あの日、北京の街角で

ゆまは なお

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第4章-3

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上野シャンイエ、戻ってる?」
 カーテンをめくって突然入ってきた男が孝弘に呼びかけ、持っていた鍋を手渡した。
「アンディがサンキュってさ」
 祐樹をちらりと見て、かるく会釈する。
「あ、ぞぞむ。王老師ワンラオシーが作文、水曜までに出せって」
 やべ、忘れてたと彼は顔をしかめて、机の上のプリントをバサバサとどけ始める。彼が孝弘のルームメイトらしい。
「ぞぞむ?」
 思わず祐樹がつぶやくと彼はにやりと笑った。明るい人好きのする笑顔だ。

「どうも、上野の同室ドンウーの佐々木、北京語で佐々木ズォズォムです」
「ああ、それでぞぞむ」
「ちなみに隣の寮にもう一人佐々木がいて、そっちはぞわぞわって呼ばれてます」
 祐樹が思わず声を上げて笑うと、孝弘が「ぞわぞわは女子なんだけど」と情報を加えた。二人の遠慮のない感じがルームメイトの親密さを垣間見せる。
「高橋です。おじゃましてます」
「ああ、例のバイトの」
 佐々木は事情は知っているという顔でうなずくと、自分の机の上を引っ掻き回して、雑誌を何冊か持つとごゆっくりと言って出て行った。

「ルームメイトってどんな感じ?」
「ぞぞむとは同室になって2ヶ月なんだけど、すっごい気楽でいいやつ、面白いよ。こないだカメラ貸してくれたのもあいつ」
「2ヶ月? じゃあその前は?」
「4月まではイタリア系アメリカ人と住んでて、そいつ北京語はほとんどしゃべれなかったから普段の会話は英語メインで。おかげでだいぶ英語上達した」
 孝弘はベッドに乗ってあぐらをかいて壁にもたれた。いつもの動作というかんじだから、そこが定位置なのだろう。

「そいつが帰国しちゃったのと同じタイミングでぞぞむの同室も別の大学に移ったんで、寮費節約に一時的に同室になったんだ。今は香港人か、英語圏の人と同室希望を出してて、見つかったらまた部屋替えになる」
「自分たちで希望出してルームメイトを選べるんだ」
「うん、本人がOKすれば誰と一緒になってもいいよ。もめる奴はしょっちゅう同室が変わったりするな。男女同室は基本的にはだめだけど、カップル二組で入れ替わって、こっそり同棲してる奴らもいるし」
 廊下からは男女が笑いあう声が聞こえている。

「そう言えば、寮って男女別じゃないんだね」
「大体どこの大学も同じだな。でも中国人学生は男女別だし、寮の出入りもすごく厳しいよ。まあ中国人の学生寮は八人部屋だから、寮に遊びに行っても二人きりになれるわけでもないけど」
「八人部屋? 学生寮が?」
「そう。部屋自体はここより広いけど、二段ベッドがぎっちり四つ入ってて、個人用のロッカーがあるだけ」
 ロッカーって言ってもこのくらいと、孝弘は両手で50センチほどの四角を宙に描いた。

「それだけしかないの?」
 そんな小さなロッカーでは何も置けないだろう。驚く祐樹に孝弘はうなずく。
「まじで個人のスペースって自分のベッドしかないよ。ベッド脇にネット張ったり、紐でフック釣ったりしてるけど。院生になると四人部屋なんだって」
 まったく知らなかった学生寮の生活を聞いて、中国人スタッフが一人暮らしなんて寂しくないですかと心配するのはそのせいかと納得した。
「なんか、別世界だなあ」
 さきほど感じたことを口に出していうと、孝弘は苦笑した。

「そりゃ、駐在員はこんな狭い部屋で二人で暮らすとかありえないだろ。高橋さんは阿姨アーイーさんは雇ってないんだ?」
 阿姨とは北京語でおばさんという意味の単語だが、駐在員社会ではメイドのことをいう。
 家事全般から買い物や習い事の送迎、育児のサポートまで、とくに語学のできない駐在家庭の妻や子供にとって日常生活に不可欠な存在だ。
 たいていは住み込みで、週末だけ休みを取るという場合が多い。

「前任者に紹介されたけど断った。家族持ちなら必要だろうけど、一人暮らしの男のところにメイドはいらないでしょ」
「断って正解だな。高橋さん、すぐに狙われそう。押し倒されたりしてない? 中国人の女の子は積極的だろ」
 祐樹はしぶい顔になって肩をすくめた。
 若くて独身の日本人駐在員となれば、なんとしてでもゲットしたい優良物件と思われても仕方ないが、女性からがつがつ来られるのは苦手だ。
「押し倒されるはさすがにないけど押しが強いのはよくわかったよ。とにかく、なるべく隙を作らないようにして、女性とは二人きりにならないように心掛けてる」
「もうそんな事態に遭遇したんだ」
 孝弘は「大変だね」と同情する。

「うん。だから上野くんといるとほっとするよ」
「そう? そんなに中国人女性の気の強さに困ってんの?」
「ちょっとだけね。フェイクで指輪つけておけって安藤さんには言われたけど、もう独身だって知られちゃってるから今さらな気がして」
「モテると大変だな。あいまいな態度だと伝わらないけど、はっきり言ってる?」
「言ってる。研修に来てるんだし、誰ともつき合わないって。でも社食でランチ誘われる程度だと断りにくい。なるべく時間ずらすけど」
「そっか。それはなかなか手強そうだなー」
 孝弘はビールを飲み干してくしゃっと缶を潰すと、立ち上がって本棚から封筒を取った。

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