108 / 112
番外編4 思い出の中で
しおりを挟む
1995年 夏 北京
「行きたいところは天安門広場と故宮と万里の長城ですね? ほかに希望はありますか?」
「あとは本場の北京ダックとおいしい点心食べて、中国チックなものを買いたいって言うんやけど」
「中国チックなもの? かわいい雑貨やチャイナドレスとかですかね、それとも工芸品的な感じのもの?」
「どうなんやろ、娘の言うことは僕にはよくわからへんねん」
孝弘の向かいで焼き鳥を手に、伊藤はちょっと困ったように眉を下げた。
大阪出身の伊藤は四十代半ばの電機メーカー勤務の駐在員だ。
長女が中学を卒業するまでは家族でマレーシアに駐在していたが、娘の高校受験を機に家族は日本へ帰国してしまい、伊藤は単身赴任となったそうだ。
二年前に北京に赴任してきて、孝弘とはアルバイト先の上司である安藤を通じて知り合った。この夏休みに北京に遊びに来る娘とその友人の北京滞在中のアテンドを頼まれて、打合せがてら食事しようと誘われた。
「娘さん、大学生ですよね」
「うん。今年入学したんやけど、生意気でかなわんよ。北京やなくて香港勤務やったらよかったのにとか文句言われるんや」
「女子大生が遊びに行くなら香港のほうが楽しいでしょうね。でもわざわざ北京まで会いに来てくれるんでしょ?」
「父親に会うのはついでやな。旅行資金をもらおうと思ってるだけやね、あれは」
口ではそんなことを言いながら、伊藤はうれしそうに頬をゆるめる。それはそうだろう、春節休み以来、半年ぶりの娘との再会なのだ。
「上野くんなら年が近いし、話も合うやろうし、ガイド慣れしてるやろ」
「それなりに。娘さんは大学では中国に関係するような勉強をしてるんですか?」
「いや、英文科やて。日本の大学生は遊んでばっかりに見えるけどな」
「どうでしょう。俺は高校までしか日本にいなかったんで、逆に日本の大学生活を知らないんですよ。楽しそうなイメージはありますけど」
「まあ、確かに楽しかったな。そやけど、せっかく小さいうちに海外生活が経験できたから、大学はどうせなら海外でと思って勧めたんや。でも本人が乗り気にならへんでなあ。娘はやっぱり日本で暮すんがいいみたいや。安全で清潔で暮らしやすいって」
それはそうだろうなと孝弘も思う。
日本の良さは海外に出ると切実にわかる。24時間いつだって飲める水が出るし、停電しないし、鉄道は定刻に来るし、町はきれいで治安もいい。民族紛争や宗教紛争で人が殺されることも銃撃されることもない。
財布を落としてもまあまあの確率で交番に届けられて本人の手元に戻ってくるし、小学生が付き添いなしに一人で電車通学できるし、女性が夜中に一人で出歩いても襲われる心配がほとんどない。
そんな国は世界中でもごく稀だろう。
孝弘は中国と日本しか知らないが、各国から来る留学生たちの話を聞くと、日本は平和で安全な国だったんだなと思わされる。
「そうやな。日本で暮らしてたら安全やな。でも僕としては少しくらい危機感持って生活するくらいのほうがええと思うこともあるんや。日本経済は厳しい状況やし、この先どんどんグローバル化していくのに、世界から取り残されるんちゃうかなって。娘も英語はそこそこ話せるようになってて、海外で就職もできるのにもったいない気がしてしまうねん。まあ、娘はべつにマレーシアにも好きで住んでたわけやないし、これも親のエゴかもしれんけどな」
伊藤の言いたいこともわかる気はした。
日本は91年のバブル崩壊後、地価が暴落し株価も一気に下落した。
当初は一時的な景気後退だろうと楽観視されていたが、数年たっても景気は回復せず、現在、大卒の就職は超氷河期と言われるほど厳しい状況だ。
伊藤の娘はまだ1年生だから就職活動する時にどうなっているかわからないが、現在の状況を見る限り、あまり好転しているとは思えない。海外の大学に行って就職する方がいいのではと心配する気持ちもわかる。
