恋はあせらず

遠野 時松

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草薙食堂 中

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「おー、鈴ちゃん久しぶり」

 カウンターに座っているうちの一人から、声を掛けられた。
 聞き覚えのある力強くて特徴のあるしゃがれ声。その声を聞くと自然と頭の中には、白髪頭をいつも短く刈り揃え、長年の外仕事で日焼けした顔が浮かぶ。

「あら、源さんいらっしゃい」
「いらっしゃってますよ」

 源さんは優しくゆっくり返事をすると、日焼けした顔に皺を寄せる。
 おじいちゃんと同じで源さんも普段は怖い顔をしているけれど、笑うと可愛らしくなる。

「それより鈴ちゃん、「あら」って言い方がお母さんそっくりだな。なあ?」

 源さんの横に座っている正さんが頷く。

「正さんもお久しぶりです」

 笑顔で正さんは会釈する。
 正さんまだ無口だということは、飲み始めてからあまり時間が経っていないということだ。
 草薙食堂の凸凹コンビのマサゲンの二人。その話になると「どっちがデコでどっちがボコだ」なんてよく言い合いをしているけれど、髪を黒く染めた優しそうな雰囲気の正さんの方が、ヤンチャな雰囲気のある源さんより昔は荒っぽかったと聞いて、人は見た目によらないんだなと幼心に感じた思い出がある。

 源さんのビールジョッキが残り少なくなっている。

「源さん、焼酎に変える?」
「いや、変えようかと思ったけれど、鈴ちゃんがきたならもう一杯飲まねえとな。何たって鈴ちゃんが注いでくれた生ビールは最高だからな」

 源さんはいつもこう言ってくれるのだけれど、私からするとおばあちゃんが作った方が美味しそうに見える。

「もう作っちゃっていい?」
「おう、頼むよ」
「正さんは変える?」

 正さんは首を横に振る。

「それなら生ビールで良いの?」

 正さんは笑顔で頷く。
 瓶ビール派の正さんだけれど、私が店に手伝いに来るタイミングが飲み始めと合えば、源さんと一緒になって生ビールを頼んでくれる。

「生ビール二つ、いただきました」

 会計伝票への記入をおばあちゃんにお願いして、私はビールサーバーに向かう。
 お店の手伝いに入って、生ビールをその日初めて作る時は毎回緊張する。一度だけ深呼吸をしてからハンドルに手をかける。ここから私の真剣勝負が始まる。
 手前にゆっくりと倒してジョッキに注ぐ。そして、この日初めての一杯が完成する。我ながらの出来栄えに苦笑いが溢れる。泡がボコボコしてて美味しそうじゃない。 
 気を取り直してもう一つ作る。こっちはまあまあの出来栄えだった。

「お待たせしました」

 当然のように上手に出来た方を正さんの前に置く。

「おいおい、またコイツの方が美味そうじゃねえか」

 すぐさま源さんが口を尖らせるけれど、目が笑っているからいつものこととして気にしない。

「源さんありがとう、次は上手くいくから大丈夫」
「そう言われちゃあしょうがねえ。また今日も最高のビールをいただくかな」

 そう言うと、源さんは美味しそうに喉を鳴らす。

 源さんが最高と表現するのには訳がある。
 私がその日に作る最初の一杯目を苦手としていることを、晩酌にくるほとんどの常連さんが知っている。決して美味しそうに見えない生ビールを「最高のビール」と称して、からかい混じりに注文してくれる。

「正さんもありがとう」

 正さんは優しく首を横に振り、グラスと空瓶をこちらに差し出した。それを受け取ってから、端に寄せてある空になったビールジョッキを手に取る。

 源さんは「くわぁー」とため息を漏らした後に口元にできた泡の髭を手で拭うと、「最高のビールを飲めたから、今日は最高の酒になるな」と正さんのことを見る。正さんは嬉しそうな顔をして頷いてから、ジョッキに口を付ける。お金を貰うのが申し訳なく思うほどに下手っぴに作っても、二人は美味しそうに飲んでくれる。
 
 源さんの言った「最高のビールが飲めると、その日の酒が最高になる」というものの他にも「最高のビールを飲むと悪酔いしない」などと迷信じみたことを言うけれど、常連さん達はただ単に私の練習に付き合ってくれているだけなのを、おばあちゃんから聞いた時は嬉しさと申し訳なさが行ったり来たりした。
 常連さんの優しさに感謝しつつ、いつまで経っても上達しない自分の不器用さが疎ましい。

「鈴ちゃーん、その生姜焼きを田所さんのところに運んでー」

 おばあちゃんに呼ばれる。

「はーい」二人に顔を向ける。「ゆっくりしていって下さいね」

「はいよ」

 源さんはジョッキを掲げる。それを真似するように正さんもジョッキを掲げる。

 生姜焼き定食をおじいちゃんから受け取り、近所の田所さんが座るテーブルに持っていくと、孫の翔くんの顔がぱぁーっと明るくなる。

 翔くん、私にはその笑顔の意味がはっきりと分かるよ。おじいちゃんの生姜焼きは甘辛くて美味しくて、気が付いたらご飯がなくなってるんだよね。
 私は翔くんに向かって、心の中で語りかける。

「お待たせしました」
「お姉ちゃん、ありがとう」
「どういたしまして、出来立てでアツアツだから気をつけてね」
「うん」

 翔くんの「アチッ」という声と、田所のおばあちゃんの「鈴ちゃんに言われたばっかりじゃない」という笑い声が聞こえてくる。

「鈴ちゃーん、今度は三番テーブルさん」
「はーい」

 サラリーマン風の二人が座る三番テーブルでは、私が近付いてくるので自分たちが注文したものだと気が付いたのか、そのうちの一人が箸立てから割り箸を引き抜いている。

「メンコロ定食のお客さま」

 誰が注文したのか一目瞭然だけれど、メンコロ定食と言いたいがために声をかける。
 メンチカツとコロッケ定食、これは私のわがままから生まれた思い出の品だ。
 草薙食堂のメンチカツ定食は元々、大きめのメンチカツが一つだけだった。それを私が「両方食べたい」と、おじいちゃんにわがままを言って作ってもらったのがきっかけで誕生した。

「あっ、俺」

 体を後ろに倒した、割り箸のお客さまの前にメンコロ定食を置く。揚げたての香ばしい香りが、私の鼻をくすぐる。
 一緒に座る人に「お先」と断りを入れて、熱々のコロッケに箸をつける。

 変な店員だと怪しまれないよう気をつけて、私は様子を窺う。 

 コロッケを先に食べる派なのね。うん、それ分かる。おじいちゃんのコロッケはじゃがいもの味がしっかり感じられて、ホクホクで美味しいのよね。メンチカツはお酒のつまみにもなるように、ソースをかけなくても良いぐらいに味付けされているから、その順番がベストよね。
 でも、メンチカツも美味しいからメンチカツからいっちゃう時もある。贅沢な悩みで私を迷わせる、にくいヤツなのよね。

「ハ、ハ、ハゥ。ハフ、スゥー、フー」

 割り箸のお客さまは熱々のコロッケに悪戦苦闘しながら、最後に鼻から大きく息を吐き出すと、満遍の笑顔を浮かべる。

 美味しいよね、美味しいよね。幸せそうなその顔に、私は心の中で語りかける。
 人が幸せそうに物を食べているのを見るのって、どうしてこんなにも幸せな気分になるのだろう。

 老いも若きも草薙食堂を訪れた人は、おじいちゃんの魔法に掛かって笑顔になる。
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