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父の演説
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イタリア半島の付け根部分を東西に横断するパドゥス川は、イタリアで最大の長さを誇る河川である。プラケンティアはそんなパドゥス川の中間あたりに位置し、冬にはアルプス山脈から舞い降りる冷気によって、身体が凍りつくほどの寒さになる。
十一月、本格的な冬の到来を前にプラケンティアではローマ軍が要塞化の準備に追われていた。この都市は対ガリア戦線の防衛拠点として建設されたが、まだ日が浅く、大軍を防ぐための準備が万全とは言えなかった。プラケンティアに駐屯しているローマ軍を率いる執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオは、日増しに募る兵士らの不安や不満を肌で感じずにはいられなかった。
この時代、戦争状態であっても冬になれば自然と休戦し、兵士らはそれぞれの故郷へと帰っていくのがどこの国でも常識であった。ローマ軍であればその休戦時期に市民集会が開かれ、次年度の役職者や軍役者が選出される。冬が終わり、春が来れば指揮官も兵士も新しく入れ替わって任地に出征するというのがローマ軍団の決まりである。兵士は一般市民であり、何年も戦地に留まることになれば市民生活が破綻してしまう。軍役は本職ではなく、給金も必要最低限に抑えられていた。プラケンティアに駐屯している兵士らの任期は来年の三月までであったが、実際は冬の休戦期で終わる。みんながそのつもりだったのだ。
だが、今度の敵は今までの敵とは違う。自国から満足な補給も得られない状況に自らを追い込み、決死の覚悟ともいうべき強行軍でアルプス山脈を越えてきたカルタゴの将軍ハンニバルである。冬には休戦するという常識を備えていなかったとしても何ら不思議ではなかった。コルネリウスは将官らを通じて、兵士らにこの地で冬営することを伝えた。そのことが兵士らの心情に影を落としたのは間違いないだろう。
不完全なプラケンティアの要塞化、ガリア兵でどれだけ増強されるかわからない敵、寒冷地での冬営と、懸念材料が多いことに危機感さえ抱くようになったコルネリウスは兵士らを一堂に集め、力強く演説した。
「勇敢なローマの戦士たち、それに優秀な同盟諸国の戦士たちに言いたい。諸君らは元々予備兵として編成され、自分たちが最前線に立とうとは想像していなかったかもしれない。それに季節は冬に入ろうとしている。防備が不十分なこの地で冬営することに不満を漏らす者もいるだろう。
だが、我々が戦って守ろうとしているのは、このイタリアの平和であり、家族であり、仲間であり、自分自身の土地や財産であることを思い出してほしい。外国からの略奪者の好きなようにさせるわけにはいかない。
しばらくすれば、もう一人の執政官が大軍を連れてやってくるだろう。我々は負けてはならないこの戦いに、万全の態勢で挑むことができるのだ」
コルネリウスは自分の言葉が兵士らの心に沁み渡るのを待つかのようにここで一息つき、先ほどよりも押さえた口調で、
「もし諸君らが、私がマッシリアまで率いていた兵士であったなら、こうして皆を前にして話すことはなかったに違いない。なぜなら、彼らは中央ガリアでのカルタゴ軍との最初の戦闘で、我々ローマ軍が大勝利したことを実際に経験しているからだ。ハンニバルなど恐れるに足らぬことを彼らならよく知っているが、諸君らの中にはそのことがあまりわかっていない者が多いのではないだろうか。
思い出してほしい。二十三年前に我々はカルタゴとの戦争に勝利して、シキリア島とサルディニア島を得て中海の覇者となったことを。
これから我々が戦おうとしている相手は、まさにその敗者の残党なのだ。我々は二十三年前にも勝利し、先の中央ガリアでも勝利した。同じことが諸君らにも起こると、私は確信している。
諸君らがこれから戦おうとしているカルタゴ軍の兵力は、ロダヌス川とアルプス山脈を越えることで半減し、そのうえ、生き残った兵士も疲労と寒さにすっかり戦意を失っていると聞く。敵は諸君らと戦う前から敗者のような負傷兵ばかりなのだ。そんな彼らを見て、いったいどれだけのガリア人が彼らとの共闘を申し出るというのか。
無論、カルタゴ軍に参加するガリア人もいるだろう。だが、もし我々が万全の体勢でカルタゴ軍を迎えようとしていることを知ったならば、もし最初の戦闘で我々が勝利したならば、ガリア人はもう誰もカルタゴ軍に協力などしないであろう。
私は何度でも言う。諸君らがこれから戦おうとしているのは、すでに我々が勝利しているあのカルタゴ人なのだと」
プブリウスは下降していたローマ軍の士気が一気に高まるのを感じた。指揮官の演説は、戦場でこれほどまでの威力を発揮するのか。これは机上ではわからない。プブリウスの心も熱く燃え上がり、カルタゴ軍など簡単に打ち破ることができると思えてくるのだ。
プブリウスは決して敵を過小評価していない。前人未到のアルプス越えを成し遂げた敵将に対して、その結果はさておき、畏怖すら感じている。中央ガリアでの戦闘が騎兵同士の小競り合いに過ぎず、大勝利などではなかったことも知っている。それでもなお、勝利は少し手を伸ばせば掴めるかのように感じられるのは、指揮官である父の演説によるものなのだ。中央ガリアでの戦闘について詳しく知らない一般兵なら、なおさら奮い立つだろう。指揮官にとって最も大切なのは、部下の士気を高めることなのかもしれない。プブリウスはまた一つ、父から学んだのだった。
十一月、本格的な冬の到来を前にプラケンティアではローマ軍が要塞化の準備に追われていた。この都市は対ガリア戦線の防衛拠点として建設されたが、まだ日が浅く、大軍を防ぐための準備が万全とは言えなかった。プラケンティアに駐屯しているローマ軍を率いる執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオは、日増しに募る兵士らの不安や不満を肌で感じずにはいられなかった。
この時代、戦争状態であっても冬になれば自然と休戦し、兵士らはそれぞれの故郷へと帰っていくのがどこの国でも常識であった。ローマ軍であればその休戦時期に市民集会が開かれ、次年度の役職者や軍役者が選出される。冬が終わり、春が来れば指揮官も兵士も新しく入れ替わって任地に出征するというのがローマ軍団の決まりである。兵士は一般市民であり、何年も戦地に留まることになれば市民生活が破綻してしまう。軍役は本職ではなく、給金も必要最低限に抑えられていた。プラケンティアに駐屯している兵士らの任期は来年の三月までであったが、実際は冬の休戦期で終わる。みんながそのつもりだったのだ。
だが、今度の敵は今までの敵とは違う。自国から満足な補給も得られない状況に自らを追い込み、決死の覚悟ともいうべき強行軍でアルプス山脈を越えてきたカルタゴの将軍ハンニバルである。冬には休戦するという常識を備えていなかったとしても何ら不思議ではなかった。コルネリウスは将官らを通じて、兵士らにこの地で冬営することを伝えた。そのことが兵士らの心情に影を落としたのは間違いないだろう。
不完全なプラケンティアの要塞化、ガリア兵でどれだけ増強されるかわからない敵、寒冷地での冬営と、懸念材料が多いことに危機感さえ抱くようになったコルネリウスは兵士らを一堂に集め、力強く演説した。
「勇敢なローマの戦士たち、それに優秀な同盟諸国の戦士たちに言いたい。諸君らは元々予備兵として編成され、自分たちが最前線に立とうとは想像していなかったかもしれない。それに季節は冬に入ろうとしている。防備が不十分なこの地で冬営することに不満を漏らす者もいるだろう。
だが、我々が戦って守ろうとしているのは、このイタリアの平和であり、家族であり、仲間であり、自分自身の土地や財産であることを思い出してほしい。外国からの略奪者の好きなようにさせるわけにはいかない。
しばらくすれば、もう一人の執政官が大軍を連れてやってくるだろう。我々は負けてはならないこの戦いに、万全の態勢で挑むことができるのだ」
コルネリウスは自分の言葉が兵士らの心に沁み渡るのを待つかのようにここで一息つき、先ほどよりも押さえた口調で、
「もし諸君らが、私がマッシリアまで率いていた兵士であったなら、こうして皆を前にして話すことはなかったに違いない。なぜなら、彼らは中央ガリアでのカルタゴ軍との最初の戦闘で、我々ローマ軍が大勝利したことを実際に経験しているからだ。ハンニバルなど恐れるに足らぬことを彼らならよく知っているが、諸君らの中にはそのことがあまりわかっていない者が多いのではないだろうか。
思い出してほしい。二十三年前に我々はカルタゴとの戦争に勝利して、シキリア島とサルディニア島を得て中海の覇者となったことを。
これから我々が戦おうとしている相手は、まさにその敗者の残党なのだ。我々は二十三年前にも勝利し、先の中央ガリアでも勝利した。同じことが諸君らにも起こると、私は確信している。
諸君らがこれから戦おうとしているカルタゴ軍の兵力は、ロダヌス川とアルプス山脈を越えることで半減し、そのうえ、生き残った兵士も疲労と寒さにすっかり戦意を失っていると聞く。敵は諸君らと戦う前から敗者のような負傷兵ばかりなのだ。そんな彼らを見て、いったいどれだけのガリア人が彼らとの共闘を申し出るというのか。
無論、カルタゴ軍に参加するガリア人もいるだろう。だが、もし我々が万全の体勢でカルタゴ軍を迎えようとしていることを知ったならば、もし最初の戦闘で我々が勝利したならば、ガリア人はもう誰もカルタゴ軍に協力などしないであろう。
私は何度でも言う。諸君らがこれから戦おうとしているのは、すでに我々が勝利しているあのカルタゴ人なのだと」
プブリウスは下降していたローマ軍の士気が一気に高まるのを感じた。指揮官の演説は、戦場でこれほどまでの威力を発揮するのか。これは机上ではわからない。プブリウスの心も熱く燃え上がり、カルタゴ軍など簡単に打ち破ることができると思えてくるのだ。
プブリウスは決して敵を過小評価していない。前人未到のアルプス越えを成し遂げた敵将に対して、その結果はさておき、畏怖すら感じている。中央ガリアでの戦闘が騎兵同士の小競り合いに過ぎず、大勝利などではなかったことも知っている。それでもなお、勝利は少し手を伸ばせば掴めるかのように感じられるのは、指揮官である父の演説によるものなのだ。中央ガリアでの戦闘について詳しく知らない一般兵なら、なおさら奮い立つだろう。指揮官にとって最も大切なのは、部下の士気を高めることなのかもしれない。プブリウスはまた一つ、父から学んだのだった。
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中文:这篇小说的作者是神無乃愛. 禁止私自转载、加工、翻译.
英文:The author of this novel is Noa Kannna. It is forbidden to copy, process and translate without permission.
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