29 / 100
激闘の後
しおりを挟む
激戦だった。ティキヌス川に架けられた橋を破壊して、ここでカルタゴ軍の追撃をかわす狙いがローマ騎兵団の後陣とカルタゴ軍に伝わると、戦闘の激しさはいっそう増した。その戦闘をどのように戦い、どうやって生き延びたかのかを、プブリウスは思い出せない。意識が戻ると、彼はティキヌス川の東岸にたどり着いていた。ローマ軍によって橋は破壊され、東岸にカルタゴ兵の姿は見当たらなかった。
「立てるか」
壮年のローマ兵士が声をかけてきた。プブリウスは立ち上がり、頷いて見せた。体が鉛のように重く、全身に悪寒がはしっているが大きな怪我はしていなかった。全身がびしょ濡れで体温が低下している。プブリウスは周囲の仲間と同じように甲冑を外し、濡れて重くなった衣類を脱ぎ捨てた。冷気が身体に絡みつき、身体の震えが止まらない。
「辛いだろうが歩くぞ。休むのはプラケンティアに着いてからだ。生き抜いて愛する者たちの元に帰ろう」
プブリウスは男に励まされ、重い体を動かした。
プラケンティアまでどのぐらいあるだろう。プブリウスは思考回路の低下した頭でただそれだけを考え、五十人ほどの仲間と共に歩き出した。その敗残兵の中には橋の破壊工作に従事した若者たちだけでなく、老齢なローマ騎兵や屈強なガリア騎兵の姿もあった。ただ、騎兵は馬を降りて川を渡ってきたため、今は軽装歩兵と同じ自分の足で歩いていた。
俯きがちなその集団の歩みは遅い。負傷して自らの足で動けない者、疲れ果てその場に倒れる者が続出したからだ。体力と気力のある者が交代でそれら動けない者を担いだ。心が折れそうな者は励まされた。辛く惨めな道のりだったが、誰一人として見捨てられることはなかった。
生への執着は伝染する。心が折れそうな者は励まされ、気力を取り戻せば今度は励ます側に回った。そのうち、諦める者はいなくなった。顔を上げる者が日増しに増えていった。
若いプブリウスは負傷者を背負った。挫けそうな仲間を見つけては声をかけ、ときに笑顔を取り繕った。体中が痛い。致命傷はないが全身傷だらけだった。下履きもなく裸足で歩く。足の裏は爛れて感覚がない。痛みを感じる元気もなかったのかもしれない。限界を迎えようとする体。ただ、気力はまだ残っていた。
こんなところで死んでなるものか。歯を食いしばり、生にしがみつく。プブリウスは活力に溢れた目を前方に向ける。必死に足を前に動かした。
経験豊かな年配者たちの助けがなければ、プブリウスら新兵はとてもプラケンティアには辿り着けなかっただろう。プブリウスは神様に深く感謝すると共に、仲間の大切さを強く意識した。
プラケンティアになんとか帰り着いたプブリウスを待っていたのは、重傷を負った父の悲痛な姿だった。コルネリウスは意識がしっかりしているもののとても動ける状態ではなく、戦場を生き延びた息子を目の前に、
「……よくぞ無事に戻った。この度の戦ではラエリウスに命を救われた。ローマに帰還したら彼を報奨してやらねばな」
とだけ言い、病床から起き上がることもできなかった。従軍している医師によれば、命に別状はないものの、引き続き安静が必要とのことだった。
父の天幕から出てきたプブリウスの表情は暗い。父は助かったものの、戦況が好転したわけではない。降りしきる冬の雨にあたりながら、プブリウスの心は黒く色塗られていた。
「プブリウス様、よくぞご無事で」
全身に包帯を巻き、杖をついてこちらに向かってきたのは、従僕であり最愛の友でもあるラエリウスであった。痛々しく歩行もままならない彼の目から大粒の涙が流れていた。プブリウスはラエリウスの方に向かって駆け出し、彼の手を取った。その後、二人は抱き合い、お互いの無事を確認しあった。
「父の命を救ってくれてありがとう。君は私の、父の、ローマの恩人だ。どれだけ感謝しても感謝しきれない」
と、プブリウスは頭を下げて感謝の意を示した。
「いえ、私たちの命を救ってくれたのはプブリウス様、あなたではありませんか。戻ってきた軽装歩兵らから話を聞きました。プブリウス様が指揮して下さったおかげでティキヌス川の橋を落とすことができたのだと。カルタゴ軍の追撃をかわすことができたのは、あなたのおかげなのです。感謝しなければならないのは私のほうであり、ここにいる者たちは皆、プブリウス様に感謝しなければなりません」
