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帰国

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 イタリア半島の真ん中ほどに位置するローマの冬は、凍てつくような寒さにはならないことが多い。スキピオが帰国した年の冬も例外ではなく、人々の心も体も家の外へと向かっていた。この日は市場に買い物にでかける人がごった返していた。英雄の帰還に友達と家族と、皆で祝おうという人々が多かったからだろう。日向で朗らかに議論を交わす人も多い。子どもたちは元気に外を走り回っていた。
 元老院はスキピオの帰還日を市民に発表していた。スキピオを祝う準備が市民にはできていたのだ。さらに、周りの同盟都市からも大勢の人々がローマに押しかけていた。救国者スキピオを一目見たいという人も多かったし、戦勝をローマで共に祝いたいという人も多かった。
 ローマ市民や集まった同盟都市の人々は、スキピオが凱旋式を行うとばかり思っていた。ヒスパニアでの勝利は凱旋式に値すると、誰もが思っていたのだ。しかし、ローマに到着したスキピオの一団は少数で、豪勢な凱旋式は催されなかった。
 これ以上元老院を刺激するのはよくないということもあったが、スキピオ自身が凱旋式をおこなう気分ではなかった。ヒスパニアでのローマ軍の相次ぐ勝利にローマ市民は歓喜したかもしれないが、スキピオは自分が行った戦いの犠牲者の多さに陰鬱だった。彼には敵も味方も関係なかった。戦争による人の死を、彼は無益な死と考えている。生命は何よりも尊く、優先されるはずのものだが、なぜか世の中では国というただの集団の利益が優先されてしまう。争うにしても、話し合えばよいではないか。スキピオはなぜこんな簡単なことができないのかと、理解に苦しんだ。
 スキピオはヒスパニアでの戦いを戦争を終わらせるために仕方がなかったと位置づけているものの、それすらも自分が言いわけにしているように感じられた。結局、自分は多くの人を殺しているのだからと。
 スキピオは凱旋式を要求しないことを事前に元老院に伝えていた。マルケルスがシュラクサイを取り戻しておこなった凱旋式では、ローマ軍兵士が行進するとともにシュラクサイの様々な戦利品を載せた荷馬車が長い列を作り、その戦果を見せびらかした。ヒスパニアから到着した一団にはもちろんそうした戦利品もなければ、威風堂々と行進するローマ軍兵士の姿もなかった。それでも、ローマ市内にスキピオが到着すると、大勢の人々が拍手で出迎えた。ローマに集まってきた人々の数は、マルケルスの凱旋式の倍以上だった。
 この日、ローマに集まった人々は、ヒスパニアでの戦果をただ賞賛するだけではなかった。若き指揮官に大きな期待を寄せているのだ。ハンニバルを倒してこの長引く戦争に終止符を打つことを。
 スキピオは久々の家族との再会に心を温めると、真っすぐに元老院に向かった。ヒスパニア前線の担当指揮官として、議場で戦果の報告をおこなうのである。
 市民の熱狂とは裏腹に、元老院でのスキピオの評価は冷徹と言ってもよかった。まず、ヒスパニアからイタリアのハンニバルへの補給を絶つという任務を怠り、ハスドルバルのイタリア行軍を許したことが責められた。次に、スキピオが元老院の許可なくアフリカの西ヌミディアと同盟を結んだことについて、越権行為だと厳しく非難された。スキピオは発言の機会も与えられず、ただ黙って聞くしかなかった。元老院議員第一人者のファビウスは、スキピオへの嫌悪感を隠そうともせず、
「スキピオ殿よ、我々は父や叔父を失った境遇に同情し、元老院議員ですらないお前さんに特別な待遇を与えた。それなのに我々が課した任務を怠ったばかりか、他国と勝手に同盟するといった愚行も犯した。確かにヒスパニアでの戦果は華々しいが、我々は賞賛だけをお前さんに送ることはできん」
 と、言い放った。つまりが、自重しろと言うのである。鼻から賞賛を望んでいるわけではないスキピオだったが、元老院の予想以上の逆風に腹立たしさを感じずにはいられなかった。
 スキピオは議会が幕を閉じようとした際、発言の許可を要望した。ファビウスは一瞬むっとしたが、傍聴している市民の感情を考慮してスキピオの発言を許した。スキピオはゆっくりと、誠意を込めて話し始めた。
「若輩者である私をご指導して頂き、感謝の意を申し上げます。そして、私の願いを聞き入れ、特別に指揮権を与えてくださったことには感謝しかありません。至らぬ点があったことは承知しております。反省して次に活かしていきたいと思います。
 私はヒスパニアで指揮官として経験を積み、こうして戦勝の報告にまで至りました。私は来年には元老院議員の資格年齢の三十歳になります。どうか私に元老院議員の椅子をお与えて下さい。そして、来年の執政官への立候補を認めて下さい」
 傍聴している市民から思わず歓声があがる。議員らに静かにするよう求められた人々は、次に拍手で自分たちの意志を示す。拍手の輪は広がり、議場は拍手で包まれた。唖然とする議員に代わって、スキピオが手を挙げて拍手を制した。
「どうか私を元老院議員に加えて下さい。そして、来年度の執政官への立候補を認めて下さい」
 と、今度は言葉に熱を込めた。
 スキピオが帰還して間もなく、来年度の役職者を決める投票が行われた。元老院でどのように取り決められても、もはや関係なかった。同盟諸都市の人々もローマに集まり、ローマ市民も含めて皆がスキピオへの投票を公言した。あくまでも市民の諮問機関である元老院には、スキピオの執政官就任を邪魔立てすることはできなかった。これ以上、市民の英雄であるスキピオを蔑ろにするようであれば、元老院がこれまで築き上げてきた威厳や地位を放棄することにもなりかねなかった。
 紀元前二〇四年、スキピオは圧倒的な市民の支持を受け、翌年の執政官に選出される。資格年齢には十歳も足りない若き執政官の誕生であった。
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