。何がストーカーだ。ふざけんな」
「あはは。ごめん。でもあの場で君がいくら説明したって、きっと君のお母さんも信じてくれなかったと思うよ。最悪、警察行きなんて僕の体でやってほしくなかったし」
「それは……」
確かにあの様子じゃあきっと信じてもらえなかったんだろうけど。
「でもだからって無視しなくてもいいだろうが」
「なんだ。もしかして傷ついちゃってた?」
「……」
「ごめん。だってさ、いきなり君が僕みたいな奴と親しく話し込んでたらみんなが怪しがるかなって」
「今はいいのかよ」
「だってもうとっくに下校時間過ぎてるよ」
「あ……」
そういえば教室にいた生徒たちもいつの間にやら消えていた。
「いっつも教室に残ってるみたいだけど……厄介な奴らに見つかったらまたいじめられちゃうよ?」
「……他人事みたいに」
「だって今は他人事でしょ」
「お前、調子に乗るなよ……?」
拳を握り、枇々木に突き出してやるが簡単に止められる。そのまま腕を引っ張られ――。
「もしかして、一人になるのが怖い?」
「は?」
耳元で心配そうに囁かれたので、思わず聞き返す。
「いや、前の僕もそうだったから。ほら僕一人暮らしだからさ。ただでさえ友達もいないのに帰っても一人なんて。味気ない人生だよね」
力なく笑う彼の表情が心に刺さる。最近、人と接する機会が減り、心に穴が開いたような気分だった。彼の言う通り寂しかったのかもしれない。
「ごめん。君は強いから大丈夫だと思ってた」
ふわり。
枇々木に抱きしめられる。
なんだよ、慰めてるつもりかよ。
自分の体に抱きしめられるのは何だか変な感じがしたが、その懐かしい香りが心地よく……。
ぎゅ。
「か、加賀君……?」
「え?」
動揺する彼の声で我に返る。
「えっと、悪い」
無意識に抱きしめ返していた手と、胸にすり寄せていた頬を離す。違うんだ。これはお気に入りのクッションを抱きかかえるみたいなそんな感じで……。
しばらくの沈黙。
「な、なんか言えよ」
「あ、うん。その、ごめん……」
彼が複雑な表情を浮かべる。俺ってあんな顔できるんだな。じゃなくて。
そりゃキモイよな。抱きしめられるならまだしも、自分にすり寄られてるなんて。顔が整ってると自負している俺ですら想像するとちょっと無理だ。
「と、とにかく、はやく戻る方法を見つけろ。俺もなんとか調べるから」
「うん、そうだね。君の体も悪くないかなって思ったんだけど……」
何か言いたげにこちらを見つめる。
「ああ、わかったから! これからは協力し合おう、な?」
「うん。わかったよ」
頷く枇々木にそっと安堵の息を漏らす。
大丈夫。こいつと協力さえできればきっと原因もわかる。……そうでなくちゃ、困る。
それからしばらく、色々と試してみたけれど元に戻ることはなく。
『加賀君、これ良かったら』
「わ。これ手作り? すごいね」
クラスの女子にお菓子を渡されている枇々木を遠くから見つめる。
『加賀君、甘いの大丈夫なの?』
「うん。好きだよ」
『あ、そうなんだ……』
好きだと言われた女子の頬が赤くなる。
『え~! じゃあ私もこれあげるよ』
他の女子もなんやらかんやら次々と枇々木に手持ちのお菓子をあげてゆく。
なんだよあれ。俺の時には誰も近づいてこなかったくせに。
『なんかさ、最近の加賀君良くない?』
『わかる。優しくなったっていうかー』
俺と同じく遠くから彼を見つめていた女子たちがきゃっきゃと騒ぎあう。
わかってる。前の俺がクラスメイトから距離を置かれてたことくらい。俺はとにかく愛想がなかった。他人を気遣って笑顔振りまくなんて真似ができなかった。
けどこうして見ると、様になるもんだな。
ぼんやり見つめていると、視線に気づいたのか彼がこちらを向く。
ばっ。
思わず顔を伏せる。なんだか今の自分がひどく惨めに思えて……。
『ひ~びきくん』
「っわ」
くだらない物思いにふけっていると、背中を思い切り叩かれる。
『暇ならオレたちと遊ぼうぜ~』
「な、誰が、放せ、」
話しかけてきたのは日ごろから枇々木をいじめている男子生徒だった。
ここ最近は“俺”が“枇々木”をいじめなくなったせいか頻繁に揶揄ってくるようになっていた。
「やめろっての!」
『暴れんなって』
抵抗も虚しく強引に腕を引っ張られ、人気のない廊下まで連れてこられる。
『ストレス溜まっちゃったからさ~。また殴らせてよ』
けたけた笑う彼らを見て自分の姿と重ねる。
あぁ、俺もちょっと前までこんなんだったんだな。
クラスメイトが次々と俺の腹に、拳や蹴りを入れてゆく。
「ぐぇ」
痛い。なんだよこの腹、ぷにぷにのくせに防御力ねえの。
暴言。暴力。そして耳障りな笑い声。何が楽しいんだ、これ。俺は、枇々木にこんなに辛い思いをさせていたのか。
床に思い切り頭を叩きつけられる。
「っ」
ああ。もういっそ、このままでもいいのかもしれないな。
あいつはあの姿の方がきっと上手くやれるだろう。
女子に囲まれていたその姿を思い浮かべる。
あいつが俺であることが世間的に正解ならば。
胸ぐらを掴まれ、窓まで引きずられる。
『泣いて謝れよ。そしたら許してやるからさあ』
「うっ」
上半身が窓の外にはみ出る。
ああ。このまま後ろに倒れれば――。
どっ。
『うげっ』『ぐえっ』『ぎゃっ』
暗い思考が頭をよぎった瞬間、悲鳴が聞こえ、腕を強く引っ張られる。
勢い余ってぶつかったそれはやっぱり懐かしいにおいがして。
「大丈夫?」
「……放せ」
心配そうにのぞき込む枇々木の腕を払う。
『おい、なにすんだよ加賀』
殴られたクラスメイトが枇々木に掴みかかる。
「なにって。君たちこそなにしてんのさ」
『う……』
枇々木の鋭く冷たい視線に彼らがたじろぐのがわかる。
『なんだよ。加賀がこいつで遊ばねーから、オレらがちょっと遊んでやっただけで、』
「そういうのもういいから。消えろ」
枇々木の瞳に殺意がこもる。
『ひっ』
元から俺に逆らえなかった軟弱グループが、そんな視線を浴びて怯えないわけがなく、そそくさと逃げてゆく。
「それで。なんでお前がここにいるんだよ」
「万が一にでも死なれたら困るからね」
そう呟くと、枇々木がこれ見よがしに開け放たれたままだった窓を閉める。
「……お前はこの体に戻りたいのか?」
「なぁに? 君は戻りたくないの?」
素直な言葉が心に刺さる。
「……お前が俺になれば完璧な俺ができる」
「うん」
「だったらお前は俺のまま生きた方が幸せなんじゃないか?」
俺だって戻りたくないわけじゃない。だけど、今の状況を見ていると、今更自分が戻ったとしても……。
枇々木の方を見つめる。俺の目から見ても、今の“俺”の方がいかにも好青年で――。
「別に。それって僕が幸せなんじゃなく、周りが気持ちいいだけじゃん」
彼は迷うことなくはっきりと告げた。
「でも、今のお前の方が絶対必要とされてるし……」
「加賀君ってばそんなこと考えてたの? 君がそんなに弱気になるなんて、僕は思いもしなかった」
「そんなの、俺だって……。あ~、この体が、うん、きっとこの体が不健康だから思考も自然とそうなって……」
しどろもどろに言い訳する俺に枇々木が笑う。
「今は君の評価が下がんないように愛想よく振る舞ってるけどさ、別に僕はみんなからモテたいわけじゃないもん」
「俺はてっきり、お前が俺の体を気に入って乗っ取りたいのかと」
「……まさか。僕だって元に戻りたいよ」
そのためにもお互い今の立場を守っていかないとね、と枇々木が微笑む。
ふと自分の腹を撫でてみる。痛い。きっと痣になるのだろう。