と、ラエリウスの目にもう涙はなく、さわやかな笑顔で主人の功績を称えた。
一日、死んだように眠ったプブリウスは若さも手伝ってか、すぐに体力が戻った。体力の回復は同時に精神の回復にもつながる。彼の全身にいつもの活力と生気が蘇った。ラエリウスも見た目ほど重症ではないらしく、安静にしておくよう主人に言いつけられても、
「もう大丈夫です」
とだけ言い、プブリウスと共に負傷者の看護に終日あたった。
「立てるか」
壮年のローマ兵士が声をかけてきた。プブリウスは立ち上がり、頷いて見せた。体が鉛のように重く、全身に悪寒がはしっているが大きな怪我はしていなかった。全身がびしょ濡れで体温が低下している。プブリウスは周囲の仲間と同じように甲冑を外し、濡れて重くなった衣類を脱ぎ捨てた。冷気が身体に絡みつき、身体の震えが止まらない。
「辛いだろうが歩くぞ。休むのはプラケンティアに着いてからだ。生き抜いて愛する者たちの元に帰ろう」
プブリウスは男に励まされ、重い体を動かした。
プラケンティアまでどのぐらいあるだろう。プブリウスは思考回路の低下した頭でただそれだけを考え、五十人ほどの仲間と共に歩き出した。その敗残兵の中には橋の破壊工作に従事した若者たちだけでなく、老齢なローマ騎兵や屈強なガリア騎兵の姿もあった。ただ、騎兵は馬を降りて川を渡ってきたため、今は軽装歩兵と同じ自分の足で歩いていた。
俯きがちなその集団の歩みは遅い。負傷して自らの足で動けない者、疲れ果てその場に倒れる者が続出したからだ。体力と気力のある者が交代でそれら動けない者を担いだ。心が折れそうな者は励まされた。辛く惨めな道のりだったが、誰一人として見捨てられることはなかった。
生への執着は伝染する。心が折れそうな者は励まされ、気力を取り戻せば今度は励ます側に回った。そのうち、諦める者はいなくなった。顔を上げる者が日増しに増えていった。
若いプブリウスは負傷者を背負った。挫けそうな仲間を見つけては声をかけ、ときに笑顔を取り繕った。体中が痛い。致命傷はないが全身傷だらけだった。下履きもなく裸足で歩く。足の裏は爛れて感覚がない。痛みを感じる元気もなかったのかもしれない。限界を迎えようとする体。ただ、気力はまだ残っていた。
こんなところで死んでなるものか。歯を食いしばり、生にしがみつく。プブリウスは活力に溢れた目を前方に向ける。必死に足を前に動かした。
経験豊かな年配者たちの助けがなければ、プブリウスら新兵はとてもプラケンティアには辿り着けなかっただろう。プブリウスは神様に深く感謝すると共に、仲間の大切さを強く意識した。
プラケンティアになんとか帰り着いたプブリウスを待っていたのは、重傷を負った父の悲痛な姿だった。コルネリウスは意識がしっかりしているもののとても動ける状態ではなく、戦場を生き延びた息子を目の前に、
「……よくぞ無事に戻った。この度の戦ではラエリウスに命を救われた。ローマに帰還したら彼を報奨してやらねばな」
とだけ言い、病床から起き上がることもできなかった。従軍している医師によれば、命に別状はないものの、引き続き安静が必要とのことだった。
父の天幕から出てきたプブリウスの表情は暗い。父は助かったものの、戦況が好転したわけではない。降りしきる冬の雨にあたりながら、プブリウスの心は黒く色塗られていた。
「プブリウス様、よくぞご無事で」
全身に包帯を巻き、杖をついてこちらに向かってきたのは、従僕であり最愛の友でもあるラエリウスであった。痛々しく歩行もままならない彼の目から大粒の涙が流れていた。プブリウスはラエリウスの方に向かって駆け出し、彼の手を取った。その後、二人は抱き合い、お互いの無事を確認しあった。
「父の命を救ってくれてありがとう。君は私の、父の、ローマの恩人だ。どれだけ感謝しても感謝しきれない」
と、プブリウスは頭を下げて感謝の意を示した。
「いえ、私たちの命を救ってくれたのはプブリウス様、あなたではありませんか。戻ってきた軽装歩兵らから話を聞きました。プブリウス様が指揮して下さったおかげでティキヌス川の橋を落とすことができたのだと。カルタゴ軍の追撃をかわすことができたのは、あなたのおかげなのです。感謝しなければならないのは私のほうであり、ここにいる者たちは皆、プブリウス様に感謝しなければなりません」
