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ハンニバルとローマ

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「カルタゴ軍がローマの目前に迫っている」
 ローマに駆け込んできたローマ兵士が、息を切らしながらそれだけを衛兵に伝えた。これが第一報であった。その後、次々と急報がもたらされ、直ちに元老院議員が収集され、対策会議に入った。
 元老院では多くの市民が傍聴し、事の成り行きを不安な様子で見守った。そこで語られる内容は、市民には寝耳に水だった。余りの絵空事に何かの冗談かと考えた市民も多かったに違いない。しかし、次第に現実味を帯びていき、事実を直視するようになると、市民に混乱が広がっていった。ほとんどの市民が仕事を放り出して家の中に閉じこもり、固く施錠してローマが戦場と化したときのために備えた。戦争に男手を駆り出され、ローマに残っているのは年長者や女子供が圧倒的に多かった。
 子供たちのすすり鳴きが止まなかった。混乱の次にやってきたのは恐怖である。戦場での経験がなく、これまで安穏とローマで暮らしてきた女子供にとっては、まさに我が身の事態である。市民はこれまでに経験したことのない恐怖に襲われた。
 一方、元老院は冷静に状況の把握に努めていた。各地に斥候を放つとともに、知り得た情報の分析にも力を入れた。時間の経過とともに続々と情報が元老院に寄せられる。
 ローマに接近しているカルタゴ軍はせいぜい一個軍団程度であることが判明し、カルタゴ軍が堅牢なローマをすぐに攻めることはまずないだろうと、元老院が見解を発表した。ローマには四個軍団が在中しており、すぐに防衛の準備に入った。
 そして、ハンニバルはローマの城壁の少し手前で陣をとり、騎兵だけを率いてまさにローマにやってきた。
 プブリウスはラエリウスとニーケーと共に城壁の上にいた。プブリウスの目が白馬に乗った男の姿を捉えた。男は騎兵集団の先頭で、ゆっくりと馬を進める。城壁の上には、カルタゴの将軍を一目見ようとする野次馬がぱらぱらといる程度で、市民のほとんどは家の中で固唾を飲み、早く災難が過ぎるよう祈っていた。
 ハンニバルは城壁に沿って行軍した。それは無言の圧力であり、脅しのようにも感じた。こんな城壁ぐらい簡単に攻略できるぞと言っているようだった。威風堂々としたその姿に畏怖すら感じられた。
 プブリウスの脳裏にはしばらくの間、白馬に乗ったハンニバルの姿が焼き付いて離れなかった。遠目で顔立ちはわからなかったが、プブリウスにはなぜか白馬に跨る男の顔を想像することができた。鋭い眼光と意志の強い顎、精悍であり、親しみやすい顔。
 この男といずれ戦うことになる。ハンニバルの視界には、まだ自分の姿は映らない。しかし、彼が自分のことを直視するときがくるだろう。プブリウスはそう思った。それが宿命であると感じずにはいられなかった。この大胆不敵な男を止めるのは、自分しかいない。そんな感情が心の奥底から湧き上がってくるのだ。市民から寄せられる期待の大きさが、少なからず彼に影響を与えていた。
 その後、ハンニバルはローマの眼前に軍を展開させるが、ローマが市内に編成済みの全兵力を出撃させて布陣すると、圧倒的な兵力差にさすがに正面切っての戦いを挑んでこなかった。小競り合いを何度か続けるだけで、ローマ軍としても会戦に持ち込んで敵を粉砕しようとはしなかった。ここでも持久戦を主張するファビウスの意見が、元老院で採用されたということだ。
 挑発にも応じず、じっと守りを固めるローマ軍に愛想をつかしたかのように、やがてハンニバルはローマを離れて南イタリアの根城に引き返していった。ここにきて、ようやくローマ市民は枕を高くして寝ることができた。ローマに住む女子供がどれほどの恐怖を感じたかは、現代でもイタリアで子どもを叱る際に「ハンニバルが来てあなたを連れて行ってしまうよ」と言うことがあることからも想像ができる。ローマ人の中に、はっきりとハンニバルへの恐怖心が根付いた出来事だった。
 ハンニバルからの援軍を期待できなくなったカプアがまもなくローマ軍によって攻め落とされた。重要都市であるシュラクサイに続き、ローマはカプアも取り戻した。ついにローマの反撃の狼煙が上がった。と、ローマ市民が思った矢先、またしても悪い報せが舞い込んできた。
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