あの日、北京の街角で

ゆまは なお

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第21章-2

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「祐樹は体調崩したりしなかった? 広州の食事は北方よりおいしそうだけど」
「そうだね。味覚は日本人に合うと思う」
「あの頃みたいに、自炊してた?」
 北京時代のことを言われて動揺する。
「すこしは。インスタントラーメンに野菜を入れる程度だけど」

 ぎこちなくならないように、気を使って会話する祐樹に、孝弘は気づいているんだろう。これ以上、ここにいるのはよくない。酔いが回る前に部屋を出なければ。
 今度こそ立ち上がろうとコップを置こうとした手を取られた。
 孝弘がのぞき込むようにして、まっすぐに視線を合わせてくる。強い意志を感じて、祐樹は目がそらせなくなる。

「キスしていい?」
 どうしてこう答えにくいことを、わざわざ訊くのだろう。
 訊かずにしてくれればいいのにと思って、いやそれは都合よすぎる考えだなと思い直す。とするとこれはひょっとして、孝弘の嫌がらせなんだろうか。
 ちいさくため息をついて、強気な姿勢で、と交渉の基本を思い出して呼吸を整えた。
「いいって言うとでも?」
 余裕の顔で微笑む孝弘をにらむように見上げる。

「まあ言わなくてもするんだけど」
 いうが早いか、唇が触れてさっと離れた。
「でもいいよって言ってくれたらラッキーだと思って」
 また触れて、すぐに離れる。
 目を細めて祐樹を見つめる。
 以前にも見た、獲物を捕らえたときみたいな表情。

「高橋さん、強く押されるのに弱いだろ」
 弱腰なのを見抜かれている。
 祐樹は反論したくなる。
 こんなに弱いのは孝弘相手のとき限定なのだと。ほかの人間相手にこんなにも弱気な対応をすることはないのに。
 でもそんなことを言うわけにはいかなかった。ますます孝弘をつけあがらせることになる。

 なので、仕方なく黙って目線をそらした。
 どこが強気の姿勢だよ、自分の中で声がする。
「仕事では逆に押しが強いのにな」
「人格チャンネルが切り替わるからね、北京語だと」
 その返事にふふっと孝弘が笑った。そう、人格チャンネルの話も孝弘から教えてもらった。
 人差し指が祐樹の唇をゆっくりなぞっていく。
 ぞくりと背筋が粟立った。

「キスだけ、な?」
 言いながらもう首筋に唇が降りていた。
 ボタンをはずし、シャツをつくろげ、耳のつけ根に、鎖骨の上に、肩の先に。
 祐樹はちょっと途方に暮れた。
 キスをされたことにではない。
 孝弘はいったいどこでこんな手管を覚えてきたのだろう。

 離れていた5年間の空白に誰がいて、どんな付き合いをしてきたのか。いや、そもそも一度抱き合っただけで、孝弘のことなど何も理解していなかったのかもしれないとさえ思う。
 こんなにも押しが強かったとは。
 以前とは明らかに、祐樹に対する態度が違っていた。遠慮がないというか、開き直ったというのか。
「どこでこんなこと、覚えてきたの」
 困惑したようにつぶやくと、孝弘が唇を手首につけたまま笑ったのがわかった。そのまま祐樹の手首を捕らえて、上目遣いに目を合わせて指先にキスをする。

「さあ? 妄想の高橋さんとたくさんしたから、かな」
 それはずっと好きだったという意味?
「でも現実にだって誰かいるでしょ?」
 手を握りこんで指先を取り戻しながら、祐樹が反論する。
「誰かって? 誰もいないよ」

「だけど北京のホテルでデートしてたんじゃないの」
 言っていいものか迷ったが、つい口に出してしまっていた。
 思っていたよりも心に引っかかっていたのか。恰好悪いな、おれ。
「え?」
 まるで思い当たらないらしく、孝弘はきょとんとしている。
「……エレベーターが停電した日に」
 言いにくかったがそう口にすると、んん?という顔になった。

「すこし飲みたくなって、ホテルのバーに行ったんだ」
 孝弘はちょっと考えたあと、思い出したらしい。
「ああ、あれか。え、ひょっとして誤解させた?」
 心なしか嬉しそうな表情になるから、祐樹はあわてて首をふった。
「誤解なんてしてない。デートかなと思っただけ」
「んなわけないだろ。男は恋愛対象じゃないよ、俺」
 孝弘はきっぱり言い切った。
「……おれも男なんだけど?」
 先ほどからの、なんだか駆け引きめいたやりとりに祐樹は頭がくらくらしていた。

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