41 / 56
三章
20
しおりを挟む疑問と理解が同時に脳内で弾けた時、冷淡な声がかけられた。
「次の料理人には口がないのか?」
こちらを見ずにそう聞いたのは間違えようもなくイサクだ。
初めて彼と出会った時の不遜さは健在である。
だが確かに挨拶もなく、驚愕と戸惑いでただ突っ立っていたのはアダムの方だ。
イサクもだが、部下であろう四人の男女もまた、鬼のような形相で書類を捌いている。こちらを見る余裕もないほど仕事に没頭しているのだ。
些細なことで声をかけようものなら、スパッと切られそうな雰囲気である。
まるで戦場のようだ。アダムは剣だったが、彼らはペンを持って戦っているのだ。
怯えながらアダムが名乗ろうとしたのと、イサクが胡乱げにこちらを見たのは同時だった。
そして、みるみるうちに眦の垂れた瞳が見開かれるのを眺めながら、イサクもまた知らされていなかったのだと知った。
「あっちで話すぞ。ついて来い」
「は、はい」
顎で隣の部屋を示して、イサクはさっさと行ってしまう。アダムもできるだけ音をたてないように、紙が山のように積み上げられている机や、乱雑に捨て置かれている本を慎重に避けてついていった。
下手に音を立てたら噛みつかれそうだからだ。
どうしてこんなにもこの人たちは怖いのか。
ドアを閉めて二人きりになり初めて緊張が解けた。
「好きなところに座れ」
好きなところと言われても困る。この部屋もまた高級品で作り上げられているのだろうから。
上座や下座など考えた方がいいのだろうか。だからといって詳しいマナーまでは知らない。
仕方なしに諦めて、いつもと同じくイサクの前に座る。だが今日は念のために斜め前に座った。
「どうしてそこなんだ。正面でいいだろ」
「……目の前は失礼になるかなと」
「なんだそれは。今更失礼も何もないだろうが」
イサクは肘掛に置いた腕に頭を預けると目を細めた。その言葉と視線にアダムの体が発熱する。何日もかけて薄れてきたあの日が脳裏に過ぎった。
ぶるぶると頭を振って、過去の残像を脳内から追い出す。煩い心臓に落ち着けと念じながらイサクを見れば、当の本人は涼しげだ。
全くなにも感じていません。そんな顔をしている。一人で恥ずかしがっている自分に、なおのこと羞恥心を抱いた。
同時に、イサクにとってあの触れ合いは、本当になんの思いもないことなのだとも。アルファとして、死にかけのオメガを救っただけのこと。
今目の前にいるのは同一人物であるのに、別人のように思えた。イサクを少し知ったような気になっていた自分が痛い。
何を勘違いしていたのだろうか。
イサクが優しかったのは、単純にアダムの体調が悪かったからだ。
回復した今ではもうただの他人ということなのだろう。今のイサクは堅くて距離がある。いつの間にか、一方的に親近感を抱いていたのだと気づいて、心にすきま風が吹いた。
5
お気に入りに追加
1,025
あなたにおすすめの小説
【完結】別れ……ますよね?
325号室の住人
BL
☆全3話、完結済
僕の恋人は、テレビドラマに数多く出演する俳優を生業としている。
ある朝、テレビから流れてきたニュースに、僕は恋人との別れを決意した。
君のことなんてもう知らない
ぽぽ
BL
早乙女琥珀は幼馴染の佐伯慶也に毎日のように告白しては振られてしまう。
告白をOKする素振りも見せず、軽く琥珀をあしらう慶也に憤りを覚えていた。
だがある日、琥珀は記憶喪失になってしまい、慶也の記憶を失ってしまう。
今まで自分のことをあしらってきた慶也のことを忘れて、他の人と恋を始めようとするが…
「お前なんて知らないから」
【完結】幼馴染から離れたい。
June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。
βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。
番外編 伊賀崎朔視点もあります。
(12月:改正版)
読んでくださった読者の皆様、たくさんの❤️ありがとうございます😭
総受けルート確定のBLゲーの主人公に転生してしまったんだけど、ここからソロエンドを迎えるにはどうすればいい?
寺一(テライチ)
BL
──妹よ。にいちゃんは、これから五人の男に抱かれるかもしれません。
ユズイはシスコン気味なことを除けばごくふつうの男子高校生。
ある日、熱をだした妹にかわって彼女が予約したゲームを店まで取りにいくことに。
その帰り道、ユズイは階段から足を踏みはずして命を落としてしまう。
そこに現れた女神さまは「あなたはこんなにはやく死ぬはずではなかった、お詫びに好きな条件で転生させてあげます」と言う。
それに「チート転生がしてみたい」と答えるユズイ。
女神さまは喜んで願いを叶えてくれた……ただしBLゲーの世界で。
BLゲーでのチート。それはとにかく攻略対象の好感度がバグレベルで上がっていくということ。
このままではなにもしなくても総受けルートが確定してしまう!
男にモテても仕方ないとユズイはソロエンドを目指すが、チートを望んだ代償は大きくて……!?
溺愛&執着されまくりの学園ラブコメです。
恋した貴方はαなロミオ
須藤慎弥
BL
Ω性の凛太が恋したのは、ロミオに扮したα性の結城先輩でした。
Ω性に引け目を感じている凛太。
凛太を運命の番だと信じているα性の結城。
すれ違う二人を引き寄せたヒート。
ほんわか現代BLオメガバース♡
※二人それぞれの視点が交互に展開します
※R 18要素はほとんどありませんが、表現と受け取り方に個人差があるものと判断しレーティングマークを付けさせていただきますm(*_ _)m
※fujossy様にて行われました「コスプレ」をテーマにした短編コンテスト出品作です
とまどいの花嫁は、夫から逃げられない
椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ
初夜、夫は愛人の家へと行った。
戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。
「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」
と言い置いて。
やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に
彼女は強い違和感を感じる。
夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り
突然彼女を溺愛し始めたからだ
______________________
✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定)
✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです
✴︎なろうさんにも投稿しています
私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ
【本編完結】運命の番〜バニラとりんごの恋〜
みかん桜(蜜柑桜)
BL
バース検査でオメガだった岩清水日向。オメガでありながら身長が高いことを気にしている日向は、ベータとして振る舞うことに。
早々に恋愛も結婚も諦ていたのに、高校で運命の番である光琉に出会ってしまった。戸惑いながらも光琉の深い愛で包みこまれ、自分自身を受け入れた日向が幸せになるまでの話。
***オメガバースの説明無し。独自設定のみ説明***オメガが迫害されない世界です。ただただオメガが溺愛される話が読みたくて書き始めました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる