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使節団

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 紀元前二一六年、相次ぐ敗戦に意気消沈するローマの災難はまだ続く。イタリア半島南部のカラブリア地方に入ったカルタゴ軍の前に、ローマの同盟諸都市が次々にハンニバルの軍門に下ったのである。カラブリア地方にあるほとんどの都市が大敗を続けるローマを見限り、カルタゴ側に寝返ったのだ。ハンニバルの狙いがローマ連合の解体だと考えるようになった元老院にとって、この報せは歯ぎしりせずにはいられなかっただろう。
 さらに、ローマに衝撃が走った。カンパニア地方最大の都市であるカプアが、ハンニバルと講和を結んでカルタゴ軍を招き入れたのだ。カンパニア地方の四都市もそれに続き、これでローマはカラブリア地方とカンパニア地方を失うことになった。
 好転の兆しが一向に見えず、打ちひしがれる冬のローマ。市には人も疎らでいつものような賑わいは見られない。ただ、神殿だけは多くの市民でごった返し、市街から長蛇の列が続いた。そんな中、ハンニバルの使節団がローマを訪れた。
 この使節団には捕虜となったローマ兵の代表十人が帯同していた。元老院は市民感情を考慮してカルタゴ人の入場を拒否したが、捕虜の代表十人を招き入れてハンニバルの意向を聞くことにした。
 元老院議員はもちろんプブリウスら多くの一般市民も講堂に集まり、事の次第を見守った。ハンニバルが何を要求してくるのかと。
 捕虜の代表者はまず、ハンニバルによって捕虜になったローマ市民兵以外の同盟都市兵士全員が、何の条件もなく無償で釈放されたことを告げた。次に、カンナエの戦い前に捕虜になったローマ市民がすべて惨殺されたことを沈痛な面持ちで告げると、講堂内外問わず大きなため息が漏れた。さらに、カンナエの戦いで捕虜となったローマ市民兵八千人を釈放する条件として、ハンニバルが金銭を要求していることを告げた。
 この身代金の額は奴隷売買と同程度であり、額としてはたかがしれている。身代金の金額を聞いた多くのローマ市民は、暗闇の中に一筋の光を見出したことだろう。捕虜になった家族や友人を、取り戻せるとは思っていなかったからだ。八千人の捕虜返還が実現されれば、その何倍もの人々が笑顔になれる。暗い報せが続くローマに、久々に明るい報せである。
 プブリウスは自然と右拳を強く握りしめていた。ハンニバルという怪物が表れて以来、ローマは死神にとりつかれていた。ようやく死神がローマから立ち去ってくれるのだ。
 ハンニバルからのこの申し出は、単に捕虜となった八千人のローマ市民の生命を救うだけではない。ハンニバルはこれまでローマに交渉を申し込んできたことはなく、今回が初めてのことである。これによって両国の間で講和への道筋が示された、ということでもあるのだ。ハンニバルは完全決着を考えているわけではなかった。ローマをこの世から抹殺しようというのではなかったのが、この一件ではっきりとわかったのだ。カンナエでの戦いの後、ハンニバルがローマに攻め寄せてこなかったのにも、これで納得がいく。捕虜となったローマ市民の釈放は、ローマ兵の増員に直結する。すなわち、ハンニバルにとってはこの上ない痛手である。それにもかかわらず捕虜の釈放に踏み切るのは、ハンニバルがこれ以上の戦争を望んでいないことの表れであったと言えよう。
 この悲惨な戦争がついに終結に向かう。プブリウスは込み上げてくる感情に身を震わせた。アエミリウスをはじめ、これまでの戦いで亡くなった同胞たちの死が、やっと報われようとしている。
 溢れんばかりの感情に、プブリウスはついに涙を堪えられなくなった。涙が彼の頬をつたって地面に落ちた。これまでの戦いが次々と思い出された。ティキヌス川では九死に一生を得た。トレビア川では多くの味方の死を目の当たりにした。カンナエではアエミリウスを失った。戦争はプブリウスを逞しくした。が、それは決して経験したいことではなかった。戦争はプブリウスが想像していたよりも遥かに悲惨なものだった。
 捕虜の代表者からハンニバルの要求を伝えられた元老院議員たちは皆、黙って目を閉じて考え込んだ。議長であるファビウスはただ一人目を開け、虚空を睨みつけている。
「皆の意見を聞く前に、私の意見を先に述べておこう」
 唐突にファビウスが口を開いた。その口調は落ち着いていた。
「このハンニバルから提案されたローマ市民兵の釈放は、すなわちハンニバルが苦境に立たされていることの表れだと私は考える。これまでの敗戦で我々は多くのことを学んだ。確かに犠牲は大きかったが、我々は多くのことを学んだのだ。次にハンニバルと対峙するとき、我々は決してハンニバルに負けぬ。それが奴にもわかっているのだ。ハンニバルは我々の土地で連戦連勝を続けている今だからこそ、もっとも有利な条件でローマと講和を結べると考えているのだ。この提案を受け入れることは、ハンニバルとの講和の下地が固まることになろう。このまま負け続けた状態で講和に応じれば、いったい我々は何を失うのか。中海の制海権か、シキリア島か、カラブリア地方やカンパニア地方か、それらを失うだけでなく、覇権国家としての威信も失うことにはならないだろうか。
 確かに我々はこれまでのハンニバルとの戦いに敗れてきた。だが、だからといって次も負けるとは私は思わない。戦いはハンニバルの思うように進んでいる。この提案に応じれば、またしてもハンニバルの思い通りにことが進んでいくのではないか。
 カルタゴ本国からの補給も満足に受けられないハンニバルは、苦しんでいるに違いない。傭兵で成り立っている兵士らへの給金にも窮しているのだ。ハンニバルは兵の増強もしておらん。それはなぜか。金欠だからだ。身代金を受け取ったハンニバルは必ずや兵の増強に走るであろう。そのための兵力はガリアの地にいくらでもいるのだから。ハンニバルが兵を増強すれば、事態はローマにとって悪い方へと向かうであろう。
 苦渋の選択ではあるが、ローマの未来を考えれば、この提案に応じるわけにはいかない。それが私の考えだ」
ファビウスの口調は熱を帯び始め、
「私を非情であると思う者もいるだろう。しかし、先人達が血を流して築いてきたこのローマを守るために、我々ローマの威信と発展のために私は非情と罵られようとも、ローマのために何度でも言おう。私はハンニバルの要求に応じるべきではないと。皆の意見を聞かせてほしい」
 と、元老院議員一同を見まわした。
「馬鹿な――」
 プブリウスは思わず吐き捨てた。場は騒然としており、彼のその声はかき消された。唸るように声にならない声を出す者、ファビウスに対してあからさまに罵声を浴びせる者、賞賛の声をあげる者、拍手する者、がっくりと膝を折る者、涙を流す者、議会を見学する市民反応は三者三様であった。しかし、元老院議員の面々は違った。彼らは皆額に深い皺を刻み込み、ただ黙って考え込んでいた。
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