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ファウルダース侯爵家結婚編

天降りの姫と香の大家3

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 いたずらに時間が過ぎていくような気がした。
 それでもトビの言葉を信じて、フーミャオの日記の解読を進める。

 日本語への翻訳ももうこれ以上は無理だと見切りをつけて、今度はこの世界で覚えた文字へと翻訳していく。
 正しい文章になってるか不安だから、この翻訳作業は時々オレリーさんに手伝ってもらった。
 オレリーさんのおかげでこの作業はスムーズに進んで、虫食いだらけの翻訳書が一冊分できあがる。
 それをトビに渡すようにオレリーさんにことづけた。

 ようやく一冊。
 一冊解読するのに一週間かかった。
 虫食いだらけのその翻訳書をトビがどれほど認めてくれるかは分からないけれど、どうかそれで許してほしい。

 そう思っていたら、トビのところから帰ってきたオレリーさんはあまり嬉しくないお土産を持って帰って来てしまった。

「フーミャオ様の日記でございます」
「まだあるの?」
「フーミャオ様の日記は全五十四冊が見つかっておりますので……」

 無理でしょう!?
 私一人じゃどれくらい時間かかると思ってるの!
 一冊に一週間?
 それを五十四冊?
 単純計算でも一年以上かかるじゃない!

 私は匙を投げた。
 根を詰めるのはよろしくない。
 絶対どこかで爆発する。
 オレリーさんから渡された日記はひとまず、書物机に置いておく。

「それからもう一つございます」
「まだあるの?」
「トビ様からご伝言が。本日より一刻ほどのみ、アンリという者との面会を許すと」

 また何か厄介事でも、と思った矢先だった。
 アンリとの面会?
 アンリに、会える?
 とくとくとくと心臓が早鐘を打つ。

「それは、本当ですか」
「はい。トビ様はそう仰せでした。ですが……」

 オレリーさんが歯にものがはさまったような言い方をする。
 じっと彼女の小さな目を見つめていれば、オレリーさんはためらいながらも教えてくれた。

「私としては、あまりおすすめができません」
「どういうこと?」
「アンリという者は薫香の儀を受けられている最中でございます」
「薫香の儀?」

 聞き返せば、オレリーさんは丁寧にそれが何かを教えてくれる。

「香の大家に連なる者が受ける通過儀礼でございます。選定の香を焚きしめたお部屋にて、二、三日ほど過ごすというものですが、彼の者はどうやら未だ薫香の間にて過ごされている様子でして」

 そこで言葉を一度区切ったオレリーさんは、気遣うように私を見る。

「この世のものは天降り人にとって、毒や薬があべこべになると聞いております。選定の香が姫様にもし害為すことがあればと思いますと……」

 そういうこと。
 天降り人にこの世界の薬や毒が、普通とは違う効き方をするのは、ここでは周知の事実なんだ。
 だから、オレリーさんはお香一つでも私の身を案じる。
 天落香のこともあるから、大丈夫だなんて言えないけれど。

「アンリをここに呼ぶことはできますか」
「ご許可は降りておりません」
「あくまでも、私が行くなら会う事を許す、ということですね」
「……左様でございます」

 それなら私がやることは簡単だ。

「アンリに会いに行きます」
「姫様」

 オレリーさんがしわくちゃなお顔をさらにしわくちゃにさせるけど、私には行かない選択肢なんてなかった。

「選定の香とは、危険なものではないですよね」
「当然です。元は天落香での儀式でしたが、今はその材料が貴重なことから別な香を使用しております。天降りの恵みに感謝し、香の大家の発展を祈り、忠誠を誓う。そのための儀式ですので」

 天落香と聞いて一瞬だけひやりとしたけれど、今は違うという。
 それに天降り人に一番詳しいだろうトビが私に許可を出してるくらいだ。副作用はそれほど極端なものではないと期待しよう。
 それに体に異変を感じたらすぐに部屋を出ればいい。
 それこそ、アンリと一緒に部屋だけじゃなくて、この香の大家からも逃げ出せば。
 そのためにもまずは、アンリに会わなくちゃ。

「オレリーさん、今から行ってもいいですか」
「……かしこまりました。姫様の仰せのままに」

 オレリーさんはあまり良い顔はしなかったけれど、トビから許可も出て、私からも重ねてお願いすれば、それ以上、否やを言うことはしなかった。

 私はオレリーさんに外出の仕度をしてもらうと、宮の外へと出た。
 日差しは相変わらず暑くて、日傘をしっかりと差す。
 ここに来た日以来、初めてこの天落の宮の敷地を出るや。
 門の外には門番のような男の人がいて、オレリーさんから声をかけて、あの重たそうな門を開けてもらった。

 オレリーさんが向かうのは、母屋の方だ。
 母屋は母屋で生け垣が張り巡らされている。
 天落の宮とは違って、木製の軽い門を越えれば母屋の敷地に入った。
 たまにすれ違う人たちが頭を下げて脇に避けていく。
 その所作は、伯爵家にいた一年前の自分の立場を彷彿させた。
 一年前にはああしてメイドをしていた。
 その二年前には地球からやって来た。
 そうして今はオルレットにいる。
 人生って、目まぐるしい。

 増えていた人の気配が、まただんだんと減っていく。
 あまり人の近づかない場所なのかな。
 母屋の中でも奥まったところまで来ると、一つの扉の前でオレリーさんは足を止めた。

「こちらは渡りの間にございます」
「渡りの間?」
「この向こうは一つの回廊となっております。その先が薫香の間となっており、そちらにアンリという者がおります」

 そう言うと、オレリーさんは私に手を差し出すように言う。
 私が素直に差し出すと、その手に銀色の鍵が落とされた。

「こちらが薫香の間の鍵となっております。香が焚きしめられておりますゆえ、気分が悪くなるようでしたらすぐにお戻りください」
「わかりました」

 オレリーさんにしっかりとうなずくと、渡りの間の扉につけられていた閂をオレリーさんは外した
 ふわりと、甘い香りが漂ってくる。

「いい匂い」
「……姫様」
「はい」
「あまり吸われませんよう。お体に十分お気をつけくださいませ」

 オレリーさんが私の体を気遣ってくれる。
 私はそれに微笑むと、鍵を握りしめた。

「大丈夫です。心配かけないようにします」

 そう告げて、私は渡りの間に踏み出す。
 もうすぐアンリに会える。
 それが嬉しくて、気がはやる。

 渡りの間は天井に明かり取りの窓が設けられていて、上から太陽の日が落ちてきていた。
 一本道の先にはオレリーさんの言うように扉が一つあり、その扉を持つ部屋を囲むようにさらにぐるりと廊下が巡らされている。
 不思議な形をした建物の構造だ。
 そう思いながら、扉へ鍵を差し込む。

 普通の薫香の儀というものであればこんな厳重には鍵なんてされなかったのかな。
 それは中にアンリがいるから?
 それにしても何故アンリが薫香の儀というものをさせられているのかが不思議だった。

 鍵を差し込めば、カチリとはまる音がして鍵が外れる。
 私はそうっと扉を開いた。
 むせ返るような香の匂い。
 あきらかに異常なほどの甘ったるい香りに眉をしかめた。
 これ、換気されてる?

 部屋にはベッドとソファが一つ、それからテーブルしかない。
 外は廊下しか見えないのに壁には窓がある。
 そこから明かりを取ってるんだと理解した。
 そして入り口の直ぐ側にあるチェスト。
 その上に香炉が置かれ、これがこの甘い匂いの元凶のようだった。

 さすがに焚きすぎだよ。
 素人でも分かるくらい、この部屋にはお香の匂いが充満していた。

 でも廊下を見ても開けられる窓なんてなさそうだった。
 さすがに換気もしないで香を焚きしめるのはまずいから、後でオレリーさんに伝えておこう。
 いったん香炉を廊下に出そうと持ち上げたけど、持ち上がらなかった。これ、チェストに据付けられてるんだ。
 仕方なく香炉はそのままにして、ようやく部屋の中を見渡す。
 アンリの姿が見えなくて、もう少しだけ部屋の中へと踏み込んだ。

 部屋をぐるりと一周するけど、アンリはいない。
 部屋の中にもう一つ扉があるから、その扉を開く。
 洗面台があって、さらにもう二つ扉。
 一つはお手洗い。
 もう一つはバスルームみたいで。

「アンリ!」

 バスルームの浴槽で服を着たままぐったりしてるアンリを見つけた。
 バスルームは乾いていて、水が張られている形跡はなく、たぶん、アンリが自分でここに来たんだって分かるけど。

「アンリ、アンリ。しっかりして」

 アンリの肩を揺さぶって、頬をぺちぺちしながら声をかける。
 こんな普通じゃない状況、気が動転するなっていうほうが無理だよ!

