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第5章:龍の花嫁
救いの紋章は03
しおりを挟む一瞬だけ迷いが生じた。
気付かぬうちに僕は、胸元を──紋章の刻まれた場所の服を強く握りしめていた。
シェンは僕の事情を知っているし、二年もの歳月をかけて己の魔力を鱗に注ぎ続けてくれた男だ。
なによりもこの紋章がどういう条件で完成するのかを分かっている貴重な相手。
だから迷った。
もしかするとシェンならばこの紋章を完成させてくれるかもしれない。
わずかな可能性であっても、生きるという望みを繋げられるのならば、と。
けれど。
「ごめん。僕はやっぱりノクティスというたった一人の男にしんそこ惚れているんだ」
笑いながら答えた僕に、シェンは静かに微笑み返した。
「やはりジョシュアは我が惚れただけあるな。振られてもなお惜しいと思ってしまうほどに」
「そりゃあ僕だからね!」
もしかしたら今、選択を誤ったのかもしれない。
自ら生きるという可能性を手放したのかもしれない。
いまだに強く握りしめた服から手を離せないことが、なによりも雄弁に僕の心情を物語っているようだった。
でもさ、無理なんだ。
だって僕はいつだって0か100かの極端な性格だから。
もしも、このままいくと来年の春には死ぬとわかっていても、スーちゃんが好きなんだよ。
理屈とかぬきであの男を守りたいし幸せにしたい。
でもなによりも今は一緒に幸せになりたいって思っちゃったからさ。
それならば、全てを受け入れるしかないだろ。
「ならばいっそのこと、その紋章を完成させねばならぬな」
僕の心が聞こえたかのように、シェンは毅然とした態度で言った。
そうだな。
シェンのいうとおりだ。
僕はまだまだスーちゃんと生きていたい。死にたくない。
だったらもうやることは決まっている。
シェンがいったように、この紋章はまだ未完成で、ひとつの条件を達成しなければならない。
この世で最も無垢でいて清廉。
慈愛の象徴であり穢れとは無縁な精霊が考えた条件は。
──僕をなによりも愛する者からのキス、だ。
笑っちゃうだろ? 辟易するだろ?
僕を生かす条件がたかだかキスだなんて。そんな条件にこんなにも皆が苦しめられるだなんて、幼かった僕は考えもしなかったんだ。
僕の魂はこの世界のものではない。
だから魂の器となる肉体との結びつきがあまいと精霊は言っていた。
網目が無数にあるザルに、いくら水を注いでも溜めることはできない。
簡単に言ってしまうと、僕の魂と肉体は水とザルなのだそうだ。
すぐに体調を崩してしまうのも、何度も死の間際をさまようのも、病ではなく全ては魂と肉体の不一致からくるものだって。
そんな大切なことを軽々と述べた精霊たちは気まぐれに僕に紋章を授けた。
前世で死んだ歳と同じ二十歳までは生かしてあげると。
けれど、それ以降は精霊たちの力じゃ補えないから、条件を授けるよ、と。
それが、僕をなによりも愛する人からのキスなのだ。
キスで呪いがとけることや、ながい眠りから目を覚ますなんて、前世でも今世でも童話でよくみた展開だ。
そんなおとぎ話のような世界が、僕にも降りかかるとは思いもしなかった。
けれど、当時の僕は喜んでいたのだ。
まるで絵本みたいだと、主人公みたいで素敵だと。
だから、僕を救ってくれるのだと信じていた元婚約者と初めてキスをした時の感情は、言葉にできないほどのものだった。
愚かな子供が柔らかであたたかい夢からさめる瞬間だったから。
──この世界には悲しいことなんてなにひとつなく、ただただ童話のように愛に満ちていると疑わない。
──誰も彼もが幸せな最後を迎える。
──物語はいつもハッピーエンドで終わる。
そんな僕の世界が消えた瞬間だ。
愛、だなんて。
これほど不確かでいて脆いものを、どうやって証明したらいい。
この世界に絶対的な愛の条件なんてものはないのに。
心なんて移ろいゆくものなのに。
父様や兄様たちはそれをよく知っていた。
だから僕をめいいっぱい甘やかしたのだ。
僕がながく生きることが難しいと、頭では冷静に判断していたから。
それでも同時に生きて欲しいと足掻きたい心も捨てきれなかったのだろう。
僕は過去に一度だけ、父様に謝らせてしまったことがある。
元婚約者に他に好きな女性がいると、噂になってしまってからのことだ。
僕はとっくに幼馴染の気持ちが他の誰かにあることは知っていた。
けれど、隠した。
父様たちは幼馴染に僕を愛することを望み、僕には愛される存在であることを望んでいたから。
でもさ、人の心は移ろいゆくものなのだ。
絶対なんてものはないんだよ。
一度惹かれあったら誰にも止めることなんてできない。
幼馴染と彼女もそうだった。
秘めた思いが周囲に悟られるのはあっという間だ。
そして、父様は僕が知っていながらも、わざと口にしなかったのだと察して言った。
──すまない。許してくれ。
強く拳を握りしめて謝る父様を見た時に決めたのだ。
もう二度と家族に謝らせるような弱いやつにはならないって。
──愛されなくてごめんなさい。
──皆が望んだように愛される存在じゃなくてごめんなさい。
ましてや愛される存在どころか、僕は前世でいうところの悪役だというのに。
こぼれ落ちそうな言葉を飲み込んだ。
僕は絶対に彼らにその言葉を言ってはいけない。
生きて欲しいと願いながらも、誰かを「愛する」ことがどれほど難しいことであるかを、僕よりも痛感して苦しんできた家族だから。
僕にとって救いの紋章は呪いだ。
助かるかもしれないというわずかな希望があるから足掻いてしまう。
二十歳までなんて明確な期限があるから溺れるような絶望を感じる。
でも、最近よく考えることがあるんだ。
僕にも愛と恋の違いなんて分からないし、それを絶対だと語ることもできない。
ただこの想いが愛じゃないのなら、いったいなにを愛とよぶのだろうかって。
スーちゃんを思うだけで心がぽかぽかする。
笑った顔を見るだけでこんなにも幸せなことがあるんだって飛び跳ねたくなる。
悲しい顔をみると何を犠牲にしても僕が守ると自分に誓うんだ。
そんな想いが愛でないはずがないと、絶対なんてないと言った口で、叫んじゃいたくなるのだ。
ノクティスを愛してるー! って。
「なあシェン。さっきさ、新しい恋人が僕を愛していないのかって聞いただろ?」
僕はポカポカと温かい光が湧き上がるように騒がしい胸元を抑えた。
「ぶっちゃけていえば、確かに愛されてはいないと思うよ。でもさ、」
どんどん溢れてくるんだ。止まらないんだ。
好きだって気持ちが。愛おしいって想いが。
「僕が二人ぶん愛しちゃえば別に問題ないんじゃないのかなって最近思っちゃうんだよね」
だれかに愛されることを望むよりも、大切なひとを愛したい。
叫んで世界中を走り回っても足りないぐらいスーちゃんが好きだから。
「僕、絶対にこの紋章を完成させる自信しかないよ。それで来年も再来年もその先もスーちゃんと生きるんだ」
胸を張って言えば、シェンは目をぱちくりと瞬き、そして腹を抱えて大笑いした。
苦しそうに息をひいひいと言わせて豪快に笑いだすのだ。
「おい、いまのは笑うところか?」
「い、いや、なに、おもったよりもお前が不敵でかっこいい男だったものでな」
シェンは笑いすぎて濡れた目尻を袖で拭うと、泰然とした態度で言った。
「そうさな、ジョシュアならば叶えてしまうかもしれんな」
ふーっと心を落ち着かせるためか、シェンが息を吐く。
それをふた呼吸ほど続けてからあることを教えてくれた。
「精霊が愛なんてものを条件にしたのは、それがこの世で最も強いものであるからだ」
「強い?」
「そうだ。心が生み出す感情ほど強いものはない。愛だけではないぞ。憎しみや妬み、恨みや怒りに悲しみだってそうだ。だがな、希望に繋がるのは負の感情ではない」
シェンはそこで言葉を止める。
だがすぐに、まっすぐな瞳を僕に向けて告げた。
──奇跡を呼び起こすのはいつだって誰かを想う愛なのだ。
澄んだ青紫の瞳を見つめ、耳に届いた言葉は、やけに僕の心を震わせた。
不思議な力に引き寄せられるような、形容しがたい感覚が全身を巡っていく。
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