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第5章-3

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 夕食のあと、祐樹は英語の教科書を開いていた。英訳文であやふやなところがあり辞書を引こうとしたがいつもの場所にない。ため息をついて、立ち上がるととなりの部屋に行く。

「達樹、英和、持っていっただろ。返して」
「ああ、悪い。そこにある」

 祐樹がノックしてから達樹の部屋に入ると、ベッドのうえで寝転がって雑誌を読んでいた達樹は机のうえを足で指した。

「ちゃんと返しといてよ」

 英和辞典を取ると祐樹はさっさと出ようとしたが、机のうえに放置してあった物に目がとまる。女物のアクセサリーだった。ピアスや指輪、天然石のブレスレットなど。

 なんとなくそろっと達樹を見ると、ばっちり目があってしまってうろたえる。

「なんだよ」
「…なにも」
 
 なにを言ってもまずい気がして壁のカレンダーに目をそらす。9月は3匹の白い子犬がボールにじゃれている写真。そういえば来週末がもう学園祭だ。

 祐樹の気持ちが定まらないうちに達樹のほうから口を開いた。

「そういうの返してくるってどういう気持ちなんだろうな」

 達樹は淡々とした口調でいい、机のうえに目をやった。祐樹はしかたなく訊いた。達樹は話を聞いてほしいのかもしれないと思ったのだ。

 用事のありそうもない辞書を持っていくくらいだ。祐樹を部屋に呼びたかったのだろう。意地っ張りな達樹がむかしから使う手だった。

「別れたの?」

「うん。2日前に会って。それ、返しとくって渡されたけど、返されてもなーってかんじ。いらないなら捨てればいいのにな」

「なんで別れちゃったの?」

「んー、気持ちがさめたんだって。ときめきたいけど、もう一緒にいてもときめかないからって」

「それってほかに好きな人ができたってこと?」
「どうだろうな。訊いたらちがうって言ってたけど」

 次の当てがあるのかもしれないし、でなきゃいまからときめきたい相手を探すんじゃねーの、と達樹は他人事のようだ。

「彼氏持ちって聞くとそれだけであきらめちゃう奴もいるだろうから、身軽になっておきたいってとこかもな」

「達樹はどうだったの?」
「俺がなに?」

「もうときめかなかった? それともまだ好きだった?」

「…よくわかんね。好きだったとは思うけど、意外にショック受けないじぶんにショックというか。別れたかったのか、そうなんだって感じ」

「予感とかあったの?」

「いや、全然。先週も一緒に出かけて楽しそうだったし、そんなこと考えてるんだったらちょっとは言えよって驚いた」

 女ってわかんねえ、と達樹は雑誌をベッドに投げ出す。

 平気そうに見えても、やはり落ち込んでいるんだろうか。うまい慰めの言葉も見つからず、祐樹は達樹の彼女を思い出す。高校の同級生でうちにも何度か遊びに来たから、顔と名前くらいは知っていた。

 達樹の彼女の「ときめきたい」という言葉が、ひどく重く響いた。

 そうか、おれってときめいてないんだなと思ったのだ。恋愛がときめくことなのだというなら、祐樹の気持ちは恋愛ではないのかもしれない。

 「欲望」に続いて「ときめき」ときたもんだ。

 恋愛って奥が深すぎる。

 もっと楽しくてわくわくして、毎日がきらきらするようなものかと思っていたのに。欲望もときめきもどきどきも、祐樹には実感できない。

 それどころか実際には戸惑って困惑してばかりだ。それともこうなるのは、おれの恋愛スキルが低いから? たんにそういう性格だから?

「お前はどうなの? 年上の彼女と」
「わかんない。…たぶんうまくいってると思うけど」

 仲よさそうに見えた達樹の彼女が別れ話を持ち出したと聞けば、綾乃の考えなどまったく読めないじぶんはどう思われているのか、さっぱり自信はなかった。

「彼氏っていうのか、弟みたいに思われてる気がする」

「まあなあ。3つ上だろ。大学1年と4年だとそうでもないのに、高1と大学1年だとなんか差が大きい感じするよな」

 大学生と高校生の差はかくも大きい。

「達樹は彼女に欲望とか感じた?」
「は? 欲望?」

 達樹が眉を寄せて祐樹を見る。

「友達が言うんだ、欲望あらわに迫ったらダメだって。でもおれ、よくわからないんだよね。どうなることが欲望あらわ?」

 弟のきれいに整った顔で欲望あらわなどと言われて、達樹は困惑した顔でこめかみを押さえた。一体なにを言い出すんだか。というか祐樹の友達は何をこいつに吹き込んでるんだ。

「…迫りたいのか、彼女に」
「それもよくわからない。何かしたいともあんまり思わない」

「高1の健康な男子としてはちょっと淡白なんじゃねーの、それは」

 達樹は祐樹のほっそりした姿を眺めた。小さいころからしょっちゅう女の子と間違われていた弟は、ここ1年くらいで急に背が伸びて女の子には見えなくなった。

 私服によってはまだ背の高いスリムな女子でも通りそうだが、優しげで上品な顔に反して、男兄弟のなかで育った末っ子は気が強くて甘ったれだ。

 会ったことはないが、年上の彼女はそういうところをくすぐられているんだろうと思っている。

「問題あると思う?」
「ないんじゃね? 彼女から不満でも言われてる?」

「ううん。祐樹はかわいいねって」

 やっぱり甘やかされているらしい。

「よくわからないなら彼女の望むようにしてやればいいんじゃないの。年下の彼氏でいいって思ってる子なんだろ。祐樹は彼氏としては相当頼りないだろうに、不満を言われるわけでもないんなら」

「うん、そうかな」
 身内の容赦ない言葉に、祐樹は反発するでもなく納得したようだ。

 初めての恋愛に戸惑う弟を、ベッドに座ったまま達樹は複雑な気持ちで見上げた。かわいかった祐樹がもう彼女持ちかとなんだか感慨深いものがある。ほとんど母親のような心境だった。

「やっぱりおれって、頼りない?」
「そりゃ、どう見ても頼りがいがあるタイプじゃないだろ」

「まあそうだよね…」
 手に持った辞書を見て、課題が途中だったことを思い出す。

「じゃ、おれ戻るね」

 くだらないことばかり考えていても仕方ない。頭を切り替えて、祐樹は課題に集中することにした。高校生にはやるべきことがたくさんあるのだ。

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