俺は、今まで散々嫌がらせをしてきたというのに。その分仕返しされたとしても文句を言えないだろうに。
「あ、あのさ、俺、今更だけどさ、」
「あぁ、謝らなくても大丈夫だよ。君がしたことが消える訳じゃないしね」
「……やっぱ、怒ってるんだろ?」
「いじめられて、今更自分のしたことに気づいた?」
「……ごめん」
「謝らないでよ」
しおらしく首を垂れる俺の頬を枇々木がつねる。
「痛っ、」
「あはは。ぷにぷにだ」
「お前の体だろうが!」
何が楽しいのかぷにぷにとほっぺをこねくり回した後、枇々木が自分の頬を撫でる。
「そう。でも今はこの体が僕のものなんだよねぇ」
「……枇々木?」
「僕が死んだら君も死ぬ。君が死んだら僕も死ぬ。それってなんだか素敵だね」
枇々木がうっとりと自分の手の甲に口付ける。
「どういう意味だ?」
「ふふ、君にはわかんないだろうね。でもそれでいいよ。とにかく、その体で死のうだなんて思わないでくれよ。僕に償いたいというのならばね」
「……」
「そんな顔しないでよ。君はただ解決策を探し出すまで僕として生きる、それだけのこと」
「うう……」
やだ、キモい。くすくす。
ふらふらと走る俺を追い越して、女子が次々に陰口を叩く。
ああ、駄目だ。足に力が入らない。
吐き気を抑えながら、俺は太陽が照り付けるグラウンドにしゃがみ込む。
体育の授業が、走ることが、こんなに苦しいだなんて。
やはり、少し無理をしすぎただろうか。
「枇々木くん。大丈夫?」
滲む視界に差し伸べられた手を素直に取る。
「先生、連れていってもいいですか?」
『あぁ頼む』
『えー優しいー!』
すっかり女子からの人気を獲得した枇々木を、肩を貸してもらうついでにぼんやりと見つめる。
「お前、今、王子様とか騒がれてんだぜ……」
「はは。好きでもない子に騒がれてもね」
「ふ……。お前、ほんとなんていうか、デブのくせにクールだよな」
「クールってかドライなだけだよ」
「ドライな奴が肩貸してくれるかよ」
「そりゃ君は特別だからね」
特別、か。そりゃ当たり前だろう。なにせ自分の体なんだから。
「他意はないにせよ、お前ってほんと怖いな」
「君に怖がられちゃ、僕だって悲しむけど?」
軽口を叩く枇々木から何となく目を逸らす。
天然たらしというのだろうか。今まで知らなかったが、彼はどうも言葉が直球すぎる。聞いてるこっちが恥ずかしくなるくらいで――。
「っとほら保健室着いたよ。あれ、先生いないや」
ベッドに着き、借りていた肩を離す。
「悪かった。もう、大丈夫だか……」
言い終わるより先に枇々木が俺の額を撫でる。
「どうせ僕の体で無理したんでしょ」
「う……ごめん」
このところ毎日のように無理なトレーニングを重ねていた。一人でいる時間が多すぎて、暇さえあれば体を苛め抜いていた。それに、もし一生この体で生きていかなければいけないとなると、ぞっとした。暴力に対抗する力が欲しかった。
だけど結局そんな独りよがりな思いが、こんな事態を引き起こしてしまうなんて。かっこ悪いにもほどがある。
「僕の顔で謝られてもねぇ。あ、やっぱりちょっと痩せてきたよね」
ひたと頬に手を添える。
「ん」
するすると撫でるその手が冷たくて心地よくて思わず目を閉じる。
「はー。やっぱ早く元に戻る方法を見つけよ」
「悪いが、体鍛えるのは止めないからな」
額に手を当て、ため息をつく枇々木に、お前のためでもあるんだぞ、と訴える。
「それはいいけど。いや、むしろ歓迎。鍛えてくれてありがとう」
勝手にしたことだったが、許可を得られてほっとする。
「お前は俺の体ちゃんと鍛えてるんだろうな?」
「もちろん。君が一生懸命やってるんだから僕もそれに応えなくっちゃあね」
「一人じゃ心配だから送るよ」
「いや、そんな大したことないって」
放課後、心配して見に来た枇々木の申し出に手を振り断るが。
