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三章
05
しおりを挟む洗い場の仕事は予想以上に負担が大きい。
オメガのアダムには生命活動を維持する程度の魔力しかない。魔道具を発動させるためにも、少なからず魔力が必要になる。そのため、アダムは休み休み魔道具を使用する他なく、それ以外では体力勝負だ。
最近は帰りが遅くなっていてサミーがひとりぼっちになる時間が多い。今日こそは早く帰って、ベッドの中でゆっくりと、愛しい息子と微睡む優しい時間を過ごすのだ。
とはいえまだヒートも折り返しで、体調は万全ではなかった。治まるまでに最低でもあと三日はかかるだろう。いつも通りに動けないのなら時間を増やす他ない。だからアダムは皆が昼休憩に行ったあとも一人で仕事をしていた。調理場の仕事を終えると、次は外にでて野菜の泥をごしごしと洗い流していく。
外に設置されている洗い場は、使用人の居住区へと繋がる裏門の近くにあった。アダムもその門から居住区とは反対側にある家へと帰るのだ。
ゆったりとした昼過ぎに、陽光を浴びながら水に触れるのは、なかなか気持ちがいい。
あともう少しで一区切りがつくところで、どこか慌ただしく門へと向かう同僚を見つけた。
亜麻色の大きな垂れ耳と髪をもつ彼はカルルだ。心根の優しいベータの犬獣人で、同じ仕事を担当することが多くよく話す。
そんな、そばかすの散る素朴な笑顔が愛らしい少年は、憂鬱そうに居住区へと消えていった。
何か忘れ物でも取りに行ったのか。引っかかるものを感じながらも、余裕が無いのはアダムとて同じ。再び手を動かせば、いつの間にかカルルのことは頭から抜け落ちていた。
一生懸命に仕事を片付けたおかげで、定時とまではいかないが、予想よりも早く帰れそうだ。
最後にきっちりと掃除を終えて、汚れた衣服を取り替えるために休憩室に入ろうとした。
中から女性陣たちの会話が聞こえて、ぴくりと伸びた腕が止まる。
「それにしても、オメガはどうしてこうも問題を起こすかねぇ」
「色々大変なんだろう。仕方のない事だよ」
「そうはいってもねぇ。最近は仕事をするにもピリピリしていて、やりにくいにも程があるよ」
アダムよりも二回りほど年上の女性たちは、普段から歯に衣を着せぬ物言いだ。良くも悪くも男勝りで容赦がない。裏でネチネチと言う事はないが、こうして堂々と迷惑がられているのもまた苦にがく感じる。
「この国はオメガにも優しいんだ。家で大人しくしていればいいのにねぇ。それが許されてんだから、羨ましいもんだよ」
「あんた。そこにはもちろん、いい男はいるんだろうねぇ?」
「そりゃあそうよ! あたしの旦那みたいに、休みの日は食っちゃ寝してるまん丸お肉はごめんだねっ」
どっと笑いがあがる。アダムには何一つ面白くもない。楽しげな笑いが過ぎさると、少しだけ硬質で真面目な声音が聞こえた。
「……まあ、あの子が悪い子じゃないのは分かるんだよ。他のオメガと違って努力もしてるさ。でもねぇ、ここに馴染んでないのも事実でしょう? 誰が話しかけても一線引いているようで。話しかけられるのも迷惑なんじゃないかってね」
「いい意味でも悪い意味でもオメガは注目されるもんだよ。それに、オメガは気が弱いか、高飛車かのどっちかだと思って、皆変に気を使っちゃうのさ」
「あの子もなんでああして必死に働くのかねぇ。無理しなくたって家で大人しくしている方があっているだろうに」
自分の居場所はどこにあるのだろうか。
そうした生き方に憧れなんてないのに、人形のように大人しく家にこもって、何を楽しみに生きるのだろう。
皆がうんざりして、当たり前のように手に入れている日常が、アダムにとっては物凄く難しい。
いい男も食っちゃ寝できる日々も要らない。できるのなら、アダムのその特権とやらをあげるから、彼女たちが愚痴る日常を分けて欲しかった。
水仕事でひび割れた己の両手を見下ろす。
手荒れが酷くなるほど痛みを伴ったが、けれども誇らしかった。自分の荒れた手は、自分が行ってきた事への証であり、勲章でもあった。
『なんにもできないオメガ』なんて居ない。やろうと思えばできるのだ。誰だって何かしら得意なものがあって長所がある。運動が得意だったり、勉強が好きだったり、裁縫が上手だったり。世界には色々な物があって、それと同じく色々な性質や性格をした人が生きている。
だから、どうせオメガには出来ないと、決めつけてくる者達への反骨心があった。
役割を与えられてそれを成し遂げて、ようやく『オメガ』から『アダム』へと変わったと思ったのに……。
「……帰ろう」
しばらく彼女達のお喋りは終わらないだろう。着てきた服は明日纏めて持って帰ればいい。
とぼとぼと帰宅しながら、アダムは将来のことを考えた。一年後、五年後、十年後。自分は生き生きとした日々を送れて居るだろうか?
アダムたち狐の獣人は、子育てを終えると散り散りになる。アダムも成人を迎えた十五の時に、両親と別れた。まだその時は自分がオメガだとは思ってもおらず、父と同じくベータなのだろうと思っていたのだが。
サミーもあと十年もすればアダムの手を離れて好きな所へと旅立つだろう。子育てを終えるなり、散り散りになる狐獣人の生き方を、寂しいと感じる他種族は多い。
だが、狐獣人にとっては、親元を離れてこそ一人前になったと評されるのだ。それに離れたからって、愛情が薄れたわけじゃない。
再会した時には、これでもかと喜び何日も宴が続く。会えなかった日々をどう過ごしていたのか互いに語り合い、酒を酌み交わすのだ。
成人を目安に離れ離れになるからこそ、幼少期はめいいっぱいに愛し尽くす。離れていてもへっちゃらだと感じるほど。アダムも溢れかえるほどの愛を両親から注がれた。
だから、サミーが十五歳になったとき、自分は立派になった我が子を見送る。決して寂しいからと引き止めたりはしない。
そして、ひとりきりになったあと、アダムだけがあの家に残るのだ。慰撫の手である限り、死ぬまでずっと、この地から離れることはできない。
週に二日魔の森へと赴いて獣と戯れる他に、自分のこれだというものが無い人生。
世界の時間と切り離されたように、自分の時間はどこまでも静かでつまらないものだろう。
頑張らなくても給金を貰える人生は喜ばしいことだと、かつての傭兵仲間がいっていた。アダムのようにちょろちょろと働くやつの気が知れないと。上手く手を抜くのが上手に生きるコツだとも。
もし、自分がアルファやベータならそう思っていたかもしれない。でも直ぐに関係がないことだと考えは捨てた。根底が負けず嫌いで生意気な性格をしている限り、どんな性だろうと自分で動かなきゃスッキリしないだろうから。
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