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遺言

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「プブリウス様、敵が離れていきます。我々は助かったのでしょうか」
 ラエリウスが安堵の表情を浮かべた。
「助かった……。だが、これでカルタゴ軍の包囲殲滅戦術が始まる」
 プブリウスらは手分けしてまだ生きている馬をかき集め、まだ息のある者たちをそれらに乗せていった。動ける者も動けない者も、生きているならこの場から逃げることができる。助けられる命は助けたい。プブリウスらは精力的に動いた。
「プブリウスか……」
 全身血だらけのアエミリウスが白い歯を見せた。
生きていた。見たところ重症になりそうな傷はないようだった。何よりアエミリウスの目にはまだ生気がみなぎっているのがわかった。プブリウスは安堵のため息をつく。
「逃げよと命令したはずだが……、なるほど、そんなお主らに救われたということか」
「アエミリウス殿、私の馬にお乗りください。逃げましょう」
 アエミリウスは目を閉じ、うっすらと笑みを浮かべてかぶりを振った。
「逃げたい者たちを連れてこの場を離れろ。私はまだ戦える。騎兵戦では敗れたかも知れんが、中央は我が軍が優勢だ。私は中央に合流して執政官としての務めを果たす」
「馬鹿な。その傷では満足に戦えません。どうかご自身の命を大事にしてください」
「自身の命など惜しいものか。ここを見よ。いったいどれだけのローマ兵が死んだことか。それは指揮官である私の責任だ。そんな私が戦場を離れられるはずがなかろう。
 それに、ヴァッロは恐らく戦場から離脱するだろう。私が彼にそう示唆したからな。執政官二人が同時に戦死するわけにはいかんのでな。残るのは私だと伝えてあるのだ。私が残らねば指揮官不在の軍となる。それでは兵士らの士気も上がらんし、執政官としての職務を投げ出すことにもなる。中央が勝利すれば、この戦いは我々の勝ちだ。むしろもう少しなのだ。中央での歩兵同士の戦いでは、我々が圧倒しておる。勝利は手を伸ばせば、届くところまできておるのだ」
 数刻のやり取りも、頑として逃げることを拒否するアエミリウスにプブリウスはついに折れ、
「わかりました。それではせめてこの馬をお使いください。私は無傷なので徒歩で十分です」
 と言い、プブリウスは下馬した。
「ならん。馬は負傷者を運ぶのに使え。これは執政官の命令だ」
「アエミリウス殿……」
「大丈夫だ。きっと勝利を掴み取って見せる。私だってまだ死にたくないしな。お前さんと娘のテルティアがよい雰囲気なのも知っておる。この戦いが終われば、二人の婚姻も考えてやらねばな……。
――いや、これは私の遺言だと思って聞いてくれ。この戦いの後、どうかテルティアを嫁にもらってはくれぬか。私に万が一のことがあっても、どうかテルティアと結婚してやってはくれぬか」
 それは執政官の顔ではなく、娘のことを気にかける優しい父親の顔だった。
「それなら、どうかこの戦場を生きて帰り、テルティアとの結婚を祝ってください。アエミリウス殿が無事にローマに帰還できるように、私もここに残ります」
「それはならん。お主たちには負傷兵を戦場から逃がす役目を与える。これは執政官命令である。違反すれば罰するぞ」
「かまいません」
 プブリウスにはアエミリウスが死にたがっているようにしか見えなかった。みすみすアエミリウスを死なせることなどできるはずがない。プブリウスは鮮血と泥交じりの甲冑に身をまとった執政官を凝視した。死なせない。そう目で訴えた。
 青年の真っすぐな視線を正面から受け止めたアエミリウスは、次にゆっくりと目を閉じた。
 かっと目を見開いたアエミリウスは、大地が震えるような怒声を発した。
「なめるなよ、若造が」
 プブリウスの横で馬が大きくいなないた。握っていた手綱が強く引っ張られる。
「お前ごとき若造が、執政官である私に意見するなど百年早いわ。命令に背くならば軍律に従ってこの場で斬るのみ。何もわかっておらぬお前ごときに、ローマ軍の勝利を奪われてたまるものか。さあ、行け。お前と話す時間すら惜しいわ」
 アエミリウスは腰の剣に手をかけた。
「プブリウス様、行きましょう」
 ラエリウスがすばやく二人の間に体を入れた。アエミリウスの迫力は本当にプブリウスを斬ってもおかしくはない。プブリウスを見るラエリウスの目が、これ以上の説得は無理であると告げている。奥歯を噛みしめたプブリウスは、
「ご武運を祈ります」
 と、絞り出すように言い、馬上の人となった。
 アエミリウスはプブリウスに対して深く頭を下げ、
「プブリウス・コルネリウス・スキピオ殿に申し上げる。どうかテルティアのことをよろしく頼む」
 と言い、踵を返した。
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