「行きたいところは天安門広場と故宮と万里の長城ですね? ほかに希望はありますか?」
「あとは本場の北京ダックとおいしい点心食べて、中国チックなものを買いたいって言うんやけど」
「中国チックなもの? かわいい雑貨やチャイナドレスとかですかね、それとも工芸品的な感じのもの?」
「どうなんやろ、娘の言うことは僕にはよくわからへんねん」
孝弘の向かいで焼き鳥を手に、伊藤はちょっと困ったように眉を下げた。
大阪出身の伊藤は四十代半ばの電機メーカー勤務の駐在員だ。
長女が中学を卒業するまでは家族でマレーシアに駐在していたが、娘の高校受験を機に家族は日本へ帰国してしまい、伊藤は単身赴任となったそうだ。
二年前に北京に赴任してきて、孝弘とはアルバイト先の上司である安藤を通じて知り合った。この夏休みに北京に遊びに来る娘とその友人の北京滞在中のアテンドを頼まれて、打合せがてら食事しようと誘われた。
「娘さん、大学生ですよね」
「うん。今年入学したんやけど、生意気でかなわんよ。北京やなくて香港勤務やったらよかったのにとか文句言われるんや」
「女子大生が遊びに行くなら香港のほうが楽しいでしょうね。でもわざわざ北京まで会いに来てくれるんでしょ?」
「父親に会うのはついでやな。旅行資金をもらおうと思ってるだけやね、あれは」
口ではそんなことを言いながら、伊藤はうれしそうに頬をゆるめる。それはそうだろう、春節休み以来、半年ぶりの娘との再会なのだ。
「上野くんなら年が近いし、話も合うやろうし、ガイド慣れしてるやろ」
「それなりに。娘さんは大学では中国に関係するような勉強をしてるんですか?」
「いや、英文科やて。日本の大学生は遊んでばっかりに見えるけどな」
「どうでしょう。俺は高校までしか日本にいなかったんで、逆に日本の大学生活を知らないんですよ。楽しそうなイメージはありますけど」
「まあ、確かに楽しかったな。そやけど、せっかく小さいうちに海外生活が経験できたから、大学はどうせなら海外でと思って勧めたんや。でも本人が乗り気にならへんでなあ。娘はやっぱり日本で暮すんがいいみたいや。安全で清潔で暮らしやすいって」
それはそうだろうなと孝弘も思う。
日本の良さは海外に出ると切実にわかる。24時間いつだって飲める水が出るし、停電しないし、鉄道は定刻に来るし、町はきれいで治安もいい。民族紛争や宗教紛争で人が殺されることも銃撃されることもない。
財布を落としてもまあまあの確率で交番に届けられて本人の手元に戻ってくるし、小学生が付き添いなしに一人で電車通学できるし、女性が夜中に一人で出歩いても襲われる心配がほとんどない。
そんな国は世界中でもごく稀だろう。
孝弘は中国と日本しか知らないが、各国から来る留学生たちの話を聞くと、日本は平和で安全な国だったんだなと思わされる。
「そうやな。日本で暮らしてたら安全やな。でも僕としては少しくらい危機感持って生活するくらいのほうがええと思うこともあるんや。日本経済は厳しい状況やし、この先どんどんグローバル化していくのに、世界から取り残されるんちゃうかなって。娘も英語はそこそこ話せるようになってて、海外で就職もできるのにもったいない気がしてしまうねん。まあ、娘はべつにマレーシアにも好きで住んでたわけやないし、これも親のエゴかもしれんけどな」
伊藤の言いたいこともわかる気はした。
日本は91年のバブル崩壊後、地価が暴落し株価も一気に下落した。
当初は一時的な景気後退だろうと楽観視されていたが、数年たっても景気は回復せず、現在、大卒の就職は超氷河期と言われるほど厳しい状況だ。
伊藤の娘はまだ1年生だから就職活動する時にどうなっているかわからないが、現在の状況を見る限り、あまり好転しているとは思えない。海外の大学に行って就職する方がいいのではと心配する気持ちもわかる。
2
お気に入りに追加
98
あなたにおすすめの小説
『別れても好きな人』
設樂理沙
ライト文芸
大好きな夫から好きな女性ができたから別れて欲しいと言われ、離婚した。
夫の想い人はとても美しく、自分など到底敵わないと思ったから。
ほんとうは別れたくなどなかった。
この先もずっと夫と一緒にいたかった……だけど世の中には
どうしようもないことがあるのだ。
自分で選択できないことがある。
悲しいけれど……。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
登場人物紹介
戸田貴理子 40才
戸田正義 44才
青木誠二 28才
嘉島優子 33才
小田聖也 35才
2024.4.11 ―― プロット作成日
💛イラストはAI生成自作画像
モテる兄貴を持つと……(三人称改訂版)
夏目碧央
BL
兄、海斗(かいと)と同じ高校に入学した城崎岳斗(きのさきやまと)は、兄がモテるがゆえに様々な苦難に遭う。だが、カッコよくて優しい兄を実は自慢に思っている。兄は弟が大好きで、少々過保護気味。
ある日、岳斗は両親の血液型と自分の血液型がおかしい事に気づく。海斗は「覚えてないのか?」と驚いた様子。岳斗は何を忘れているのか?一体どんな秘密が?
ヒロイン不在の異世界ハーレム
藤雪たすく
BL
男にからまれていた女の子を助けに入っただけなのに……手違いで異世界へ飛ばされてしまった。
神様からの謝罪のスキルは別の勇者へ授けた後の残り物。
飛ばされたのは神がいなくなった混沌の世界。
ハーレムもチート無双も期待薄な世界で俺は幸せを掴めるのか?
ハイスペックストーカーに追われています
たかつきよしき
BL
祐樹は美少女顔負けの美貌で、朝の通勤ラッシュアワーを、女性専用車両に乗ることで回避していた。しかし、そんなことをしたバチなのか、ハイスペック男子の昌磨に一目惚れされて求愛をうける。男に告白されるなんて、冗談じゃねぇ!!と思ったが、この昌磨という男なかなかのハイスペック。利用できる!と、判断して、近づいたのが失敗の始まり。とある切っ掛けで、男だとバラしても昌磨の愛は諦めることを知らず、ハイスペックぶりをフルに活用して迫ってくる!!
と言うタイトル通りの内容。前半は笑ってもらえたらなぁと言う気持ちで、後半はシリアスにBLらしく萌えると感じて頂けるように書きました。
完結しました。
ふしだらオメガ王子の嫁入り
金剛@キット
BL
初恋の騎士の気を引くために、ふしだらなフリをして、嫁ぎ先が無くなったペルデルセ王子Ωは、10番目の側妃として、隣国へ嫁ぐコトが決まった。孤独が染みる冷たい後宮で、王子は何を思い生きるのか?
お話に都合の良い、ユルユル設定のオメガバースです。
鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
僕の王子様
くるむ
BL
鹿倉歩(かぐらあゆむ)は、クリスマスイブに出合った礼人のことが忘れられずに彼と同じ高校を受けることを決意。
無事に受かり礼人と同じ高校に通うことが出来たのだが、校内での礼人の人気があまりにもすさまじいことを知り、自分から近づけずにいた。
そんな中、やたらイケメンばかりがそろっている『読書同好会』の存在を知り、そこに礼人が在籍していることを聞きつけて……。
見た目が派手で性格も明るく、反面人の心の機微にも敏感で一目置かれる存在でもあるくせに、実は騒がれることが嫌いで他人が傍にいるだけで眠ることも出来ない神経質な礼人と、大人しくて素直なワンコのお話。
元々は、神経質なイケメンがただ一人のワンコに甘える話が書きたくて考えたお話です。
※『近くにいるのに君が遠い』のスピンオフになっています。未読の方は読んでいただけたらより礼人のことが分かるかと思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる