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オージェ伯爵邸襲撃事件編
時のうつろい6-過去と夢と春の先触れ-
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「由佳、起きなよ」
つんつん、とほっぺをつつかれた気がした。
私はまだ覚めない眠気を噛み殺しながら、片目だけ開ける。コンビニの雑誌の棚を目の前にしたフロントガラスが最初に目に入って、私はもう一度目を閉じる。
「こら! 運転手ほっといて助手席で寝るつもりかい?」
女性にしてはちょっと低めのアルトな声。
むにむにつつかれる頬をこのままにしておけないから、私はもう一度目を開けた。
「まだ目的地じゃないじゃん」
「そうだけどさ、飲み物いらない?」
「あー」
私はジュースホルダーを見る。そう言えば飲み物を用意してこなかった。辺りを見渡せば、どこかのパーキングエリアらしく、サービスエリアと違ってコンビニがぽつんと寂しく建っている。
「降りる~」
「いつものコーヒーで良いなら買ってくるけど」
「あ、じゃあそれでお願い」
「オッケー」
そう言って、白のスキニーパンツに黒のブラウスを合わせ、銀のチェーンネックレスをちらつかせた彼女が運転席を降りた。シュシュでまとめられた、腰まであるストレートの黒髪が歩くリズムに合わせて風になびく。
ぼんやりと見送っていると、彼女は青いコーヒーの缶を二つ持ってすぐに戻ってきた。
「まだ寝ぼけてるのかい?」
「なんか、長い夢を見ててさー」
「さすが由佳! ほんのちょっとのうたた寝でか!」
ちょっと童顔な彼女は運転席に乗り込むとけらけら笑う。私はすねるように唇を尖らせてあげた。
「もー、笑うわないでよ」
「ごめんごめんって、お姫様。今日はボクがエスコートする約束だから気を損ねないでよ」
「……いつも思うけど素面でよくそんなセリフはけるよね?」
「実は酔ってる」
「おいこら運転手!」
「由佳にね?」
「畜生この女誑し!」
「あははー、誉め言葉! 可愛い女の子にならモテたい! もちろん由佳が一番さ!」
そう言いながら二人で笑っていると、彼女がアクセルを踏んで、車をバックさせる。コンビニを出て、高速道路へと戻った。
見慣れない景色、見慣れない建物が流れていく。
そういえば私たちは何処に向かっているのだろうと思った。
「ねぇ、今日何処にいくの?」
「内緒。由佳の誕生日なんだから、ボクがエスコートするって言ったじゃないか」
にこにこと楽しそうに笑いながら、彼女はアクセルを踏み込んでいく。私たち以外の車とすれ違わないこの道は、どこに続いているんだろう。
ぐんぐんと景色が流れていく。今いったい何キロ出てるのかな。
「ねぇ、本当にどこに行くの」
「内緒」
トンネルに入った。
彼女の顔がオレンジに染まる。
長い長いトンネル。その先に白い光を見つけると、彼女は徐々にスピードを落としていく。
「もうすぐ着くよ。その後はボクのお役目じゃないのが悲しいなぁ。この浮気者め」
「え? それってどういう……」
「見たらわかるって」
トンネルを抜けた。
白い光が強烈すぎて一瞬目を閉じる。目蓋の裏すら焼く白い光。
「杏里ちゃん!」
私は親友の名前を叫ぶ。
慌てて手を隣に伸ばせば、大きな掌が私の手を包んだ。
◇◇◇
私はおもむろに目を開けると、そこは馬車の中だった。
ぼんやりと今の状況を思い出す。
暖かい温もりを半身に感じた。そしてぎゅっと握りこまれている右手。
「……あんりちゃん?」
「おはよう」
にっこりと笑うアンリがそこにいた。
杏里ちゃんじゃない。黒髪ストレートの美女じゃなくて、美人だけど銀髪ハーフアップの年下の男の子。
「よく眠れたかい?」
「……ごめん、私寝ちゃってて」
「いいよ。眠れるときに眠った方がいい」
とんとんとん、とアンリはまた赤ちゃんをあやすかのように私の背中をリズミカルに叩く。
「ん……でもせっかくアンリとお出掛けするんだし。おしゃべりしてたい」
「着いたら沢山しゃべれば良いよ」
そっか。それもそうだね。
アンリとの時間は、まだ沢山あるんだから。
私はそのままアンリにもたれ掛かって、うとうとし出す。やっぱりアンリの側はホッとする。マイナスイオンでも出てるのかなぁ。
「……どこに連れていってくれるんだっけ」
「内緒」
既視感のあるやりとりに口許をゆるめながら、想像を膨らませる。
乗り合い馬車を使ってまでいくんだから、少なくとも近場ではないはずだ。そうなるとシュロルムの外にまで出てしまうのだろうか。
そこでふと思う。アンリは騎士だというけど、あんまり馬に乗っているところを見たことがない気がする。診療所へお見舞いに来ていたときだって基本的に徒歩だったし、乗り物に乗ってきた時でさえ馬ではなく自転車だけだった。
「そういえばアンリ。アンリって馬に乗らないよね。馬に乗るの苦手なの?」
「は?」
アンリがすっとんきょうな声を出す。乗り合い馬車に相乗りしていたおじさんがにやにやしているのが視界の端に映った。あ、隣のおばさんに頭を叩かれてる。夫婦漫才?
「……なんで、そう思ったのさ?」
頭上からアンリの声が降ってくる。その声はちょっと拗ねたようでいて、どうしたんだろうと重たい目蓋を上げてみた。
「物語の騎士様は恋人をのせて早駆けするのが定番なんじゃないの?」
「……どういう物語だよ」
「杏里ちゃんが……女の子の方の杏里ちゃんがね、そう言ってた。私も読んだことないから詳しくは知らないよ」
さっき夢に出てきた親友を思い出す。一時期、筋肉系騎士小説に嵌まっていたらしい杏里ちゃんが「ふと思ったんだけどさ、人間の筋肉もいいけど馬の筋肉も良くない?」とかよく分からないことを真顔で言い出したことも一緒に思い出す。
一人で思い出し笑いをしていると、アンリが私の背中を叩く手を止めた。
「騎士が街中で馬を使うのは有事の際だけだ。だから普段は歩くし、僕らは砦からシュロルムに来るときにだけ馬を使ってる。絶対に、苦手とかいう理由じゃないからな」
騎士が町で馬を使わないのはそういう理由があったのか。街中でも馬に乗った騎士がいたら優先的に道を譲らないといけない印にもなるらしい。急いでるんだー! っていう合図になるわけだね。パトカーとかのサイレンみたいな感じかなぁ。
「そういえば久しぶりに聞いたな、女の子のアンリの話」
馬の話から一転、アンリが思い出したように言う。
「ユカは故郷のあれこれを教えてくれるけど、まだ『アンリちゃん』については教えてもらってないね」
「そうだっけ?」
「そうだよ。名前と、僕に話し方が似ていることだけしか知らない」
興味津々でアンリが聞いてくる。今日のアンリはなんだかぐいぐいとくるなぁ。
特別隠すようなことでもないので、うーんと私は杏里ちゃんについてどう説明しようかと考える。ここにいない人を紹介するのってちょっと難しい。
「杏里ちゃんは私より背が高くて、髪が長くてさらさらなんだ。身長高いくせに顔つきが幼いせいか、よく若く見られてるよ。だから年齢相応を目指してるみたいで、可愛いというよりは格好いいお姉さんって感じの見た目なの」
「見た目」
「第一印象はこうクールな……ええと、理知的というか、賢そうな、真面目そうな見た目」
「見た目」
「頭もいいし、真面目なんだけど、本とか物語が好きでそれに時間とお金と命を懸けてる子でね。そのためだったらいついかなる時でも手段を問わない! みたいな勢いもある子」
「なんというか……そんな子が本当にユカの友達なわけ? ちょっと想像がつかない。命を懸けるって……」
アンリは呆れてるけど、残念ながら杏里ちゃんはアクティブなオタクだからね。円滑にオタ活ができるようにと根回しすら完璧な子でした。だから社交性はあるし、表向きは普通なんだよ。
「杏里ちゃんとは家が近くて、幼馴染みだったの。杏里ちゃんとは長い付き合いだし、それが杏里ちゃんだって理解してるからね。杏里ちゃんも私には遠慮しなくていいからか、遊ぶときも自分の趣味のお話を沢山してくれたよ」
私はマイペースなのもあって、半分くらいは聞き流してたけど……まぁそれでも親友でいられるのなら問題ない。
「あ、そういえば杏里ちゃんてば時々すごく世話焼きになるのよ。うちの親にも『まるで杏里ちゃんがお姉さんのようね』とか言われるくらい」
「あぁ、なるほど。ちょっと分かったや。女の子のアンリはユカの事よく見てるね」
「ちょっと、それどういうこと?」
「そういうことだよ」
アンリは一人で納得したようでくすくすと肩を震わせる。
むぅ、どうせマイペースだとか言うのでしょ! 否定しないけど! 散々家族にも杏里ちゃんにも言われたし!
私はここが乗り合い馬車だということをすっかり忘れてアンリと話し込んでいると、シュロルムの端の下車場所で、一緒に乗り合ったおばさんとおじさんが「仲が良くて微笑ましいねぇ」と行ってきて恥ずかしくなった。キス魔事件の事もあるので、アンリとは必要以上にベタベタしないように気を付けてたのに! ……まぁ、あの時みたくキスされてるのを人に見られるとかじゃないからいいけどさ。もう既に寄り添って居眠りしてるのも見られてた後だし。うぐぅ、恥ずかしい……。
ほんのり頬が熱を持つけど、私は愛想笑いで誤魔化しておばさんおぎさん達と別れた。
アンリに手を引かれて歩く。恋人繋ぎではありません。普通に握手です。本当は恋人繋ぎをしてみたい。付き合ってからというもの、アンリは私に気遣ってくれているのか、「そういった感じの」触れあい方はしてこない。たまにキスをして来るけど額とか頬とか、指とかばかり。唇同士のキスをしたのは片手で数えるくらいだけ。
アンリはそのままシュロルムの町を出た。「ちょっと歩くよ」と言われて、他愛ない話をしながら三十分ほど歩く。
今はまだ夜の季節。お日様が昇っている限られた時間を贅沢に使って、ピュウっと吹きすさぶ虎落笛に身を震わせながら街道を外れた道を歩く。ちょっと丘になっているところを歩いていると、やがて丘の頂上にまでたどり着いた。
視界に広がるのは、赤く色づく甘酸っぱい花。
冬から春へと変わる、まだ肌寒い時期に咲き誇るまぁるい花。
ついこの間月の日を迎えたばかりで、この世界ではまだまだ春らしい季節とは言えないくらいには寒い。
それなのにどうして梅の花が咲いているの。
そもそもどうしてこんなところに梅花があるの。
私は自分の足を叱咤して梅の木に駆け寄る。薫りだかいこれはやっぱり梅の花に間違いはないけれど、色だけは、記憶の中にあるそれよりもずいぶんと鮮やかで濃い紅色だ。花弁の多いその品種と相まって、まるで小さな薔薇のよう。
私は薔薇のような梅花にうっとりと見惚れてしまう。
「良い匂い……。アンリちゃん、これどうしたの」
「この間、王都に行った帰りに見つけたんだよ。街道から赤いのが見えてさ。ちょいと早すぎる気もするけど、早咲きのフーラムだよ」
私はじっと深紅の梅の花……もとい、フーラムを見つめる。あぁ、良い香り。
「ねぇ、このフーラムって実はつけないの?」
「よく知ってるね。普通はつけるんだけど、毒があるから食べちゃ駄目な奴だ」
やっぱり梅の実になるのかな。梅になるのなら梅干しつけたい……梅干しとお米の日の丸弁当が恋しい……あっ、でも私梅干しの作り方知らない! あれどうやってつけるの!?
