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六章;黄昏の王

39話

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 見張りの衛兵の死角となる植え込みまでやって来た二人は、傍に立つ大きめの木を見上げていた。
 この木は中庭の中でも王城外壁の近くに立っており、枝葉が時折風に揺れると城壁に触れるかといった距離だった。

 「まずはこの木を登るのよ」
 そう言いながら、マリスディアはどこかから持って来た縄梯子を肩に巻き付け、ドレスの袖をたくし上げた。
 この身なりのまま登るのかとジルファリアは目を疑ったが、彼女にしては造作もないといった風に幹に手をかけ、実に器用に登り始めたのだ。

 「そういや木登りが得意って言ってたな」
 あまり見上げていると見てはいけないものが視界に入りそうで、ジルファリアは目線を下に逸らせ頬を赤らめた。

 「じゃあオレも行くか」
 木登りはジルファリアにとっても朝飯前だったが、初めての場所な上に見つかればきっと叱られるであろう。
 ここは注意深く登ることにしようと、両手を握り気合いを入れた。

 マリスディアが登り始めてからしばらく経ち、念のため周りを見回した。
 誰もいないのを確認すると、幹に手を伸ばす。

 幸いにもこの木はとても登りやすく、程よい場所に枝が伸びていてくれたおかげで、難なく上までやって来れた。

 「ジル、こっちよ」
 一番上の太めの枝のところにマリスディアは腰掛けていた。
 その姿を確認したジルファリアは軽々と登り切り、彼女の隣に腰を下ろした。

 「うわ、高……」
 思わず声が漏れてしまう。

 彼が腰掛けたところは青々とした葉がたくさん生えていたのだが、その間から見える景色が今までに見たことのないくらい見事なものだったからだ。

 眼下にはセレニスの城下町が広がり、その全景が見渡せるほどの高さまで自分が登ってきたことに気がついた。

 「ふふ、今からまだまだ高いところへ登るわよ」
 隣でマリスディアが悪戯っぽく笑った。

 彼女が指差した先には王城の外壁がすぐそこに見え、その少し上に屋根と、軒下に何かの出っ張りが見えた。
 あれは装飾だろうか、何かを模したレリーフのようなものがいくつか突き出ていたのである。

 それから彼女は肩に巻いていた縄梯子を手に持つと、そのレリーフ目掛けて投げつけた。
 そして難なく縄の端がレリーフに巻きついたのだ。

 そのあまりの手際の良さに、ジルファリアは感心したように呟く。
「慣れてんな、お前」
「もう何度もここへ来ているから」
 彼女はそう答えながらぐいぐいと何度か縄を引き、しっかりとレリーフに巻きついていることを確認している。
「けど、こんなことウルファスさまが知ったら卒倒するんじゃねぇ?」
「お父さまは何も言わないわ。既にご存知かもしれないけど、知らないふりをしてくださっているみたい」
「ふーん……」
 と返事をしたものの、ジルファリアには到底不可解だった。

 可愛い愛娘がこのような足のすくむ高さまで軽々と登り、挙句屋根に飛び移ろうとしているのだ。
 またそれが彼女の楽しみだという。

 そんな彼女をあえて黙認しているのだとしたら……、

 (ウルファスさまも、変わってんな)
 呆れたようにジルファリアは肩をすくめた。

 「縄も大丈夫そうだし、ジル、捕まって」
 両手で縄を持ったマリスディアがこちらを振り返る。
 なるほど、二人一緒にあちらへ飛び移るということか。

 ジルファリアは納得したように頷くと、彼女の後ろから腕を回し縄を掴んだ。
「いいぞ、マリア」
「うん!」
 半ば彼女を抱き抱えるような体勢になってしまい気恥ずかしさはあったが、それよりもこの好奇心をくすぐられるような体験に、ジルファリアの胸は踊っていた。

 「それじゃあ、行くわね」
 そう言うと、マリスディアとジルファリアは勢いよく枝から飛び出した。

 一瞬足場も何もない宙へと二人の身体は放り出され、ジルファリアは息を呑んだ。
 木から落ちる感覚が、内臓だけ浮いてくるように錯覚する。

 しかし、すぐに迫る外壁に衝突してしまっては大怪我どころではすまない。
 二人は両足の裏を正面に向けると城壁に着地させた。びりっとした痺れが足の裏を走る。
 衝撃を緩和させるために何度か城壁を蹴っては着地を繰り返し、ジルファリア達はそのまま屋根に向かって縄梯子を登った。



