あの日、北京の街角で

ゆまは なお

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第3章-3 

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「すごい、本当に誰もいない」
 登山口で入場料と保険料(保険料ってなに?と驚いていたが)を払い、城壁のなかに入ると、祐樹は弾んだ声をあげた。また子供みたいな笑顔になっている。
「けっこう遠くまで行けそうなんだけど。これって好きに進んでいいの?」
 左右に伸びている城壁をながめて、どちらに進むかしばらく悩む。
 山の斜面に作られた城壁はわりと横幅があり、二人は右側を登ることにした。
 登っては降りて、また登ってを繰り返し、時々見張り台から新緑も鮮やかな外をながめて、休憩がてら水を飲んだ。

 タクシーのなかとは違って、二人ともほとんど口をきかず、ただ黙ってそれぞれのペースで登り降りしていたが、その沈黙も気にならない。
 5月の終わりの日差しは暖かくて少し汗ばむくらいだったが、標高が高いせいか休憩していると山の風は心地よい。
「もう少し前だったら、桜が見れたらしいんだけど」
「中国にも桜ってあるんだ」
「日本とは種類が違うと思うけど」
 1時間ほどのんびり登って、ひときわきつい急勾配をあがりきったところで振り返ると、祐樹もちょうど幅の狭い階段をへばりつくようにして登ってきた。
 階段の幅は十センチくらいしかなく、足を置くのも横にしないと登れないくらいだ。

「よくこんな所に革靴やハイヒールで来るよね」
 とてもふつうに立って登れる傾斜角度ではなく、両手で前の階段をつかみながらの踏破になった。
「もう少し先まで行く?」
「いや、もうじゅうぶん。入り口まで戻らなきゃいけないし。あそこで休憩しよう」
 見張り台の下に入ると、急に暗くなった視界にめまいを起こしたようにくらりとする。石造りの見張り台の中は何もなく、ひんやりした空気が抜けて祐樹の髪を揺らした。
「やっぱり登ると暑いね」
「そう? 高橋さんて、汗かかなさそう」
 涼し気な顔をしている高橋は、あまりそういう熱を感じさせない雰囲気がある。

「そんなわけないでしょ。けっこうかいたよ。でも乾燥してるからすぐ乾くよね」
 日本に比べると湿度がかなり低いので、汗をかいてもべたつかずさらりとしているのは北京のいいところかもしれない。そのせいでほこりっぽくもあるのだけれど。
 なんとなく手を伸ばして祐樹の腕に触れた。
 汗のべたついた感じなどなく、少ししっとりとしているだけだ。
 吸い付くような肌ってこんな感じ? いや、なに触ってんの俺、と突っこみながらそっと祐樹をうかがう。腕くらいならセーフ? いや腕くらいってなんだ? 

 祐樹はちょっとふしぎそうな顔で孝弘を見たあと、逆に孝弘のほうにその手を伸ばしてきた。え、何? あせった孝弘は「輪ゴム」と口にする。
「輪ゴム?」
「うん、俺、北京来てすぐのころ、パン買って輪ゴムしとかなかったら、次の朝かっちかちになっててびっくりした」
「ああ、日本だと湿気ないように輪ゴムするけど、こっちだと乾燥しないようになんだね」
 うなずいて、祐樹は孝弘の髪に触れると、葉っぱついてたよと風に散らした。
 なんだか胸がドキドキする。

 何に動揺したのかわからないまま、孝弘はリュックに手を入れて水を取り出し、その底にカメラを見つけた。
 わざわざ慕田峪まで行くなら持って行けと佐々木が貸してくれたのだが、孝弘はカメラを持ち歩く習慣がなく、すっかり忘れていた。
 36枚撮りのフィルムだからなかなか撮り終わらないとぼやいていたので、1枚も撮って帰らなかったら怒られそうだ。
「高橋さん、せっかくだから写真撮る?」
「あ、カメラ持ってきたんだ。いいね、撮ろう」
 祐樹もカメラを持ち歩くタイプではないらしく、それを見て嬉しそうにうなずいた。

 長城を背景に交代で撮りあったあと、タイマー機能を使って二人で写ってみることにしたが、案外、角度や置き場所が難しい。
 段差が大きいので、後ろに長城を入れようと思うと空中からの高さがちょうどいいのだが、そんな場所にカメラを固定できない。何枚か撮ってみたが失敗した気がする。
 タイマーのタイミングも思っていたより遅くて合わせるのが難しい。
 しばらくあれこれ試したあと、床の上にリュックを置いてその上にカメラを置き、少し階段を下がった位置にスタンバイしてみた。
 並んで立つ二人の後ろに龍の体がくねっているような感じで長城が入る。
 レンズを覗いてみた感じではなかなかよかったので、その位置で何枚か撮って撮影会は終了した。

「できたら見せて」
「焼き増しするよ。でもこれ友達のカメラで、まだフィルム撮り終わってないから、しばらく先になるかもしれないけど」
 なんだかんだで10枚ほど撮ったようだ。どんな写真が撮れたか楽しみだと思い、そんなことを思う自分に戸惑った。どんな観光地に行っても写真を撮りたいと思ったことはないのに。
 祐樹の笑顔を閉じ込めたいなどと思う自分にちょっと戸惑う。
「お腹空いたね。戻ってお昼食べに行こうよ」
 祐樹がいったと同時に、ぐううっと孝弘の腹が大きく鳴った。
 タイミング良すぎと祐樹の笑う声が高い空に響いた。


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