仕方ないので梅酒で妥協してあげよう。梅酒なら私も試しに作ったことがあるからね! レシピはちゃんと覚えてる! ……あっ、でもこの世界に氷砂糖はあるのかな? 氷砂糖ってどうやって作るの?
何気なく享受していても、その原理や原料を知らないという、最近工房でよくぶち当たる壁にここでもぶつかってしまった……。
日本での生活はこの世界より遥かに優れていたし、知識も情報も簡単に手に入ったけど、それにかまけて能動的に知ろうとして手にいれる知識や情報なんて少なかったんだという事に気がつく。うう、美味しいケーキ屋さんの新作ケーキはチェックしてたのに、そのケーキの作り方を知らないことを普通だと思って生きてきたのだから仕方ない。
望む食べ方が分からない以上、実に執着するのは意味がない。私はもう一度梅を目に焼き付ける。日本の品種とは、ちょっと違うその花を。
アンリがそっと私の隣に寄り添う。
そういえば昔、誕生日近くに「梅園行こう!」と言った杏里ちゃんに連れられて、京都の有名な梅園に行ったなぁ。
昔といっても、この世界に来る少し前……もう二年も前になるのかな。
遅生まれの私は、そろそろまた一つ年を重ねてしまう。
日本の思い出が、最近は遠く感じる。
私はもう一度胸一杯に梅の香りを吸い込んだ。
「今日は連れてきてくれてありがとう」
「どういたしまして。またいつでも来たいときに連れてきてあげるよ」
アンリは穏やかに笑い返してくれる。
そうして私のつむじにキスをするのだ。
なんだかそれが無性にくすぐったくて、そのまま私は飛び付くようにアンリに抱きついた。
「おっと」と、アンリがわざと体の力を抜いて自分から地面に倒れる。私はさらに覆い被さるように抱きついた。
「もうすぐ春だね、アンリ」
「はる?」
「そうだよ、春が来るの」
長く冷たい冬が明けたら、緑の燃える陽射し麗らかな春がやって来る。この世界に四季の概念がないから、春という言葉がやっぱりアンリはピンとこないみたい。
それでも私は「春が来る、春が来る」と一人ではしゃいでアンリにすり寄った。アンリは最初は戸惑っていたみたいだけど、私が楽しそうなのをみてどうでよくなったらしく、二人で丘の土の上で転がりながら、春の訪れを喜んだ。
つんつん、とほっぺをつつかれた気がした。
私はまだ覚めない眠気を噛み殺しながら、片目だけ開ける。コンビニの雑誌の棚を目の前にしたフロントガラスが最初に目に入って、私はもう一度目を閉じる。
「こら! 運転手ほっといて助手席で寝るつもりかい?」
女性にしてはちょっと低めのアルトな声。
むにむにつつかれる頬をこのままにしておけないから、私はもう一度目を開けた。
「まだ目的地じゃないじゃん」
「そうだけどさ、飲み物いらない?」
「あー」
私はジュースホルダーを見る。そう言えば飲み物を用意してこなかった。辺りを見渡せば、どこかのパーキングエリアらしく、サービスエリアと違ってコンビニがぽつんと寂しく建っている。
「降りる~」
「いつものコーヒーで良いなら買ってくるけど」
「あ、じゃあそれでお願い」
「オッケー」
そう言って、白のスキニーパンツに黒のブラウスを合わせ、銀のチェーンネックレスをちらつかせた彼女が運転席を降りた。シュシュでまとめられた、腰まであるストレートの黒髪が歩くリズムに合わせて風になびく。
ぼんやりと見送っていると、彼女は青いコーヒーの缶を二つ持ってすぐに戻ってきた。
「まだ寝ぼけてるのかい?」
「なんか、長い夢を見ててさー」
「さすが由佳! ほんのちょっとのうたた寝でか!」
ちょっと童顔な彼女は運転席に乗り込むとけらけら笑う。私はすねるように唇を尖らせてあげた。
「もー、笑うわないでよ」
「ごめんごめんって、お姫様。今日はボクがエスコートする約束だから気を損ねないでよ」
「……いつも思うけど素面でよくそんなセリフはけるよね?」
「実は酔ってる」
「おいこら運転手!」
「由佳にね?」
「畜生この女誑し!」
「あははー、誉め言葉! 可愛い女の子にならモテたい! もちろん由佳が一番さ!」
そう言いながら二人で笑っていると、彼女がアクセルを踏んで、車をバックさせる。コンビニを出て、高速道路へと戻った。
見慣れない景色、見慣れない建物が流れていく。
そういえば私たちは何処に向かっているのだろうと思った。
「ねぇ、今日何処にいくの?」
「内緒。由佳の誕生日なんだから、ボクがエスコートするって言ったじゃないか」
にこにこと楽しそうに笑いながら、彼女はアクセルを踏み込んでいく。私たち以外の車とすれ違わないこの道は、どこに続いているんだろう。
ぐんぐんと景色が流れていく。今いったい何キロ出てるのかな。
「ねぇ、本当にどこに行くの」
「内緒」
トンネルに入った。
彼女の顔がオレンジに染まる。
長い長いトンネル。その先に白い光を見つけると、彼女は徐々にスピードを落としていく。
「もうすぐ着くよ。その後はボクのお役目じゃないのが悲しいなぁ。この浮気者め」
「え? それってどういう……」
「見たらわかるって」
トンネルを抜けた。
白い光が強烈すぎて一瞬目を閉じる。目蓋の裏すら焼く白い光。
「杏里ちゃん!」
私は親友の名前を叫ぶ。
慌てて手を隣に伸ばせば、大きな掌が私の手を包んだ。
◇◇◇
私はおもむろに目を開けると、そこは馬車の中だった。
ぼんやりと今の状況を思い出す。
暖かい温もりを半身に感じた。そしてぎゅっと握りこまれている右手。
「……あんりちゃん?」
「おはよう」
にっこりと笑うアンリがそこにいた。
杏里ちゃんじゃない。黒髪ストレートの美女じゃなくて、美人だけど銀髪ハーフアップの年下の男の子。
「よく眠れたかい?」
「……ごめん、私寝ちゃってて」
「いいよ。眠れるときに眠った方がいい」
とんとんとん、とアンリはまた赤ちゃんをあやすかのように私の背中をリズミカルに叩く。
「ん……でもせっかくアンリとお出掛けするんだし。おしゃべりしてたい」
「着いたら沢山しゃべれば良いよ」
そっか。それもそうだね。
アンリとの時間は、まだ沢山あるんだから。
私はそのままアンリにもたれ掛かって、うとうとし出す。やっぱりアンリの側はホッとする。マイナスイオンでも出てるのかなぁ。
「……どこに連れていってくれるんだっけ」
「内緒」
既視感のあるやりとりに口許をゆるめながら、想像を膨らませる。
乗り合い馬車を使ってまでいくんだから、少なくとも近場ではないはずだ。そうなるとシュロルムの外にまで出てしまうのだろうか。
そこでふと思う。アンリは騎士だというけど、あんまり馬に乗っているところを見たことがない気がする。診療所へお見舞いに来ていたときだって基本的に徒歩だったし、乗り物に乗ってきた時でさえ馬ではなく自転車だけだった。
「そういえばアンリ。アンリって馬に乗らないよね。馬に乗るの苦手なの?」
「は?」
アンリがすっとんきょうな声を出す。乗り合い馬車に相乗りしていたおじさんがにやにやしているのが視界の端に映った。あ、隣のおばさんに頭を叩かれてる。夫婦漫才?
「……なんで、そう思ったのさ?」
頭上からアンリの声が降ってくる。その声はちょっと拗ねたようでいて、どうしたんだろうと重たい目蓋を上げてみた。
「物語の騎士様は恋人をのせて早駆けするのが定番なんじゃないの?」
「……どういう物語だよ」
「杏里ちゃんが……女の子の方の杏里ちゃんがね、そう言ってた。私も読んだことないから詳しくは知らないよ」
さっき夢に出てきた親友を思い出す。一時期、筋肉系騎士小説に嵌まっていたらしい杏里ちゃんが「ふと思ったんだけどさ、人間の筋肉もいいけど馬の筋肉も良くない?」とかよく分からないことを真顔で言い出したことも一緒に思い出す。
一人で思い出し笑いをしていると、アンリが私の背中を叩く手を止めた。
「騎士が街中で馬を使うのは有事の際だけだ。だから普段は歩くし、僕らは砦からシュロルムに来るときにだけ馬を使ってる。絶対に、苦手とかいう理由じゃないからな」
騎士が町で馬を使わないのはそういう理由があったのか。街中でも馬に乗った騎士がいたら優先的に道を譲らないといけない印にもなるらしい。急いでるんだー! っていう合図になるわけだね。パトカーとかのサイレンみたいな感じかなぁ。
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馬の話から一転、アンリが思い出したように言う。
「ユカは故郷のあれこれを教えてくれるけど、まだ『アンリちゃん』については教えてもらってないね」
「そうだっけ?」
「そうだよ。名前と、僕に話し方が似ていることだけしか知らない」
興味津々でアンリが聞いてくる。今日のアンリはなんだかぐいぐいとくるなぁ。
特別隠すようなことでもないので、うーんと私は杏里ちゃんについてどう説明しようかと考える。ここにいない人を紹介するのってちょっと難しい。
「杏里ちゃんは私より背が高くて、髪が長くてさらさらなんだ。身長高いくせに顔つきが幼いせいか、よく若く見られてるよ。だから年齢相応を目指してるみたいで、可愛いというよりは格好いいお姉さんって感じの見た目なの」
「見た目」
「第一印象はこうクールな……ええと、理知的というか、賢そうな、真面目そうな見た目」
「見た目」
「頭もいいし、真面目なんだけど、本とか物語が好きでそれに時間とお金と命を懸けてる子でね。そのためだったらいついかなる時でも手段を問わない! みたいな勢いもある子」
「なんというか……そんな子が本当にユカの友達なわけ? ちょっと想像がつかない。命を懸けるって……」
アンリは呆れてるけど、残念ながら杏里ちゃんはアクティブなオタクだからね。円滑にオタ活ができるようにと根回しすら完璧な子でした。だから社交性はあるし、表向きは普通なんだよ。
「杏里ちゃんとは家が近くて、幼馴染みだったの。杏里ちゃんとは長い付き合いだし、それが杏里ちゃんだって理解してるからね。杏里ちゃんも私には遠慮しなくていいからか、遊ぶときも自分の趣味のお話を沢山してくれたよ」
私はマイペースなのもあって、半分くらいは聞き流してたけど……まぁそれでも親友でいられるのなら問題ない。
「あ、そういえば杏里ちゃんてば時々すごく世話焼きになるのよ。うちの親にも『まるで杏里ちゃんがお姉さんのようね』とか言われるくらい」
「あぁ、なるほど。ちょっと分かったや。女の子のアンリはユカの事よく見てるね」
「ちょっと、それどういうこと?」
「そういうことだよ」
アンリは一人で納得したようでくすくすと肩を震わせる。
むぅ、どうせマイペースだとか言うのでしょ! 否定しないけど! 散々家族にも杏里ちゃんにも言われたし!