と、ラエリウスの目にもう涙はなく、さわやかな笑顔で主人の功績を称えた。
一日、死んだように眠ったプブリウスは若さも手伝ってか、すぐに体力が戻った。体力の回復は同時に精神の回復にもつながる。彼の全身にいつもの活力と生気が蘇った。ラエリウスも見た目ほど重症ではないらしく、安静にしておくよう主人に言いつけられても、
「もう大丈夫です」
とだけ言い、プブリウスと共に負傷者の看護に終日あたった。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
本能のままに
揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった
もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。
女王の剣と旅の騎士
阿部敏丈
ファンタジー
私達の世界のすぐ隣りにあるもう一つの世界の歴史。
その世界は神が与えた王の剣、それを守護する7人の騎士の剣、秩序を司る宰相の剣により、世界のバランスが保たれていた。
ある時、王の剣と4本ある騎士の剣を所有する強国アングランテ王国で、宰相がクーデターを起こす。
そして全ての剣を独占して世界統一、更には平行世界の統一を目論む。
クーデターを逃れたまだ若すぎた騎士4人達は、成長した3年後にそれぞれの思いを胸に宰相が強いている独裁政治に対して反乱を起こす。
市民は強いリーダーに全ての権力を委ねるか?
反乱を起こした騎士たちとともに自由と独立のために戦うのか?
主人公たちと市民、それを見守る囚われた女王の物語。
物語の歴史と私達の歴史を比べた年表、歴史の分岐点となるエピソードを加筆致しました。
【完結】絵師の嫁取り
かずえ
歴史・時代
長屋シリーズ二作目。
第八回歴史・時代小説大賞で奨励賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
小鉢料理の店の看板娘、おふくは、背は低めで少しふくふくとした体格の十六歳。元気で明るい人気者。
ある日、昼も夜もご飯を食べに来ていた常連の客が、三日も姿を見せないことを心配して住んでいると聞いた長屋に様子を見に行ってみれば……?
短編集「戦国の稲妻」
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
(朝(あした)の信濃に、雷(いかづち)、走る。 ~弘治三年、三度目の川中島にて~)
弘治三年(1557年)、信濃(長野県)と越後(新潟県)の国境――信越国境にて、甲斐の武田晴信(信玄)と、越後の長尾景虎(上杉謙信)の間で、第三次川中島の戦いが勃発した。
先年、北条家と今川家の間で甲相駿三国同盟を結んだ晴信は、北信濃に侵攻し、越後の長尾景虎の味方である高梨政頼の居城・飯山城を攻撃した。また事前に、周辺の豪族である高井郡計見城主・市河藤若を調略し、味方につけていた。
これに対して、景虎は反撃に出て、北信濃どころか、さらに晴信の領土内へと南下する。
そして――景虎は一転して、飯山城の高梨政頼を助けるため、計見城への攻撃を開始した。
事態を重く見た晴信は、真田幸綱(幸隆)を計見城へ急派し、景虎からの防衛を命じた。
計見城で対峙する二人の名将――長尾景虎と真田幸綱。
そして今、計見城に、三人目の名将が現れる。
(その坂の名)
戦国の武蔵野に覇を唱える北条家。
しかし、足利幕府の名門・扇谷上杉家は大規模な反攻に出て、武蔵野を席巻し、今まさに多摩川を南下しようとしていた。
この危機に、北条家の当主・氏綱は、嫡男・氏康に出陣を命じた。
時に、北条氏康十五歳。彼の初陣であった。
(お化け灯籠)
上野公園には、まるでお化けのように大きい灯籠(とうろう)がある。高さ6.06m、笠石の周囲3.36m。この灯籠を寄進した者を佐久間勝之という。勝之はかつては蒲生氏郷の配下で、伊達政宗とは浅からぬ因縁があった。
正しい歴史への直し方 =吾まだ死せず・改= ※現在、10万文字目指し増補改訂作業中!
城闕崇華研究所(呼称は「えねこ」でヨロ
歴史・時代
二度の世界大戦を無事戦勝国として過ごすことに成功した大日本帝国。同盟国であるはずのドイツ第三帝国が敗北していることを考えたらそのさじ加減は奇跡的といえた。後に行われた国際裁判において白人種が今でも「復讐裁判」となじるそれは、その実白人種のみが断罪されたわけではないのだが、白人種に下った有罪判決が大多数に上ったことからそうなじる者が多いのだろう。だが、それはクリストバル・コロンからの歴史的経緯を考えれば自業自得といえた。
昭和十九年四月二日。ある人物が連合艦隊司令長官に着任した。その人物は、時の皇帝の弟であり、階級だけを見れば抜擢人事であったのだが誰も異を唱えることはなく、むしろその采配に感嘆の声をもらした。
その人物の名は宣仁、高松宮という雅号で知られる彼は皇室が最終兵器としてとっておいたといっても過言ではない秘蔵の人物であった。着任前の階級こそ大佐であったが、事実上の日本のトップ2である。誰が反対できようものか。
そして、まもなく史実は回天する。悪のはびこり今なお不正が当たり前のようにまかり通る一人種や少数の金持ちによる腐敗の世ではなく、神聖不可侵である善君達が差配しながらも、なお公平公正である、善が悪と罵られない、誰もに報いがある清く正しく美しい理想郷へと。
そう、すなわちアメリカ合衆国という傲慢不遜にして善を僭称する古今未曾有の悪徳企業ではなく、神聖不可侵な皇室を主軸に回る、正義そのものを体現しつつも奥ゆかしくそれを主張しない大日本帝国という国家が勝った世界へと。
……少々前説が過ぎたが、本作品ではそこに至るまでの、すなわち大日本帝国がいかにして勝利したかを記したいと思う。
それでは。
とざいとーざい、語り手はそれがし、神前成潔、底本は大東亜戦記。
どなた様も何卒、ご堪能あれー……
ああ、草々。累計ポイントがそろそろ10万を突破するので、それを記念して一度大規模な増補改訂を予定しております。やっぱり、今のままでは文字数が余り多くはありませんし、第一書籍化する際には華の十万文字は越える必要があるようですからね。その際、此方にかぶせる形で公開するか別個枠を作って「改二」として公開するか、それとも同人誌などの自費出版という形で発表するかは、まだ未定では御座いますが。
なお、その際に「完結」を外すかどうかも、まだ未定で御座います。未定だらけながら、「このままでは突破は難しいか」と思っていた数字が見えてきたので、一度きちんと構えを作り直す必要があると思い、記載致しました。
→ひとまず、「改二」としてカクヨムに公開。向こうで試し刷りをしつつ、此方も近いうちに改訂を考えておきます。
もしも織田信長が魔法を使い始めたら~現代知識とスキルを駆使して目指せ天下泰平~
有雲相三
ファンタジー
現代に生きる社会人の青年は、ひょんなことから戦国の世に転生してしまう。転生先は尾張の戦国大名の息子、吉法師。そう、後の織田信長である。 様々な死亡フラグ渦巻く戦国の世。転生した青年は、逞しく生き延び、天下泰平の世を目指そうと志を新たにするのだが……
「あれ、なんか俺の体、光ってね?」
これは戦国という荒波にもまれながらも、新たに手に入れたスキルを使い、宗教の力で天下泰平の世を目指す一人の青年の物語である。
日本国を支配しようとした者の末路
kudamonokozou
歴史・時代
平治の乱で捕まった源頼朝は不思議なことに命を助けられ、伊豆の流人として34歳まで悠々自適に暮らす。
その後、数百騎で挙兵して初戦を大敗した頼朝だが、上総広常の2万人の大軍を得て関東に勢力を得る。
その後は、反平家の御家人たちが続々と頼朝の下に集まり、源範頼と源義経の働きにより平家は滅亡する。
自らは戦わず日本の支配者となった頼朝は、奥州の金を手中に納めようとする。
頼朝は奥州に戦を仕掛け、黄金の都市と呼ばれた平泉を奥州藤原氏もろとも滅ぼしてしまう。
堤の高さ
戸沢一平
歴史・時代
葉山藩目付役高橋惣兵衛は妻を亡くしてやもめ暮らしをしている。晩酌が生き甲斐の「のんべえ」だが、そこにヨネという若い新しい下女が来た。
ヨネは言葉が不自由で人見知りも激しい、いわゆる変わった女であるが、物の寸法を即座に正確に言い当てる才能を持っていた。
折しも、藩では大規模な堤の建設を行なっていたが、その検査を担当していた藩士が死亡する事故が起こった。
医者による検死の結果、その藩士は殺された可能性が出て来た。
惣兵衛は目付役として真相を解明して行くが、次第に、この堤建設工事に関わる大規模な不正の疑惑が浮上して来る。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる