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第1章 水の研究者、異世界へ
第35話 約束は守るべき
しおりを挟む「交渉が無事に成立した印として、少し手をお借りしていいですか?」
「こ、こうか?」
奴隷商人に手を差し出させる。ラエルノアを守るために使った防壁から少し水を回収し、奴隷商人の手のひらに乗せた。
「私が元居た世界では、相手との親交、信頼を深めるために酒を酌み交わす風習があります。でも生憎ここには酒が無いので、代わりにこの水を飲んで欲しいのです。あぁ、心配はいりませんよ。ただの水ですから」
拒否はさせない。
俺の絶対に譲歩しない意志を感じ取ったのか、奴隷商人は恐る恐るといった感じで手のひらの水を飲みほした。
「飲んだ、飲んだぞ! これで良いか?」
「ありがとう。あっ、ごめん。ただの水って言ったけど、俺の勘違いだった」
「…………は?」
意味が分からないという顔の奴隷商人に、わかりやすく見せてあげよう。
「お前が飲んだ水、これと同じなんだ」
彼が飲んだのと同じ量の水を呼び寄せ、目の前で鋭い棘を何本も発生させた。
「こんな風にお前の体内でも、俺の意志で自由に動かせる。だからもしお前が逃げようとしたり、俺に言ったことに嘘がひとつでもあるって分かればこれを発動させる」
奴隷商人の顔が真っ青になり、彼はその場で嘔吐した。そんなことしても無駄だ。俺の魔力をふんだんに含んだ水は奴隷商人の胃に留まり、3時間は効力を発揮する。
とはいえたった3時間耐えれば彼は俺から解放される。その間、俺に嘘がバレなければ生き延びられるんだ。俺としても、ここから遠く離れたコイツの屋敷の地下に隠し金庫が本当にあるのかなんて3時間以内では調べようがない。
「トール。お前、その男と取引を?」
ラエルノアが弓を向けてきた。
別にそれは良い。
俺はエルフに怨まれるべき存在だ。
「あぁ、この男から金を貰う約束をした」
「わ、私を助けてくれたじゃないか。エルフの、私たちの味方ではないのか?」
「……違う。俺は俺の都合で君を助けた。金が得られるとなった今、君たちを助ける理由はない」
「信じたのに。大切な妹を任せるくらい、私はお前を信じたのに!」
「希望に応えられなくてすまない。俺はもうここを去るよ」
ラエルノアに背を向け、この場を離れようとする。そうしたら奴隷商人も俺の後をついてきた。
「ねぇ、何してんの?」
「えっ」
「お前はここにいなきゃ」
「だ、だ、だって、ここにいたら」
ここにいたら、護衛のいないお前はエルフに八つ裂きにされるだろうな。でもそれだけの悪事を働いたんだから仕方ない。罪は償わなきゃな。それにほら、動けなくなってるお前の部下たちだって残ってるじゃないか。
「俺との約束もう忘れたの? 俺はお前を見逃す。代わりにお前は俺に資産の半分をくれる。そういう約束だっただろ」
この場から奴隷商人を安全な場所まで連れて行ってやるなんて、ひとことも言ってない。仲間になるとは言ったが、その定義については何も交渉していない。もし逃げるなら自力でどうぞ。
といってもコイツは俺を、弓で狙っているラエルノアから身を守るための盾にしようと動くだろう。俺なら彼女の矢も止められるが、奴隷商人の命を守るのも交渉時の条件にはなかった。勝手に盾にされても困るので、しばらく止まっておいてもらおう。
「しばらくここで立ってろ」
「なっ、か、身体が!」
「これはひとりごとなんだけど、ここにいる人族たちは全員今から3時間は絶対に動かないから。捕まえるのも、放置するのも、お好きにどーぞ」
ラエルノアの殺意が奴隷商人に向いた。
逃げるなら今のうちかな。
俺はミスティナス王都の防壁付近で待機しているミーナの元へと向かった。
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