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ファウルダース侯爵家結婚編

重ねた約束と重なる言葉5

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 すっかり話こんでしまって、サロンに差し込む陽の光もオレンジ色に染まり始めた。
 長居をしすぎたというアンリの言葉で、お茶会はお開きに。
 エンゾ様には今日のお礼を十分に伝えて、行きと同じ馬車へと乗り込んだ。

 ようやくアンリと二人だけの空間になる。
 どんなに楽しくおしゃべりをしていたところで、人との会話は疲労が蓄積していくみたい。アンリの肩を借りて目をつむる。

「お疲れだな」
「うん。しゃべり疲れちゃった」
「ユカが楽しそうで良かったよ」

 アンリとぽつぽつと言葉を交わしながら帰路を進んでいく。
 馬車が石畳をガラガラ鳴らす音や、小窓から細く差し込む夕焼けの光が心地よくて、少しだけうとうとしちゃう。

「アンリ」
「ん?」
「フーミャオの日記だけどさ」

 アンリの呼吸が不自然に止まった。
 そっとまぶたを押し上げれば、夕焼けがちょうど目にかかり、まぶしくてアンリの表情が見えない。
 諦めてもう一度まぶたを閉じる。

「あれ、読めなかったって言ったけど、少しだけ嘘」
「嘘?」
「別の国の言葉だからちゃんとは読めない。だけどね、知ってる言葉があったの」
「知ってる言葉?」
「我愛你」
「うぉーあいにー?」

 アンリが聞き返してくる。
 私は小さく頷くと、その意味を教えてあげた。

「あなたを愛していますって言葉だよ。表紙をめくって見つけた、はじまりの言葉がそれだったの。……あの日記は、フーミャオさんが誰のために向けて書いた言葉なのかな。読めたら良かったんだけど……」

 日記だというのなら、あんなはじまり方で書き出さないと思う。
 きっと日記という形の、何かもっと、フーミャオさんが誰かに伝えたい何かが詰まっているんだと思った。
 だけどそれを伝えるための言葉を、文字を、フーミャオさんは残さなかった。
 それならそれは、この世界の人に向けたものではないことだけは分かってしまって。

 フーミャオさんの思いが知りたいと思った。
 だけどそれを知るには、私には非常に困難で。

「ユカ」
「なぁに」
「僕にも、ユカの国の文字を教えてほしい」

 アンリの申し出に驚いて、私は目を見開く。
 西日が差していた車内は薄く陰って、顔を上げれば、アンリの真剣な顔がよく見えた。

「僕はユカのことをまだ何にも知らないんだなって思った。ユカは当たり前のように読み書きをする。でもそれは故郷の文字があったからこそだろう? 僕はユカの本当の名前だって知らない」
「何言ってるの。名前は知ってるでしょう」
「ユカ・イサワを知ってても、ユカの名前を僕は書けない。ルドランスじゃない、君の故郷の名前を」

 そう言われて、初めて気がついた。
 私はこの世界に来て、自分のことに必死で、文字だって覚えるばかりで、自分の言葉を誰かに教えようって思ったことなんてなかった。
「伊沢由佳」という名前を、私はこの世界に来て、一度も書いたことはなかった。
 この世界で初めて覚えた文字が自分の名前だったから、「伊沢由佳」なんて書いたことなかった。
 だって書いたところで、誰も私の名前を読めない。
 記号としての文字が、記号として意味を成さない。
 だって読めないから。
 この世界の人が私の使う日本語を覚えるよりも、私がこの世界の文字を覚えるのが当然だったから。
 郷に入っては郷に従え。
 そうするのが当たり前だと思っていたから。

 あぁ、だからか。
 なんとなく、フーミャオさんが文字を伝えなかった理由がわかった気がする。
 必要がなかったから。
 この世界に、元の世界の文字なんて必要なかったから。
 たとえばフーミャオさんがこの世界に来たときに、まだ文字という文化が存在していなかったのなら、あの日記はこの世界の誰もが読めるものになってたかもしれない。
 だけどそうならなかったのは、この世界で、元の世界の文字は必要なかったから。

 文字は文化だけど、お香やお茶や工芸品とはまた違う。
 伝わるもの、伝わらないものがある。
 それは天降り人がこの世界に必要だと思うものを取捨選択してるからなのかもしれない。
 あるいは、自分が自分らしく生きるために、元の世界という殻を脱ぎ捨ててなお残ったものだけが、後世に残ってるのかも。

 それって、すごく、寂しい。

「……アンリ、手を出して」
「はい」

 差し出されたアンリの手のひらに、指で文字を綴る。
 伊沢由佳。
 私の名前。
 大切な私の文字を、大好きな人の手のひらになぞる。

「これが私の名前だよ。伊沢由佳。名字が先で名前は後なの。伊はこれとかこのとかの意味があって、沢は水辺のこと。由佳の由は自由でありながら、一本の筋を通して欲しいって意味がこもっていて、佳は美しい人って意味があるの」

 日本語は、漢字一文字に意味が籠もった言語。
 いつか両親から聞いた名前の由来を思い出しながら、アンリに教える。

「伊沢由佳。私の名前。ちゃんと覚えていてね。この世界では誰も知らないその名前の意味を、アンリだけは覚えていてね」
「……ありがとう。大切にする。君の名前、ずっと覚えてる」

 アンリが、私の名前を綴った手のひらへ愛おしそうに口づける。
 それからすごく、すごく綺麗な笑顔で私の名前を呼んだ。

「好きだよ、由佳。ずっと一緒にいような」

 胸が震えた。
 名前一つ、意味を知ってもらえているだけで、こんなにも胸が締めつけられるなんて思っていなかった。

「私も好き。ずっと一緒にいてね、アンリ」

 アンリの胸に飛び込むようにして抱きつく。
 いてもたってもいられなくなった。
 この胸のうちにあふれる喜びを、アンリに届けたかった。

「情熱的だね」
「アンリが嬉しいこと言うから」
「毎日でも言ってあげようか?」
「それはお腹いっぱいになりそう」

 二人で抱き合いながら、そう茶化し合う。
 アンリの腕の中はとても心地よくて、ずっとずっとこうしていたかった。



 だけど、世界はそんなに都合よくまわってはくれなくて。



 夢見心地でアンリに寄り添っていれば、突然、馬車が大きく揺れて、傾く。
 同時に、馬の嘶きと共に車輪の音が派手なものへと変わって、馬車が不自然に傾いた。
 激しく揺れる車内に身を竦めれば、アンリが私の身体が跳ねないようにと抱えてくれた。

「どうしたんだ!」
「車輪が外れたようなんですが、停めようとしたら馬が暴れて……! うわぁっ」

 御者さんの悲鳴。
 アンリの表情が真剣なものになる。

「大丈夫か!?」

 返事がない。アンリがガタガタ揺れる馬車の中、私をその場に留めて、素早く前方に移動すると、御者台に続く小窓を開いた。
 御者の姿がなかった。

「振り落とされた!?」
「あ、アンリ、どうしようっ」
「僕が御者台に移って……!」

 アンリがそう言った後、顔色を変える。
 それから私を抱き寄せ、馬車の床に覆いかぶさるように身を伏せた。
 アンリに抱き寄せられる直前、夕日が差し込んでいたはずの馬車の小窓に壁が映る。

 あっと思ったときにはすごい衝撃とともに、車体はどこかの建物の壁に叩きつけられ、私とアンリは馬車の中で大きく身体が跳ねた。

「うぐっ」

 アンリの呻く声。
 私は悲鳴すらあげられず、馬車が横転して屋根が崩れ、アンリが私の体を庇ってその屋根に叩きつけられる。
 私も座席で肩を強かに打ちつけたようで、鈍く痛んだ。
 でもそれも、アンリが庇ってくれたからで。

「あ……んり…?」

 私の体の下敷きになったアンリがぐったりとしている。
 声をかけるけど、アンリは反応を示さない。
 全身が凍る。
 まさか、頭でもを打った……!?

「アンリ、アンリ……!」

 揺さぶっていいものか分からなくて声をかける。
 ぴくり、とアンリの身体が震える。
 薄くまぶたが開いて、スミレ色の瞳が私を映す。

「ゆか……ぶじ……?」
「私は平気! それよりもアンリの方が……!」
「ごめん、受け身とるの失敗した……背中打ったみたいで、ちょっと体が動かないかも……」

 背中!?
 もしかして骨か神経がいった!?
 青ざめる私に、アンリはこんな状況だというのに笑いかけてくる。

「由佳が無事なら大丈夫だ」
「大丈夫じゃないでしょう! ごめんね、体動かすよ、助け呼ぶから……!」

 そう言って、崩れた馬車から這い出ようともがくと、ふと頭上に落ちていた馬車の床がまた傾いた。
 馬車の壁が壊れていたおかげか、まるで蓋を取るように床が持ち上がっていく。
 町中の派手な事故。
 遠巻きにしている人々の中、何人かの人が私達に手を差し伸べてくれる。

 無事かどうかを聞かれ、馬車を呼んだと言われ、あれよあれよと言う間に、アンリも私も手際よく通りかかった馬車に乗せられる。
 これから診療所に行く、馬車は後で片付けよう、先に治療をと言われて、私はそれに素直に従ったけど。

「……待て、馬車を止めろ」
「アンリ?」

 アンリが顔を苦痛に歪めながら、起き上がる。
 それから同乗していた男の人を睨みつけた。

「診療所に行くなら道が違うだろう。どこに行く気だ」
「気の所為じゃありませんかねぇ」
「ここからなら西地区の診療所が一番近いはずだ。この馬車の道の行き方は、とうみてもそこの診療所には向かってないだろう」
「……」

 同乗してくれていた男の人が表情を削ぎ落とした。
 その変貌ぶりに私の体は固まる。狭い馬車の中、アンリが私を守るように抱き寄せた。

「馬車を止めろ。今すぐに僕らを降ろせ」
「そう言われ、止めるとでも?」
「止めないなら力づくでも止めさせる」
「その身体でか」

 男の人はせせら笑うと、懐から何かを素早く取り出す。
 小瓶のようなそれに気がついたアンリが私を庇うようにその身体で隠す。
 途端、薬品の匂いが馬車に充満した。
 ふわりと頭がぼんやりとしてくる。
 眠気を誘うようなその香りに唇を噛んで耐えていれば、私を抱いていたアンリの腕がずるりと落ちる。

「アンリ!?」
「? なぜ眠らない?」

 男の人が驚いたように私を見た。
 そう言った男の人は口元を布で覆い、私の方を見ている。

「まぁ、いい。女の方は無力だと聞いてるしな。こちらの騎士だけ眠らせときゃいいだろう」

 独り言のようにぼやいたその人は車窓を開けると、馬車の空気を入れ換える。
 匂いが薄れていくと、男の人はようやく口元の布を外した。

「姫君は丁重に扱えとの仰せだ。大人しくしてればその男も治療がされるだろう」
「……あなたは、誰ですか」
「俺はただの下働き。あんたはこれから相応しいお方のもとに行くだけさ」

 どうしてこうなるんだろう。
 とんでもないトラブルメーカー。私だけがどうこうするだけなら、まだマシだったのに。
 意識がなくなったアンリを抱きしめて、男の人を睨みつける。

 本当にこの世界は、都合よくまわってくれない。
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