「それに、僕も久々に自分の部屋を見たいからさ」
そう切なげに言われてしまうと、断れなかった。ホームシックになる気持ちはわかる。叶うことなら俺だって自分の部屋に帰りたいと思うから。
「なんだ。綺麗にしてるんだ」
「一応、人ん家だし。漁ったりもしてないから安心しろ」
鞄を下ろしながらきょろきょろと見回す枇々木に弁解しておく。
「ごめんね。僕だけこんなわがまま言って」
「別に、俺ん家は家族居るから入れないし」
どっかの誰かさんがストーカー扱いするし、とこれ見よがしの文句を付け足してやると、枇々木が困ったように笑う。
「うん。あれは酷かったね。ごめん」
「あっさり謝んなよな。調子狂う」
「ごはん、なんか作るよ。君、ろくに食べてないんだろう?」
ゴミ袋に入ったカップ麺の容器を見ながら枇々木が台所に立つ。
「それは……掃除はできたんだけど、料理はどうも、」
今まで何も考えずに生きてきたけれど、一人暮らしを強いられてようやく母親のしてきたことに気づいた。
「君のお母さん、すごいスピードで家事こなしてるもんね。手伝う隙も無いよ」
帰る途中にスーパーで買った野菜を刻みながら、彼が苦笑する。
「料理もすごくおいしくて。君のお父さんも優しくて面白い人だし、妹さんもすごく可愛い。僕はね、みんなでご飯を食べる度に、家族がいる幸せを分けてもらっているんだよ」
「お前の家族は……?」
「死んだよ。父さんは事故で。母さんはそれを追うようにして自殺したんだ」
「ごめん」
「いいんだ。もう随分昔のことだし。財産をたっぷり残してくれてたお陰で、お金には困ってないし」
だからそんなに太っちゃったんだけどね、と枇々木はこっちを指さしてへらりと笑う。
「枇々木……」
「ごめんね、本当なら加賀君の場所なのに。一人は寂しくない?」
「……俺にはお前がいるから大丈夫だよ」
「それ、素で言ってる?」
「茶化すなっての。今はお前が色々助けてくれるから、その……」
感謝してる、と呟く。過去の自分は彼に、救いどころか被害をもたらしただけだというのに――。
「やっぱり、俺は戻らなくてもいい。お前が幸せならそれで……」
「は~。なんでそんなこと言うかな」
枇々木が大げさにため息をつき、額に手をやり天井を仰ぐ。
「俺、思うんだよ。これってもしかして俺がお前に酷いことした罰なんじゃあないかって」
「そんな道徳的な話……」
笑い飛ばそうとした枇々木が俺を見て止まる。
「……」
「駄目だよ」
俯く俺の手を枇々木が優しく包み込む。
「そんなこと、僕はもう望んでない。君が笑ってくれなきゃ僕は幸せなんかになれないよ。……とにかく、絶対に戻ろう。もう一度真剣に方法を探すから、ね?」
「お前は、本当に優しいな」
「それは……どうだかね。僕は加賀君の方がよっぽど優しいと思うけど」
その慈しむような瞳が心地よくて。ああ、できることならばずっとこのままでいたいとさえ思ってしまう。けれど。
「わかった。戻れるように努力しよう。俺も弱気になり過ぎてた」
枇々木の手をやんわりと引きはがしながら笑って見せる。
枇々木は強い男だと思った。俺の体のままならば枇々木は幸せに暮らせるだろうに。それを望まないなんて。いや、そもそも自分をいじめていたいやつの体で過ごすなんて嫌か。……本当はこいつも俺のことが嫌いなんじゃないだろうか。ああ、俺は今まで考えもしなかった。
彼の方を見つめる。その微笑みすらもが本心なのかわからない。
どうしてその可能性に気づかなかったのだろうか。俺はいつだってそうだ。相手に合わせることをしないくせに、周りには求めてばかり。枇々木のことだって、何にも知らなかった。家族のことだって、枇々木の気持ちだって何一つわからないでいた。
なあ、枇々木。お前は、俺のことが嫌いなのか?
