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オージェ伯爵邸襲撃事件編

柳下のどじょう2

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ぱぱっと着替えて身嗜みを整えると、マルスラン先生に一声かけてから迎えにきたモードちゃんと一緒に工房に向かう。たまに一人で工房に向かう事もあるけど、大概はモードちゃんがお迎えに来てくれる。
一度どうしてお迎えに来るのか聞いてみたら、寄り道できるからと返ってきた。工房へ向かう道中、私がよく差し入れを買ったりするからそれ目当てらしい。

今日も私は差し入れを買うべく、適当なお店に入る。お昼御飯も食べずに出てきたのでついでに買い食いしてやろうと、パン屋さんに入った。
差し入れにはころころとした丸いドーナツを買って、私は自分のお昼御飯用にサンドイッチを買う。モードちゃんにも食べるか聞いたらイチゴジャムのタルトをおねだりされた。えへへ、ついつい妹がいたらこんな感じなのかと甘やかしてしまう。

二人でお店の外に出て、工房につく前にサンドイッチとタルトを食べちゃうことにする。私は空腹に耐えかねて、モードちゃんは証拠隠滅のために。
工房への道とは離れちゃうけど、ベンチがあるので広場で食べることにする。二人で仲良く歩いていると、段々と増える人の多さに気がつく。迷子にならないように歩いていると、ちらりと視界の端に映ったものに理由が分かった。

「今日って市の日だったんだ」
「あぁ~、忘れてましたぁ」

二人して忘れていたらしい。日付感覚が狂ってたか……まぁ、カレンダーを見る習慣がないから、こういうこともあるよね!

前はスケジュール帳やスマホとかで何日の何時にどこどこで何をするみたいに細かくスケジュール管理をしていたけど、今は明後日の昼ぐらい、とか五日後の朝、とかざっくりとした予定だ。その上、私が忘れてても他の誰かが覚えていてくれる。今日だってエリアが教えてくれたし、教えてくれなくてもモードちゃんがお迎えに来てくれるから無断欠勤とかにはならない。
それにそんな遠い日の約束はしないし、みんな時間にルーズだからなかなかのスローライフだ。

市が開かれている広場は人で溢れてる。これでは空いているベンチなんて見つからない。
どうしようかとモードちゃんと話していると、トントンと肩をつつかれた。

「はい?」
「よぉ、姉ちゃん」

振り向くと、外套のフードを目深に被った怪しい男。ちらりと茶色の髪が覗いている。

「……香売りの人?」
「正解! いやー、実に半年ぶり? 元気にしてた? あの後調子どう?」

楽しそうに笑う香売りの男に私は呆れる。片手で足りるほどしか会ったことがないのに、よくもまぁ馴れ馴れしい。
肩を抱くように私の後ろに立っている男を見上げようとすると、男が私の頭に顎を乗せて固定した。何するの!

「ユカ様、お知り合いですか?」
「知り合いと言うか……たまに市で会う商人さんなの」
「つれねぇなぁ」

男は飄々と嘯く。
でも私は嘘を言ってないよ。本当に数回会っただけ。
ロワイエ様の事件後、私が不本意にロワイエ様に手込めにされた事のお詫びらしく、市で見かけると良い薫りのお香をもらったりしているだけだ。彼は好意でしてくれてるんだろうけど、私は天落香の件があるから怖くて一度もそれらの香を使えていない。

「なぁ、今時間あるか? 良いもん持ってきてるから俺の店に寄ってくれ」
「いや……これから用事があるので遠慮しておきます」
「用事って?」
「……仕事」
「へぇ、女だてらにか。何の仕事だ?」

男が珍しいものを見つけたような声音で言う。
私はつんっとそっぽを向いた。

「とってもやりがいのある仕事です」
「だからどんな?」
「何でも良いでしょ。モードちゃん、行こう」
「あ、ユカ様!」

モードちゃんの手を引いて男から離れようとする。男は慌てたように私の前に回り込んだ。

「すまんって、怒ったか? 気に障ったか?」
「それくらいで怒りません。ほら、私これから仕事あるから……」
「これ逃すとまた次に会えるのわかんないからさ、ほら来てくれって」
「ユカ様ー」

モードちゃんが私の袖をくいっと引っ張ったから、私は足を止めてモードちゃんを見た。モードちゃんは何やらにこにこと……いや、にやにやと? 私とフードの男を見比べる。

「ユカ様も罪作りな……こんなに熱心にお誘いされてるんですから行きましょうよ。どうせ父さん達もまた時間忘れて作業しているんで、少しくらい遅れても平気ですよー」

寄り道大好きモードちゃんにもおねだりされて、私は仕方なく香売りの露店に寄ることにした。ついでにお昼ご飯を食べる場所を提供してもらうことにする。

今日の男の露店の位置は、広場の端の方だ。広場に面した建物の前にずらりと並ぶ露店の一つ。流石にお店や家の出入り口の目の前には露店は敷かれてないけど、路地の前とか窓の前とかには所狭しと遠慮なく露店が軒を連ねていた。壁際じゃない他の露店もお行儀よく背中合わせに列をなしている。
いつか一度だけ連れていって貰った同人イベントのサークルみたいな感じ。脳内杏里ちゃんが、男の露店の位置に関して「この位置なら壁サー!」と主張している。あの時は杏里ちゃんのお買い物のお手伝いをしていたんだけど、人が多いわ並ぶ列がどこにあるか分からないわで大変だった……初心者には無茶だよ杏里ちゃん……。

「座った座った」

香売りの露店は二人で座るにはゆったりしているけど、三人で座るにはちょっとつらい。それでも私も小柄だし、モードちゃんも成長期で成長しきってないから、三人でなんとか詰めて座れた。男、モードちゃん、私の並びです。モードちゃんがさりげなく私と男の間に入ってくれた。
今でこそ寄り道のためにお迎えに来てくれるモードちゃんだけど、最初の頃は男性恐怖症気味だった私を連れ出すために来てくれていたからね。未だに根づいているのか、工房とか町ではこうやって長時間男性と密着しなくてすむように気遣ってくれる。ありがとう。

男が左右の露店のお兄さん達に留守番のお礼を言ってからごそごそと荷物を漁っている間、私はサンドイッチを、モードちゃんがタルトをもそもそと食べる。

シャキシャキッとしたレタスと塩気のあるハム、胡椒の効いたチーズを、たっぷりとバターを塗ってしんなりさせた半円のバケットに挟んだサンドイッチ。
バケットだから皮がちょっと噛みちぎれなくて苦労するけど、噛めば噛むほどバターの甘味が刺激が強い胡椒やしょっぱいハムの味を和らげてくれる。
黙々と咀嚼しながら隣を見ると、モードちゃんは宝石のように輝いていたイチゴジャムのタルトをぺろりと平らげて、男に商品のあれこれを聞いていた。

私もようやく食べ終わる頃には、ごそごそしていた男の動きも止まって、代わりに爽やかな香りが漂ってくる。私が食べている間に、何かの香を焚いたみたいだ。

「今日の目玉商品だ」
「あれ、この匂い……」

モードちゃんがくんくんと香の匂いを嗅いでいる。

「これ、キニテミの香水!?」
「おっ、よく分かったな」

モードちゃんが目を輝かせて炊かれたお香を見ている。

「そりゃ女の子に超人気だもん! 皆一回くらいはキニテミの香水を買うし! 安いから手に入りやすいし、匂いも素敵だし!」
「最近流行りだと言うが、実はキニテミが手軽に入手しやすいように香の香りをいくつか香水で再現してんだよ。これ、実は門外不出のレシピだしな。お陰でルドランスじゃちっとも売れねぇ」

