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第2章-3
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「楽しかった?」
「うーん……楽しいというか、すごい観光地なんだね。一度くらい行ってみたかったからいいんだけど、人は多いし、いらないみやげ物売りがいっぱい来るし、あんまり感動しなかったな。もっとおごそかというか、静かな感じかと思ってたんだ。こう、NHKに出てくるような」
「ああ、わかる。がっかり感がねー」
残念ながらかなり観光地化されているので、そういった雰囲気はまったくないのだ。
「あと中国人観光客がばっちりスーツとかワンピース着てて、しかもすごいピンヒールとかであんな急な階段登ってきたりしてて。みんな一張羅っていうか、気合入った服で来てるからほんとにびっくりした」
くすくす笑いながら、サラミをつまむ顔に一瞬、見とれた。オレンジが強めの照明に長いまつげが影を落として、なんだかとても色っぽく見えたのだ。
祐樹から目をそらした孝弘は、ふと去年行った長城を思い出した。
「静かな長城、行ってみたい?」
長城は観光客がよく行く八達嶺という登山口のほかにもいくつか入れるルートがあるのだが、アクセスが悪いうえに、外国人向けのガイドブックにはほとんど載っていないのであまり知られていない。
「あるの? そんなとこ」
「バスで片道三時間近くかかる郊外だけど。タクシーチャーターでも半日以上見たほうがいいな。できれば一日かけたほうがいいけど、行く気があるなら案内するよ」
「そんな郊外? 開放地区?」
開放地区とは外国人の立入りが許されている場所をいう。
そうでない場所に不用意に入り込むと公安にスパイ容疑で拘束される危険性があり、外国人は行動に用心しなければならないのだ。
「たぶん。郊外だけど一応、北京市内だし」
「バスで3時間走っても市内なんだ」
「高橋さん、ここでクイズです」
孝弘はかしこまった口調になる。
「はい」
祐樹はまじめな顔で返事をした。
「北京市の広さはどのくらいでしょうか?」
「北京の広さ? だいぶ広そうだね。東京都くらい?」
「ぶー、不正解です」
「じゃあ、静岡くらい?」
「はずれです。もっと広いよ。四国とほぼ同じ面積」
「まじで? 北京市ってそんな広いの?」
祐樹が楽し気に目を丸くする。
「うん。で、前回行ったときは特に検問はなかったし、バスでも何も言われなかった。ドイツ人留学生と行ったから、明らかに外国人だってばれてたけど。慕田峪っていって、とにかく中国人もめったにいなくて、のんびり雰囲気にひたれるっていう感じ」
「いいね。そこ行きたいな。バスだとやっぱり大変かな?」
「んー、めちゃくちゃ安いけど、乗り継ぎ悪いし、かなりローカルで正直きれいじゃないからおすすめはしない。生きたままの鶏とか市場で買ってそのまま持って乗ってくる感じ。食べかすや痰も床に吐いたりとか。そういうの平気?」
「テレビでは見たことある。屋根に人や荷物載せたりするような?」
「うん。まあ、俺はどうとでもなるけど、高橋さん次第かな」
そう説明しながら、でも高橋さんは行かないだろうなと孝弘は思っていた。
日本人留学生とはいえ知り合ったばかりの身元もはっきりしない相手と一緒に、そんな郊外まで出かけることはしないだろう。
だから料理を食べながらしばらく黙っていた祐樹が「やっぱり安全をとるほうがいいな。タクシーを一日チャーターしてくれる?」といったときには本気で驚いた。
酔っぱらっているのかと思って顔を覗き込んだが、黒く澄んだ目に吸い寄せられるような気がして、急に心臓がどきどきし始める。
この人、すっごいきれいな顔してたんだ。
さっきも思ったが、なんだか色っぽいような気がして目線をそらした。
整った顔だと思っていたが、ビールのせいかすこし気だるげな様子は、やたらと孝弘の気を落ち着かなくさせる。
「上野くん、いつなら行ける?」
「え、まじで?」
「あ、本気じゃなかった?」
「いや、ちがうけど。行くっていうとは思ってなかったから」
「どうして? 面白そうなのに」
優しげできれいな外見から慎重な性格のように見えていたが、意外と行動力があるらしい。そういえば市内を案内したときも、何を見ても嫌悪感よりも好奇心が勝っているようだった。
「安心できるガイドと郊外に行けるチャンスでしょ。そりゃ、行くよ」
安心できる? ほんとにそうか?
孝弘の心のなかの突っ込みなど聞こえるわけはない。
異文化どっぷりの海外生活を面白いと思えるのは、中国生活を乗り切る心の知恵を持っているということだ。けれども、警戒心がなさすぎるのは心配だった。
信用されていると単純に喜べない。
車で3時間以上の郊外だよ?
前回、写真入りの留学生証は見せたけど、そんなに俺を信用していいのか?
二人きりで誘拐されても文句の言えない事態かもよ?
なにか一言いうべきだろうかと思ったとき「そうそう、郊外に行くなら上司に言っておかないといけないから、上野くんの名前と連絡先を上司に教えてもいい?」と祐樹が言いだして逆にほっとした。
費用を持つかわりに手配はすべて任せるといわれたので、タクシーの交渉は孝弘がしておくことになった。
この食事のことを決めたときと同じく、気にさわらない強引さで祐樹は二週間後の土曜日に長城に行くことを決めてしまった。
「うーん……楽しいというか、すごい観光地なんだね。一度くらい行ってみたかったからいいんだけど、人は多いし、いらないみやげ物売りがいっぱい来るし、あんまり感動しなかったな。もっとおごそかというか、静かな感じかと思ってたんだ。こう、NHKに出てくるような」
「ああ、わかる。がっかり感がねー」
残念ながらかなり観光地化されているので、そういった雰囲気はまったくないのだ。
「あと中国人観光客がばっちりスーツとかワンピース着てて、しかもすごいピンヒールとかであんな急な階段登ってきたりしてて。みんな一張羅っていうか、気合入った服で来てるからほんとにびっくりした」
くすくす笑いながら、サラミをつまむ顔に一瞬、見とれた。オレンジが強めの照明に長いまつげが影を落として、なんだかとても色っぽく見えたのだ。
祐樹から目をそらした孝弘は、ふと去年行った長城を思い出した。
「静かな長城、行ってみたい?」
長城は観光客がよく行く八達嶺という登山口のほかにもいくつか入れるルートがあるのだが、アクセスが悪いうえに、外国人向けのガイドブックにはほとんど載っていないのであまり知られていない。
「あるの? そんなとこ」
「バスで片道三時間近くかかる郊外だけど。タクシーチャーターでも半日以上見たほうがいいな。できれば一日かけたほうがいいけど、行く気があるなら案内するよ」
「そんな郊外? 開放地区?」
開放地区とは外国人の立入りが許されている場所をいう。
そうでない場所に不用意に入り込むと公安にスパイ容疑で拘束される危険性があり、外国人は行動に用心しなければならないのだ。
「たぶん。郊外だけど一応、北京市内だし」
「バスで3時間走っても市内なんだ」
「高橋さん、ここでクイズです」
孝弘はかしこまった口調になる。
「はい」
祐樹はまじめな顔で返事をした。
「北京市の広さはどのくらいでしょうか?」
「北京の広さ? だいぶ広そうだね。東京都くらい?」
「ぶー、不正解です」
「じゃあ、静岡くらい?」
「はずれです。もっと広いよ。四国とほぼ同じ面積」
「まじで? 北京市ってそんな広いの?」
祐樹が楽し気に目を丸くする。
「うん。で、前回行ったときは特に検問はなかったし、バスでも何も言われなかった。ドイツ人留学生と行ったから、明らかに外国人だってばれてたけど。慕田峪っていって、とにかく中国人もめったにいなくて、のんびり雰囲気にひたれるっていう感じ」
「いいね。そこ行きたいな。バスだとやっぱり大変かな?」
「んー、めちゃくちゃ安いけど、乗り継ぎ悪いし、かなりローカルで正直きれいじゃないからおすすめはしない。生きたままの鶏とか市場で買ってそのまま持って乗ってくる感じ。食べかすや痰も床に吐いたりとか。そういうの平気?」
「テレビでは見たことある。屋根に人や荷物載せたりするような?」
「うん。まあ、俺はどうとでもなるけど、高橋さん次第かな」
そう説明しながら、でも高橋さんは行かないだろうなと孝弘は思っていた。
日本人留学生とはいえ知り合ったばかりの身元もはっきりしない相手と一緒に、そんな郊外まで出かけることはしないだろう。
だから料理を食べながらしばらく黙っていた祐樹が「やっぱり安全をとるほうがいいな。タクシーを一日チャーターしてくれる?」といったときには本気で驚いた。
酔っぱらっているのかと思って顔を覗き込んだが、黒く澄んだ目に吸い寄せられるような気がして、急に心臓がどきどきし始める。
この人、すっごいきれいな顔してたんだ。
さっきも思ったが、なんだか色っぽいような気がして目線をそらした。
整った顔だと思っていたが、ビールのせいかすこし気だるげな様子は、やたらと孝弘の気を落ち着かなくさせる。
「上野くん、いつなら行ける?」
「え、まじで?」
「あ、本気じゃなかった?」
「いや、ちがうけど。行くっていうとは思ってなかったから」
「どうして? 面白そうなのに」
優しげできれいな外見から慎重な性格のように見えていたが、意外と行動力があるらしい。そういえば市内を案内したときも、何を見ても嫌悪感よりも好奇心が勝っているようだった。
「安心できるガイドと郊外に行けるチャンスでしょ。そりゃ、行くよ」
安心できる? ほんとにそうか?
孝弘の心のなかの突っ込みなど聞こえるわけはない。
異文化どっぷりの海外生活を面白いと思えるのは、中国生活を乗り切る心の知恵を持っているということだ。けれども、警戒心がなさすぎるのは心配だった。
信用されていると単純に喜べない。
車で3時間以上の郊外だよ?
前回、写真入りの留学生証は見せたけど、そんなに俺を信用していいのか?
二人きりで誘拐されても文句の言えない事態かもよ?
なにか一言いうべきだろうかと思ったとき「そうそう、郊外に行くなら上司に言っておかないといけないから、上野くんの名前と連絡先を上司に教えてもいい?」と祐樹が言いだして逆にほっとした。
費用を持つかわりに手配はすべて任せるといわれたので、タクシーの交渉は孝弘がしておくことになった。
この食事のことを決めたときと同じく、気にさわらない強引さで祐樹は二週間後の土曜日に長城に行くことを決めてしまった。
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