その簡単な問いかけすらできなくて。後悔してももう遅いというのに。
「は? 入れ替わった原因がわかったかも?」
「うん。確信は持てないんだけど」
あれからしばらく、変に意識して枇々木と距離を置いていたのだが。
ついに戻れるときが来てしまったのだろうか。
「ここまできて焦らすなよ」
心にもないことを言って笑って見せる。俺にはもう、そうすることしかできない。たとえ元に戻って、そのまま距離を置かれたとしても。悲しがる資格なんてないし……。
「……女の子が笑ってたんだよ」
「女の子?」
何のことかわからずそのまま聞き返す。
「うん。僕らが落ちる前に、確かにこっちを見てて」
「いなかったぞ、そんなの」
暴力行為の手前、周りに人がいないかちゃんと確認したが女の子なんて見ていない。
「……やっぱり」
なんだ。勘違いか。枇々木の呟きにほっとしかけるが。
「探しに行こう」
「え、見間違いだったんだろ?」
はっきりとした意志を感じる枇々木の瞳。それを戸惑いながら見つめ返す。
「ううん。きっといたんだ」
「だとしても、今行って、いるわけないだろ」
確かにあの場所しか手掛かりがない以上、行くしかないのだろうけれど――。
「いや、多分……いる」
「なんでわかんだよ」
どうしてそんな確信めいたことが言えるのか。
「僕のこと、信用できない?」
苦笑しながら差し出される枇々木の手。
「……しょうがねえな」
それをぶっきらぼうに引っ手繰る。
もしも、もしもこれで戻れたのならば。きっとこの芽生え始めた感情にしっかり蓋をしよう、と決意しながら。
「ほら、やっぱりいたよ」
境内に着き、離された手を名残惜しく思っていると枇々木が静かに言った。
「は? いないじゃん」
慌てて辺りを見回すが、目に映るのは人気のない寂れた神社。猫一匹すらいないのだが……。
「幽霊だよ」
虚空を見据えたままに枇々木が呟いた。
「僕さ、昔からよく見えてたんだ。だから周りから気味悪がられて。いじめられるようになったんだよ」
幽霊なんてそんなまさか、と言いたかったが、どうも嘘をついているようには見えない。
「君はそんな理由でいじめてたわけじゃないみたいだけど」
まぁ、近頃はほぼ外見のせいなんだけどね、と自嘲気味に枇々木が笑う。
「やっぱり信じないよね」
「……いや、俺はお前を信じるよ」
自分でもびっくりするくらい素直な返事だった。案の定枇々木も少し驚いて、少し笑った。
「みんなが君みたいに信じてくれたらよかったのに」
『そしたらお兄ちゃんは幸せなの?』
「ん?」
頭に響くように女の子の声が聞こえて、思わず振り返る。
『ここだよ』
ふわり。
見上げると、白いスカートを靡かせた幼女が枇々木の隣に現れる。
「なっ――!?」
突然現れた不思議な存在に思わず尻餅をつく。
「大丈夫?」
差し伸べられた手を取りながら、女の子と枇々木の顔を行ったり来たりと見つめる。
「お、お前、なんで平気なんだよ……」
「だから、僕はそういうのが見えるんだって」
「なんで俺まで見えんだよ!」
『お兄ちゃんには特別。見えるように私が力を使ったの』
「な、なんだよそれ」
『……やっぱりお兄ちゃんも信じないの?』
舌足らずな言葉とは裏腹に仄暗い狂気を交えた瞳とかち合う。
「……いや。信じる」
返事をした後、俺は無意識に枇々木を盗み見る。その横顔は、相変わらず整った俺の顔だ。だいたい、体が入れ替わるとかいう不思議なことが起こってる時点で普通じゃないし。それに、今の俺は枇々木を信じている。
「加賀君?」
不思議そうに見つめ返されると、視線がかち合う前に逸らしてしまう。日に日に酷くなる胸の痛み。その女々しさを断ち切るように首を振り、女の子に向き直る。
「お前、悪い霊とかじゃないよな?」
『それはお兄ちゃん次第だよ』
にこりと微笑む女の子はやはり人間のそれとは違う独特の気を纏っている。
「でも、こいつが入れ替わった原因なんだろ……?」
女の子から目を逸らし、枇々木に問いかける。
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「うん。そうだよ、ね?」
枇々木が女の子に問いかけると、女の子はにこりと笑う。
「待て、本当に悪い霊じゃないのか?」
「僕は悪い子じゃないと思うけど」
何の根拠があってか枇々木が女の子を見て言う。
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『それは』