「アンリ、お願い、起きて」

 アンリの銀色の睫毛が震えた。
 ゆっくりとスミレ色の瞳が開かれていく。

「……きみ、は」
「アンリ」

 起きてくれたことにほっとする。
 でも、アンリの視線はそのままどこかぼんやりとしたままだ。

「アンリ、大丈夫? 気分が悪いの?」
「…………」

 ぼんやりとしたアンリが、私をじっと見つめている。
 こてん、と首を傾げた。

「……可愛いお姫様だ」
「アンリ?」

 会話になってない。
 アンリが何を言いたいか分からなくて様子を伺っていれば、アンリはおいでおいでと手招きしてくる。
 でもさすがに浴槽の中に二人も入るのは狭いし、なんならどうしてアンリがこんなところにいたのかも不思議な私は動かなかった。
 じっとアンリを見つめていれば、アンリは億劫そうに身を起こして、ふらりと立ち上がる。
 出てくれるんだと思ったら、私の脇へと腕を差し入れて、ひょいっと持ち上げた。

「アンリっ?」
「綺麗だ」

 浴槽へと私を連れ込むアンリ。
 アンリは私を抱っこすると、もう一度浴槽に沈んだ。
 すりすりと私の頬を撫でてくる。
 どこかぼんやりとした視線に戸惑っていれば、アンリは微笑んで私の腰へと腕を回す。

「アンリ、ねぇ、どうしたの」
「んー?」
「おかしいよ、アンリ」
「可愛い」

 話が噛み合わない。
 こんなこと初めてで、とりあえず浴槽から出ようと身を起こそうとしたら、くるりと私と体の位置を上下入れ変えたアンリが、私を浴槽の底へと押しつける。
 びっくりしてアンリを見上げれば、アンリのスミレ色の瞳の奥に、仄暗い熱を見つけた。

「アンリ……?」

 ぞくりと背中が震えた。
 分かんないけど、アンリの瞳の奥に見えるものから、目が反らせなかった。
 こぼれた言葉は浴槽に響き、消えていく。
 おもむろにアンリが、私へと覆いかぶさる。
 身体が密着する。
 私を組み敷いたアンリが、噛みつくようにキスをした。

「んっ」

 アンリの舌が、私の唇をこじ開けて、私の舌と絡まる。
 呼吸ができない。
 耳を塞ぐようにがっちりと頭を抑えられて、逃れられない。
 くちゅくちゅと、いやらしい音が頭に響く。
 やだ、恥ずかしい。
 私はアンリの胸を押して逃れようとするけど、アンリの体はびくともしない。

 なんで。
 どうして。
 こんな激しいキス、しらない。

 アンリとのキスはいつだって優しかった。
 甘くて、優しくて、穏やかだった。
 わかんない。
 こんな、呼吸すら食べられちゃうようなキス、したことない。

 くちゅくちゅと頭の中に水音が響くと、どうしてかお腹の奥がきゅんと切なくなる。
 この感覚を、私は知ってる。

 これは嫌だ。
 こんなのは、嫌だ。
 こんな風になし崩しにされるのは、嫌だ。

 アンリの腕から逃れようと腕を思いっ切り押し出す。
 びくともしないアンリの体に、男の子だということを思い出した。

「んっ、んぅ」

 口の中に唾液が溜まる。
 どうすればいいのかも分からなくて混乱しているうちに、アンリがそれをすすってしまった。
 こくんとアンリが混ざりあった唾液を嚥下する。
 それが衝撃的すぎて、私は逃げ出そうとしていた体から力が抜けた。
 愕然としていると、アンリの手が動く。
 左手は私の頭を支えたまま、右腕がさわさわと私の体の輪郭をなぞった。
 狭い浴槽の中、逃げ場のない私はその腕から逃れようと身をよじらせる。
 私の衣装の帯に、アンリの手がかかる。
 しゅるりと帯の結び目が解けた。
 私はますます混乱してくる。

 その先にあるものに気づかないわけがない。
 でも、アンリは。
 アンリはこんなこと、しない。
 しないと、思ってたのに。

 散々蹂躙していたアンリの唇が離れていく。
 銀の髪がさらりと尾を引いた。
 アンリの表情に雄の色が浮かび、いつもは煌めいているスミレ色の瞳は、どこか虚ろで焦点が定まってなかった。

 アンリがおかしい。

 表情をなくしたアンリの手が、帯の下の裾の合わせから入ってくる。
 その指が下着越しに私の秘所をなぞった瞬間、私はなりふり構わず―――アンリに頭突きをかました。

 今日の頭突きの威力は、目の前に星が散るくらいのものだった。
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