 「すげ……」
 今日何度めの感嘆のため息だろう。

 ジルファリアはその光景に息を吸うと一気に吐き出した。
 屋根までやって来た二人は、風の当たらない、なだらかになっている場所で横並びに腰掛けていた。

 眼下には、先ほどよりも少し高い位置から見下ろす形で、城下町が広がっていた。
 そして上を見上げれば、白く浮かんでいる雲や、突き抜けるように高い青空に、ジルファリアは自分がとてもちっぽけな存在であるような気がして身震いした。

 「結構、怖ぇな」
 思わずそう呟いてしまう。
 こんなところにしょっちゅう来ているマリスディアは鋼鉄の心臓を持っているに違いないと、ジルファリアは真剣にそう思った。
 当の彼女はにこにこと微笑みながらこちらに頷き返している。

 「ここで、マリアはいつも何を見てるんだ?」
「街よ。……セレニスの街」
 そう答えると、マリスディアは視線を城下町に移した。

 うっとりとしたような顔で、慈しむように眼下の街並みを見つめている。
 その横顔を見つめていると、彼女の金糸の髪が風に揺れた。

 「とてもきれいでしょう?わたし、この国が大好き」
 そう笑顔でこちらを振り向いた彼女に、ジルファリアは得も言われぬ喜びが込み上げてくるようだった。
「うん!オレも好きだ、セレインストラが」
「ほんとう?」
 彼女も同じような表情でこちらを覗き込んだ。ジルファリアが大きく頷くと、ありがとうと実に嬉しそうに笑ったのだった。
 そしてまた城下町に視線を移すとぽつりと呟いた。

 「わたしもお父さまのように、大きくなったらこの国を守りたいの」

 その言葉に込められた意味が、この時のジルファリアは疎かマリスディア自身にも及びもつかないほどの大きな使命であったのだが、二人がその事を知るのはまだまだ先のことなのであった。

 そうとは知らないジルファリアは無邪気に笑い、マリスディアの肩をぽんと叩いた。
「じゃあオレはマリアを助けるぞ」
「え?」

 「マリアが安心して国のことを守れるように、オレがお前を守ってやる」

 マリスディアはしばらくこちらをぽかんと見つめていたが、やがて頬を染めて嬉しそうに微笑んだ。
「そんなことを言ってくれる人、あなたが初めてだわ。……ありがとう、ジル」
 改めてそう言われると何だか気恥ずかしい。
 ジルファリアは鼻の頭を掻き、照れ臭そうにそっぽを向いた。

 「そ、そういえば、オレの家ってここから見えるかな」
 わざとらしく大きな声を出して話題を変えてみる。
 折角このような高いところまで来たのだ。
 いつもこの王城を見上げていた自宅の屋根瓦が見えやしないかと目を凝らしてみた。

 「……あ」
 額に手の平を翳して目を細めた先に、馴染みの橙色がちらりと見えた。
 見間違いかと思ったが、周囲の屋根瓦の色並びと相違ないことに気がつくと、ジルファリアは歓喜の声を上げた。
「マリア!オレの家が見えるぞ!」
「えっ、ほんとう?どこ?」
 思わず彼女の手を取ると、目線の先に向けて彼女の指を持ち上げた。
「この先に、ちょっとおんぼろで灰色の時計塔が見えるだろ?あれが、こないだマリアが連れてかれた裏街なんだ」
「……あ、見えたわ」
「それで、その時計塔から東門の方に移動してみ?」
 彼女の指先をそのまま少し北向きにずらせば、彼女も目を細めて探し始めた。
「そこに、ちょっと平べったい橙色の屋根があるんだけど……」
「……あ!あったわ、ジル!」
 しばらくして、マリスディアも嬉しそうな顔でこちらを見た。
「あそこがジルのお家なのね」

 もう一度職人街の方へと視線を戻し、マリスディアは微笑んだ。
「じゃあこれからは、わたし、ここへ来たらすぐにジルのお家を探すわね」
「え?」
「お友だちのお家があそこにあるって考えるだけで、なんだか嬉しいんだもの」
 くすぐったいような表情で笑う彼女を見、ジルファリアも同じような気分になった。
「そっか、じゃあオレも」
 言葉を一旦切ると、ジルファリアは自宅の方角を指差した。
「オレもこれからは屋根から城を見るときは、マリアがここに居るって思いながら見てるよ」
「ジル」

 「な、約束だ」
 へへ、と歯を見せて笑うジルファリアに、マリスディアも笑い返した。

 「うん、約束」

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