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でも、それは勝手な思い込みだった。俺はこんなにも枇々木のことが好きなのに。いや、そんな想いこそが勝手だ。酷いことをしておいて何が好きだ。俺はただ枇々木から憎まれているだけじゃないか。だったら。
「気分悪い?」
「……お前さ、俺のこと恨んでるんだったら、さっさとこいつに『俺を殺せ』って願えばいいじゃん」
『私を便利屋扱いしないでよ』
ぷんすかと怒った口調で言う幽霊を無視して意地悪く笑って見せる。
「入れ替わるなんて生ぬるいことして馬鹿みたいに馴れ合ってさあ」
「加賀君?」
「枇々木、俺はお前が嫌いだ」
真っすぐに枇々木を見据えて嘘をつく。
「なあ、枇々木。お前もそうだろう? 俺のことが大嫌いだろ? 憎くてたまらないんだろ? だったら……」
「加賀君ってさ、ほんと馬鹿だよね」
「は?」
「僕のことが嫌い? それってホント?」
「……当たり前だろ」
「その言葉、後悔するよ」
ワントーン低めのその声に蹴落とされるも踏みとどまる。
「ね、お嬢ちゃん、すごく勝手なお願いだってわかってるんだけどさ。元に戻してほしいんだ」
『本当元に戻っていいの? 幸せになれると思うの? 今のままがいいんじゃないの?』
「確かに、今のままの方が僕にとっては都合がいいことが多い」
「……」
「でもね。このままじゃ、本当のことも伝えられないんだ。やっぱりね、正しい姿であるべき未来をいかなきゃいけないって気づいたんだ。たとえそれが僕にとって思い通りにならなくても」
『一応聞くけど、そっちのお兄ちゃんも、いいの?』
「俺は……どっちでも。このままだろうと元に戻ろうと、これ以上こいつに関わるつもりはねえよ」
そう。これ以上一緒にいることはできない。自分が嫌われていると知りながら相手を想うことがどんなに辛いことか。これ以上好きになってしまうのは、怖い。
『そう……。わかったわ』
少女が神妙に頷き手招きをする。少女に近づき、一体どんな術式が行われるのかと息を飲んでいると――。
『それじゃあキスをして』
「え?」「は?」
満面の笑みで少女が言った。
「本気で言ってんのか、それ」
幽霊の悪質な冗談に付き合っている気分ではないんだが。
『冗談じゃないもん! お互いの魂を入れ替えるには口と口とで繋がらなきゃいけないの!』
「ん? じゃあそれって最初に入れ替わった時も……?」
『もちろん。お兄ちゃんたちぶちゅっとやってたよ』
まあ、その後すぐに頭ぶつけて気を失ってたから覚えてないのも無理ないかもね、と少女が笑う。
「俺のファーストキスが……」
「なんだ、加賀君って童貞どころかキスもしたことなかったんだ。意外」
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「加賀君、目、瞑って」
「お、おう」
むに。
唇が触れ合う。
ああ、これで終わるんだ。この恋も。いや、未練がましく思うのはやめよう。
そう思い、一秒でも早く唇を離そうとしたとき。
「ちょっと待て、んんっ!」
舌が音を立てながら絡み合う。
なんだよ、これ……。溢れてくる涙で視界が霞む。抵抗しようとするけれど、快楽に溺れた脳が体を麻痺させてゆく。
「ん、んんんっ」
ぐちゃぐちゃに乱された口内から唾液が溢れるのも拭えないままに、体が茹ってゆくのを感じる。
「ん……、ぷは!」
一瞬意識が飛んだ後、唇が離される。
そして、余韻の覚めぬままぼんやりと瞳を開くと……。
「ほんと、君はわかってないなぁ」
枇々木の腕に、抱き締められていた。
「あ……」
体の違和に気づき、枇々木の顔を見ると、元の姿に戻っていて……。
「よかった。ちゃんと戻れたみたい」
「ああ……。って、わ、悪い!」
慌てて枇々木の腕を引き剥がそうとするが、上手く力が出ない。
というか、相手の力が勝っていて――。
「はは。君が僕の体を鍛えてくれたのと、僕が君の体を鍛えてなかったお陰だ」
「お前、嘘ついてたのかよ!」
「その方が都合よかったんだ」
「なるほどな」
「ごめん。君には悪いと思ったけど」
「ん。遠慮はいらねえ」
目を瞑って顔を突き出す。
「?」
「やるんだろ?」
「えっと、何を?」
「あ? 俺に復讐。殴るつもりじゃねえのかよ」
そのために俺の体弱らせてたんだろ、と悪態をつく。
「あ~」
「お前の気が済むまでやれよ」
「……それじゃあ」
ちゅ。
「は?」
音を立てて離れてゆく唇に思わず目を開ける。
「あのね、君ってば全然気づいてないみたいだけどさ、僕は……」
呆然としているところに手を取られる。そして。
「まつりのことが好きだよ」
「な」
手の甲に口づけを落とされた後、告白された。告白された……??
「入れ替わった時、最初は本当にいじめてやろうって思ってたんだよ? でもね、あまりにもまつりが、か弱過ぎて。いつの間にか復讐心よりも庇護欲の方が上回って。それで……」
「それも嘘か?」
「……僕を疑う?」
「だって、お前は俺のこと、嫌いで」
「誰もそんなこと言ってない。君ってばほんと……意外と女々しいよね」
「女々しいって……この流れで信じる方がおかしいだろ。俺はお前に酷いことしてきたのに」
「どうしても信じないんだ」
「……それは」
「じゃあ信じてくれるまで君を離さない」
「んっ」
宣言した瞬間、再び唇が重なり合う。
「んんんっ、っは、ん……」
抵抗しようとじたばたしても、簡単に押さえつけられて意味をなさない。次第に深く絡み合うその甘さに耐え切れなくなって、腰砕けになる。
「ごめん。だけど、この気持ち、止められるものじゃないから」
真剣でいて少しの欲情を含んだその瞳にどきりとして目を逸らす。
「お前、ほん、とに……」
「だから、そう言ってるじゃないか」
「……いじめられて好きになるとか、ドMかよ」
精一杯皮肉ってやるが、へたりこまないよう枇々木にしがみつくのがやっとでは、どうも格好がつかない。
「別にいじめられたから好きってわけじゃないし。それに僕、どちらかというと逆だけどね」
髪をなで、掻き上げられたかと思うと、あからさまなリップ音を立てた口づけが落とされる。
「ん、……逆?」
「君をいじめたくなるくらい好きってこと」
サドじみたその発言も、痩せて洗練された容姿で言われると中々、サマになっていてムカつく。
「こんな僕だけど、まつりを想うことを許してほしい」
「お前さ、痩せてから女子がキャーキャー言い出したの知らねえの?」
「知ってる。めちゃくちゃ感謝してる」
「しかも、いじめてきたやつらお前がボコってから、ちょっかい出してこないし」
「それもめちゃくちゃ感謝してる」
「その外見でお前の性格に戻ったら、今の俺より人気出るのは明らかだ」
「それは買いかぶり過ぎだと思うけど。……それで、返事は?」
「う……」
ずいと寄られて、つい言葉が濁る。
「返事くらいは欲しいんだけどな」
「お前、本気で……?」
「好きだよ。君が、まつりが好き。大好き」
「ま、待て、そんな何回も言うな。ていうか名前で呼ぶな」
「名前も呼ぶし、何回でも言うよ。だって、この気持ちはもう抑えられないから。僕は君が欲しい。ねえ、許してほしいんだ。君を想うことだけでも、許してほしいんだよ、まつり」
真っすぐに向けられた視線から逃れようとする気持ちをぐっとこらえる。
「……俺の方が!」
「?」
「俺の方が、お前に許してもらう立場だろ……。枇々木、お前を他の奴らに取られたくないよ」
「それって……」
「だー! わかんねえけど! 多分お前のこと……」
「うん」
「す……」
「す?」
「ええと」
ちゅ。
視線を泳がす俺の額に諭すようなキスを枇々木が落とす。
「で、なんて?」
「お前なあ。あーもう、どうせ、お前のこと好きだよ!」
「愛してる?」
「愛してる!」
自棄になって叫ぶ俺の頬を引き寄せた枇々木が、嬉しそうに微笑んで。もう何度目かわからない口づけを交わした。
「お前さ、たまにでいいからウチに来いよ」
「え?」
「俺もお前んち遊びに行くからさ。だから、寂しいときは、その」
「慰めてくれるの?」
「そういう意味じゃないからな」
「はは。まつりってばエッチだね」
「お前がにやにやしてるから言ったんだろ」
「可愛い」
「んっ」
「ねえ、まつり。実は僕も君の体鍛えてたんだよ」
「は? どこがだよ。筋肉落ちまくってんじゃねえか」
「ふふ。いい感じに仕上がってるはずだよ。中々大変だったんだから」
そう言いながら、枇々木が俺の腹をつつと撫でる。
「ん?」
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「ね、今から僕のウチに来ない?」
「なんだよ、さっそく寂しくなったのかよ」
「うん。まあそういうこと」
にっこりと意味ありげに笑う枇々木に首をかしげる。
その後、その意味を知って少しだけ枇々木を恨んだのだが、それはまた別の話。
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