私はここが乗り合い馬車だということをすっかり忘れてアンリと話し込んでいると、シュロルムの端の下車場所で、一緒に乗り合ったおばさんとおじさんが「仲が良くて微笑ましいねぇ」と行ってきて恥ずかしくなった。キス魔事件の事もあるので、アンリとは必要以上にベタベタしないように気を付けてたのに! ……まぁ、あの時みたくキスされてるのを人に見られるとかじゃないからいいけどさ。もう既に寄り添って居眠りしてるのも見られてた後だし。うぐぅ、恥ずかしい……。
ほんのり頬が熱を持つけど、私は愛想笑いで誤魔化しておばさんおぎさん達と別れた。
アンリに手を引かれて歩く。恋人繋ぎではありません。普通に握手です。本当は恋人繋ぎをしてみたい。付き合ってからというもの、アンリは私に気遣ってくれているのか、「そういった感じの」触れあい方はしてこない。たまにキスをして来るけど額とか頬とか、指とかばかり。唇同士のキスをしたのは片手で数えるくらいだけ。
アンリはそのままシュロルムの町を出た。「ちょっと歩くよ」と言われて、他愛ない話をしながら三十分ほど歩く。
今はまだ夜の季節。お日様が昇っている限られた時間を贅沢に使って、ピュウっと吹きすさぶ虎落笛に身を震わせながら街道を外れた道を歩く。ちょっと丘になっているところを歩いていると、やがて丘の頂上にまでたどり着いた。
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冬から春へと変わる、まだ肌寒い時期に咲き誇るまぁるい花。
ついこの間月の日を迎えたばかりで、この世界ではまだまだ春らしい季節とは言えないくらいには寒い。
それなのにどうして梅の花が咲いているの。
そもそもどうしてこんなところに梅花があるの。
私は自分の足を叱咤して梅の木に駆け寄る。薫りだかいこれはやっぱり梅の花に間違いはないけれど、色だけは、記憶の中にあるそれよりもずいぶんと鮮やかで濃い紅色だ。花弁の多いその品種と相まって、まるで小さな薔薇のよう。
私は薔薇のような梅花にうっとりと見惚れてしまう。
「良い匂い……。アンリちゃん、これどうしたの」
「この間、王都に行った帰りに見つけたんだよ。街道から赤いのが見えてさ。ちょいと早すぎる気もするけど、早咲きのフーラムだよ」
私はじっと深紅の梅の花……もとい、フーラムを見つめる。あぁ、良い香り。
「ねぇ、このフーラムって実はつけないの?」
「よく知ってるね。普通はつけるんだけど、毒があるから食べちゃ駄目な奴だ」
やっぱり梅の実になるのかな。梅になるのなら梅干しつけたい……梅干しとお米の日の丸弁当が恋しい……あっ、でも私梅干しの作り方知らない! あれどうやってつけるの!?
仕方ないので梅酒で妥協してあげよう。梅酒なら私も試しに作ったことがあるからね! レシピはちゃんと覚えてる! ……あっ、でもこの世界に氷砂糖はあるのかな? 氷砂糖ってどうやって作るの?
何気なく享受していても、その原理や原料を知らないという、最近工房でよくぶち当たる壁にここでもぶつかってしまった……。
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望む食べ方が分からない以上、実に執着するのは意味がない。私はもう一度梅を目に焼き付ける。日本の品種とは、ちょっと違うその花を。
アンリがそっと私の隣に寄り添う。
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私はもう一度胸一杯に梅の香りを吸い込んだ。
「今日は連れてきてくれてありがとう」
「どういたしまして。またいつでも来たいときに連れてきてあげるよ」
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「おっと」と、アンリがわざと体の力を抜いて自分から地面に倒れる。私はさらに覆い被さるように抱きついた。
「もうすぐ春だね、アンリ」
「はる?」
「そうだよ、春が来るの」
長く冷たい冬が明けたら、緑の燃える陽射し麗らかな春がやって来る。この世界に四季の概念がないから、春という言葉がやっぱりアンリはピンとこないみたい。
それでも私は「春が来る、春が来る」と一人ではしゃいでアンリにすり寄った。アンリは最初は戸惑っていたみたいだけど、私が楽しそうなのをみてどうでよくなったらしく、二人で丘の土の上で転がりながら、春の訪れを喜んだ。
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最強の魔術師と呼ばれる旦那様と結婚しましたが、まったく私を愛してくれません。
ある日、女性とのやりとりであろう手紙まで見つけてしまいました。
もう限界です。
探さないでください、と書いて、私は家を飛び出しました。
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