興奮したモードちゃんに唖然としていると、香売りがあれこれ言う。
香水……洒落っ気なんてどこぞに置いてきた私にはよくわからないけど、モードちゃんの興奮具合にすごいものらしいってことは分かった。

「香水と違ってこいつの良いとこは濡れないし、香りの調整がしやすいってことか。部屋に焚くもんだしな。つけすぎることはまずない」

男から香炉が回ってくる。モードちゃんが間近で匂いを嗅いでなるほど、としきりに頷いてる。私にも回ってきて私も香の薫りを堪能する。

ちょっとスパイシーな香りだ。お香と言うよりも、香水でありそうな感じの匂い。でもどんなに顔を近づけても、香水ほどどぎつい感じにはならない柔らかな薫りだ。

あんまり顔を近づきすぎたからか、頭がくらりとした。酸欠の症状に似ている気がする。私は慌てて顔を話した。

「というわけで姉ちゃん、今日のプレゼントこれな」

男がハンカチを取り出した。

「この香を焚き染めたハンカチだ。いつもなんだかんだで受け取ってもらうのに苦労するからな。一日くらいしかもたねぇがこれでどうだ?」

モードちゃんが何故だか憐れみを込めて香売りを見る。そろそろ道草を食うにも時間をかけすぎている気がするし、まぁハンカチくらいならと受け取った。

「良い匂い~」
「そうだね」

モードちゃんが私のハンカチにすりすりする。そんなに気に入ったなら、後であげよう。私が持っているより、モードちゃんが持ってた方がいいでしょう。

香が風に乗って薫りを広げる中、私達はそろそろお暇しようと立ち上がった。

「あ、れ?」

立ち上がったとき、くらりと視界が揺れる。立ち眩みが起きたときみたいに、平衡感覚を失って座り込んでしまった。

「ユカ様!?」

くずおれる私をモードちゃんが慌てて支えてくれる。
視界がぐらぐら揺れる。ぐるぐる回る。気持ち悪い。

「あんた誰か呼んでこい。体調が悪いなら連れ帰った方がいいだろう?」
「は、はいっ」
「ここは俺が見といてやるよ」
「お、お願いします!」

動揺しているモードちゃんに、男が冷静に人を呼ぶように言っている。

どくどくと心臓が早鐘を打つ。
何かよく分からない焦燥が私の中に生まれる。

「モード、ちゃん……行かない、で」
「ユカ様、待っててくださいね。そのままじゃ歩けないでしょう? すぐにだれか……診療所の人連れてきますー!」

モードちゃんは颯爽と人混みの中に消えていく。
私はぺったりと座りながら、回る視界を抑え込むように目をつむる。今日は寝不足どころか、体の調子がすごく良かったのになんで……。

「いやー、まさかとは思ったけど、ホントのホントにいるとはなぁ」

香売りの男の声がする。ただ違うのは、いつもは地を這うように低い声音なのに、少し高い声だと言うこと。聞き覚えのあるような、ないような。思い出したらいけないような、そんな声。

「うっかり殺し損ねちまったかと思ったけど、これも怪我の功名って奴だな」

近くで音がしたから目を開けると、するりと私の手にあるさっきのハンカチが取り上げられた。そしてそのハンカチが口許に押し付けられる。

「んんっ」
「てめーら、後は手筈通りに順に撤収しろ」

この香りを吸い込んじゃいけないと本能的に思って息を止めるけど、なかなか男の手は離れない。むしろ口を抑えたまま肩に担がれた。息が続かなくて結局匂いを吸い込んでしまう。抵抗しようにも、徐々に手の先足の爪先が麻痺したかのように動かなくなる。

「さぁて、可愛いメイドさん。これからお楽しみと行こうや」

その声、その台詞に、脳裏にいつかの記憶が呼び出される。血の気が引くと同時、意識が遠退く。

ああ、誰か、誰か、誰か、助けて。死にたくない。私は二度と誰かに殺されたくない。

男はするりと露店の裏の路地へと入っていく。



アンリ、たすけて。
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