王国戦国物語

遠野 時松

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本編前のエピソード

雲の行き先 37 チャントール翁 上

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 口の中を酸味の強い果実水で洗い流す。
「市場ではあり得ない大盤振る舞いの、見たことのない驚きの安さなんだぞ。これを成立させられなければ、一生、笑ってやるからな」
 ドロフは笑う。
 あれほどの品にこの値を言われて、首を縦に振らぬ人はいない。そんな失敗をすれば末代まで笑われる。これは、『緊張するな』と、いつもの歪んだ優しさで言ってくれているのだと思うようにする。
「はい」リュゼーは身を整える。「理解しています」
 これは外交、大切なのはその次だ。昔は同じ国で同盟国、ということに惑わされていたのは自分だ。いくら可愛い我が子であっても、いつまでも手が付けられなければ、親からも愛想を尽かされてしまう。エルメウス家と付き合うと利があるんだなと、相手に思わせなければいけない。
 会話の中で確実に、値段以上の価値を家に付けなければいけない。それが出来てこそ、師からも認められる。
「どうやって近付くつもりだ?」
「お孫さんの話でいこうと思っています」
 ドロフは少しだけ仰反る。
「小細工なしだから笑ってしまいそうになったぞ、大丈夫なのか?」
「はい。先ほどから見ていますと、チャントールを攻略するためには酒が必要です。酒を飲み交わす人は長く居座り、飲めぬ人は直ぐに移動します。そのためなのか、エルメウス家の人たちは誰一人として長くいません。私は歳的にも酒が飲めません。そのために、長く居続けられるのではないでしょうか」
 ドロフは笑う。
「当たり前だと言いたいが、時間がない。次を聞こう」
「話の流れで、そのまま品を勧めます。短期決戦で行こうかと思います」
 ヘヒュニのこともある。なるべくなら、こちらは早く済ませたい。
「随分とした自信だが、大丈夫なのか?」
「はい」
 リュゼーは力強く頷く。
「探っているうちに気が付いたと、自ら願い出たのだ。大丈夫なのだろう。それならば、向かうとするか」
「お願いします」
 二人は歩き出す。



 挨拶を交わす人の流れに乗って、どうにかチャントールの近くまでは辿り着いた。自然、不自然ではなく、テーブルのこちら側なら、誰でも話をできる雰囲気になっている。
「チャントール様、エルメウス家のリュゼーです」
「わざわざ私の名前まで、チャントールです」
 チャントールは顔を赤らめて、リュゼーの杯に果実水を注ぐ。
「確か貴方は、先ほどロシリオ様と話をしておられたな」
「こちらこそ、覚えていただきありがとうございます」
「お若そうなのにしっかりとしている」
 リュゼーは、「ありがとうございます」と、酒瓶を手に取る。
「おうおう、これはこれは、ありがたい」
 チャントールは嬉しそうに、リュゼーからの酌を受ける
「私は酒を飲む時、注ぎつ注がれるというのが好きでしてな。エルメウス家の人は、酒は駄目と言う人が多くて、寂しい思いをしていたところだ」
「祝い事には、酒が欠かせないですからね」
「若いのにそう思うか?」
「はい。私は飲みませんが、楽しそうな顔で話をする姿を見るのは好きです。大好きな爺さまの周りに集まる人は皆、皆さまみたいな顔をしておりました」
 チャントールは、幼な子の話を聞くように笑顔を浮かべながら、小さく何度か頷く。
「爺さまがいるのか?」
「はい。酒を飲む爺さまの膝に座って、若い頃の話を聞くのが好きでした」
「ほお、若い頃の話とな?」
「何の変哲もない、爺さまが若い頃に経験した出来事の話です。ですが、その日に遊びに行ったような、不思議な感覚を覚えています」
「私も、小さい頃はそうだったなあ」
 チャントールは、感慨深く杯に口を付ける。
「可愛いお孫さんに、昔話を聞かせるのも良いのでは?」
 隣の男がチャントールに酒を注ぐ。
「お孫さんがいるのですか?」
「生まれたばかりで、まだ話をしなんだがな」
 リュゼーの言葉にチャントールは、嬉しそうに酒を飲む。
 よし、この言葉が出た。これで十中八九、成功だ。
 リュゼーはちらりとドロフの顔を見る。ドロフは口元で僅かに笑い、小さく肯く。
「それは、喜ばしく存じます」
 リュゼーは話を続ける。
 しかし、チャントールの笑顔を見ると、本当に喜ばしく思う。
 先ずは成功といったところか。ここからどうやって品に結び付けるかが難しい、悩みどころだ。しかし助けは無い。先ほどの態度は、自分で考えろとのことからだろう。
「そちらとゲーランド様とで、縁談が結ばれたとお聞きしましたが」
 リュゼーの隣にいる男が話しかけてくる。
「その通りです」
 リュゼーは隣の男に酒を注ぐ。
 その男は、酒を飲むか? と仕草で聞いてきてが、リュゼーは杯の上に手を添える。男は気にするなと、手を振る。リュゼーは頭を下げて、謝意を伝える。
 話題は逸れてしまったが、婚約の話ならば挽回できる範囲ではある。
「素晴らしいお人が、リチレーヌを離れてしまうな」
 顔を赤らめた別の男が言葉を漏らす。
「そうだな。リチレーヌにとって大きな損害だ」
 先ほどから、リュゼーが酒を飲まないのを不服に思っている節がある男が、酒を注ぎながらそれに賛同する。その男は、リュゼーの顔と手に持つ杯に目をやると、ぶっきらぼうに、酒瓶をテーブルに置く。
「申し訳ありません、私はエルドレでも酒が飲める歳では無いのです。お許し下さい」
 リュゼーが酒瓶を差し出すと、「酒を飲まない者に注がれてもなあ」と、杯を差し出すのを渋る。
「これ、これ」
 チャントールが間へ入る。
 男はふんと鼻を鳴らし、渋々ながら杯を差し出す。
「ありがとうございます」
 リュゼーは、酒を注いだ後もその場に居据わる杯に、果実水が入った自分の杯を合わせる。男はその後、つまらなそうに口を付ける。
 リュゼーは再びドロフを見るが、ドロフからの返事は何もない。
「お酒とはそういうものなのですか?」
「何がだ?」
 男は答える。
「笑ったり、泣いたり、怒ったりと、不思議なものだなと思いまして」
「飲めば分かる」
 男はそう言うと、杯を呷る。リュゼーが酒瓶を差し出すと、今度は素直に受けてくれた。
 見る限り人は良さそうだ。そうなると益々、酒というのは不思議なものだと思う。それと酒に関してもう一つ言えば、エルメウス家の人たちは、気付いたうえで酒を注がなかったのだ。担当する者以外のところで、この様に不必要に嫌われる必要はないと、分かっていたのだ。浅はかな自分の考えに、我ながら呆れてしまう。しかし、この場に居続けることは可能になったのではないか。
 一度離れてしまった話題を元に戻すにはどうすれば良いか、リュゼーはその糸口を探す。
 ドロフに目を向けると、挑発する様な顔を浮かべて、一回だけ小さく首を振っただけだった。
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