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第2章 開かない箱
40 夢
しおりを挟むジークさんは椅子から立ち上がると、診療所の扉のほうへと音を立てずに歩いていった。ドアノブに手を掛けてさっと勢いよく引くと、なんとお年寄りたち総勢五名が診療所の中になだれ込んできた。
ローザさんたちだ。ジークさんのことが気になって、ドアの外で盗み聞きしてたみたいだ。
「まったく、こんな寒空の下で何をしているんですか? また腰痛が悪化しても知りませんよ」
「ってて、ジークよお。そう思うんなら、もう少し優しくドアを開けてくれてもいいじゃあねえか。ほら見れ。擦りむいちまった」
ローザさんの下敷きになったお爺さんが、床に転げたときにできたらしい傷をジークさんに見せた。
「盗み聞きなんてしてるほうが悪いんじゃないんですか? たいした傷じゃありませんが、一応消毒でもしてきましょうか」
ジークさんが笑いながら薬草棚の方に歩いて行くと、お年寄りたちがぞろぞろと診療所の中に入ってきた。
そのとき、ローザさんと目が合った。ローザさんは薬草瓶を探しているジークさんの背中にちらりと目をやると、今度は俺たちの方を向いて深々と頭を下げた。
俺が慌てて頭を下げ返していると、エミルが俺の服の袖を引っ張った。
「僕たちはそろそろおいとましましょう」
「え? でも、箱の泣き声がまだ……」
「止まるでしょう、この様子では。ジークさん、楽しそうですから」
ジークさんは腕を擦りむいたお年寄りに、消毒液を塗っていた。あれは酢に漬け込んだハーブビネガーかな。殺菌作用のあるローズマリーやセージなんかで作る消毒薬だ。
消毒液を塗られたおじいさんがイテテと大げさに顔をしかめ、笑いが起こった。ジークさんが、見たことのない満面の笑顔で笑っていた。
和気藹々とした空気に包まれた診療所をそっと出て歩きはじめた時、背中のほうから「ちょっと待って!」と声が掛けられた。振り向くと、ジークさんが走って俺たちを追いかけてきた。
息急き切って走ってきたジークさんは、息が整うと言った。
「ありがとう、エドガー君のお陰だよ」
「え? 俺?」
じゃ、じゃあ、俺が啖呵切って診療所を出て行ったのは、やっぱり無駄じゃなかったのかな。
「い、いや俺なんか、ただ怒鳴り散らしてただけで……」
照れくさくなって頭をガシガシ掻いていると、
「いや、さっきの事じゃなくて、昨日のことなんだけど……」
ジークさんが苦笑いを返してきた。
で、ですよね……。俺、感情的になって怒鳴っただけですもんね……。くそ、やっぱ空気読めてないな俺。
「っていうか昨日って……。俺、何かしましたっけ……」
俺は記憶の糸をたぐってみた。
たった二日の内にいろんなことがありすぎて、何をしたかなんて全然思い出せないや。
「君、ローザたちの表情が生き生きして見えたと言っただろう?」
「ああ、そういやそんな事を言ったような……」
そういえば診療所にたどり着いた時に、みんなが和気藹々と話してるのを窓の外から見たんだった。
って、それがジークさんにとって何か重要だったっていうこと?
「私はずっと、ローザたちの表情を見ようとして来なかった。ローザたちが私に親切にしてくれるのは、村唯一の医者である私をこの村に引き留めるためだと思っていたんだよ。いや、そういう気持ちももちろんあっただろうけどね」
ジークさんは顔を上げると、ゆっくりと診療所を振り返った。
「彼らは私をなだめすかしてこの村から出て行かせないようにしているのだろうと……。そういう意地の悪い見方しか出来なかった。でも君はローザたちが生き生きして見えると言った。それは、私には見ることの出来ない客観的な光景だ。君の言葉を聞いたときハッとしたよ……。もしかしたら彼らが私の所へ頻繁にやってくるのは、利己的な理由だけではないのかもしれない、と……」
ジークさんは俺の手を取って握手をすると、「道中、気をつけて」と言って診療所へ戻って行った。
診療所に向かって走るその背中は、初めて夢を見つけた子どもがはしゃいで笑っているように、俺には見えた。
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